またね。
「 ねえ比嘉君。最近、緋勇君どうしたの」
「 何が」
そろそろ訊いてくる頃だと思っていた。
比嘉はもどかしそうに自分の席に片手をついて物憂げな顔をする友人を内心でウンザリとしながらも、わざと平静な様子で応えた。
「 何が、じゃないわよ。ここのところ学校が終わるとすぐに帰っちゃって。たまには一緒にお茶しないって誘っても笑って『またね』って言うばっかり。あ〜…つまんない!!」
「 さとみ。結局お前がつまんないだけだろ」
「 そうよ。緋勇君が遊んでくれないからつまらないんじゃない。何かいけない?」
「 いや…」
言葉を濁したように曖昧に首を振った比嘉に、さとみは不満たらたらで尚もぎゃーぎゃーと騒ぎ立て、最近まで仲良くしてくれていた友人が何故こうも付き合いが悪くなったのかと延々と愚痴り続けた。
「 ………」
正直比嘉はその話の半分も耳に入れていなかったが、考えている事はさとみと同じだった。
そう、折角仲良くなれたと思っていたのに。
「 緋勇」
だから今日こそはと、比嘉は昇降口で上履きを履き替えている龍麻を待ち構えていたように捕まえ、努めて笑顔で話しかけてみた。
「 もう帰るのか?」
「 うん」
最初は些細な事がきっかけで…そう、さとみを通じて知り合った仲だ。学校では特に目立ったところもなく、さとみが紹介してくれなければずっと話す事もなかったかもしれない相手。けれど、2年からこの明日香学園に転校してきたというこの緋勇龍麻は、深く知り合えば知り合う程に惹かれ、そして知りたいと思える人物だった。気さくで優しく、そしてどことなく秘めた強さを感じる。
そんな不思議な青年。
だから、もっと仲良くなりたいと思っているのに。
「 あのさ…。この後何か用あるのか」
何とか引き止めたくてそう切り出すと、龍麻は暫しじっと比嘉の事を見つめた後、こくんと頷いた。
「 うん」
「 ………」
そのあまりに素っ気無い態度に比嘉は失望と苛立ちを禁じえなかった。
用があるのなら仕方がないと思う。それでも、どういった用があるのか、バイトか家の用事か、まさかとは思うがテスト勉強か。何でもいいから、どういう用事があるのか言ってくれても良さそうなものだと、そう思ったのだ。
だって自分たちは友達だから。
「 それじゃ」
けれど龍麻はそんな比嘉の気持ちに気づいていないのか、また少しだけ笑うと靴を履き、さっさとその横を通り抜けてしまった。焦ったようにその背中を見つめる比嘉のことを、龍麻は振り返りもしない。
途端、比嘉は身体中の血がカーッと逆上せ上がるのを感じた。
「 バカ野郎ッ!」
だから頭に浮かんだたったその一言が。
「 ………え?」
さすがに驚き振り返る龍麻に、比嘉はその思わず口の端に乗せてしまった言葉を取り戻す事ができないまま、暫しその場に固まってしまった。
「 比嘉?」
「 あ……」
やがて「どうしたのか」という顔と共に首をかしげる龍麻の顔が段々とハッキリ見えてきて、比嘉は思い切り焦りながらも後には戻れないと尚声を荒げた。
「 バ、バカ野郎って…言ったんだよ…ッ」
「 ……俺?」
「 他に誰がいるんだよっ」
2人が立っている昇降口には誰もいなかった。ただ、遠くからざわざわとした話し声は近づいてきている。部活に出る者、下校する者が徐々に増えてきているのだろう。
その音をまるで何処か遠くの方でしているバックミュージックのように感じながら、比嘉はただじっと目の前の龍麻を見つめた。こんな場面でもまだ平静な顔をしている相手の事が憎らしかった。
「 何で…何も言わないんだよっ」
「 え?」
「 え、じゃねーよっ。いつもいつもさっさと帰っちまって…! 何か用があるなら仕方ないけど、何で俺に何も言わないで1人で行動してんだよ! 最近…ずっとそうじゃないか!」
「 ………」
自然いやな汗が浮かぶ。俺は何をこんなに必死に喋っているのだろう。比嘉はそんな事を思いながら、依然として平静な態度の龍麻をじっと見つめた。こちらがこんなに身体中を熱くしている事、きっとコイツは知らないと思いながら。
比嘉は口を切った。
「 さ、さとみを助けた時さ…。お前、来てくれてさ…俺、嬉しかったんだぜ。中途半端な友達じゃ、わざわざあんな危険な真似までして来てくれないだろ。俺、だから…お前とは親友だと思ってたのに」
「 うん」
「 う…? うんって何だよ、うんって!!」
「 だから、親友」
龍麻はようやくにっこり笑ってゆっくりと比嘉に近づいて来た。それに比嘉が驚いた顔をして開いていた口を閉じると、龍麻は可笑しそうに目を細め薄く笑った。
それで比嘉の心臓は出来の悪い玩具のようにパチンとネジを飛ばしてしまったのだが。
「 緋…」
「 どうしたの、比嘉」
龍麻は言って比嘉の腹を拳で軽くこづいた。
「 俺、何かお前の気に触る事してたのかな…。だったらごめん。でも俺はこうやって学校終わったらすぐ帰る事、別に悪気があってしてたわけじゃないんだけど」
「 だっ…。だったら、何ですぐ帰るんだよ…」
「 今ね、知り合いの人の道場で格闘技習ってんの」
「 か…格闘技?」
呆気に取られる比嘉に龍麻は子どものような笑みを見せた。
「 そっ! 今流行ってんだろ、格闘技! 面白いの。今度比嘉にも成果見せてやるよ! ドーンっとやってガーンッと蹴るやつ」
「 何だよ…それ…」
「 ははっ」
ふざけたように拳を振る真似をする龍麻に比嘉は毒気を抜かれたようになってただ茫然としてしまった。
考え過ぎていたのだろうか。龍麻が自分に何か隠し事をしているだなんて。
自分の知らないうちに何処か遠くへ行ってしまうだなんて。
「 ……そっか」
さとみが心配していたからではない。比嘉はもうとっくの昔に1人先に帰る龍麻の背中を眺めながら、コイツはきっと自分とは違う世界に住む人間なのだと、そう漠然と考えていた。そして、それをひどく悔しく悲しいものだと捉えて1人悶々としていた。龍麻をとても遠くに感じる。話しかければ笑ってくれるし、こちらの話も聞いてくれる。自分の話に相槌を打ってくれると嬉しかったし、もっともっと聞いてもらいたくなって一生懸命喋った。
それでも、自分の意見をただ唯々諾々と頷き笑う龍麻に、どこか嘘っぽいものを感じる時もあった。
それが不安でもあった。
全部が自分の考え過ぎなんだろうか。きっとそうだ。そうだったらいい。
「 お前、だったらたまにはさとみとも遊んでやれよ。あいつ、お前が一緒にお茶してくれないって俺にすっげー愚痴ってくんの」
ようやく立ち直ったように比嘉がそう言って笑うと、龍麻は相変わらず明るい表情のまま「ええ?」とやや驚いたように首をかしげた。
「 そうだったんだ? でもさとみちゃんってモテるじゃん。俺が遊んで誰かに誤解されても悪いような気もしてたしさあ」
「 誤解って誰にだよ? あいつにそんな奴いないって」
「 ええ? そうかなあ、すぐ近くにいるじゃん」
「 は…?」
「 逆もまた然り。だから、俺は1人で帰るの」
「 ちょっ…それ、おい緋勇、それ何だよ!」
意味あり気に笑う龍麻は、しかし比嘉の質問にはもう答えてはくれなかった。軽く片手を挙げると、今ではもうすっかり他の学生で賑わっている昇降口をするりと抜けて帰って行く。
「 んだよ…」
比嘉はそんな龍麻の後ろ姿をただその場で立ち尽くし見送った。
龍麻の笑顔にやっぱり胸が痛むのを感じながら。
龍麻が東京の高校へ転校するという話を聞いたのは、それから1週間後の事だった。
「 比嘉」
終業式の日。
比嘉は校舎裏にある野球部のグラウンドが見渡せるフェンス前に龍麻のことをを呼びつけた。
龍麻は比較的早くに教室を出てきたのか、比嘉が待ち合わせの場所に着いたのとほぼ同時にやって来た。
「 どうしたんだよ、わざわざこんな所に呼んだりして」
ベンチに座ってただグラウンドを見つめている比嘉に、龍麻は何事もないかのような普段通りの態度で訊いてきた。比嘉がそれで傷つく事にも悲しむ事にも、まるで気づいていないという風だ。
終業式まで一言も口をきかなかった。
廊下で目があってもわざと視線をずらして他の仲間たちと談笑してみせた。何度かさとみが心配したように「転校前に喧嘩って良くないよ」とお節介な事を言ってきたが、そんな幼馴染すら鬱陶しくて無視した。
誰にも分からない。この自分のやり場のない気持ちを分かってくれる人間なんてここには何処にもいない。そう頑なに思って、比嘉はただ空虚な数日間を過ごしていたのだ。
でも、今日。
「 比嘉?」
自分の隣に腰かけて不思議そうに問いかけてくる龍麻。じりじりとした想いが胸を焼き、頭をショートさせる。比嘉はぐっと目を瞑ったまま、押し殺したように声を出した。
「 転校……」
「 ん?」
「 転校、するんだってな…」
「 うん」
「 ………」
あっさりと肯定する龍麻。予想していたとはいえ、やはりキツイなと思った。元々その転校とて人づてに聞いたのだ。龍麻から直接言われる事はなかった。所詮その程度の仲だったのだから、龍麻のこの態度も本人にしてみれば当然のものなのだろう。
「 ………」
けれど、覚悟していたけれど次の言葉が出てこない。悔しくて居た堪れなくて、どうして自分だけがこんな気持ちにならなければならないのだと思ってしまう。
いっその事、また「バカ野郎」と言って別れてしまえばいい。
でも、言えない。
「 楽しかったなあ…」
すると龍麻が不意に口をついて言った。
比嘉が目を開き顔を上げると、隣の龍麻は何かをとても懐かしむように目を細めて遠くのグラウンドを見つめていた。
「 楽しかった。この学校」
「 緋勇…?」
「 俺、結局この学校にも1年しかいられなかったけど、今までで一番楽しかったと思う。俺、自慢じゃないけどロクな目に遭わないんだよね、学校って所」
「 え…?」
「 いっつもさ、何か起きるの。面倒な事とか嫌な事とか。それは全部俺のせいだから皆に責められる。でも俺のせいだけど、俺のせいじゃないって思う事もあって…もう頭の中めちゃくちゃでさ」
「 何の…」
話だ、と言おうとして、けれど比嘉は反射的に口を閉ざした。
龍麻が何かとても大切な事を自分に言ってくれていると感じたから。
龍麻はそんな比嘉の方を見ない。ただ遠くを見て笑っている。
龍麻は続けた。
「 でもさあ、ここではすごく平穏に時が流れた気がするんだよな。あ、そりゃあ…さとみちゃんが攫われちゃったり、ちょっとヘンな事は最後らへんあったけど。でも全体的に評価すると、うん、5点かな!」
「 ご…低いな…」
「 バカ、5点満点の5点だよ」
「 え…本当に…?」
「 うん」
驚く比嘉に龍麻はやっと視線を向けてきてにこりと笑った。途端、比嘉の心臓は早鐘を打ち出したのだが、それを相手に気取られるのが嫌で今度は自分から慌てて視線を横へ逸らした。
そうしてついでとばかりにそっぽを向いたまま、やっと用意していた恨み節を吐き出す。
「 その割には…いやにあっさりいなくなるんだなっ。俺に何も言わないで、俺に…今日、俺たち最後なんだぜ。なのに何だよ、その態度は…!」
「 比嘉、悲しい…?」
「 は…? な、何だよそれっ」
「 俺がいなくなって悲しい?」
「 そ…!」
まともに訊かれて比嘉は言葉を失った。龍麻にからかいの色はない。どうやら真面目に質問しているようだ。
比嘉は慌てた。
「 ど、どうでも良かったら…。こんな風に呼び出したりしないだろ…! こんな…頭きてねーよっ。こんな…!」
「 何でむかついてんの?」
「 ばっ…! だから、お前が俺に何も言わないで転校するからだろッ!」
「 だって比嘉、訊かなかったじゃないか」
「 はあ!? 何だよそれ!!」
「 俺と会っても無視してたじゃないか。全然話さないしさ…。だから俺の事なんかどうでもいいのかと思ってた」
「 ば…」
それはこっちの台詞だ。
思わず怒鳴りそうになって、それでも比嘉は咄嗟にそれを留めた。
「 ひ、緋勇…?」
気のせいか龍麻が泣きそうな顔をしているように思えたから。
「 ……どうし……」
「 ずっと無視してただろ…。廊下で会っても他の奴と楽しそうに話してたし…。もう昇降口でバカ野郎って言ってくれない…。もう、どうでもいいんだって思った」
「 な…何だよそれ…」
「 俺、今まであんまり他人と関わってこなかったから、比嘉が構ってくれるのは嬉しかった。さとみちゃんが親切にしてくれて嬉しかった。時々、こいつらかなりウザイって思う事もあったけど」
「 わ、悪かったな!」
ムキになって唾を飛ばす比嘉に、龍麻はここでやっと少しだけ口元を緩めた。
「 ウザイって思うのは、それは俺の悪い部分が出ちゃった時だけ。でも、それでもそういう時があっても比嘉は俺に親切にしてくれただろ。……前、親友だって言ってくれたし」
「 あ……」
「 嬉しかったんだ。俺、絶対自分からはそういう事できないから」
「 何で…」
決意の篭った声でそんな事を言う龍麻に比嘉は思わずすぐ問い返した。
龍麻はふいと視線を逸らすと、さっきまであった笑顔を消して言った。
「 しないって決めたんだ。俺に近づいて危なくなるの、嫌だから」
「 ………」
やっぱり龍麻の言っている事は比嘉には分からなかった。ただ分かっているのは龍麻が明日から自分の知らない遠い所へ行ってしまうという事で、自分の知らない生活を送るという事で。
自分と縁を切ろうとしているという事で。
「 俺…お前の事ばっかり考えてたんだ…」
「 え…?」
「 ……ッ!」
思わず飛び出たその台詞には龍麻も驚いた顔をしてこちらを見てきた。途端、自分の顔が真っ赤になったのが比嘉には分かったけれど、今更止められなかった。
まくしたてるように比嘉は言った。
「 お前が毎日何も言わないで先帰る事も…。俺と距離を取ろうとしている事も…。黙って転校して行っちまうんだって事も…。全部むかついて、全部悔しくて、毎日ずっとお前の事何で何でって…。お前に直接訊けばいいのに、そうするのも出来なくて、ずっと何でだよって」
「 何で…?」
「 俺が訊きたいよ…! 何でお前は俺と…一緒にいられないんだよ!」
「 比嘉…?」
「 なあっ。お前、俺が嫌いか!?」
「 わっ…」
殆ど無意識に龍麻の両肩を掴み、揺さぶった比嘉に龍麻が面食らった声を上げた。その様子が何だか可愛らしくて比嘉はますますその手を離せなくなってしまった。
そうだ、どうせもういなくなるんだ。そう思ったらいてもたってもいられなくなり、半ば自棄だと、比嘉はそのまま龍麻の事を思い切り抱きしめた。
本能がそうしたいと言っていたから。
「 比嘉っ…?」
「 くっそ…! 何でどっか行っちまうんだよ…! 何処行くってんだよ!」
「 東京…」
「 それは知ってんだよっ。東京の何処だよ! 何で行くんだよ! ここじゃ駄目なのかよ!」
「 駄目…」
「 〜〜〜!!」
この期に及んで淡々とそんな風に応える龍麻が許せなくて、比嘉は抱きしめる腕に力を込めた。そのせいで龍麻の顔が見えない。それを惜しいと思ったけれど、離れるのも嫌だった。
すると、不意に背中に新たな感触がやってきた。
「 あ…?」
「 なあ…。親友同士ってこういう所でこういう事するの?」
龍麻が比嘉を抱き返しながら不思議そうに訊いてきた。
比嘉はカッとなりながらもわざと荒っぽく応えた。
「 そ。そうだよっ。そんな事も知らないのかよ…!」
「 知らないよ。だって比嘉が初めてだから」
「 え?」
「 こんな風に抱きしめて、行くなって言ってくれたの」
「 う、嘘つけ…!」
比嘉は思わず抗議するような声を上げた。
龍麻は少なくとも皆に慕われていた。当たり前だ。龍麻は普段から目立たないように行動しているし、性格もおとなしい。けれど、知っている奴は知っている。見ている奴は見ているのだ。今回の龍麻の転校の話だって、龍麻の密かなファンたちが職員室で聞いたというその話を嘆きながら話しているのを耳にして知ったのだから。
だから本当は自分だけではない。さとみも、他の連中も。この手の届かない緋勇龍麻という存在に焦がれているのだ。どうしようもなく。
「 あのな、比嘉」
ごちゃごちゃと色々な考えに揉まれている比嘉に龍麻が言った。
「 俺、あっちに行くの凄く怖いんだ」
「 え?」
何を言われたのか分からずに聞き返すと、龍麻は少しだけ身体をずらして言った。
「 東京に行くの。怖いんだ」
「 な、なら…!」
「 駄目。行かないわけにいかない。行かないといけない。それが俺の使命」
「 ………」
「 向こう行ったらもう連絡取らない。比嘉に会わない」
「 ……っ」
けれど龍麻は自分の言葉に傷ついたような比嘉に対し、すぐ次の言葉を投げ掛けた。
「 でも、お前のこと。時々思い出してもいい?」
「 緋…」
駄目だ、顔が見たい。
離れたくなかったけれど、比嘉は接着剤でくっついてしまったようなお互いを無理に引き離し、そうして今まで自らの胸に掻き抱いていた相手の事を見つめた。
「 緋勇……」
もう一度、先刻掠れて消えてしまったものを補うように、比嘉は改めて龍麻を呼んだ。龍麻はじっとそんな比嘉の事を見上げてきていた。もう笑っていなかった。
「 俺…俺、何かしてやりたいのに…」
「 ………」
「 お前に…。なのに何でだよ。くそ、心配でこっちが忘れられねえよ!」
「 親友だから?」
「 煩い…!」
不意に龍麻のそう言った言葉が無性に癪に触り、比嘉は無理やり唇を寄せるとそのままの勢いで驚く相手にキスをした。
「 ……っ」
ぴくんと龍麻の肩が揺れ、比嘉も一瞬で頭が沸騰する思いがした。
でも止められなかった。
「 はっ…」
やがて慌てて自分の腕を振り解き、触れられた唇に指先を当てる龍麻の途惑った顔がもろに見えた。
「 緋……」
「 比嘉…っ。比嘉、今の、今の何…?」
「 な…何って、キスだろ…っ」
恥ずかしさを誤魔化すようにわざと強調して言ってみた。余計に恥ずかしくなって顔がまた熱くなった。けれどふと見ると、目の前の龍麻はもっと真っ赤になっていた。
「 あ……」
可愛い、と思った刹那、しかし比嘉は思い切りその龍麻に鳩尾を殴られていた。
「 ぐっ…!」
「 バカッ!」
龍麻はぱっと立ち上がるとぐいと手の甲で自らの唇を拭い、未だ赤くなったまま興奮したように比嘉の事を睨みつけた。、もっとも、それは怒っているというよりは完全に恥ずかしさで顔が紅潮しているだけのようで、龍麻はただ荒く息を継ぎながら自分に殴られ前屈みになっている比嘉を見やっていた。
「 き、効いたあ…」
ようやく比嘉が恨みがましくそう言うと、龍麻は少しだけほっとしたようになって顔を緩めた。
けれど。
「 もう行く!」
龍麻はそう言うと、だっと駆け出して比嘉から離れて行った。
「 あ…!」
比嘉がそれに焦って上体を起こしベンチから飛び退っても、龍麻はどんどんと遠ざかって距離を取っていった。
比嘉は必死になってそんな龍麻に声を掛けた。
「 緋勇!」
けれど龍麻は振り返らない。ぐんぐんとフェンスが切れる裏門へと向かって行く。当たり前だ、最後にあんな風にキスなんかして。自分でも驚いたが、けれどこれが自分の本当の気持ちだったのだと比嘉は今更ながらに思い知った。
気がつくのが遅過ぎた。
けれどそれに比嘉が肩を落としかけた、その時。
「 比嘉!」
龍麻が急に立ち止まって比嘉を呼んだ。
「 えっ…」
比嘉が驚いて顔を上げると、龍麻はもう振り返って比嘉のことを見つめていた。遠目で顔までは分からない。けれどその自分を呼んだ声色から、きっと笑っていただろうという事は分かった。
そして龍麻はすっと片手を挙げると比嘉に言った。
「 またな!」
「 緋……!」
呼びかけた時、けれどもう龍麻は門の向こうに消えてしまった。
「 緋勇……」
どくんどくんと心臓の音だけが比嘉を包んでいた。龍麻の唇と龍麻を抱いた感触と。
龍麻がくれた拳と。
さよならではない、またねの言葉。
それらが全て比嘉の空虚だった心をどんどんと埋めていってくれるような気がした。
気づくと辺りはもう夕暮れ時で、グラウンドで汗を流している野球部員たちも締めのランニングと素振りにそれぞれ分かれ、あと少しの時を惜しむように動いているのが見えた。ああこんな日常をもうあいつと見る事はできないのかと、比嘉はそれでまた少しだけセンチメンタルな気分になったが、それでも龍麻が残してくれたその言葉に応えるように、無理に頬を緩めて笑ってみた。
「 絶対だぜ…」
龍麻の姿はもう見えない。けれど比嘉はそんな龍麻に向かってそう確かに呟いた。そして、もしこの約束を違えるような事があったら、その時は自分は何としてでも龍麻の事を探し出し、またバカ野郎と言ってやろうと、そう思うのだった。
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