真夜中の電話サービス
「 駄目だわ…ノらない」
天野は手にしていた万年筆を投げ捨てると、最近ギシギシと軋みの酷い愛用の椅子に思い切り身体を寄りかからせ、ため息をついた。
現在時刻、深夜2時。
明日の朝イチで原稿をあげなければならない天野にとって、リミットまであとほんの数時間だ。
「 あ〜! でも駄目なものは駄目なのよっ!」
誰もいない自室で天野は焦りと苛立ちの混じった声をあげると、ぐしゃぐしゃと髪の毛をまさぐった。それは外では決して見せない、いつものクールさなど微塵も感じられない荒れっぷりだった。
「 一体どうしたのかしらね、今夜は!」
どうしても筆の乗らない自分をまるで他人に対するように言ってみて、天野は再びため息をついた。普段使っているパソコンは電源すらつけていない。デスクの上には乱雑に破られ丸められた原稿用紙が何枚も飛散しているが、それを整える気力も今は当然のようになかった。
「 ………」
そんな「惨状」を暫し眺めやった後、天野は多少据わった目をしておもむろにデスクの引き出しを開けた。特に理由はない、手持ち無沙汰で何となくやってみた行為だった。
引き出しの中には編集部からの催促を考慮して電源を落としたブツ……この間買い換えたばかりの携帯電話がひとつ入っていた。
「 こんな時は……」
ぽつりと呟きながら、天野はその携帯をゆらりと持ち上げ、不意に浮かんだ番号をゆっくりとした動作で押していった。それはメモリを見ずとも既にすっかり暗記してしまっているもので、ただ実際に掛けてみた事は1度もなかった。いきなりこんな事をするなどまるで酔っ払いのようだ。生憎と今の天野は素面なのだが、何をやっているんだともう1人の自分が嘲笑しているくせに、どんどんと番号を押していくその手は止まる事がなかった。
プルルルル……プルルルル………。
『 ………はい?』
殆ど待つ事なく、電話を掛けた相手は天野の非常識な呼びかけに応えた。2時だ、深夜の2時なのだ、今は。それなのにその相手は別段眠そうな声でもなく、割にしゃっきりとした声で返事をしてきた。
『 天野さん?』
そうして天野が声を発する前に相手はそう言った。
「 ……龍麻クン」
それに多少驚いた想いを抱きながら天野は椅子に寄りかかっただらけた体勢のまま、左耳に押し当てていた携帯を右の方へと移し変えた。
「 凄いわね。どうして私だって分かったの」
『 こんな時間に掛けてくるおかしな人はマスコミ関係者しかいません』
冗談とも本気ともつかない声色がそう言った。
『 この間は遠野さんが1時頃電話してきましたよ。用件、何だと思います? 今その部屋には誰かいるのか、いるとしたらそれが俺の本命なのかって』
喉の奥でくっと笑うような音が漏れて天野は思わず目を細めた。可愛い未来の後輩はどうやら自分と酷く似た習性を持つらしい。さすがだとも思うし、先を越されたと悔しい気持ちもするし、何だか胸の中がひりひりした。
「 それで今は誰かいるの?」
『 天野さんまでそんな用で俺に電話掛けてきたんですか? そんな事知ってどうするんです?』
「 アイドルの動向はどうしたって気になるものでしょ。実際、その噂、君のお仲間に会う度聞かされるわよ。みんな龍麻クンの事好きだから、一体誰が本命なのか気になって仕方ないのね」
『 天野さんも?』
「 勿論」
自分はこんな話がしたくて彼に電話をしたのだろうか?
締め切りに追われて頭がおかしくなっているのだろうかと額に手を当てながら、天野はそれでも耳に流れ込んでくるその澄んだ声にひどくリラックスする想いがした
『 なら、天野さんが自分で探って下さい。一流のジャーナリストなんだから余裕でしょ』
「 どうかなあ…。一流ってのは、ちょっと違うかも」
『 今仕事してたんですか』
「 そう。明日の朝イチであげなくちゃいけない原稿があるんだけど、どうもピタッとはまらなくてね。悪戦苦闘中」
『 ふうん』
「 今回の記事頼んできたとこの編集さん、ちょっと癖のある奴なのよ。あんまり酷いの持って行くとどんな厭味言われるか分からないし」
『 そうなんだ』
「 ……あ」
淡々としつつもどこか柔らかい相槌を示してくれる龍麻に天野もつい愚痴っぽくなってしまった。
はっとして椅子から身体を起こすと、天野は慌てて声をあげた。
「 あ、ごめんなさい! 私、何言ってんのかしらね。何かつい龍麻クンにこぼしちゃって」
『 別にいいですよ』
「 よくはないわよ。高校生をこんな深夜帯に無理やり起こしちゃって。迷惑極まりないわよね。本当にごめんね」
『 いいんですって』
電話の向こうで龍麻は薄く笑ったようだった。その様子が容易に想像できて、天野はらしくもなくどきんと胸を高鳴らせた。
いつでも静かに笑っている。仲間に対しても常に平等で、非常事態にも取り乱す事はない。
年下なのに、まだ高校生なのに、このどこか人間っぽくない雰囲気はどうなのだろうと今更ながらに思ってしまう。
『 どうせ寝てなかったから』
黙り込んでいる天野に龍麻が言った。
『 退屈してたんです。だから天野さんからの電話すぐ出たでしょう。俺、嬉しかったから』
「 え?」
『 この間の遠野さんからの電話だってそう。くだらなくても何でもいいんです。夜に電話くれる人は好きだな』
「 ……夜だけ?」
『 そう、夜だけ。だって怖いのは夜だけだから。昼間はみんながいるし』
「 怖い?」
驚いて椅子から転げ落ちそうになった天野は、それでも何とか椅子の上にとどまりながら、前のめりの状態で携帯をぎゅっと握り直した。確かに龍麻を取り巻く様々な事件は異常だけれど。
このコが「怖い」なんて感情を持っていたなんて。
『 あー……やっぱり意外って思ってる?』
「 そりゃ…まあ、ね」
『 俺だって普通の高校生ですよ。そのくらい思いますよ』
「 まあ…そ、そうね。毎日おかしな事ばかりですもんね…」
『 だから、電話ありがとうございます』
「 ………」
これはもしかしなくても物凄いチャンスなのではないだろうか。
天野はデスク上に散乱している原稿用紙の存在をすっかり頭の隅から取っ払って、ドキドキする胸をそっと押さえた。
「 あ、あの〜? 龍麻クン? 何なら私、今から龍麻クンの家に行きましょうか?」
そうしてなるべく私は心配しているのよ「お姉さん」として!というオーラを滲ませようと努力しながら、わざとらしい咳払いも交えつつそう言ってみた。
すると龍麻は「えっ」と声を発した後、苦笑したようになった。
そうして困ったように後を続ける。
『 でも天野さん、仕事中でしょう? 今から俺の所へ来るなんて……大変ですよ』
「 いいのよ、私は全然ッ! どうせあんな原稿、大した事ないんだから!」
『 ……天野さんって仕事に生きる強い女性じゃなかったんですか?』
「 状況に応じてね、女ってのは臨機応変に変われるものなのよ」
『 ええ…? ……ふふ、何か変なの』
「 う、うふふ…? そう? そうかしら、ウケた?」
『 うん。凄く』
でも……と、龍麻はややあってから大きく息を吐き出し、きっぱりと言った。
『 でもやっぱり遠慮しておきます。この電話だけで十分。俺、ここだけの話ね。年上の女の人に弱いんだ。だから、天野さんが来たら何かまずい事になりそうだから』
「 い、いい〜じゃない!? 別に、まずい事になっても!」
『 ……天野さん。段々露骨になってますよ』
天野さんって変な人だったんだあ…という龍麻のいよいよ可笑しそうに笑う声が聞こえて、天野はあっけなくフラれてしまったというのに、ついつい自分も電話口で笑ってしまった。
何だ、普通の高校生のようにも笑えるのね。
「 ああ…何だかとっても楽しくお喋りできて、原稿書けそうな気になってきたわ。ありがと、龍麻クン」
だからだろう、これも普段と比べるとひどく珍しく、心からの礼が口をついた。「どういたしまして」と丁寧に返す龍麻にもう一度ありがとうを言って、更にぺこっと頭まで下げた。
「 それじゃ…ね。また」
そうしてその後、天野はすぐに電話を切った。これ以上変に伸ばして会話を続けていたら、龍麻が何を言おうが自分はこのまま何もかも捨てて龍麻のアパートへ直行してしまうだろう、そんな気がしたから。
「 は〜。まだ当分、結婚できそうもないわ」
引き出しに携帯をしまい、天野は別段嘆いてもいない風にそう独りごちた。
時計はまだ2時を少し回ったところ。
それでもその僅かな時間に信じられないくらいの至福を感じ、天野はデスクに放り投げたままだった万年筆を「よしっ」と言って手に取った。
どうやら仕事を再開できそうだ。携帯を当てていた耳の奥はまだどこかくすぐったく、心地良かった。
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