ピンクのラブレター
その真新しい封書を指先で挟み、龍麻がいつもの調子で道場に入ると、既に見知った何人かの部員たちが「緋勇先輩、押忍ッ!」と両腕をバツの字にクロスさせて挨拶をしてきた。
「 うーっす」
そんな威勢の良い部員たちの声に対し、龍麻は気の抜けたような返答と共に片手をひらひらとやってから首筋をそっと撫でた。昨日、ここの空手部をしきる部長に思い切り放り投げられた所がまだキシキシと痛む。その仕返しというわけでもないが、今日はせいぜいこの手に持っている「ブツ」を使ってアイツの事をからかってやろう、龍麻はそんな事を思っていた。
「 紫暮」
「 おう! 龍麻か!」
その空手部部長―鎧扇寺学園高校の紫暮兵庫―は、道場の端をスタスタと歩いて来た馴染みの客に後輩を指導していた手を止めて目だけで笑って見せた。相変わらず練習熱心だ。鍛錬を開始してまださほど時間は経っていないだろうに、既にどの部員たちよりも汗をかいている。筋肉の張りを見てもどれだけ快活に動いていたのかが推し量れた。
そのきっちりと着込んだ胴着はまるで乱れてはいないのだが。
「 今日も手合わせに来たのか?」
組手していた後輩を他の3年に託すと、紫暮はすぐに龍麻が立つ壁際にやってきた。巨体の紫暮はただでさえ存在感があるが、その歩き方からして象か何かが往来を闊歩しているような印象を受ける。龍麻はそんな大き過ぎる仲間を半ば苦笑の思いで眺めながら、「冗談だろ」とかぶりを振った。
「 昨日だって俺はただ旧校舎の誘いで来ただけ。なのにお前が無理やり組み手の相手しろって言って人の事ぶん投げたんじゃないか」
「 ははは! すまんすまん。情けない話だが、部員の中でこの俺と全力でぶつかろうって言う気概のある奴がいないからな。龍麻が遊びに来てくれるとつい甘えてしまう」
「 お前の相手できる奴なんかそうそういないって」
呆れたように言いながら、龍麻は主将の紫暮に叱られまいと必死に練習に励んでいる部員たちを眺めやった。確かに己の力を十二分に発揮できない紫暮も可哀想だが、格上の相手にしごかれる後輩たちも随分と気の毒だ。だから旧校舎で異形の相手でもしていればいいじゃないかと龍麻などは思うのだが、しかしそれに対して昨日の紫暮は豪快に笑いながら言ったのだ。
「 龍麻、本当のところ俺は無闇矢鱈な殺傷は好かないんだ。俺にとっての死合とは確かに命を賭した闘いの事を言うが、その命とは生き死にの事ではないのだよ」
「 紫暮って時々顔に似合わずどきっとした事言うんだよなあ」
「 ん?」
「 ……だから昨日はおとなしく投げられてやったわけだけど」
「 ? すると今日は何の用なんだ?」
「 これ」
そこで龍麻はようやく今日の本題だとばかりにぴっと手にしていたピンクの封書を掲げて見せた。目の前でぽかんとしている紫暮にいよいよ笑みが浮かぶ。
「 俺もこういうのは困るって言ったんだけどさ、どうしても直接渡す勇気がないからって頼まれちゃってさあ。俺が頻繁にここに来るの知ってたみたい」
「 龍麻の知り合いか?」
「 え? あ、いや…全然知らない子。でもこの近くの女子高の子だと思う。制服がそうだったから」
「 そうか。すまんな」
「 ………」
紫暮はあっさりそう言うと、龍麻からそのピンクの封書…所謂「ラブレター」を受け取り、それの表と裏とを交互に見やった。そうして差出人の名を確認して「知らない名だな」と独りごちる。
「 ……何だ」
そのあまりの平静さに龍麻は完全に拍子抜けしてしまった。
「 ん? 何だ?」
紫暮が怪訝な顔を向けてきたので、龍麻は半ばふくれたように唇を尖らせて言った。
「 つまんないって事。女の子からラブレターなんか貰ったらさぞかし慌てるか真っ赤になるだろうと思ったのにさ」
「 俺がか?」
「 そうだよ」
相変わらず平然としている紫暮の態度に龍麻はいよいよじりじりとして拳をその堅い胸板にぶつけた。紫暮はやはり動じずにそれをそのまま受けていたのだが。
「 何でもっと俺の期待したリアクションを取らないんだよ〜! 『こ、こんなのは困るぞっ』とか、『俺には既に龍麻という心に決めた相手がいるんだ!』とかさ」
「 ………」
「 ……バカ、冗談だよ」
目を丸くし、口をぽかんと開けたまま紫暮が黙っているのに龍麻は突然決まりが悪くなり、すぐに焦って訂正した。
ちょっと鎌をかけてみたかったのだ。
このいつでも厳格で融通の利かない筋肉バカが、こういう話に一体どんな顔で反応を示すのかと。
「 すまんな、龍麻」
すると紫暮は急に改まったような顔になるとそう言って謝ってきた。
「 何で謝るわけ」
龍麻がそれに何となくむっとすると、紫暮はぽりぽりと頭を掻きながら「そうだな…」と珍しく曖昧に応え、そうしてやっと言葉を見つけたというように再度口を開いた。
「 まず俺は、お前が喜ぶような態度を取ってやれなかっただろう? その事をまず詫びる」
「 何それ」
律儀にそんな事を言う紫暮に龍麻は苦い笑いを浮かべてかぶりを振った。
「 別にいいよそんなの。…でも意外だな。実は慣れてたんだ? こういう事」
「 ああ…うむ。相手の気持ちに応える事ができなくて申し訳ないが、こういった手紙や贈り物はよく貰う。まったく、拳を振るう事しか能のないこんな俺に何故と甚だ疑問なのだが…」
「 モテる男の謙遜はムカつくだけだよ?」
「 この間告白してきた後輩にも同じような事を言われた。いつもは叱られてばかりのくせに、どうにも怒らせてしまってな…。俺の態度に問題があったようだが、しかし俺自身は全くそんなつもりは…」
「 ちょっと待て、後輩って…」
龍麻は頬をひきつらせながらちらと練習に励んでいる部員たちの様子を見やった。
「 後輩って…この中の誰か?」
「 そうだが」
「 今いる?」
「 ああ」
「 ………」
龍麻は思わず口を噤んだ。
この中に紫暮のことをつまり「そういう目」で見つめ、そして想いを口にした者がいるのか。考えてみれば紫暮は男の中の男、心身共にこれほど「強い」者もそうないだろう。同性だからと言って彼の強さに惹かれていけない道理はないのだ。
しかしそうすると、ここ数日の自分の行動はさぞかしその後輩には痛いものだっただろうと思う。大好きな先輩を独り占めされ、今もこうして肩を並べているのだから。
「 参ったな…。俺、全然気づかなかった」
「 何がだ?」
「 紫暮がイイ男だって事に気づいているのは俺だけだと思ってた」
「 ん?」
「 とんだ勘違いバカだ、俺。そんなわけないのにさ…」
自嘲したように笑うそんな龍麻を紫暮は何事か考えるようにじっと見やっていたが、やがて間を計るようにして再び口を開いてきた。
「 それでな、龍麻」
「 え…何?」
それに対し龍麻は急に我に返ったようになって顔を上げた。
するとそこには先刻とは打って変わって、どことなく落ち着かないような、困惑したような仲間の顔があった。
「 どうしたの、紫暮」
「 む…。つまりな、俺の謝罪の2つ目の理由だ」
「 え…ああ」
そういえば先刻は謝罪の理由がまだあるような言い方をしていたっけ。
龍麻は不思議な顔をして首をかしげ、自分よりも大分背の高い紫暮を見上げた。
「 ……っ」
「 ん??」
ところが妙な事に、龍麻がじっと視線をやればやるほど、目の前の大男はますます顔を赤くし、どことなく焦った風な顔になっていった。ああそうだ、俺があのラブレターを持ってきて見たかったのはこの顔だったのだと、龍麻は心の中だけで思った。
「 つまりだな、龍麻っ」
その紫暮はすうと大きく息を吸い込んだ後、思いきったように淀んでいた言葉を吐き出した。
「 俺が謝ったのは…。その、お前がさっき言った冗談は、冗談ではないという事からだ」
「 は?」
言われた意味が分からず龍麻は眉をひそめた。
自分が先ほど言った言葉? 一体何だったろうと思う。
「 俺が…俺に想いを寄せてくれた人間の気持ちに応えられないのは…。お前の言う通りなんだ、龍麻。俺にはもうとうに心に決めた人間が…ここに、いるからなんだ」
紫暮は大きなげんこつで自分の胸を指し示すとそう言った。
そして龍麻がぽかんとしているのに構わず堰を切ったように続ける。
「 俺は初めて会った時からもう決めていたんだ。いや、感じたというべきか…。俺は俺のこの能力で、いや、俺自身の強さで龍麻…お前のことを護ると」
「 ………俺?」
「 そうだ。俺は己の心も身体も、お前に会った時から全てお前に捧げている」
「 ………」
きっぱりと言われて龍麻は暫しボー然とその場に立ち尽くしてしまった。周囲で盛んにかけられている部員たちの掛け声が何かの雑音のようにぼうと耳にじんじんと木霊する。
「 う、うわあ…っ」
そして数秒後、龍麻はそんな意味不明な言葉を漏らしてどんと壁に背中をつけた。眩暈がしたわけではない、けれど足元がふらついてしまったのだ。
「 大丈夫か、龍麻?」
しかし自分にそんな事をさせた原因である張本人はしれっと心配したような声を掛けてくる。龍麻はただ唖然とそんな相手を見つめ、それからぐんぐんと熱くなっていく身体を意識しながら反射的に再び拳を繰り出していた。
ただし、今度は割と本気で。
「 ば、ばか…!」
「 龍麻?」
本気のパンチだと分かったのだろう、紫暮は咄嗟に両手でそれを受け止めると不思議そうな顔をした。胸のところでがっちりと抑えられたその手。紫暮にしっかと掴まれて龍麻の温度はますます上昇した。
誤魔化すように声を荒げる。
「 龍麻、じゃないっ! こ、こんなところでしれっと告白すんな…っ」
「 すまん」
「 そうやってフツーに謝るなっての!」
「 すまん」
「 〜〜〜!!」
無骨者はこれだから困る。
龍麻はじたじたと身体を揺らして力任せに手を振り解いた後、未だ状況が分かっていないような顔をしている紫暮の顔を睨み付けた。あんなに恥ずかしい台詞をさらりと言っておいてまるで動じていない。こいつは天然だと龍麻は痛む頭を抑え、目を瞑った。
「 どうした龍麻…。やはり迷惑だったか」
「 ……何それ。そんな風に思うわけ」
「 まあな」
龍麻の問いに紫暮は苦笑して頷いた。
「 これでも己の事は分かっているつもりだ。俺はこんな男だし…元々お前にこの想いを告げる気はなかった。ただ、ああいう風に言われて黙っていられる性分でもなかったんでな」
「 ……だからっ」
「 ん?」
さらりとそんな風に言って自分への想いを再び封印しようとする紫暮。龍麻はそんな相手にきっとした声を出すと、今度は思い切り体当たりした。ドンとすごい音がして、部員の何人かが驚いたようにこちらを見たのが分かった。
でも構わない、と龍麻は想った。
「 龍麻…?」
「 ………」
「 龍麻、どうした?」
このまま抱きしめても良いものか。
紫暮のそんな戸惑いが肌を通じて龍麻にも伝わってきたが、いつまで経ってもその両手が自分の背中を抱いてくる事はなかった。
癪に障って龍麻は恨めしそうに口をついた。
「 だからさっきも言っただろ…! モテる男の謙遜はムカつくって」
「 龍…」
「 言ったからには護れよ…絶対。男・紫暮兵庫に二言はないだろうな?」
「 ………」
「 おい、紫暮!」
「 お……」
どうやら通じたらしい。驚きに満ちた表情が龍麻の頭上に下りてくる。
そして。
「 う、うおおおおお!!」
「 !?」
「 龍麻!!」
「 い、いって!! ばか、離せ!!」
突然物凄い力で龍麻のことを抱きしめてきたかと思うと、紫暮は慌ててもがく相手には一切構わず、感極まったような大声で叫び出した。
「 勿論だ、龍麻! お前のことはこの俺が! この紫暮兵庫が全身全霊をもって護る! 誓うぞ!」
「 その前に殺…殺される…!」
ますます強くなるその力に龍麻は黄龍でもかましてやるかと真剣に考えたが、その拳に彼の相手を振り切る為の力は入らなかった。
文句を言っているはずなのに、自然と緩んでしまうその口元がもどかしい。ふにゃりと腑抜けた指先を情けないと感じた。
「 龍麻!」
「 ……うん」
けれどその力強い腕に包まれているとその嬉しさはもう隠しようがなかった。
「 まあ…いっか」
だから龍麻はそっと呟いてから、今度は自分からぎゅっと紫暮に抱きついた。
「 た、龍麻…」
「 あ…」
その拍子、ひらりと足元にあのピンクのラブレターが落ちた。
「 ………」
龍麻はそれに視線を落とすと、これを自分に託した名前も知らない女の子に心の中だけで「ごめん」と謝った。
俺を護れるような強い男はそんなにいないんだ、だから許して?
そんな都合の良い言い訳を頭に思い浮かべながら、龍麻はそのラブレターから逃げるように紫暮の胸の中で目を瞑った。
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