武蔵山は都内でも有数のエリート進学校“拳武館”に在籍しているが、はっきり言って愚鈍な男である。この学校に進学出来たのはひとえに並外れた腕力と、己の欲求以外には全くの無頓着、要は“考えなし”な為、この学院のもう1つの“顔”の部分では大いに役立つから……という、それだけの理由に他ならない。
しかし武蔵山にとってそんな事はどうでもいい。プライドが全くないというわけではないが、何にしろその真相について誰も彼に本当の事を教えないから、武蔵山は自分がそれほど愚かな人間だとは気付いていないし、第一そんな事を気にしたって何の腹の足しにもならない。与えられた任務をこなし、好きなだけ暴れて“悪”を倒せば報酬が貰え、時に過剰な賞賛も得られる。こんなに良い所はない。現状、武蔵山には何の不満もなかった。この学校も、陰の任務も気に入っている。
「おい、仕事だ」
そんなある日の事。いつものように相棒の八剣が「新しい任務だとよ」と言って顎でしゃくり、「ついて来い」と偉そうに命じてきた。武蔵山は八剣の事が少し苦手だ。己より強い相手と思い一目置いてはいるが、彼は気性が荒く、機嫌が悪い時は一番近くにいる武蔵山を容赦なく八つ当たりのサンドバッグにしてくる。拳武において血の気の多い学生は何も八剣だけではないが、それにしても彼は度を越していた。最近、海外出張の多い館長が目を離した隙に、こういった連中の手綱は随分と緩くなった。同じ仕事をするなら、いけ好かない男ではあるが優秀な壬生の方がまだマシではないかと思う事もある。
勿論、そんな事は口が裂けても言えないが。
「おうおう、壬生。お前も呼ばれたのかよ」
副館長室へ行くと、そこにはたった今「まだマシかもしれない」と思った相手――拳武館一のエリート、壬生紅葉が立っていた。この“拳武館一”という総称は誰ともなしにいつの間にか囁かれるようになった事だが、八剣にはこれが大層面白くないらしい。いつでも壬生を目の敵にしている。
「来たか、八剣。次のターゲットは――この者たちだ」
傍には武蔵山もいるというのに、副館長は八剣だけに写真を投げて寄越した。
八剣がバラバラに投げられた数枚のそれを器用に片手で受け留める。
「むぅ……?」
武蔵山はそれを大きな身体を利用し、背後から盗み見た。
「学生じゃねェか」
つまらねえと、八剣が小さな声で呟いた。任務に対する不遜な発言はいつでも厳しく諌められるものだが、副館長は何も言わない。ただ、その副館長の話ではそのターゲット―5人の高校生―はただの学生ではなく、武蔵山たち拳武館の生徒同様、並外れた戦闘能力を有し、一筋縄ではいかないという。くれぐれも血気に逸って馬鹿な攻め方はせず、慎重に相手の同行を窺い、弱点を見極めてから狙うように、と。
重々しい口調で副館長は述べ、3人に退室を命じた。
「1つ宜しいですか」
しかし八剣たちが黙って部屋を後にしようとした時、壬生が声を出した。
「この任務は勿論――館長もご存知の事なのですね?」
「……勿論だよ。それはどういう意味かね」
「いえ……」
「おいおい、壬生。お前、副館長殿に何か含むところでもあるのかッ?」
波風立つのが面白いのだろう。八剣が去りかけた身体をくるりと戻して、ニヤリと意地の悪い顔を浮かべてそう訊いた。しかし壬生はそんな八剣を軽く無視し、後は黙って武蔵山たちの横を通り過ぎ、退出して行った。八剣はそんな壬生に思い切り舌打ちしていたが、武蔵山は自分たちが立っているドア付近をするりとかわして通り抜けていく壬生の体躯が恨めしいと、密かに違う方向で嫉妬の炎をメラリと燃やした。
それから八剣はターゲットとなる4人の動向を武蔵山1人に押し付けた。
4人、というのは、八剣が「こいつは俺がマークする」と、木刀を持った赤髪の学生の写真だけは持って行ったからだ。その為、必然的に武蔵山が残りの4人を担当する羽目に陥った。
「ぐう……」
たった1人をマークするより、4人同時にする方が大変だ。武蔵山は単純に八剣をずるいと思ったが、「ノロノロするな!」と尻を思い切り蹴られてしまえばもうぐうの音も出ない。渋々と残りの4枚の写真を受け取り、武蔵山はそれを色々な角度に回したりして意味もなく眺めた後、まずは顔を覚えなければと思った。
そう、武蔵山は人の顔を覚えるのが苦手だ。
どうせ殺す相手である。いちいち個体を識別するのは億劫だ。だからいつもは八剣が「あれを殺れ」と言ったターゲットをそのまま狙うから楽で良かった。こんな風に相手の動向を調べて、相手の弱点を探ってから狙えなどと、武蔵山にとっては一番厄介な仕事である。
しかも今回は4人もいる。はっきり言ってかったるかった。
「お…?」
その時、何気なく歩いていた廊下の向こうに壬生の姿が見えて、武蔵山はハッとした。そうだ、別段共闘せよとは言われていないが、今回は壬生も同じターゲットを狙っている。この4人のうち2人を壬生に任せ……いや、あわよくば3人を任せてしまえば、自分も八剣同様、たった1人を狙うだけで良いではないか。それなら、顔を覚えるのも何とかなるだろう。
「お、おい! 壬生っ!」
ドカドカと巨体を揺らして武蔵山は廊下を走り、壬生に声をかけた。野太いそれは別段大声を出さなくとも大抵の距離からなら相手を振り向かせる事が出来る。
案の定、壬生は颯爽と歩いていた足をぴたりと止めて、くるりと振り返ってきた。怜悧なその眼光に一瞬圧倒されるが、何しろ武蔵山も面倒を回避しようと必死だ。にへらと薄ら笑いを浮かべてやりながら、武蔵山は壬生に言った。
「壬生。今度の仕事の件でごわすが……」
「ここでその話はするな」
壬生はさっと眉をひそめ、信じられないという批難の眼を向けた。確かに、ここは“表”の校舎。ああそうだったと今さらその事に気づき、武蔵山はくいと傍に見えた地学室を指差した。
「ちょっとそこまで付き合ってもらおう」
努めて八剣の真似をしながら偉そうに指示した。壬生はそれに心底嫌そうな顔をしたが、とりあえず言う事を聞いた。薄暗い、誰も使用していないその教室に入って電気をつけると、壬生は早速「何の話だ」と素っ気無く切り出した。
「仕事の話なら八剣を通せ。君では話が通じない。……まぁ、あいつも似たようなものだけど、君よりはマシだ」
「む…? そ、それはつまり―」
「ああ、そうさ」
君を馬鹿にしているんだよと壬生は限りなく冷たい声で言い、ふいとそっぽを向いた。
「む……むむむむむ……!」
武蔵山はむかっと率直に腹が立ったが、かと言ってそのまま己より大分小さな壬生の身体を叩き倒そうとは思わなかった。武蔵山は愚鈍な男だが、自身より強い人間を察知する能力はまあまあ発達している。以前、組み手で壬生には骨を何本も折られた事もあり、結構学習していた。
武蔵山は面倒を回避する為だと我慢して、懐から写真を取り出した。
「こ、この中から、ここにはない、あの、木刀の男だけは除外だ! あいづは、八剣さんが片付ける」
「……勝手に決めないでくれるかな」
僕には関係ない事だよと壬生は言い、武蔵山が指し示した写真をちらとも見ようとしなかった。
「むがっ!」
それでも武蔵山は問答無用とでも言う風に更に写真をずいと差し出し、そこで自分自身も改めてそのターゲットらを眺めやった。
壬生に標的3人を決めさせようと思ったが、よくよく考えれば自分が先に選んだ方がいいだろう。じいっと残りの4人が写る写真を眺め、反射的にばしりと1人の男子学生を指差す。
「ま、まず、こいづは、おまはんに譲ってやるでごわす!」
「……だから勝手に決めるなよって」
壬生は呆れたような顔をしていたが、今度は写真に目を落としていた。武蔵山が一番に指差したのは、ごつい体躯をした男子学生だ。写真の裏には「醍醐雄矢」と書いてあったが、武蔵山にとってそんな事はどうでもいい。
「あ、あど、こいづも! こいづも、おまはんに譲ってやる!!」
そうして武蔵山は残りの3枚をよくよく吟味して、次々と「落選」にした写真を掲げて見せた。結構悩まずに選べたものだ。というよりも、悩むまでもなかった。
「……何故」
すると珍しく壬生が意外だと言う風な反応を示した。いつでも無感情で無反応で何を考えているのか分からない男なのに。
「む?」
「何故、この2人を外すんだ? 君なら真っ先に、こちらかこちらの少女を選ぶだろう。いつも女を殺す方が面白いと言っているじゃないか」
壬生の疑問はもっともだった。
武蔵山が「醍醐雄矢」の次に落選に選んだのは、「桜井小蒔」と「美里葵」という名の女子学生2名。どちらも一般的美人の類に入り、普段なら武蔵山自身、進んで獲物にしたいと考える容姿をしていた。
「……お、おいどんは、この男がいいでごわす」
しかし武蔵山は不意にがつりと残った写真を1枚取り上げ、それを食い入るように見つめると力強く言った。
「ひゆう、たつま……」
写真の裏にはその男子学生の名が記されていた。緋勇龍麻。この青年にふさわしい、力強く良い名前である。
「こ、好みでごわす……」
そして気付けば武蔵山は率直に思った事を口にしていた。元々隠し事の出来ない男なのだ。
「何だって?」
するとそれに壬生がぎょっとしたような声を出した。いつもの壬生らしくない。しかしその態度を構う風もなく、武蔵山はますます写真に顔を近づけて、「好みだ」ともう一度言った。
言えば言うほど確信する。そう、武蔵山は緋勇龍麻の写真を見て、彼に一目惚れしたのである。
「この顔……この身体……おおぉ、うおおぉ、か、完璧でごわす……! こいつは、おいどんがモノにするでごわす…!!」
「……仕事だよ。忘れてないだろうね」
壬生がこほんと咳払いをして自らを落ち着かせようとしていたが、武蔵山は聞こえていない。何せ恋を自覚した直後である。今すぐ会いに行きたい。顔を見て、実物と直接言葉を交わして。
そのまま拉致して○○○して、×××な事がしたい…!
「な…っ」
そんな不埒な武蔵山の妄想はついうっかりと声に出て壬生にも伝わってしまったらしい。壬生は思い切り面食らった顔をし、一歩引き気味に後退したが、やがてキッと殺気立った顔をすると「駄目だよ」ときっぱりと言った。
「む?」
その否定の言葉に武蔵山が初めて眉をひそめて壬生を見下ろすと、拳武館一の腕を持つ男は、真っ直ぐ射抜くような眼差しと共にはっきりと言った。
「君にそのターゲットを譲るわけにはいかない。……彼は僕のものだよ」
「なっ…!?」
武蔵山はハッとして身構えた。写真だけはしっかと握って離さなかったが、壬生のただならぬ殺気で全てを察した。
こいつは、自分が3人も押し付けられるから怒っているのではない。
この龍麻を他の人間に取られてしまう事を怒っているのだ。
もしや、全く同じ事を考えていたのだろうか?
「ラ、ライバル…!?」
「……君なんかにそんな風に言われたくはないね」
けど、と。
壬生は素早く動いて武蔵山の背後に回りこむと、相手が「あ」と声をあげる間もなく、容赦のない蹴りをその巨体にぶち込んだ。
「ぶごほぉっ!?」
武蔵山はそのいきなりの激痛に思い切り無残な声を出すとがくりとその場に膝をつき、そのままドスンと倒れ込んでしまった。緋勇龍麻の写真だけは離さなかったが、しかしそれも冷酷な壬生によってさっと奪い取られてしまう。
「が……返、せ……」
「嫌だね」
他を当たりなよと壬生は素っ気無く言った後、武蔵山が握っていた龍麻の写真を自らの懐に入れてしまった。
そうして泡を吹きつつも気絶だけはすまいと歯を食いしばっている武蔵山に、初めて笑みとも見える柔らかな表情を浮かべてみせた。
「愚かな男だと思っていたけど、趣味だけはいいんだね、君」
決して許しはしないけどねと言った声を聞いたのが武蔵山の最期だ。
「ぐぼっ!?」
「おやすみ」
壬生の全く淀みのない迷う事なき最期のローキックが武蔵山の顔にヒットする。表の学校では、壬生は手芸部なぞに属して近隣の女子学生たちからも絶大な人気を誇るモテモテ男だが、裏の顔はこのように冷酷無比で容赦のない人間であった。
「だ……龍、麻……」
武蔵山は奪われた写真を思い、それからゆっくりと意識を遠くへ飛ばしていった。壬生の去り行く足音はもう聞こえない。暗い暗い闇の中で、未だ会う事のない龍麻の姿を追いながら、武蔵山は「ふごぉ…」と悶絶とも取れる息を漏らした。
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