ウタタネ
「 君がここに来る事は分かっていたんだ」
そう、声には出して言ってきたわけではないのだけれど、龍麻はその青年の目を見た瞬間、彼がそう自分に語り掛けてきたのが分かった。
「 しまった…」
呟いてももう遅かった。
龍麻は心の中だけで舌打ちし、だから疲れている時は眠りたくないのだと思った。そうしてしまった自分に腹が立った。
( 嫌だ嫌だ…。また俺の知らない奴だし…)
目の前に座っている青年を無表情で見やったまま、龍麻は頭の中でぼんやりとそんな事を思った。龍麻が眠りの中で、或いは日中不意とした事で突然普段とは異なる「違う世界」へと飛んでしまう事は実際それほど珍しい事ではなかった。原因は分からないし、特に知りたいとも思わない。ただ龍麻は自分が普通の人間とは「少しだけ」違う事を自覚していたし、半ばそういう自分に諦めてもいたから、今のこの状況にも腹は立ったがどこかで受け入れてもいた。
「 ………」
だからだろう、別段驚きもせずに龍麻はただじっと目の前の青年を観察した。その場には龍麻とその青年の2人きりしかいなかったから、この不自然な状況で無視するわけにもいかなかった。
青年は年の頃は龍麻と同じか少し年上に見えたが、その落ち着いた風貌と共にどこかやつれた風でもあった。
そして青年は車椅子に乗っていた。
膝には温かそうな暖色系のタオルケットが掛けられている。
「 こんにちは」
その青年は龍麻が自分から視線を逸らさないでいてくれると分かると嬉しそうに笑み、ここで初めてはっきりとした声を出した。
「 つ……っ」
ただ車輪の部分を手で握り込みながら龍麻の方へ近づこうとした事は失敗した。元々腕力がないのか、病気の為力が出ないのか。青年は車椅子を動かそうとしたそのたったの1動作だけで息を乱し、困ったように小さく苦笑した。
「 いいよ。俺が行くから」
青年のその仕草を見かねて龍麻が言った。辺りは静かで、そして面前にある湖以外に特にめぼしいものはない。元々現実世界とは違う場所なのだろうから景観などどうでも良いのだろうが、大体周りの景色は自分かその時現れた人間の心象を表している事が多かったから、この殺風景な周囲と水の景色は自分かこの青年のどちらかのもののはずだった。
その興味が龍麻を前へ進ませたのかもしれない。普段なら、あまり知らない人間とこういう場所で出くわしてもあまり関わらないようにする方なのに。
「 ありがとう」
龍麻がいよいよ目の前にまでやって来ると、車椅子の青年は丁寧に礼を言い、それから重々しく右手を差し出した。
「 僕はマサキと言います。龍麻さん」
「 ……ああ。やっぱり俺の事知っているの」
どうしようかと思いながらも、あまり悪い人間には見えなかったので、龍麻は素っ気無く答えながらも差し出された青年の手を取った。ひやりと冷たい手。どちらが先に相手の思念に入り込んだのかは分からないけれど、偶然でないのならば向こうが自分を知って接触を試みてきたのはまず間違いないだろう。またぞろ迷惑な使命とかを押し付けられたら嫌だなと冷めた思いを抱きながら、龍麻は握った青年の手を何となく見つめた。
「 貴方の事はよく夢で見ていました」
マサキと名乗った青年が言った。
「 今日は昨夜降った大雨のお陰か、近くの水場が澄んでいたので…。久しぶりに《力》を使う事ができました。こういうチャンスがあったら是非貴方にお逢いしたいと思っていた。だから嬉しいです」
「 ……君は誰?」
龍麻が握っていた手を離しながら訊くと、マサキはただ薄く笑い、ふと視線を傍の湖へ向けた。誘われるように龍麻もそちらへ顔を向けると、ふと対岸に自分たち以外の人影があるのが見えた。
「 あれは…?」
「 僕の妹と友人たちです」
言われてより目を凝らしてみると、なるほど人影は1つではなかった。向こう岸に3人の人間。恐らく2人は男性、そして発している氣の感じからもう1人は女性だろうと思った。
そしてその女性の方は、この青年と同じようにどうやら車椅子に乗っているようだった。
「 妹なんです」
マサキは伏し目がちになりながら言い、そっと息を吐いた。その物憂げな様子があまりに儚げで、龍麻はふと、本当にこの人は「あちらの世界」で生きている者なのだろうかと思った。
そういう危げな存在として言うのならば、龍麻も決して他人の事は言えないのだが。
「 妹も恐らくは龍麻さん、そろそろ貴方の夢を見始める。そうして貴方に焦がれるようになるでしょう。……僕と同じように」
龍麻の返答など期待していないのだろう、マサキはその後も淡々と続けた。
「 僕はいつも貴方を見ていました。貴方の強さ、貴方の弱さ…全て見てきたつもりです。でも…貴方はいつも僕の手の届かないところにいる。僕は貴方のいる所へは決して辿り着けないんです」
「 今ここにいるじゃない」
「 これは夢なんですよ」
寂しそうに笑い、マサキはもう一度と、今度は龍麻の手の甲にそっと長く白い指を触れさせてきた。その温度のない感触に龍麻は思わず眉根を寄せた。先ほどは冷たいと確かに感じたはずなのに、今はその温度すら感じない。
生きているという感触がなかった。
「 貴方の傍にいたい」
マサキが言った。
「 貴方をずっと見ていたい」
「 ……ずっと見てたんだろ?」
慣れたように龍麻は言った。どこかで誰かが自分を見ている。もう既に何度も経験している事だった。こちらの「本当」を知りもしないで、自分の《力》だけに何をか期待し縋りつく者たち。それを龍麻はいつでも煩わしいと思っていた。勝手に惚れられても困る、勝手に近づかれても困る、自分にどうして欲しいのだ…。だから龍麻はこんな時、いつもたとえようのない苛立たしさを感じた。
直接相手にそれを告げる事はないけれど。
「 だったらこれからも見てればいいじゃないか。……だからって俺には何も出来ないけど」
「 ……いいえ」
マサキは龍麻の突き放したような言い方にも薄く笑うと、やがてゆっくりと首を振った。
そうしてもう一度湖岸の向こうをじっと見やる。もう3人の男女の姿は見えなくなっていた。あるのはただ永遠に続くかのような白い地平線だけ。何の色もない、ただ虚無の空間が広がっているだけだった。
ただ互いの呼吸する音だけが微かに耳に入ってくる。
「 あんたの心の中なのか?」
龍麻が訊くとマサキはまた笑った。
「 そうですね」
「 ……寂しいの?」
「 ええ、まあ」
「 …っと。あっさりしてるんだ」
「 ふ…」
龍麻の多少意表をつかれたような顔に、マサキは皮肉っぽい笑みを浮かべて唇の端を上げた。あぁこの男はこんな顔も出来るのか。そんな事を考えながら、龍麻はもしかすると俺たちは似ているのかもしれない、そんな考えをちらと頭の隅に浮かべた。
「 でも、孤独も悪くはないんですよ」
そしてそんな事を考えている龍麻を見透かすようにしてマサキは言った。
「 だってこうして貴方の夢を見られた時は、他の誰よりもきっと一番幸せなんですから」
「 ………」
「 何もしてくれなくていいですよ」
「 しないよ」
「 はい。勝手に夢見させて下さい」
「 ………」
そう言ってにこりと笑んだマサキの顔を、龍麻はちらとだけ横目で見て、後はぐっと唇を噛んだ。
無性に癪に障った。
何だ、ちっとも寂しそうではないではないか。
大勢に囲まれ孤独を感じている貴方よりも、自分のこの孤独の方が余程マシだ、そんな風に言われている気がしてならなかった。
「 何だよ…」
「 何ですか」
「 何でもないよ」
むっとして龍麻はまたふいとそっぽを向いた。遥か彼方に臨む地平線には相変わらず何もなくて、そんなただ真っ白な空間の中にバカみたいに立っている自分。ああすっかり目が冴えた。そう思いながら、龍麻はマサキからは努めて視線を逸らしながら、ただ前方の何もない景色をじっと見つめ続けていた。
|