夜の学校が怖いなんて言うのは女の子だけだ。
いつだったか忘れたけれど、誰かがそう言って笑っていた。
「 でも、俺だって本当は怖いんだよ。だから来たくて来ているわけじゃない」
「 君にも怖いものなんてあるんだ」
「 あるよ。当たり前だろ。君、俺を何だと思っているわけ」
「 救世主」
「 ……よしてくれ」
龍麻は目の前の相手にあからさまなため息をついて見せると、最早自分たち以外誰の姿もない廊下でかぶりを振った。
誰もいないのは当たり前で、時刻は深夜の3時を回ったところ、おまけに外はぽつぽつとした小雨が降っていた。闇のせいでその細い雨滴はよく見えなかったけれど、龍麻は大きな窓枠に肩を寄り掛からせてじっと校舎内から外の景色を見つめた。
「 緋勇君」
するとその傍にぼうとして立っていた相手が陽炎のような瞳を向けて言った。
「 それでも君は僕にとって特別な人なんだ」
闇-yamine-音
いつだったか仲間たちの間で「龍麻は自分たちが来て欲しいと思う時必ずやって来てくれる」と話題になって、当の龍麻は何とはた迷惑な事を言うのかと随分腹を立てたものだった。
龍麻は凄い、龍麻は特別。困った事、厄介な事があっても颯爽と現れて魔法のようにぱっと解決してくれる。簡単だ。普通の人間にはない特別な《力》を持った龍麻を仲間たち…殊に女の仲間たちなどは尊敬と崇拝の目で見やっていたのだ。
「 龍麻サンはいいっスね、モテモテで」
そんな時、その様子を眺めていた後輩の雨紋雷人が別段冷やかす口調でもなくそう言って話しかけてきた。雨紋はその金髪の派手な風貌や年齢に見合わず、他の仲間たちよりもどことなく落ち着いていて、一歩下がった位置から物事を見ているようなところがあった。だからこの時も龍麻をちやほやする女性陣に苦笑しながら半ば同情の意も込めて、彼女らが去った後さり気ない調子で龍麻に声を掛けてきたのだ。
「 ふざけんな」
それが分かっていてもその時の龍麻はどうにも無性にイラついていて、その大人な後輩に口を尖らせた。
「 ああいうのはモテてるって言うんじゃないよ」
「 じゃ、何なんスか?」
「 知らないけど…。とにかく違う」
「 ハハッ。ま、素直に喜ぶのもむかつくってところでしょうかね。神様仏様龍麻サマって扱いじゃ」
「 ………」
「 そうやってむっとしてるとこはまるっきりのガキみたいなのにナ」
「 お前は俺に何が言いたいんだ」
「 いやぁ、ま、龍麻サンを慰めたいだけなんスけど」
「 いいよ」
「 まあまあ。……あと、もう1コ」
自分からそっぽを向いてしまった龍麻に雨紋は少しだけ慌てたようになりながら両手を振った。それから今度こそ困ったように逆立つ髪の毛をバリバリとかきむしると、雨紋は少々言いにくいと言わんばかりの様子でぼそりと口を開いた。
「 龍麻サンが誰かれ構わず引き寄せるってのは、もうこりゃ貴方の魔力ってのは否定しようがない事ッスから。諦めて欲しいんスけど」
「 ……何だよ?」
「 貴方の事を崇拝してんのは何も味方だけじゃないって事」
「 ん……」
「 この間の…。あいつ、顔覚えてます? 俺ンとこのガッコの。亮一」
「 ……ああ、あの鴉飼ってる人?」
「 飼っ…。まあ…あながち間違っちゃいませんがね」
「 それが?」
「 最近、また黒くなってきましてねぇ?」
「 何?」
龍麻が途端嫌そうな顔をすると、雨紋は今度こそ破顔して首を横に振った。
「 いや、もうそんな悪さはさせませんよ。本人にそんな気もないみたいですしね。…ただ、アイツって神出鬼没なんだなぁ、それで龍麻サンがびびんなきゃいいなって。いちお、忠告」
「 ……よく分からない話だな」
「 まあそのうち分かりますよ」
とりあえず、1人の時は注意しておいて下さい。
雨紋がそう言って忠告してくれた事を、しかし龍麻はその後すぐに忘れてしまった。毎日いろいろと大変だったし、そもそも龍麻は人の顔を覚えるのが苦手だった。だから以前起きた事件で遭遇した雨紋のクラスメイトの事など、正直「黒い」という印象しかなかった。彼が何を考えているかなど知らない。雨紋が何を心配しているのかなど見当もつかない。…というよりも、「考えたくない」というのが正しいところだった。
これ以上周辺が騒がしくなるのは勘弁して欲しかった。
「 そう思っていたのに…」
龍麻は相手に言うでもなくぽつりと呟き肩を落とした。
「 突然人の学校の校舎。しかも夜中にやって来られたんじゃさすがに面食らう」
窓際に寄りかかる龍麻とは違い、目の前の青年ー唐栖亮一はただ廊下の真ん中に突っ立っているだけだった。そして傍にいる龍麻を見やっている。ヌーボーとした雰囲気にあわせてその長い黒髪に陰鬱な表情は夜の校舎では一際「不気味」と言って良い。実際見てくれはどちらかといえば整った美形の範疇に入るのだろうが、生憎龍麻にはそう言った美的感覚は備わっていなかった。だから彼の独特の空気などありがたくも何ともないわけで。
ただ突然自分の目の前に現れたこの男を「黒い」と思った。
「 僕を不気味というけど、独りでこんな所にいる緋勇君だって余程普通じゃない」
そんな勝手な感想を抱かれた当の唐栖は、しかし別段気分を害した風もなく言った。
「 それに面食らうと言ったけど、あまり驚いていないみたいだ」
「 まあ…こんなにしょっちゅう異常な事が起こればな…」
「 よく来るの?」
「 何が」
「 独りで」
「 学校に? 来るよ」
視線など合わせてやるものかと思いながら龍麻が適当に答えると、それでも傍の気配はふっと笑んだ。
だからか、龍麻はかったるそうにしながらも責めるように言葉を継いだ。
「 君は俺のストーカーみたいだから、俺が時々こうしている事なんてとっくに知ってると思ってたよ」
「 知らない…。知っていたらもっと早くにこうしていたと思うよ」
「 あ、そ」
「 カラスたちが教えてくれたんだ。今日は雨だろう? 雨宿りしている彼らが噂していたから」
「 何を? 俺が夜の校舎で独りウロウロしてるって? …嫌だなあ、そんな事噂されているなんて」
龍麻が自嘲したように言うと唐栖はすぐに否定した。
「 違う。彼らはそんな無粋な言い方はしないよ。…君が闇に呻く異形たちの苦痛を鎮めていると」
「 ………」
「 ……怒ってるのかい?」
不意にきっとした視線を向けてきた龍麻に唐栖は意表をつかれたようになりながらも、以前唇に薄い笑みを貼り付けたままそう訊いた。
龍麻はそんな唐栖をじっと見やりながら微かに眉をひそめた。
ざわめく気持ちを表に出してはいけないと思いながら、夜の静けさがそうさせるのだろうか、龍麻はいつになく不機嫌な口調で答えた。
「 眠れないんだよ」
唐栖は何も言わないだろう。何故かそれを確信したから龍麻はすらすらと続けた。
「 自分が眠れないから外に出ているだけなんだ。こういう日は特に…煩いから。だから」
唐栖の視線を真っ直ぐに捕らえながら龍麻は言った。
「 だから俺は救世主なんかじゃないよ……悪いけど」
「 ………」
「 君は色々と世の中に不満があるみたいだし、もしかするとそれを俺が何とかしてくれると思ってるのかもしれないけど」
「 ………」
「 ひどい勘違いだよ」
「 勘違いなんかしてないよ」
これにはすぐ反応してきた唐栖にいよいよカチンときて龍麻は声を荒げた。
「 してるんだよ…むかつくなあ…」
「 してるよ…。現に僕を救ってくれた」
「 救ってない」
きっぱりと言う龍麻に唐栖もいよいよ笑った。声を立てはしなかったけれど、口元の笑みがはっきりと形を成してふわりと今までと違った空気を醸し出す。そうすると不思議なことに、あれだけ闇に埋もれ不気味なだけだったただの「黒い」相手が急に違った風に見え出した。
ああ、確かにコイツは人間なのだと龍麻は思った。
「 今までは誰も僕たちを見てくれなかった」
唐栖が言った。
「 誰も気づいてくれなかった。闇の中で苦しかったんだ」
「 ……俺は何もしてないからな」
「 ふ……」
頑迷に答える龍麻に唐栖は今度こそ声を漏らし笑った。
それから唐栖は龍麻がその姿を認めてから初めて身体を揺らし、すっと足を動かした。
そして龍麻が「あ」と思った瞬間には、彼はもう龍麻のすぐ目の前にいた。
「 ……緋勇君」
そうして龍麻の首筋に白過ぎるその長い指先を持っていきながら唐栖は言った。
「 君がどう思おうと君はやっぱり特別な人だよ…」
「 ………」
「 悪いけど」
「 そう思うなら……」
そんな事言うなと、そう言おうとした瞬間、しかし唐栖の姿はそのまま消えた。
「 あ……」
一瞬だけ、バサバサと黒い羽が辺りに舞い散ったような気がしたけれど、咄嗟に見た足元にそれらしきものは落ちておらず、開いていない窓にその飛び去った姿も認められなかった。
「 ……何だよ」
暗い暗い夜の校舎の中、龍麻は独りで長い廊下の片隅に立ち尽くしていた。最初からそうだった。ただ胸を騒がす耳障りな音に誘われて龍麻はそこに来ただけなのだ。最初から龍麻は独りで立っていたのだ。
そのはず、なのだけれど。
気づいた時にはあれほど騒がしかった闇からの音たちも、今はもう周囲のどこからも感じ取れなかった。
「 ……迷惑なんだよ」
確かに触れられたはずの首筋に手を当てて龍麻はぽつりと呟いた。
救世主なんて、特別なんて言葉は嫌いだ。
「 ………」
それでも今、綺麗に消え去ったあの音がなくなった事で、龍麻は先刻まで重く心に圧し掛かっていたものがあの羽音と共に運ばれていった事を知った。
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