宵月夜
きっとその日は機嫌が良かったのだろう。労せずして入り込めた彼の結界に龍麻は「おや」と思いつつも悪い気がしなかった。
「 よお龍麻。ここ来てちっと付き合えや」
案の定だ。目的の人物は中央公園にあるベンチの上で胡坐をかき、いつものとっくりを片手に既に酔いどれ状態だった。夜はまだこれからだというのに既に完全に出来上がっている。元は名のある高僧だと聞いたが、こうして見るとただのファンキーな「クソジジイ」にしか見えない。
もっとも、そんな道心だから龍麻はついこうして顔を見に来てしまうのであるが。
「 いっつも飲んでるね」
「 酒は俺の生き甲斐だからな」
「 いいねえ、生き甲斐があって」
「 かっ、若いくせに情けねえ事言ってんじゃねえ。それより、ほれ早く座れや。1人酒にもそろそろ飽きてきたとこだ」
自分が座っている場所の前をバンバンと叩き、道心はそう言って豪快に笑った。龍麻はおとなしくそれに従ったが、ふと辺りを見回すと不思議そうに口を切った。
「 劉はいないの?」
「 あいつぁ〜、今日は市中見回りだな」
「 え、あいつそんな事してるのか…。声掛けてくれればいいのに」
真面目な弟を思って龍麻がぽつりと呟くと、道心はヒッとしゃっくりと混ざり合ったような笑声を上げた。
そうしてもう一度勢いよく杯を煽ってから言う。
「 んな事されたらうぜえだけだぜ。いいんだよ、奴ぁ独りになりてえ時に行くんだから」
「 え…」
「 逆に人恋しい時ァ、呼びもしないのにおめェン所来るだろ?」
「 そんな事は…ないよ。劉は俺には全然甘えない。逆に俺ばっかり甘えちゃって」
「 ほお?」
道心が興味深そうに細い目を一層細めた。龍麻はそちらには視線をやらず、黙って道心に次の酒を注ぐとぽつぽつと話を続けた。こういう間は好きだと思った。
「 俺、一人っ子だから兄弟っていうのにはちょっと憧れてたんだ。……まぁ実際に欲しいのかって言われると、どうなんだろうって気もするけど」
「 何でだ」
「 だって自分の弟か妹か…。まあ兄貴でも姉貴でも何でもいいけど、俺の兄弟ってだけでいろいろ大変そうだもん。そういう目に遭わせないで済むなら、まあ兄弟なんかいなくてもいいかなって」
「 けど、憧れてたんだろ」
「 うん。だからさ、劉が俺のことアニキって呼んでくれた時、すっげードキドキした」
「 へっ…。そうか」
「 うん」
どことなく楽しそうな笑いを閃かせる道心に、つられて龍麻も一緒に笑った。
この東京に来てから龍麻は実に様々な人間と出会ったが、兄弟のような親しみを持って自分に接近してくれたのは劉が初めてだったかもしれない。だから、時々は今日のように誰からも離れて孤独を求める劉だけれど、ふと思い出した時に帰りたくなる場所が自分ならば嬉しいのだがと心より思う。
まあ、仮にそれが叶わなくとも。
「 ……あいつにはここもあるし」
「 んあ?」
「 劉だけじゃないや。俺にとってもここは居心地がいい」
「 何だ突然?」
龍麻の言葉の意味を掴みかねるように道心は苦く笑い、誤魔化すように酒を煽った。龍麻はそれを眺めながら淡々と言った。
「 突然じゃないよ、前から思ってた。落ち着くんだ、ここに来ると。…道心の爺ちゃんがいるから」
「 俺か? へっ、俺ン所に来てもたかられこそすれ、いいもんは何も出ねえぞ?」
犬ころってのは一度エサやると懐きやがるからなぁ。
道心は茶化したようにそう言い、ふいと龍麻から視線を逸らしてしまった。初めて会った時に色々と龍麻に与えた物の事を言っているらしい。そんな物目当てで龍麻がここに来ているわけではない事は百も承知で道心はそんな事を言っている。案外照れ屋なのかもしれないと龍麻は思った。
「 なあ爺ちゃん」
「 ん…おい赤子じゃあるめえし…。何がしてえんだ、おめェは?」
「 膝枕」
龍麻は道心と自分を挟んでベンチに置いてあったとっくりを胸に抱くと、ゴロンと横になって目を瞑った。
頭は道心の膝の上に乗せて。
「 龍麻、おめェなら幾らでも喜んで膝貸してくれる別嬪の姉チャンが傍にいるんじゃねえか? 幾ら何でもジジイの膝枕じゃイイ夢見れねえだろう」
「 イイ夢なんか見れた試しないよ。結構毎回吹っ飛ばされてた」
「 ん…?」
目を瞑ったままそんな事を口にした龍麻に道心の動きがぴたりと止まった。
龍麻はとっくりの口の部分をを両手でぎゅっと掴みながら続けた。
「 俺の爺ちゃん…血は繋がってないけどね、いたんだ。子どもの頃、俺に拳法とか生き方とかをちょっと教えてくれた人。……本当にちょっとだけね」
「 ……そういや言ってたな、そんな事。鳴瀧に会う前だろ」
「 ずっと前だよ」
「 何モンだ、そいつ?」
道心の訝しむ声に龍麻は喉の奥でくっと笑った。
「 知らないよ。爺ちゃんは爺ちゃんだ。俺とまともな話が出来た唯一の人……」
「 ………」
龍麻の答えに道心は沈黙していた。実際何を訊かれても龍麻は答えられなかっただろう。昔の話を人にする事は滅多にないが、それは話したくないからというより、自分自身あそこに置かれていた当時の立場がよく分かっていなかったからかもしれない。
あの頃から自分は確かに「選ばれた者」としての教育を受けていたのかもしれないが。
「 爺ちゃんさ、凄く厳しい人だった。基本的に容赦ないんだよな、俺に。俺のこと分かってるはずなのに、敢えて冷たくしてた。突き放したり、蔑んだり。人間の嫌な面とかいっぱい見せてくんの。だからこんな捻じ曲がった人間になっちゃったんだよ」
「 おめえが捻じ曲がってたら世の中の人間の半分以上は曲がりすぎて折れちまってんぞ」
「 それ誉めてんの」
「 珍しくな」
道心の微かな笑いと共に吐き出されたその台詞に龍麻も思わず微笑んだ。そうしてやっと目を開くと、もうとうにこちらを見ていただろう破戒僧の奥深い眼差しを見つめ、龍麻は言った。
「 でも俺、知ってたんだ」
「 何を」
「 爺ちゃんが俺にどんなに辛く当たっても冷たくても。そんな爺ちゃんが影で凄く辛かったってこと」
「 ………」
「 ま…それも作戦かもしれないけどね?」
「 はっ」
龍麻のおどけたような物言いに道心は半ば小ばかにしたように鼻で笑った…が、しかしその後はまるで慰めるように片手を差し出し。
龍麻の額をぽんぽんと優しく叩いた。
「 龍麻よ。おめェはおめェに辛く当たった爺ィの事を恨んじゃいないのか」
「 ううん。だってさ」
道心の問いに龍麻はすぐに首を振ると、自分の額に手をやってくれた道心のしわがれた手にそっと触れた。
「 俺が眠っている時は本当に…優しかったから」
「 ん…」
「 それにこうやって、頭も撫でてくれた」
「 ……ちっと甘えさせちまったか」
しまったというように口元を歪めた道心に龍麻は今度こそ思い切りの笑顔を向けた。そうして再びゆっくり目を閉じると、大きく息を吐き出し「たまにはいいじゃん」などととぼけてみせた。
「 かっ。やっぱしまだまだテメエはガキだな。でっかいガキだ」
「 うん…。俺って、カワイソウなガキだ」
「 テメエで言うな」
「 ……眠っていい?」
「 ………」
道心の答えを訊く前に龍麻はもう一度目を閉じたまま言った。静かな抑揚のある声だった。
けれどどこか幼い。
「 今夜だけさ、爺ちゃん…。ここで寝てもいいかな?」
「 ああ…」
だからだろう、道心はついそう答えてしまった。小煩いガキは劉1人でたくさんだと思っていたのに、ましてや自分を置いて先に逝ってしまったあの男の息子なぞを、どうして。
そう、思っていたのに。
「 まったく……」
膝から全身へ、温かい体温が浸透していくのを感じながら、道心は未だ更け切らぬ夜の空を見上げてぽつりと毒づいた。ここにいる龍麻にでも、勿論自分自身に対してでもない。こんな風に酔い切れない時間を自分に与えた昔の友人には、たまに愚痴を言っても許されるだろうと思いながら。
「 弦麻よ、やっぱりテメエはバカだ。こんな倅を独りにしやがって……」
気づくともう龍麻はすーすーと心地良い眠りを貪っていた。あまり眠っていなかったのだろうか。育ての爺と面影を重ねられるのは癪に障ったが、それでも今宵ばかりは目を瞑るしかないなと、道心は使い古しの杯に新たな酒を注いだ。
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