遭うは別れの基(もとい)
その建物へ入ったのは本当にただの気紛れからだった。
龍麻はその日新しい異形を3体潰したのだが、それはいずれも初めて見るモノたちばかりだった。
そのせいというわけでもないのだろうが、地上に戻った時はひどく疲弊していた。だから仲間たちの誘いも断って、龍麻は1人足早に家への道を急いだのだ。
それが何故、こんな所に来てしまったのか。
「 間もなく閉館時間です」
入口で呆として立ち尽くしている龍麻に、カウンターの所にいた係の者らしい女性が控えめな声で言った。
「 あ…どうも」
龍麻は曖昧に返答をしてから、ゆっくりとその整然と立ち並ぶ本棚へと足を向けた。
近場の区立図書館だが、こうして入るのは初めてだ。
「 へえ…」
感心したように呟きながら、龍麻は縦長に並ぶ本棚の列を順番に見て回った。元々本は好きで、昔はよく家にあった物や買い与えられた物を片っ端から読んだものだ。幼い頃から他の子どもとは違う一面―それも何か良くないもののような災いを感じさせる能力―を持っていた龍麻は、「じっとしていなさい」と言わんばかりに、養父母から本を渡される事が多かった。龍麻はそれを黙って受け取り、そして文字を追った。それは退屈な作業ではなかった。むしろ視界の端に映る「自分にしか見えないモノ」を捉えずに済む、それはなかなかに良い遊びだったのだ。
そういえば、ここに来てからめっきり本を読まなくなった。
「 もう見えていてもいいんだもんな…」
ぽつりと呟き龍麻は自嘲した。以前はあれほど避けて通っていたものを、今は自ら率先して捕らえ、そして滅ぼしている。それが自分に求められている。何だか嫌味な気持ちがして龍麻ははっとため息をついた後、本棚を離れ読書スペースのある開かれた窓際の席へと足を向けた。
「 あ……」
そこで龍麻は思わず声をあげた。
「 あ…んっ、あぁッ、あッ」
「 ………」
長く白い足を惜しげもなく開き、そして身体全体を激しく揺らしている女。衣服はかろうじてその身に引っかかっているものの、相手に貫かれている場所は当たり前だが露になっている。ツンと女の体臭が鼻を掠めた気がして、龍麻は無意識に眉をひそめた。
「 ああッ」
おいおい、幾ら一番奥の席だからって。
龍麻は半ば呆れた気持ちでその2人の姿を観察した。こういう場面を見るのは初めてではなかった。夜の公園や暗い映画館の中、時には学校の屋上で、龍麻は男女のこうした濡れ場をよく目撃した。多分、他の人間より発見する率は高いと思う。親友の京一などに話して聞かせると、「俺はそういうの未だかつて一度も見た事ねェ!」とまるで龍麻が悪者のように責め立て、そして「ズルイ」とダダをこねた。
そんなに見たいものでもないんだが。
「 おい」
その時、龍麻には後ろを見せている格好の男が不意に低い声を発してきた。先刻まで散々喘いでいた女と違い、無言で黙々と作業をしているような、ただ身体を揺らしていただけの男。
龍麻ははじめ、自分が話しかけられているとは思っていなかった。
「 おいってんだよ。テメエだ、テメエ」
「 え…ひゃあっ!」
女も不思議に思ったのだろう。ぼやけた視界で薄っすらと目を開き、自分たちのすぐ後ろにいる龍麻の存在に気づいて突拍子もない声を上げた。よく見るとそれ程こういう事に慣れているという感じの女性ではない。男が乱暴に性器を抜くと、彼女は泣き出しそうな真っ赤な顔で乱れた衣服を満足に整えもせずに無言でその場を去って行った。
龍麻はその光景をただ黙って見つめた。
男は龍麻に背中を向けたまま、ひどくゆったりとした動作でズボンのベルトを締めている。
思えばこの格好、高校の制服ではないか? 龍麻は眉間に皺を寄せ、相手がこちらを振り返るのを待った。
「 堂々とした覗き魔だな?」
くっくと笑って男は言った。くるりと振り返ったその眼に龍麻は思わずあっと声をあげそうになった。
知らない男だ。けれどコイツは明らかに《力》を使える。瞬間的に龍麻はそう思った。
「 …ごめん。見る気はなかったんだ」
努めて冷静なフリをして龍麻がそう言うと男はまたもはっと鼻で笑い、傍にあった椅子を引くとどかりとそこに座った。その背後には丁度龍麻の背丈半分くらいの本棚があり、またその向こうに幾つかの自習スペースが続いている。ちょうどここは図書室の中でも一番の死角というわけだ。
龍麻はそこの更に一番端にあたる窓の前で男と面と向かう形を取っていた。
龍麻はこちらを見やる男をじっと観察した。赤い髪を1つに結わえ、不敵な笑みを口元に浮かべた鋭い眼光を持つ男。高校生とは思えぬその厳とした顔つきに龍麻は何か恐ろしいものと対してしまった感覚を抱いた。
だからこそ思い切って訊く気にもなったのかもしれない。
「 あんた…敵?」
「 ああ?」
男は龍麻のその唐突な問いに片方の眉だけを上げると、不審な人間を見るかのような目を向けた。
「 テメエは初対面の人間に向かって何を言い出しやがるんだ?」
「 だって…あんた、普通の人間に見えないからさ」
「 そういうお前もバケモンだろ?」
「 え……」
その台詞にどきんとして龍麻が目を見張ると、その赤い髪の男は尚も口の端だけで笑い続けた。
「 ――だが、間抜けだな。俺が背中を向けているうちに攻撃しとけば良かったのによ」
「 ……やっぱり敵なんだ」
参った。龍麻は心の中で嘆息した。
今日は新しい敵に既に3体も遭っているのだ。その上こんなボスキャラ級の、しかも人型に会ってしまうなんて運が悪いにも程がある。
龍麻が辟易した気持ちで沈んだ顔をしていると、男は自分こそが迷惑だと言わんばかりの顔で肩を竦めた。
「 さっきの女、珍しくイイ代物だったんだぜ。慣れてねえとこがまた俺好みだった。テメエのせいで中途半端なままに逃げられちまって、どうしてくれる」
「 知らないよ。また会えばいいじゃん」
「 名前も知らねえ」
悪びれもせず男はそう言い、ふいと横を向いて机向こうの窓の外へと視線をやった。龍麻も何となくそちらへ目を向けたが、何だか疲れてしまってノロノロと男に近づくとその隣の椅子に腰をおろした。
男はそんな龍麻を何故かひどく驚いたような目で見つめた。
「 ねえ。あんたは名前何て言うの」
訊くと男は首をかしげた後、不意に龍麻の頬に触れてきた。龍麻は慌ててそれを振り払い、不快な顔を全面に押し出した。
「 やめろよ、俺はそっちの趣味はないんだよ」
「 あん? 触っただけだぜ。……人間かと思ってな」
「 ……お前、かなり嫌な奴だろ」
龍麻は露骨にむっとした顔をして自分の頬や首筋を撫で擦る男を睨みつけた。
男はどうとも感じていない風だったのだが。
「 天童だ」
そして男は名乗った。龍麻は「ふうん」と言った後、「俺は龍麻」と自分も名乗った。
それから本当にやめろと言うように天童の手を掴み自分の膝の上で拘束すると、侮蔑するように言葉を吐いた。
「 天童は何でこんな公共の場所で知らない女の人とエッチなんかしてたの。恥じらいとかないの」
「 好みの女がいたら抱くってのの、一体どこが恥なんだ?」
「 場所の事を言ってるんだよ。あと、手順とか」
「 手順?」
天童は龍麻の話を面白そうに聞いてきた。すぐに逆らって離すかと思われた、龍麻によって捕まれた手もそのままにしている。
龍麻は続けた。
「 だからさ、本当にその人のことが好きなら、そんな即物的にすぐヤるんじゃなくてそれ相応にしなきゃならない事があるんじゃないの。ましてや名前も聞かないで脱がしちゃうなんてさ…」
「 向こうが抱いてくれって脱ぎ出したんだぜ?」
「 ええ〜…あのさっきの人が?」
俄かには信じられない面持ちで龍麻は隣に座る男を見つめた。確かに天童をイイ男だとは思うが、如何にも初心そうなあの女性が自らこんな所で正体の知れぬ男を前に肌を晒したりするだろうか。
「 世の中の女は皆俺に仕えるようにできてんだな」
天童は自慢気にそんな事を言った。あ、こういうところは何となく子どもっぽい。龍麻は偉そうにそんな事を言った天童の顔をまじまじと見つめた。
「 俺は家に優秀な血を残していかなきゃならねえからな。女を抱くのもただの娯楽ってわけじゃねえんだぜ」
「 何それ」
「 完璧な奴を見つけるのは楽じゃねえって話だ」
「 完璧、ねえ…」
「 だから初めて会った奴だろうが何だろうが、良さそうだと思ったら唾つける。お前、知ってるか。遭うは別れのはじめ、だ」
天童はそんな物の分かったような言い方をし、どんな奴とも会ってしまえば自分や相手が死のうが生きようが、いずれは別れるものなのだと語った。
だから自分はその偶然の出会いを逃がしたりはしないと。
「 ……そういうの、俺は興味ないや」
何となく暗い気持ちがして、龍麻は天童のその話から逃れるようにそっぽを向いた。
「 そういやァ…」
しかしふと、天童はそんな龍麻の顔を覗きこむようにしてじっと見つめてくると、いやに感心したような口ぶりで言った。
「 テメエは整ったイイ面してやがるし、この俺を前にしても動じない。肝が据わってるな。ちっとイカレてる感じもするが、頭が悪いって風でもなさそうだ。身体も丈夫そうだし」
「 ……何が言いたいんだよ」
「 割と好みだ」
あっさりとそんな事を言った天童に、龍麻はバカにするように笑って見せた。
「 でも子どもは産めないからね」
「 惜しいな」
くくっと小さく笑い、天童はそこでようやく龍麻に掴まれていた手を振り解いた。何となくそれを「あ」とした思いで見つめた龍麻だが、すぐに思い直したようになるとふうと嘆息する。
それで自分はどうしてこんな所へ来たんだったか。
「 俺はな」
すると先に天童が言った。
「 こんな所へ来たのは初めてだ。読みたいモンをこんな所でわざわざ借りたりなんざしねえし、大体、ここは俺ン家から遠いしな」
「 はあ…」
何が言いたいのかと思って怪訝な顔をしていると、天童は不意に不穏な空気を漂わせると言った。
「 だがな、俺の本能が言いやがった。ここへ行けと。ここに俺の運命を変える何かがあるからと」
「 ………」
「 テメエ。龍麻。テメエは何だってここへ来た?」
「 お、俺は…」
それこそが今考えていたことなのだと言いそうになり、けれど龍麻は慌てて口を噤んだ。冗談ではない、今日はもう3体も。いや、昨日も一昨日もそのずっと前から。
自分は戦いたくもない戦いをしてきたのだ。
何だって。
「 ……俺はここ近所なんだ。趣味は読書だし…ただ寄っただけだよ」
「 ………」
遭ったばかりだというのに、天童は嫌いではないと思った。いや、むしろ好きかもしれない。だから争いたくないと思った。大体名前を聞いてしまったし、それに今日は本当に戦いたくはないのだ。もし仮にこの天童が自分の敵だったとしても、手に触れてしまった今日くらいは。
「 ……はっ」
けれどそんなぐるぐるとした思考に囚われていた龍麻に、天童は暫くは黙り込んでいたもののすぐに笑みを湛えた顔に戻ると言った。
「 バケモンのくせして趣味は読書だ? 似合わねえな」
「 なっ…何だよ」
驚いて抗議しようとしたが、咄嗟に龍麻は息を呑んだ。
「 んっ…!」
ふと顔を近づけてきた天童に顎先を捕らえられ、そして唇を重ねられてしまったから。
丁寧に触れられ、何度か啄ばまれた後に唇を吸われた。それから開いた唇の隙間から天童の進入をあっさりと許した龍麻は、その熱に溺れるようにしてゆっくりと目を閉じた。
きっとコイツは敵だ。本能でそれが分かっているのに逆らえない。従順。支配されそうになる。自分は女などではないのに。
「 ふ…」
そんな事を思いながらただ相手に与えられる口付けに溺れていると、不意に股間に触れられて龍麻はぎょっとして目を開いた。
「 ちょっ…」
「 静かにしろ」
「 ふざっ…! おい、どこ触って…」
「 男でも試したらガキできねえかな…」
「 はあっ!?」
ごそごそと人のズボンのベルトに手をかけ始める天童に龍麻はすっかり仰天し、先刻まであんなに甘い口付けに酔っていたのにもう気持ちはすっかりと冷えてしまった。
「 俺をさっきの奴と一緒にするな!」
龍麻は叫びながら椅子を蹴って立ち上がると、荒く息をついて座ったままの天童に怒りの目を向けた。カウンターの方から驚いたような声と共にこちらに駆け寄ってくる女性の係員が少しだけ気になったが、実際はそれどころではなかった。
「 ったく、いきなり叫ぶか…。めんどくせえ奴だ」
天童はそんな龍麻に呆れたような態度を示すと、ぽりぽりと首筋を掻きながら不遜な物言いをした。
「 同じじゃなきゃいいのか? なら場所変えようぜ。お前が望む手順ってやつも踏んでやる」
「 なっ…」
「 名前はもう聞いたからな。次は何をしたらいい? テメエとヤる為ならちっとくらいの事はやってやる」
「 ………」
「 言っただろうが。俺はこういう偶然を大事にする男なんだよ」
「 ………」
「 運命って言ってもいいぜ」
「 ……だから俺は子どもが産めないんだって」
無理やりにキスをされて迫られて、怒っていたはずなのに声は情けないほどに萎れていた。相手の態度に拍子抜けしたのかもしれない。
いや、それとも。
「 試してみなきゃ分からねえだろう」
どことなく脱力の龍麻に、天童は尚もそんな事を言った。からかわれているのだろうかと思った。
「 うまくいったらできるかもしれねえぜ」
「 できないっての…」
「 そうか?」
「 そうなんだよ! しつこいぞ、いい加減!」
フリでも何でも強がっていないと保たない気がして龍麻は虚勢を張った。少し離れた所から係の女性がちらちらとこちらに視線を送ってきているのが分かる。
龍麻は声のトーンを抑えて言った。
「 まったく…バカだろ、お前…」
「 フン…バカときたか」
「 そうだよ…っ。そんなあり得ない事平然と言ってさ…」
しかしそう言った龍麻に天童は笑って言った。
「 分からねえぜ。……テメエはバケモンだからな」
「 ……!」
にやりと笑って言った天童に龍麻の胸の奥がちりっと泣いた気がした。別段嫌味を感じないその言い方だったが、ああ、そうだ。自分はこの天童という男よりも余程正体の分からない、不気味な存在なのだと改めて思った。
「 龍麻」
すると天童が言った。
「 テメエの器を抱えられるのは、きっと俺だけだ」
「 ………」
分かって言っているのではないだろう。それでも龍麻はぎくりとして身体を震わせた。
そんな龍麻に構わず天童は言った。
「 俺に預けろよ。悪いようにはしない」
「 ……俺は、ただ」
ここには、気紛れで来ただけなんだ。
「 ………」
その言葉は最後まで出なかった。龍麻はただゆっくりと首を横に振り、それから天童の腕に少しだけ触れると、後は「ごめん」と言ってその横を通り過ぎた。
係の女性はまだこちらを見ている。そちらを気にするのは止め、龍麻はともかくも天童から離れた。ずくずくと身体全身を襲うこの高揚感は何なのだろうと訝しみながら。
「 龍麻」
天童が呼んだ。
「 俺たちはまた会うな」
背中に掛けられたその声はどことなく清々としていた。
「 ……うん」
龍麻は相手に聞こえたか聞こえないかくらいの小さな声でただそれだけを答えた。
遭ったとしてどうだというのだろう。遭えば別れが待っており、そしてその別れはひどい辛さが伴うものだと分かっているのに。
天童の予言など、自分の勘など外れてしまえばいい。そう思いながら、それでも龍麻は去り際もう一度振り返ってもう当にこちらを見据えている天童を見つめてしまった。
「 あ……」
「 またな、龍麻」
天童が言った。
大人びたその顔が、今は何だか同じ高校生に見える。
ただの、普通の。
「 また……」
逃げるように踵を返し、龍麻はその場を後にした。どきどきする鼓動を抑えながら、悲しみに膨れ上がりそうな暗い胸の内に気づかぬフリをしながら。
自分は今日、3体もの異形を殺してきたのだ。それなのに今は違う悲しみでこの胸はいっぱいになっている。嫌な事だと龍麻は激しくかぶりを振った。
「 でも…会いたい…」
けれど龍麻は思わずそう独りごち、勝手に熱くなりはじめた身体をぎゅっと抱きしめた。
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