レスト
気づくとそこにいた。
「 誰…?」
はっきりとしない視界の中で龍麻は突然自分の目の前に現れたその人影に目を凝らした。よく見えない。分からない。けれどいつも周りにいる仲間たちでない事は確かだ。
そうならない為に自分はここに来たのだから。
「 そこにいる人、誰?」
長い髪。
こちらを卑下するようにやや上がっている口の端。
それから、鋭い眼光。
「 ああ…見えてきた……」
龍麻は自分でも知らぬ間にそう声に出していた。相手との距離を保ったまま、それでも目の前のその影から目を離せない。龍麻は相手の出方を待った。向こうがこちらを凝視しているのは間違いないから、何か言ってくるかもしれない。何か言ってきて欲しい。
そう思ったのだ。
「 緋勇龍麻」
思った瞬間、相手はそう言った。張りのあるよく通った声だった。
「 ようやく……お前は俺を認めたな」
龍麻が答える前に目の前の主はそう言った。それからその人物は何もないはずの空間にいきなりすっと腰を下ろした。
「 あ…っ」
そのまま尻餅をついてしまう…そのはずが、しかしその者がその仕草をした瞬間、ほぼ同時にそこには周囲の空間と同じ色合いをした「見えない椅子」が出来上がった。龍麻は驚いて更に目を凝らしてその人物を見やった。
ここは何もない無の空間で、色は空の色が一色あるのみだ。それも真っ青な晴れ渡ったもの、というよりは、どことなく濁った色彩のそれが続くのみである。龍麻は所在ない気持ちになりながらも、その空間にいる自分と相手の存在だけを頼りに一歩前へ前進した。
「 ここは何処?」
「 知っていて来たんじゃねえのか」
呆れたような声に龍麻は少しだけ困った顔をした。
「 ごめん…そのはずだったんだけど…。人がいる所に来たのは初めてだよ。知らないで来た。気づいたらここにいて」
「 はっ、何だそりゃ」
「 いつもは…誰もいないはずなんだけど」
「 テメエが見えていなかっただけだ」
男はそう言うとふいと横を向き、やはりどことなく嘲笑するような笑みを浮かべてから何もない空間を見上げるように視線を宙へ移した。
その横顔は龍麻の視界にゆっくりとだが確実に映し出されてきた。男は毅然とした迷いのない表情をしていた。少なくとも龍麻にはそう見えた。
自分はこの人を知っているのだろうか。
「 何処かで…会った?」
龍麻は更に数歩近づいて訊いた。
「 ………ここは何処なのかな」
男はそんな龍麻に対し、数秒ほど黙った後素っ気無く答えた。
「 ………さァな」
「 俺のこと…何で知ってる?」
「 あ……?」
「 さっき名前呼んだだろ」
「 あァ……」
どうでもいい事のように冴えない返事をしてから、男は再び視線を龍麻のところに戻し、「こちらに来い」と言わんばかりの顔で顎だけを動かして指図してきた。龍麻が素直に近づくと、男はつまらなそうにしながらも再度顎をしゃくった。
「 座れよ」
「 ここに?」
「 そうだ」
「 ……椅子は?」
「 お前が座ろうと思えばそこに出来る。いいから早くしろ」
「 …………」
随分偉そうな奴だなと思ったが、それでも龍麻は黙ったままとりあえず言う事をきいた。何もない場所に屈み込むなど、やはりそれなりに思い切りがいったが、信じて腰を曲げると本当にその場に「見えない椅子」は出来た。視覚で捉える事はできないが、確かに龍麻を支える何かがそこには出来たのだった。
「 あると思えばあるもんさ」
男は言ってここで初めて楽しそうにくっくと笑った。
「 ここはそういう所だ。あると思えば何でもある。出来ると思えば何でも出来る。魔法の国だ」
「 便利だね」
無感動な口調で龍麻が答えると、男はちらとそんな龍麻を見やってから「ふん」とつまらなそうに鼻を鳴らした。けれど不意に両手を広げると、実に豪快な調子で言い放った。
「 お前の欲しいモンを出してやる!」
「 え……?」
そして途惑う龍麻ににやりと笑いかけると男はそのままの勢いで「甘ったるいモン!」と宙に向かって大声で叫んだ。
すると上空からどさどさ霰のように龍麻の好きな甘い物…色取り取りのケーキが落ちてきた。それはしばらく続き、地の色が花畑のような状態になってしばらくしてからようやく止んだ。……もっともその勢いと量のせいで、殆どのケーキはべしゃりと崩れた不恰好なものになってしまったのだが。
「 ………何コレ」
「 遠慮すんな。好きなだけ食え」
男は嬉しそうにそう言って笑った。龍麻は少しだけ嫌そうな顔をしてから男を顧みて口を尖らせた。
「 こんなの食べられないよ。もっとそっと落としてくれなきゃ」
「 贅沢言ってんじゃねェよ。食えれば何でもいいだろうが。お前、こういうの好きだろ?」
「 ………何で知ってるの」
「 …………」
山積みのケーキを見やりながら龍麻は未だ怪訝な顔を崩さずに訊いた。
「 何で俺の名前知っていたの。何で好きなものまで知ってたの。何で俺はここに来たのかな。ここは何処なの、一体何なの」
「 煩ェガキだぜ……」
「 お前だって高校生だろ。その制服。何処の学校」
「 どうでもいいんだよ、そんな事は」
「 よくないよ、気になるよ」
「 テメエが勝手に来たんだ」
ぴしゃりと言って男は龍麻を黙らせると、すっと立ち上がって傍に落ちたケーキの欠片を拾い上げた。そうしてすぐさまそのカステラの部分をぽいと龍麻に投げつけた。すると軽いスポンジのはずのそれは、まるで鉄球のようになって龍麻の元へ飛んで行き、どすんとその手に収まると再びふんわりとしたカステラに戻った。
龍麻はそれを不思議そうに眺めた。
「 甘ェ」
男はカステラを抱えたままきょとんとしている龍麻の傍で自分の指についたクリームを舐めていたが、甘い物は好きではないのか、ひどく渋い顔をしていた。
「 ガキはおかしなモンが好きだな」
「 ガキじゃない」
龍麻がこれに対してようやくむっとすると男は笑った。
「 ガキさ。テメエなんざ」
「 何で」
「 ガキだからだ」
「 ガキガキ言うなよ!」
「 だから来たんだ。お前は、ここに」
「 え?」
男はまたそこで黙りこみ、そうしてくるりと背中を向けると不意にその手の平に真剣を出現させた。
「 なァ、龍麻」
男は言った。
「 俺は誰よりも強い。誰よりも高い所にいる男だ。その俺が、この俺が、どうしてこうも苛立ってンだ?」
「 ………苛立ってる?」
「 ああ、そうさ。今すぐテメエをぶっ殺してやりたいくらいにな」
そして男は軽々とした調子でその剣を一振りすると、すぐさまその切先を龍麻の鼻先に向けてきた。
「 今すぐこれでテメエをぶった斬ってやりたいくらいだ」
「 そ……」
「 なのに、だ」
けれど男はその台詞とは裏腹に、すぐに再びその剣を手の平の中に消してしまった。
男は言った。
「 なのにテメエはそうやってのうのうとしてやがる。のうのうと俺の前に現れて平然としている。それで…ここに来た理由が分からないとほざくんだ」
「 ………だって」
「 全くむかつく話だぜ」
「 そんな…無茶苦茶な。だって本当に分からないんだ」
「 それ」
「 え?」
「 それ、食えよ」
「 ………急に話を変えるなよ」
口調まで唐突に変えて、男は龍麻が手にしたままのカステラを目だけで示した。龍麻は訳が分からないと言った顔を見せつつも、言われた通りにぱくりとそれを口に放り込んだ。
途端、甘い砂糖の味が口いっぱに広がった。
「 美味しい……」
「 当たり前だ。この俺がやったんだぜ?」
「 随分偉そうな奴だな。なあ、いい加減教えてくれよ。ここは何処で、あんたは一体誰なんだ?」
「 …………」
「 俺ね、正直こういう事初めてじゃないからそんなに驚かないんだ。俺、ちょっとヘンなところあるから、時々眠っている時とか《力》が不安定な時、自分でも知らないうちにヘンな所に来ちゃったりするから」
そうなのだ。
「 だから教えてよ」
そうなのだ、と龍麻は思う。
だから自分は余程の事がない限り驚かない。感動しない。怯えない。何かが起こっても、必ずどうにかなってしまう、何とかできるという事を心のどこかで知ってしまっている。いつの頃からか、誰にも会いたくない時はこうやって未知の空間にやってくる事が多くなった。その時も最初は途惑ったけれど、その居心地の良さにすっかり慣れて、時々気づくとそういう場所で休息を取るようになっていた。しょっちゅう来られるというわけでもなかったが、それでも来られた時は嬉しかった。
けれどそこに誰か別の第三者がやって来るとは思わなかった。自分のこんな不可解な現象の中に入り込んでこられる者がいるなど初めてだった。
だから龍麻は目の前の男が気になって仕方なかったのだ。
それに。
「 何だか……貴方も俺と同じでヘンな人なのかな」
どこか目が離せない。
「 ………九角天童」
男が言った。
「 俺の名だ」
「 九角?」
「 天童だ。……九角の名は、ここではふさわしくねェ」
「 何で」
「 ここが……ここは、過去や家なんざ関係ない。俺そのものを問われる場所だからだ」
天童の発言に龍麻は首をかしげた。
「 ………よく、分からないや」
「 だからお前はバカだと言うんだ」
天童はそう言って龍麻の答えに心底呆れたような顔を見せた。腹を立てているようでもあった。
「 いいか、龍麻。俺たちはな、ここから一歩出たらもう敵同士だ。お前と俺はどちらかが死ぬまで戦う…そういう、殺し合いをする仲なんだよ」
「 殺し合い?」
さすがに驚いて訊き返すと、今度は天童の方が何も感じていないような目で「そうだ」と返した。
「 俺たちはそういう星の下に生まれた。それを変える事はできねえ。絶対にだ」
「 何でそんな事言い切れる…?」
「 …………」
天童は答えずただじっとそう訊いてきた龍麻の顔を見やった。龍麻は急に不安な気持ちになり、手にしていたカステラをぐしゃりと潰した。何かに押されるように立ち上がり、ただ目に入る天童の姿だけを見やった。一歩、傍に近づく。
「 ………なあ、さっきも訊いたけど……」
「 …………」
「 何処かで、会った……?」
「 ……俺だけが」
天童は短くそれだけを言って、不意に深く嘆息した。それから茫然とする龍麻をいきなりきつく抱き寄せるとその耳元でそっと囁いた。
「 俺はいつだってお前の事を見ていた。ここでは」
「 え……」
「 ここでは、いつも俺とお前の2人だけだったからだ」
「 俺……?」
「 お前は……」
迷う度、ここに来ていたから。
天童は声にならない声でそれだけを言うと、押し付けるような口づけを龍麻の額に与え、そのままふっと消えてしまった。
「 て……ッ!」
そして龍麻がはっとして顔を上げた時には、もう彼の姿はその空間の何処にもいなくなってしまっていた。
無風のはずのそこにさらさらと流れるような風が吹いたと思った。
龍麻はひどく哀しい気持ちになりながら、乱れる髪の毛を厭いもせず、ただぎゅっと目を閉じ俯いた。
「 ……………」
再び目を開いた時には、そこはいつもの自分の部屋で、自分の眠る場所―ベッドの上だった。
「 ……なん…じ?」
「 お、お帰りひーちゃん」
つぶやいた瞬間、すぐにその声はやってきた。はっとして首を横にずらすと、いつからそこにいたのか相棒の京一が横にいて、開いていた雑誌をそのままに龍麻の事を見やってきていた。
「 今なあ…えーと、夜の7時だな」
「 ………お前、いつからいるの?」
「 さあなあ。ま、でもとりあえず、ひーちゃんが今日は学校休むって電話くれたすぐ後、だな」
「 俺、寝てた?」
「 なぁんか、ぶつぶつ言ってたけどなあ」
京一はそう言ってからぱたんと雑誌を閉じると、優しげな目を向けて笑った。龍麻はそんな相棒の顔をただ黙ってじっと見返した。
「 まあな、ひーちゃんも色々大変だからな。そうやって時々遠くへ行くのもいいんじゃねえ?」
「 …………夢、見てた」
「 そっか」
京一の優しい相槌がこの時の龍麻には何だか痛かった。ちくりと胸が痛んだ。
「 今日のは…さ。ちょっと哀しい夢だった…」
「 ………ふうん」
「 でも……」
龍麻はそう言ったきり、しかし口をつぐんで再び目を閉じた。
天童。
本当に自分はあいつを見た事がなかったのだろうかと思った。あの何もない休息の地で、今まで向こうだけがこちらの存在に気づいていたなんて。
そう思うと龍麻はとても惜しい気持ちがした。
俺とお前は殺し合う仲……
「 でもいつか…こっちでも会えるんだ……」
「 誰?」
「 ん……内緒」
京一の声に龍麻はやんわりと笑んでからそう答え、そうしてまた更にあの姿を思い浮かべるべく、ゆっくりと目を閉じた。
早く会いたいと思った。
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