その日はどうしようもなく
その日は朝から細い雨が降り続いていた。
「 おい……」
寒くて暗くて。こんな所にいても仕方がないのは分かっていたが、どうしても家に帰りたくなかった。
だから龍麻は1人、駅前のコンクリート面に座りこんで、両腕で膝を抱え目をつむっていた。着ているものが制服ではなく、もっと粗末なものであったなら、そこを通り過ぎる周囲の人間たちも龍麻のことをまた違う眼で見ていたかもしれない。
「 おい」
けれど現代の若者が、特に高校生が意味もなく路上に座り込んでいる風景というのは、都会ではさほど珍しくない。だから大抵は皆興味なく龍麻の横を通り過ぎている。
「 おい、いい加減にしやがれ。聞こえないのか?」
そう、先ほどからしつこく自分を呼んでいる、この声の主以外は、皆そ知らぬ顔で過ぎ去っていくのだ。
「 汚ェ奴だ。こんな所で座ってンじゃねェよ」
ガツンと靴の先で足を蹴られ、龍麻はびくりと身体を揺らした。
「 おい。呼んでいるだろうが。起きろ」
「 ……………」
煩いな。
龍麻は心の中でそう毒づきながら、それでも仕方なくのろのろと顔を上げ、何度となく荒々しい声を降らしてきた相手のことをようやっと見上げた。
そこには、 どことなく腹を立てたようにこちらを見下ろしてくる見知った男の顔があった。
「 ……………」
それでも龍麻が黙ったまま何の反応も示さないと知ると、その相手は益々むっとしたようで、再び乱暴な口調を発してきた。
「 何を寝ぼけていやがる。こんな所で濡れ鼠じゃあるまいし、うじうじと座りこんで、てめえは一体何をやっているんだ」
「 ………別に」
声は出ないかと思ったが、何とか掠れた音が出た。龍麻は自分の喉がひどく渇いている事に、この時初めて気がついた。
駅の構内の下にいると言っても龍麻が座っていたそこは、寒い風雨が直接吹き込んでくる入り口近くの場所だった。そのせいか、服も髪も随分湿って濡れてしまっている。龍麻は全身が凍えるように冷えてしまった事に心の中だけで舌打ちすると、目の前で自分よりも更にイライラしているような人物を改めてじっと見やった。
コイツは。
「 ……どうしてここにいるの?」
「 あぁ?」
龍麻の問いに、相手は眉をひそめて聞き返してきた。だから龍麻も怪訝な顔をして再び問い返した。
「 死んだんじゃなかったの……?」
「 ……だから人の顔見てそんな呆けた面をしてやがったのか」
相手は龍麻の未だ焦点の定まらないかのような視線に少しだけ納得したような顔を見せてから、微かにぎらつかせていた眼光を弱めた。
「 そんな事はどうでもいいだろうが。立て、緋勇。この俺を待たせるなんて、お前も随分偉くなったもんだな」
「 俺が……?」
「 行くぞ」
「 九角……」
ようやくその名前を呼ぶと、その呼ばれた相手―九角天童―は、歩きかけていた足を止め、振り返ると龍麻に向かってにやりと笑って見せた。
龍麻が新宿にある真神学園に転校してから、もう半年以上の時が経っていた。
元々まともな学生生活を期待していたわけではなかったが、
それでも度重なる戦闘の数々に、時には何もかもかなぐり捨てて逃げ出してしまいたいと思う事があった。勿論、それを顔に出すわけにはいかないが、時には「何も考えられない」と思ってしまう事がどうしてもあるのだった。
そして、そういう時は大抵誰にも会いたくないと思ってしまうのだ。親友であれ、誰であれ。
……そういえば京一が一緒に帰ろうと言っていた。
「 無視して帰ってきちゃったな……」
独りそうつぶやいてから、龍麻はそれでもやはり、アイツに付き合うのは無理だったなと考え直した。
だからこそ、自分はあそこに座っていたのだ。
「 何か言ったか?」
その時、先を歩いていた九角が声をかけてきた。龍麻がはっとして慌てて首を横に振ると、振り返り様、九角は何事か言いたそうな顔を一瞬だけ閃かせたが、不意に思い出したよになってがらりと口調を変えて言ってきた。
「 お前、派手に斬られたみたいだな」
それから九角は自分が購入した切符を龍麻に渡し、駅のホームに向かってさっさと歩いて行った。何気なくそれを受け取ってしまった龍麻は、それでも言われた事に驚いて何処へ向かうのかという疑問よりも先にそちらに意識を集中させてしまった。
「 何でそんなこと…」
「 知っているのか、か? そんな事はお前にとってどうでもいい事だろうがよ。勿論、俺にとってもな」
それに対し、九角は実に素っ気無かった。
「 でも……」
「 何でお前の前にいるのか、か? それもお前自身が考えろ」
そしてまたもや先取りすると、九角ははっと笑ってから、またしてもあっさりと口を継いだ。
俺を呼んだのはお前だぜ。
そして九角はそれきり龍麻にはもう何も言わせずに、ホームに入って来た電車にさっさと乗り込んでいった。
車内はいやに混雑していた。
「 ち…鬱陶しい……」
誰にも聞こえないくらいの小声で九角はそう言い、舌打ちをした。それからぼうっとしたような龍麻の腕を強引に引っ張ると、無理やり作った隅の空間に押しやって自分がその前に立ちはだかった。お陰で龍麻の方は他の人間と接触せずに自分だけの場所を得ることができたのであるが。
「 ……キツイよ」
「 贅沢言うな」
龍麻の不平を一蹴して、九角は鼻で笑った。それから何を思ったのかからかうような口調で言った。
「 そんな痩せこけた身体で一人前に場所が欲しいのか?
だったらもう少し肉でもをつけろ」
「 ………何だよ」
さすがにむっとしてぼそりと不平を述べると、九角は今度は小さく笑った。
九角はあの、出会って別れたあの時と全く同じ姿だった。
そして、全く同じ風に不敵な様相を呈していた。
「 ……………」
どうしてここにいる。
やはりそう思った。龍麻は自分の傍にただ立って、黙って外の景色に目をやっている九角をじっと見やった。
他人と同じだった。
敵だろうが何だろうが、龍麻にとって九角は過去の人間だった。
思い出したことなどない。ただ流されるままに事件を追い、その中核にいた人物だったから対峙し、そして戦った。
ただそれだけの関係。
それなのに、どうして。
何故この男は自分の目の前にいるのだろうと思う。
「 おい……」
その時、ただ茫然とそんな事を考えていた龍麻に、不意に九角が声をかけてきた。揺れる車内の中で、しかし彼は微動だにせず、じっと龍麻のことを見据えてきていた。その眼は、やはりあの時と同じように爛々としていて、何もかもを惹き付けてしまうような力があった。
「 何を考えている」
九角は唐突に龍麻にそう言った。じっと見られていることが不快だったのだろうか、龍麻は慌てて視線を逸らし、それから素直にぽつりとつぶやいた。
「 あんたのこと……」
龍麻の言葉に、九角は実に嫌そうな顔をした。そして、それきり何も言わなかった。
一体、どれくらいそんな狭い空間の中にいただろうか。
「 座るか」
しかし気づくと、あれほど混雑していた車内はいつの間にか2人だけになっていた。
「 え……?」
はっとして改めて周囲を見やる。今はサラリーマンなどの帰宅ラッシュと見事にぶつかっているはずだ。それなのに何度眼を凝らしてみても、そして遠くに見える隣の車両に目を向けてみても、自分たち以外の人影は見えなくなっていた。
「 何で……」
「 おい、緋勇。早く来い」
九角はその事態について何とも思っていないのか、平然としたままで、どっかりと真中の座席に身を沈めると、龍麻にも横に来て座れと命令してきた。そして龍麻が戸惑いながらもそろそろと近づいてくると、あとは問答無用で腕を引っ張り、強引に自分の横に座らせた。
「 鈍臭ェ奴だな。空いてるンだから座ればいいだろうが」
そしてただ狼狽したような龍麻に、イラついたような声をあげた。
「 何でこんな……。おかしいだろ……」
「 何がだ」
龍麻の驚きの意味がちっとも分からないという風に、九角は真剣に訊ねてきた。それで龍麻もまじまじと九角を見やり、真面目に応えた。
「 何って、どうしていきなりこんな風に乗客がいなくなるんだよ。さっきまであんなに混んでいたじゃないか」
「 さっき降りてったろ」
「 誰が」
「 誰がって、その乗客ってやつがだ」
「 何て駅で」
「 知らねェよ。テメエだっていたんだから、確かめてれば良かっただろ」
「 おかしいよ、こんなの……」
龍麻が唖然としながらも尚食い下がると、九角は心底呆れたような顔をしてから大きな手の平をがつっと向けてきた。そして龍麻の髪の毛をぐしゃりとかきまぜ、まるで子どもに言い聞かせるようにゆっくりと喋った。
「 お前がおかしいって言うんだから、そりゃ、おかしい事が起きたのかもしれないがな。けど、それによってお前は今何か困っているのか」
「 …………別に」
「 ならいいじゃねェか」
「 俺たちは何処へ行くんだ?」
龍麻がようやくそう言うと、九角はここで眼を見開き、楽しそうに口の端を上げた。
「 そうだな、それこそがお前がまず訊かなきゃならなかった事なんじゃねェのか。俺の後を馬鹿みたいについてきたが、お前は今自分が何処へ向かおうとしているのか、ちっとも分かっていない。迷子のガキと同じだぜ」
「 だから……何処へ行くんだよ」
同じ年の奴に子ども扱いされるのが嫌で、龍麻はむっとした気持ちを隠さずにムキになって訊ねた。
「 そんなのは知らねェよ」
しかし九角は、あっさりとそれだけを言った。
「 は……?」
ぽかんとして間の抜けた返事をすると、九角は再び機嫌の悪そうな顔をして、龍麻のことをちらと横目で睨んだ。
「 何で俺がお前の行く所を把握していなきゃならない。俺こそが緋勇、お前に呼ばれてきたと言っただろう」
「 俺は……」
お前なんか、呼んでない。
咄嗟に心の中でそう思ったが、龍麻は何故かその台詞をすぐに吐くことができなかった。自分自身でその自信がなくなっていたからかもしれない。
もしかして、本当にこの九角を自分の元に呼んだのは俺自身かもしれない。根拠もなくそんな事を考え始めてしまう始末だった。
この男があまりにも自然に、自分の横にいるから。
「 なあ、緋勇」
すると九角は、真っ直ぐに車窓を流れる景色を見やったまま、素っ気無い声で龍麻に声をかけてきた。
「 俺はよ。あの初めてお前に会った時―何で俺たちはこうやって対峙しているのかと思った」
「 ……………」
「 俺はお前のことなぞ知らん。どうでも良かった。お前に個人的な恨みもねェ。興味もなかった。当たり前だがな。だがな、俺たちは……あの日あの時向かい合って…戦ったよな」
「 ………うん」
「 …フン。気の抜けた返事しやがって」
ただぼうと頷いただけの龍麻の反応が気に食わなかったのか、九角は軽くため息をついてから、またちらりと一瞥してきて後を続けた。
「 俺はお前のそういうところが…いや、やめておこう。こんな事を言いたくて俺はお前に会いに来たんじゃねェ」
「 ……………」
九角は1人、何事か考えるような素振りを見せてから、今度ははっきりと龍麻の方に視線を向けて言った。
「 俺はな緋勇。それでも、俺があの時お前と戦ったのは――俺は、俺自身の存在をどこかできっちり確かめたいと思っていたからなのかもしれねェ。俺が俺であるために、俺は自分の居場所を求めていたんじゃねェかと思う」
「 九角……?」
「 ああ、いい。解らなくていい。お前に解ってもらいたいなんて思って喋ってンじゃねェんだ。ただ……お前が、俺を呼ぶから」
だから、俺はこんな話をしているんだ。
九角はそう言ったきり、後は口をつぐんで黙りこくった。
「 ……………」
龍麻はそんな相手の横顔をじっと見やった。凛々しいその侍のような風貌の男が、この時龍麻は初めて同じ年の男に見えた。そして、ああ、やっぱりコイツのことを呼んだのは確かに自分だったのかもしれないと思った。
「 俺……」
だから。今なら話せそうな気がして、龍麻は口を開いた。
「 自分が、嫌いなんだよ」
「 ……………」
九角は何も言わなかった。だから龍麻も後の言葉を繋ぎやすくなった。
「 だからあの時――本当は、このまま目が覚めなければいいと思った」
あの赤い髪の男が自分を斬った時ー。
思い切り侮蔑の表情を向け、自分に刃を向けた時――。
叶わないとは、思わなかった。怖いとも思わなかった。ただ。
怖かったのは、ここで終わっていいと思ってしまった自分。
「 病院でみんなの泣き顔見たら、『良かった』って声を聞いたら…ますます嫌になった。最低だろ」
こんな事を言ったらコイツはきっと怒るだろう。そう思ったけれど、九角はしかし龍麻に何も言わなかった。
「 九角」
何も言われないことが却って不安になり、龍麻は声をかけた。
九角は真っ直ぐに前を向いたまま黙りこくっていたが、しばらくしてから「何だ」とだけ返してくれた。
「 でもそういえば…あんたと会った時は、俺、ちょっと怖いと思ったよ」
「 ………そうかよ」
「 俺、お前に勝てるのかなあって。生き残れるかなって」
「 フン。それが人を殺しておいて言う台詞かよ」
「 ごめん」
「 ハッ。ごめんで済むなら、世話ないぜ」
九角は冗談のようにそう言ってから、やがて龍麻のことを力いっぱい引き寄せて、それから強引なキスをした。それは深いものではあったが、本当に短いキスだった。
「 ………………」
「 慣れてるのかよ」
何も反応を返さない龍麻に、九角はつまらなそうに言った。
「 ごめん」
「 何で謝る」
「 分からない」
「 フン、分からないのはお前だよ」
九角はそう言ってから、未だに無機的な顔のままの龍麻を楽しそうに見やった。
そして。
「 お前の愚痴を聞いていたら俺はひどく眠くなってきた。
そろそろ別れる時間だ。 お前は、次の駅で降りろ」
「 え………」
「 さよならだ、緋勇」
「 九角……?」
「 ……………」
九角はもう答えなかった。
そうして九角がそう言ってから間もなくして、電車はすぐに名の知れない駅のホームに滑り込んだ。龍麻は有無を言わさずその駅で降ろされた。足が勝手に、そこへと向かわされた。
去りざま振り返って九角を見たが、相手はもう知らぬフリをしてそっぽを向いていた。そして相変わらず偉そうに腕を組み、そうして龍麻の方を見ることは二度となかった。
龍麻は走り去る電車をしばらくの間、ただじっと眺め続けた。
今が何時なのか、龍麻にはさっぱり分からなかった。いつの間にか時計を失くしてしまっていたからだったが、ただ自宅に辿り着いた時には、もうほのかに朝の光が差し込んできていた。雨もいつの間にか止んでいた。
龍麻の1人暮らしの自宅は木造アパートの二階に位置する。疲れた身体を引きずるようにして、龍麻は安定の悪い階段をのろのろと上った。そしてようやく自室に辿り着いたと思い、俯いたままだった顔を上げた瞬間――。
龍麻は自分の部屋のドア前にいる人影を目にし、はっとして息を飲んだ。
「 …………京一」
そこには、ドアの前に座り込み、うずくまったような格好で目をつむっている相棒の姿があった。
「 何で……」
「 ん……」
龍麻の声に気づいたのか、京一は眉をひそめながらもゆっくりと眠そうな目を開き、自分の横に来た親友の方を見上げた。
「 ……よぉ、ひーちゃん。お帰り」
「 京一……」
「 ……寒ィ。すげェ、冷えた……」
呆気にとられる龍麻をよそに、目覚めたことで急に寒さを感じた京一はぶるりと震えてそう独りごちた。
「 ここに、一晩中?」
「 え、もうそんな時間かよ? ひーちゃん、何処行ってたんだよ?」
「 お前こそ……本当にここにずっと…? 一体、何してんだよ…?」
「 何って……ひーちゃんを待ってたんだろ? 傷癒えたばっかりだっていうのによ。1人でさっさと帰っちまうから、心配したんだろうが」
「 ……心配」
龍麻が思わず表情を曇らせると、「親友」の方は当に心得ているとばかりに苦笑したまま、未だ寝ぼけたような声を出した。
「 ああ、嘘々。心配なんかしてねェよ。実はよ、二学期に取った分の赤点補う宿題…教えてもらおうと思ってさ」
「 ……………」
「 他の奴らに頼むと後で煩ェからな」
「 ……手ぶらじゃないか」
「 ん…? あ、しまった。持ってくんの、忘れちまった」
「 ……………」
バカだ。
龍麻は率直にそう思い、どうしてこんなに心を開いていない自分に、この男はこうまで近づこうとするのだろうと痛む胸に尚も冷たく思った。
そして。
「 ……早く入れよ。幾らなんでもこんな冬の日に一晩中外にいたら、風邪引くよ」
思わず、そう言っていた。
「 ひーちゃんこそ」
「 俺は……」
言いかけて龍麻は、あの赤い炎のような眼をした九角の顔を思い浮かべた。
「 ……………」
「 ひーちゃん?」
けれど、京一の声で龍麻はふっと現実に引き戻された。そして、あの時降ろされたあの駅は、走り去ったあの電車は、もう二度と自分の目の前に現れないだろうと思った。
龍麻は改めて自分の傍にいる親友――京一の姿を見やった。
「 ……何でもないよ。俺は平気。俺は……もう、平気だよ」
「 ホントかよ? ……へへ、ならいいんだ」
「 ……………」
嬉しそうな京一の横顔を見て、龍麻はようやく小さく笑んだ。
それから龍麻は、朝靄の中に未だ残る「彼」の残像を振り払うように頭を振り、京一と共に、外よりは十分に温かいだろう自分の部屋へと入って行った。
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