その背を見つめて



  西日が眩しくて龍麻は目を細めながら視線を下に落とした。
  今日は比較的温かい日和だった。夕刻の今もそれほど寒さを感じない。まだ真冬のコートが手放せない季節ではあったが、この時の龍麻は「少しだけ遠回りして帰ろうか」という気分になっていた。
  朝テレビで見た星占いでも、今日は「今までの暗い気持ちが晴れる出来事がある」と言ってくれていた。勿論、占いをいつでも信じているわけではないけれど。
「 おい、そこのお前」
「 え?」
  けれど、だからこそかもしれない。
「 お前だよ、お前。緋勇龍麻」
「 あ…うん」
「 間の抜けた声出してんじゃねえよ。ちょっと来い。ここ来て手伝え」
  普段は信じていないから、今日くらいは信じてみようと思ったのだ。





  それは実にスリムな銀の自転車だった。
「 突然空気が抜けやがってよ」
  後輪のタイヤを親指と人差し指でぎゅっとつまんで、九角は不満そうにつぶやいた。前輪にはパンパンに空気が入っているようだったが、なるほど確かに後ろのタイヤは九角が指で少し押しただけでふにゃりと歪んだ。
  傍の自転車屋が貸してくれたと言う空気入れを持たされながら、龍麻は赤い長髪を一つに結わえている男の姿をじっと見つめた。久しぶりに見たその姿は、「あの時」と何も変わってはいなかった。
「 パンクしてるの?」
  自分は立ったままで足元に屈んでいる九角に何気なく訊くと、すぐに「いや」という短い答えが返ってきた。
「 少しくたびれてるだけだ。空気入れりゃ、まだ走れる。俺が押さえているからお前空気入れろ」
「 ………分かった」
  何がどうしてこうなったのだろうか。
  よくは分からないまま、それでも龍麻は九角に言われるまま、銀色が少しだけ剥げて錆付いてしまっている、古ぼけた空気入れを上下に漕いだ。シュコンシュコンと鈍い音がして、けれど次第に自転車の後輪は先刻よりも明らかに張り詰めたタイヤに変わっていった。
「 よし、もういいぜ」
  九角はそう言いながら、空気の注入口を小さな蓋で固く閉じるとすっと立ち上がり龍麻を見下ろした。
「 ………っ」
  大きい。
  今の今まで屈んでいる九角を見下ろしていた龍麻は、突然逆転されたその立場に多少面食らった。けれど何とか平静を保って九角に持っていた空気入れを差し出した。
「 じゃあこれ…」
「 あぁ、それな。そこんちのだ。置いときゃいい」
  九角は何でもない事のように言って、龍麻からそれを奪うと目の前の家の門前にそれを置いた。
「 ……さっき自転車屋に借りたって言わなかった?」
「 そうか? 忘れた。まあ、どっちでもいいだろ」
  勝手に拝借していたのか、それとも偶々道路に出て来たこの家の住人に本当に借りていたのか。どちらにしろ九角はもうその空気入れの事はすっかり忘れてしまったようになってから、片手で支えていた自転車のサドルを両手に持ち帰ると、さっと跨って龍麻を見た。
「 お前も乗るか」
「 え……?」
「 来る気があるなら、後ろに乗れよ」
「 ……………」
  何だろう。
  龍麻は半ば茫然としながら、けれど言われた通り九角の乗る自転車の後部座席に大人しく跨った。昨今、後ろがついている自転車は珍しいと思っていたが、九角の両肩を捕まえて立ち乗りは嫌だったからそれはそれで良いと思った。
  それにしても。
「 よし、じゃあ行くぜ」
「 うん………」
  どうして、コイツはここにいるのだろうと龍麻は思っていた。
  夢でも見ているのだろうか。





「 ……それでな、そのくだらねえバカ、身の程知らずな事にその後もこの俺に喧嘩売ってきやがってよ。心が広いってのも考えものだな」
「 殺したの?」
「 あん? だから俺は心が広いって言ってんだろうが。せいぜい、まともな飯を1ヶ月くらい食えないようにしただけだぜ」
  まるで氷の上を滑るように軽く速く、九角の漕ぐ自転車は龍麻を乗せて走っていた。国道沿いを軽快に進むそれは、横の車道を走る車をすら抜く勢いだったが、龍麻はその風が心地良かった。
  何処へ行くのか知らない。
  何故九角がここにいるのか知らない。
  けれど、そんな事はどうでもいいと思った。
「 で、お前はどうなんだよ、緋勇龍麻」
「 え、俺が何?」
  広い背中を見ながら龍麻が問い返すと、その背の主である九角は淡々とした口調で言った。
「 お前も相変わらず、むかつく相手をぶっ倒したりしてんのかって訊いてんだよ。強くなってんだろ?」
「 ……別に俺は」
  ムカツクアイテとは誰のことだろう。
  ただ自分は、与えられた事をこなしているだけ…。
  戦えと言われたから。
  この街を護れと言われたから。
「 ………なあ、九角」
「 あ?」
「 お前…さあ。何で俺と戦ったんだっけ?」
「 あぁ?」
「 何で……俺の前に現れたんだっけ?」
「 …………」
「 お前は死んだはずなのに…何で、今はそうやって普通の学生みたいになってんだよ? 何で俺の前にいるの?」
「 ……いっぺんに言うんじゃねえ。訳分からなくなるだろが」
「 お前って、そもそも自転車に乗るとかのキャラじゃないんだよな」
  龍麻のその台詞に九角は顔を歪めたようだった。見えないけれど、何故か龍麻にはそれが分かった。
「 何だそりゃ。お前が抱く俺のイメージなんてのは、あの一瞬みたいな戦いのものだけだろ」
「 え……?」
  九角の言葉に龍麻は思わず言葉を失った。
「 お前は俺の何を知ってる? 何も知っちゃあ、いないだろ」
「 …………」

  だから俺は来てやったんだよ。

  暗にそう言う顔をしてから、九角はふっと微笑んだ。
「 だから……来てくれたの」
  龍麻がやや茫然としつつ何となくの返答を返すと、前を向いたままの九角はまたくっと笑った。
  それから2人は何処へ向かうとも知れず、自転車に乗ったまま色々な話をした。
「 だからあ…俺、最近ホントついてなくってさ。面倒臭い事出来る限りやりたくないけど、付き合いだって大事だろ?」
  くどくどと日常の話をして止まらなくなるのは殆ど龍麻の方だった。九角と顔を合わせなくとも良い体勢だったからかもしれない。広い背中を何となく眺めながら、龍麻は特に横槍も入れずに聞いてくれている九角に言葉を続けた。
「 ただでさえ毎日さ、今まで大変だったのに。柳生倒した後だって時々ヘンなのが現れるから。俺はそれ鎮めるのだってちゃんとやってるし、みんなとラーメンだって食べに行ってる。だけど、何かさ。皆、俺にそれ以上の事を何か求めてるんだよ。疲れるんだ、そういうの」
  そうなのだ。
  本当はきっと大した事ではないのだろう。けれど最近の龍麻は自分自身で分かる程イライラしていた。疲れていた。それは誰のせいでもない、自分を殺して周囲にあわせているのは自分が勝手にやっている事だ…そう分かっているのに誰かに当たりたくて仕方がなかった。柳生との激しい戦いが終わった今だからこそ、今まで考えていた自分の暗い「陰」の部分がより重く頭をもたげかけているのだと思った。
  日々行われている戦闘も、仲間たちと行くラーメンも、自分にとっては同列だった? そんな事は絶対に認めたくはないのだけれど。
  今どうしてこんなにも気持ちが沈んだままなのだろう。
「 あーあ、俺って最低かも」
  投げやりにそう言うと、ペダルを漕ぎながら九角がようやく言葉を返してきた。
「 連中がお前に何を求めてこようが、そんなのお前の知った事じゃねえだろ」
  それは別段害のある口調ではなかった。だから龍麻も口を尖らせながらすぐに言い返す事ができた。
「 そんな事ないよ。例えばさ、皆で何かしようって盛り上がっているのにそれ無視したら、俺、すごいヤな奴になっちゃうじゃん。…まあ…だからって無理して付き合ってるのがいいとも言えないけどさ」
「 フン、くだらねえ。そんな事はどっちでも、どうでもいいこった」
「 お前は一匹狼だからそういう事が言えるんだよ! 俺は弱い人間だもん。周囲の反応だってそれなりに気になるんだ!」
  コイツは人間関係に悩むとか、そういった経験はないに違いない。
  龍麻はそんな事を思いながら、多少非難めいた様子で前にいる九角の背中をどんどんと叩いた。勿論思い切り叩いているわけではないから九角もそれに対してはびくりともしない。否、それどころかそう言った龍麻や龍麻の態度に九角はひどく可笑しそうに肩を揺らすと軽快な口ぶりで言った。
「 そうかねえ? 俺にはお前がそういう事を気にしている人間だとは思えねえがな」
  その言い方が何だか何もかも見知ったような言い方だったからか、そう言われて龍麻も一瞬どきりと胸を鳴らした。相手に悟られぬようにすぐに言葉は返したけれど。
「 な…んで、そういう風に思うんだよ…」
「 お前は、そのうちこの街から姿を消すだろうと思うからだ」
「 ……………」
  龍麻が黙りこむと九角はすぐに後を続けた。相変わらず前を向いて、自転車を漕いで。
「 桜が咲く頃には、お前はここからいなくなるだろ」
「 ……何でそんな事がお前に分かるわけ?」
  図星だった。
  今まで誰にも話していない。進路の話はできる限り皆としないように気を遣ってきた。まだ考えていない、進学するかも、アルバイトに専念するかも。そんな他愛もない話は要所要所でしていたかもしれないが、なるべく皆に嘘はつきたくなかったから、その話には触れないようにしてきたのだ。
  卒業したら、東京を出る。
  それはずっと以前から龍麻の心の中だけで決めていた事柄だった。
「 俺が東京を出るなんて、お前に分かるの?」
  それでも最後の抵抗とばかりに龍麻は必死の思いでそれだけを言った。やはり九角はあっさりとそんな龍麻の言葉をかき消してしまったのだが。それもひどく意外な言い方で。
「 お前は俺と違ってこの町に愛着なんぞねえだろ」
「 へえ。九角にはあるんだ、愛着?」
  龍麻がバカにしたようにそう言っても九角は乗ってこなかった。その声は相変わらず静かで淡々としたものだった。
  九角は言った。
「 あるさ。俺の先祖が愛した土地だ。俺にだってテメエの生まれた土地を愛しいと思う感情くらいある」
「 ………意外。何もかもぶち壊そうとしていたくせに」
「 ばか。それは違う」
「 どう違うんだよっ」
  けれど龍麻が声を荒げて九角にそう言った時だった。九角は突然腰をすっと上げたかと思うと、実に楽しそうな声を発した。
「 おい、下り坂だ、飛ばすぜ!」
「 え…? …って…わっ!!」
  それは本当に唐突に起きた衝撃だった。
  ロクに前を見ていなかった龍麻には何の心の準備もなく、乗っていた自転車は勿論、身体までが急にガクンと角度を変えて、奈落の底へ真っ逆様に落ちていくような感覚に陥った。はっと顔をずらして前を見ると、不意に現れた急激な下り坂を九角がペダルを漕いでもの凄いスピードで下っている状況なのが分かった。
「 う……っわ……!!」
  それは本当に風を切る速さで。
  最初こそ驚いたけれど、それは本当に心地よくて。
  軽快で。
「 ………終わりか」
  けれど九角が完全に坂を降りて徐々にスピードを緩め、やがて止まると。
「 え? あ……ふう」
  龍麻は自分が息を止めていた事に気づき、取り敢えずは思いきりハアと息を吐き出すと、自転車を止めたままこちらを振り返り見ていた九角に思い切り抗議の目を向けた。
「 ったく……! あ、危ないだろーがっ、急に!」
「 こういう所は全力で走らねえとな」
「 ガキかよ! もう、腰痛ェーッ!」
  龍麻がそう言って後部座席から降りて大袈裟に腰を抑えると、九角はフンと鼻を鳴らしてから、しかし自分も自転車から降りた。そうして傍の電柱にそれを立掛けると、通りの下を流れる色の濁った小さな川を眺めながら嘲るように口を開いた。
「 これくらいで音を上げるなんてだらしない奴だ」
「 むっ! 何だよ!」
  龍麻も一緒になって川へと視線をやりかけていたが、九角のそのあっさりと出された台詞にはムキになった。一体どうしてここまで来てしまったのかという気持ちも心の中で次第に強くなりながら、それでも龍麻はその思いは封じ込めて違う言葉を吐いていた。
「 俺はお前と違ってデリケートな人間なんだよっ」
「 はっ、デリケートだ?」
  九角のバカにする反応は予想がついたが龍麻は構わず続けた。
「 そうだよ。予想外の展開には面食らうの。普通の人間なんだから」
「 ばかくせえ台詞」
「 うるさいっ。本当にそうなんだよっ。ったく……」
  ハアとため息混じりにそう言い、龍麻が肩を落とすと、九角は前を向いていた視線をちらとだけ寄越し素っ気なく言った。
「 だから周りも気になるのか?」
「 なっ…と、突然その話に戻るのか? ……そ、そうだよ俺は―」
「 お前は優しい奴なんだろ」 
「 えっ…」
  一瞬何を言われたのか分からなかった。
  けれど九角はただ笑っていた。
「 ばあか。お前はな、気を遣い過ぎなんだよ」
「 こ、九角……?」
  そうしてぽかんと口を半開きにして九角を穴が開くくらいに見つめていると、やがてその当人は自分を見やる龍麻の腰を力任せにぐいと引き寄せた。
  そうして。
「 あ…ッ」
  不意に唇を重ねてきた。それは最初こそ軽いものだったけれど何度も何度も繰り返され、その激しさに龍麻は九角の所作について行くので精一杯になった。
  ただ呆気に取られてしまっていたというのもあるが。
「 ふッ…ん、ん……」
  素早く侵入してきた九角の舌に自らのものを絡めとられ、龍麻はぎゅっと目をつむってそのキスに甘んじた。自分の腰を抱く九角の腕に縋りつくようにすると、その抱擁はより強く熱いものになった気がした。
「 ………っ」
  やがてその長いキスが終わると。
「 …………」
  九角はすぐに龍麻を解放すると、ふいと視線を逸らした。まるで今した事など何も知らないという風に。龍麻はただ途惑った。
「 こ、九角……?」
  不安になって呼ぶと、九角は龍麻に言うでもなくつぶやいた。
「 ……相手の事なんざ知るか」
「 え?」
「 ――くらいの気持ちで、お前は丁度いいんじゃねえ?」
「 …………」
  そして九角は黙りこんでじっと自分の事を見つめる龍麻ににやりと不敵な笑みを見せた。
「 今の俺くらいになんねえとな」
「 あ……」
  おどけてそう言う九角に、けれど龍麻はうまく言葉を返す事ができなかった。何だろう。同じ年なのに、以前の敵なのに、何故だかこの目の前にいる九角天童という男が、自分よりひどく大人でひどく大きな存在に見えた。
  そうして依然として立ち直れていないような龍麻に、九角はそんな余裕の笑みでふざけたように言葉を続けた。
「 けどお前、案外嫌がってなかったな。結構期待してたか?」
「 ばっ…!」
「 男相手にしたのは初めてだが、どっちにしても俺って奴はついうまくやっちまうんだな」
「 ちょ、調子に乗るな!」
「 はははっ!」
  龍麻がようやく怒鳴ってそう言うと、九角は腹の底から出たような実に気持ちの良い笑声をたてた。そうして自分より頭一つ分位背の低い龍麻の頭をぐしゃぐしゃと撫で付けると、九角は立掛けていた自転車のサドルを握った。
「 お前が」
  そして九角は言った。
「 お前がこの町から消えたら、俺も完全に消える」
「 え……?」
「 俺もここからおさらばってわけだ」
「 こ、九角……?」
  九角の言われた事の意味をすぐに理解できずに、龍麻はただ相手の名前を呼んだ。
  不意に猛烈な不安に晒された。
  けれど龍麻のそんな気持ちが分かったのか、逆に九角は清清しい顔すら見せてにっと口の端を上げた。そして自転車に跨る。
「 それまでは…まあ、俺も好きにやらせてもらうさ」
「 ちょ、ちょっと待てよ、お前……?」
「 じゃあな、ばか龍麻」
「 九角っ」
  呼び止める龍麻を九角は振り返らなかった。片手を挙げて別れの挨拶をすると、九角は悠々とした様子で自転車を漕ぎ、行ってしまった。
  後に残されて龍麻はしばらくぽつんとその場に立ち尽くしていた。
  まるで夢のような、ほんの短いその一時が。
「 何なんだよ……」
  不満めいた言葉が自然と口からこぼれたけれど、ただその唇から感じられた先刻の熱い感触だけは本物だと分かっていたから。
  だから龍麻は、何故だか猛烈に泣き出したい気持ちになった。哀しいとは、違う。嬉しい、とも違うのだけれど。

  お前は優しい奴なんだろ……。

「 勝手な事だけ言って…勝手に消えるなよ…」
  龍麻はぎゅっと拳を握ると、九角の去って行った方向をただ見やった。そして気づいた時にはもうだっと駆け出していた。夕闇が背中にどんどんと迫る中、それに追いつかれないように、あの紅い色が消えてしまわないように、龍麻はただ必死になって走った。
  今、走れば、まだ間に合うような気がしたから。



<完>





■後記…別に寂しい話にするつもりはなかったんですけど、ちょっと終わりらへん物悲しいかなあ?でも天童様が相手じゃあ、うちのバカバカしい5人衆シリーズじゃない限り(いつからシリーズになったんじゃ)、こういう扱いになっちゃうんですよね…。でも天童様って実際人間らしい姿ってこんな感じかなあとか思いながら書きました。ちょっとぶっきらぼうで乱暴なんだけどごくごくフツーの高校生みたいな感じで。いやフツーより全然カッコいいんだけどね(愛)。龍麻は久々にやや陰バージョンな感じで。あーやっぱり書いてて楽しいです、九主。