淵惑い
剣の事は分からないけれど、これは良いと思った。
「 翡翠。これは高いの?」
「 高いよ」
龍麻の質問に如月はちらと視線だけをやって、後はまた机の上の台帳へとペンを走らせ始めた。
「 ふうん」
そんな相手の素っ気無さに龍麻は多少の物足りなさを感じたものの、別段責める事はせず、再び自分だけが部屋の隅に掛けられているそれを見やった。
恐らくは如月がまたどこやらの名家から譲り受けてきたものに違いない。龍麻が興味を示したその刀剣は一緒に並べられていた他の剣とは明らかにその趣が違っていた。
龍麻には剣の良し悪しは分からない。けれどその剣からは普通の刀剣ならば絶対に感じられない「妖気」のようなものが感じられたし、その刃を納めている鞘自体にも、あまり見慣れぬ重厚な彫り物が施されてあったのだ。
「 この模様って何処かで見た事ある…。何かの呪かな?」
「 そんな物騒なものじゃないよ」
龍麻の独り言をしっかり聞いていたのだろう、如月がすぐにそう口を開いた。
「 煩いなら黙るけど」
「 皮肉を言うなよ。少し考え事をしていたんだ」
やれやれ…とどことなく渋い顔をして、如月は乱暴に台帳を閉じると改めて目の前の龍麻を見やった。
如月の邸宅によく足を運ぶ龍麻は、今日もいつもの如く奥の座敷で寛いでいたのだが、その時は当の如月も一緒だった。けれど余程気になる事でもあったのか、普段なら部屋の中にまで仕事を持ち込まない如月がずっと龍麻を放りっぱなしで台帳と睨めっこだったのだ。
その事を責められたと思ったのだろう、如月は依然として仏頂面をしたまま龍麻に言った。
「 悪かったよ。そこの刀が気になるのかい」
「 うん」
「 珍しいじゃないか。普段はあまり関心を示さないくせに」
「 何か変な氣を放ってるから」
「 ………」
龍麻が言うと如月は予想はしていたのだろうが、幾らか嫌そうな顔をして暫し黙りこくった。
こんな如月の顔は久しぶりに見ると思いながら、龍麻は抑揚のついた声で続けた。
「 これ、もしかして俺の知ってるヤツの物じゃないの」
「 何故そう思う」
「 何となく」
「 ………」
「 最初にこれが目に入った時、他の刀の方が綺麗だし派手な作りをしているって頭では分かってたのに、もうこればっかり気になった。この妙な模様もそうだけど、やっぱりこの剣から放たれてる氣…。これが気になる」
「 気にするなよ」
「 何で」
いやにきっぱり言う如月に多少驚いた思いで龍麻がすぐに問うと、相手はますます不快な顔をしてからため息をついた。
「 ……僕が面白くないからだよ。君がこの剣を気にするのは面白くない。それだけだ」
「 ………」
「 僕は望んじゃいなかった。この剣が勝手に来たんだ。君に会う為にね」
「 ………そう」
きちんと理解したわけでもないのに、龍麻は如月に分かったというような反応をして頷いた。それからまた部屋の片隅に無造作に置かれた刀剣の山から、その異彩を放っている物を見つめる。
生きているものではない、モノだ。それは。
「 でも、何でかな……」
思わず呟いて龍麻はそれに手を伸ばした。
人の手から離れたそれは本来息づくはずのない意味を成さない物のはずだ。それなのに惹かれる。如月は龍麻がそう感じる事をどうやらひどく嫌っているようだが、自分でも止められない衝動のようなものが龍麻の指先を動かしていた。
「 あ……」
一番先に辿り着いた人差し指がその剣の先に触れた時。
ぴりと電流が走ったような軽い痛みに襲われた。
「 布…巻いてあるのに……」
「 取っていいよ」
如月がぶっきらぼうに答えた。龍麻はえっと驚いて振り返ってから、「でも」と躊躇したように言葉を濁した。
「 翡翠、俺がこれに触るの嫌なんじゃないのか」
「 ああ、嫌だね」
「 じゃ、何で」
「 止めても無駄だろう」
「 ………」
「 現にもう触っているじゃないか」
「 まだちょっとだけだよ。中身は出してないだろ」
「 もう手遅れだ」
如月ははっとため息をついた後、いきなり立ち上がると部屋の襖をすらりと開けた。庭へ通じる縁側が姿を現し、閉じきっていた部屋が外の光で明るくなる。
それに眩しい想いをして目を細める龍麻に如月が言った。
「 僕は店にいるよ。何かあったら呼んでくれ」
「 何かって?」
「 何かは何かだ」
むっとしたように如月は言い、それからふいと視線を逸らすと口元だけで小さく言った。
「 ……君が今更闇に囚われるなんて思っていない。けど、あの時の君は…奴と最後に対峙していた時の君の眼は…まだ忘れられない」
「 翡翠?」
「 忘れたくもないが」
「 ………」
如月の言いたい事が龍麻には分かったような気もしたし、やはり分からないような気もした。
1人きりになり、庭から小鳥がさえずる長閑な音が部屋にすうっと流れこんできた。龍麻はそれに暫し耳を傾けた後、既に手を伸ばし握っていたそれを布からさっと取り出した。
「 ………」
それからぴたりと目の前に掲げ、改めてその刀身を眺める。
「 ……感じる」
まだ鞘から刃を出していない。
それでも龍麻はそこから酷く懐かしい氣を捉え、同時にゾクリとした寒気を背中から首筋に感じて眉をひそめた。
「 でもこれは…あいつが持っていた剣とは違うだろう…」
この剣から発せられる元の持ち主の残り香を感じさせる氣と、如月が「最後の時」と言っていた台詞から既に予想はついている。否、確信と言っても良い。この剣の持ち主は自分や如月、それに他にもいる大勢の仲間たちによって倒された。
この剣はあの男―柳生宗崇のものだ。
「 今頃どうした? 主を探して出て来たのか?」
龍麻は物言わぬ刀剣にそう話しかけた。
当然答えは返ってこない。剣は未だ鞘に納まったまま、龍麻に握られ沈黙している。
「 お前の主は俺が葬った。もういないよ。……悪いけど」
それでも龍麻は再度そう言って刀に話しかけ、それからふいと立ち上がると如月が開けっ放しにしていった襖の方へ近寄り、縁側へと足を踏み入れた。
外は明るい。先ほど盛んにさえずっていた小鳥も未だ庭の桜の木に留まり、何やら楽しそうに枝の葉をつついたりして遊んでいる。龍麻の視線には気づいているだろうに、一向に逃げる気配もなく。
「 外はこんなに天気だよ。あったかい。平和なんだ」
だらりと下げた腕から下…龍麻の手にはまだ物言わぬ刀剣が握られたままだ。如月は本当に店の方へ行ってしまったらしく姿が見えない。
「 あいつ、俺の事信用し過ぎだ」
龍麻はそんな忠実過ぎる従者に多少苦笑する思いがして唇を曲げ、それからゆっくりと剣を庭の方へ向けた。
「 もし……」
そして言った。
「 世の中が平和になったからと言って…。もし…もし、俺がお前の主に代わり……お前を抜いたら?」
その問いに答える者はいない。
それでも龍麻は続けた。
「 本当は俺もお前の主と共に闇に染まりたかった…。お前の主と共にあの最期の時を迎えたかったと言ったら、お前は……」
お前は、どうする。
けれど龍麻のその問いにも、剣はやはり答えを寄越さなかった。
龍麻も遂に最後まで鞘からそれを抜かなかった。
「 翡翠が……」
きっとあいつは今頃店でやきもきしているのだろう。俺を信じているという顔をして…実際そうなのだろうが、それでもきっと心配している。
「 ふ……」
そんな如月の顔を想像し、龍麻は剣を再びだらりと下げると後はもうそれには興味をなくしたようになって、それを部屋の畳に向け乱暴に放った。さほど大きな音はしなかったが、その瞬間、先ほどからしきりに放たれていた妖気はぴたりと止んだような気がした。
「 さよなら」
龍麻はそう言うと、開かれていた襖をぴしゃりと閉めた。ここからだと裸足になってしまうが構わない。ここから…そう、この明るい庭から歩いて表へ回り、如月の店へ入ろう。
そう思って、龍麻はもう後ろを振り返る事はなかった。
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