陰影
梅雨でもないのに毎日毎日雨が降って、いい加減気分も滅入りがちだった。
人は天候で気持ちが左右されるものなのだろうか。それともそれを言い訳にして、ただ自分の中の鬱的な気分を自然のせいにしているだけなのか。
龍麻にはそういう事がよく分からない。
朝、いつものように起きて、制服を着た。朝食はいつも摂らないから、そのまますぐに外へと出る。
また雨だ。
「 ………いい加減にしろよ」
誰に言うでもなく、龍麻はつぶやいていた。玄関にある傘に手を伸ばし、乱暴にドアをしめて、カギをかける。盗られる物など何もないから、戸締りなどしてもしなくてもどうでもいいような気もしたが、習性で勝手に手が動いたようだった。
学校。
行かなくてはいけないだろうか。何ともなしにふと思う。
いつもはそんな事も考えずに惰性で登校するのだが、今日はどうにも駄目だった。だるい。この気持ちのままあそこへ行き、仲間たちの笑顔に自分は笑い返すことができるだろうか。
「 無理、だな……」
龍麻はため息をつき、そして学校とは正反対の方向へ歩き出した。
何処へ行こうという当てがあるわけではなかったのだが、
とにかく人のいない所へ行こうと思った。 部屋に閉じこもろうかとも一瞬考えたが、
誰かが無断欠席の自分を心配してやってくる可能性は十分に考えられた。
だから、家に戻ることもできなかった。
何処へ。
行こうか。 思えばここの地理には詳しくない。
龍麻は自分で選んだ事ながら、この雨の中、ふらふらとうろつく自分自身に当惑していた。
その時、だった。
その男はいた。
「 ……………」
違和感のある存在だとすぐに思った。
いつの間にこんな所に来たのだろうか。 龍麻は人気のない工事現場に佇んでいた。まだ骨組みだけの、それでも背だけはある建物が、細い雨の中、ひどく頼りなげな様子でそこに在った。男はその建物から発せられる錆びた臭いのする灰色の空間に、ただ立ち尽くしていた。
「 ………貴方は」
思わず声をかけると、龍麻の存在に当に気づいていたような観のあったその男は、爛とした瞳を閃かせて、威嚇するかのように突然の侵入者を見据えてきた。
紅い制服に身をまとっていた為何処か近隣の学生かとも思ったが、雨に濡れることをまるで厭っていないその異様な様子は一種独特な雰囲気を醸し出し、ただの学生ではないことを物語っていた。
「 何しに来た」
男が言葉を発した。
「 え………」
「 お前はまだここには来られないはず」
「 何を…?」
「 お前にはまだこの俺には会う資格がないと言っている」
威厳のある言い様だった。鋭い視線を龍麻に突き刺し、逆らうことなど許さないという雰囲気を醸し出している。龍麻はそんな男の迫力に多少押されたが、それでもそんな恐怖より、目の前の男に対する好奇心の方がその気持ちに勝った。
龍麻はゆっくりと歩を進め、男の傍に近寄った。男は黙ったままそんな龍麻を見つめた。
「 貴方は、俺のことを知っている…?」
「 …………」
「 俺、貴方に何処かで会った?」
「 ……お前がそう思うのなら、そうなのだろうな」
「 ……いや、俺はただ……」
「 お前は」
男はそう言いながら、 突然龍麻の髪をぐいと乱暴に掴むと、
無理やり自分の方に引き寄せた。 意表をつかれ、龍麻は手にしていた傘をぼとりと地面に落としてしまった。
「 痛っ……」
抗議するように声を出し、 眉をひそめたが、
それでも男は何も感じないかのように無表情だった。
「 俺が何に見える」
そして男はそう訊いた。
「 え……?」
「 俺がどう見える。お前の目には、俺は」
「 どうって……」
龍麻が思案しようとすると、男はまたしてもいきなり龍麻のを離し、距離を取った。そしてさっさと歩き出し、建物の影へと姿を消す。
「 ちょ、ちょっと……!」
龍麻は焦り、慌てて男の後を追った。
何だろう。不思議だ。
この男が普通でないのは分かった。 自分の敵である可能性も十分に考えられた。それでも龍麻は男から逃げ出すことも警戒することすらせず、ただ無防備に男の背中を追いかけた。
「 待っ…」
しかし、言いかけて龍麻は瞬時に足を止めた。
ビルの向こうに消えた男はそのすぐ曲がった所に立ち尽くしていたが、その足元には無造作に転がった数人の骸があった。
そしてそれらはまるで獣に引き裂かれたかのような状態で、天から落ちてくる雨を一身に浴びていた。
「 こ…っ……」
こんな。
龍麻は思わず声を失い、反射的に男を見据えた。
男はひどく冷めた眼をしており、その死体には一切視線をやらずに、ただ龍麻の事を見据えた。
「 貴方が…やったのか……」
「 だとしたらどうするというのだ」
「 何で……こんな事」
「 こんな事とは?」
「 ひ、人が…っ!」
あまりにも平然としている男に、龍麻は身体が熱くなるのを感じた。同時に悪寒も。
何だ。
この男は、一体何なのだろうか。
龍麻は混乱する頭の中で必死に思考を繋げようとするが、どうもうまくいかない。
「 初めてなのか」
その時、男が意外だと言わんばかりの声を投げかけてきた。
「 えっ…」
「 初めてなのか。人の骸を見るのは」
「 そ、それは―」
「 お前は」
男は再び龍麻に近づき、その大きく長い腕をにゅっと突き出した。そしてその勢いのまま龍麻の顎を指にかけると、くいと自分の方へと視線を向けさせた。
「 お前は異形のモノにはその拳を振るい、倒し、その目で多くの血を見ておきながら、何故今更これしきのモノを見たくらいでそう怯えているのだ?」
「 だ、だって、こんな…っ」
人が死んでいるのに、そうやって何事もなかったかのようにしているアンタが異常なのだ。
そう言いたかったが、龍麻は何故かやはりその先の言葉を紡ぐことができなかった。
「 お前には俺の事が分かるはずだ」
龍麻の心を読んだような顔になって、男は言った。
「 お前には分かっているはずだ。お前は認めているはずだ。この俺のやることを。……誰をも受け入れぬお前だから」
「 何を…」
「 お前は、誰とも相容れない。異形のモノだ」
「 …………」
「 だからこそ」
男はそう言いながら更に接近してくると、今度はいきなり自らの唇を龍麻のそれに重ねてきた。
「 ……っ!?」
不意の口付けに龍麻は思い切り面食らった。瞳を見開いたまま傍の男を感じてしまう。その熱や。
力を。
「 ……ん…ぅ…っ」
やがて男は龍麻の口腔内を激しく貪り始め、まるで全てを奪うかのような激しさで唇を何度も重ね合わせてくると、力の抜けた龍麻を痛いくらいに抱き寄せてきた。
「 ……っ」
何も考えられなくなる。
龍麻は気が遠くなりそうになりながら、 傍の男に無意識のうちに縋りついていた。このまま全てを預けてしまったら、一体どうなるのだろう。ふとそんな考えも脳裏をよぎる。
この男に、全てを任せたら。
俺は、何もしなくていいのだ。
「 龍麻」
男が呼んだ。
龍麻がいつの間にか閉じていた瞳をうっすらと開くと、男はひどく静かな容貌を湛えたまま、威圧感のある声で言った。
「 お前を俺の隣に置くことはできない」
「 え……」
「 お前はまだ…これから変わる。強くなる。その時に」
男は再び乱暴に龍麻の髪の毛をつかむと、無理やり自分との距離を縮めた。そして。
初めて、薄く笑った。
「 その時に、俺はもう一度お前の前に戻る。そしてこの俺が何に見えるか、お前にもう一度訊こう。……答えを、待っている」
「 貴方の名前は……」
「 柳生だ。柳生宗崇」
「 柳生……」
「 龍麻。あれがお前は怖いか」
柳生は言って、もう一度ちらとだけ傍の死体に目をやった。龍麻は言われるままに、再び先の死人に目を向けた。
「 ………」
そして龍麻がふとその視線を元に戻した時。
男は。
柳生は、消えていた。
「 ……………」
いつの間にか、雨は止んでいた。
「 柳生……」
龍麻はつぶやいてから、今度はじっと傍の死体を目にした。
「 …………怖くないと、言わせたいのか」
そして、今はもうひどく冷めた眼で「ソレ」を見ている自分を、龍麻は自覚していた。そしてその後はもう死体には目もくれずに、龍麻はその場を離れた。
震えは、消えていた。
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