ひーちゃんの外法旅行(12)
奈涸「おや、どうやらまた降り始めたようだね」(屋根を叩く水滴の音にふと顔を上げる奈涸)
龍麻「……………」
奈涸「……浮かない顔だ。西洋の菓子は口に合わなかったかな」
龍麻「あ…そんな事ないです。すごく美味しいですよ」
奈涸「雨は嫌いかい?」
龍麻「いえ……」
奈涸「……………」
龍麻「あの、それで翡翠…貴方によく似た人間のこと、奈涸さんは知りませんか」
奈涸「知っているよ」
龍麻「え…ッ!」(驚いて顔を上げる龍麻)
奈涸「来たからね、ここに」
龍麻「ほ、本当に…!? それで今翡翠は何処に…!」
奈涸「……………」(無言で龍麻を見つめる奈涸)
龍麻「……? あの、奈涸さん……?」
奈涸「ん…ああ、すまない。残念ながら翡翠は今ここにはいないよ。君が澳継君といた村に向かった」
龍麻「え、鬼哭村に!? ど、どうして…ッ」
奈涸「さあね、それは俺の預かり知らぬ事だ。だが、君がここに来たら、自分が戻るまで引き止めておいてくれという事は頼まれた」
龍麻「翡翠……」
奈涸「そういうわけだ。今夜は泊まっていきたまえ。雨も降ってきた事だしね」
龍麻「……………」
奈涸「それに君はあの村の住人になる気はないのだろう?」
龍麻「あ…はい……」
奈涸「ならばあの村にはもう戻らぬ事だ。見たところ君は…彼らとは住む世界を異にしているようだから」
龍麻「え……」
奈涸「違うかい?」
龍麻「ひ、翡翠は俺たちの事、貴方に何て言ったんですか?」
奈涸「別に何も。無口な青年だった。おまけに無愛想だ。君とは大分違うな」
龍麻「そんな事……」
奈涸「だがまあ、何故か彼の事は他人のように思えなくてね。そして、どうしてだか俺は…」
龍麻「………?」
奈涸「龍麻君」(言ってそっと龍麻の手を握る奈涸)
龍麻「な、奈涸さん…(焦)?」
奈涸「ふ…どうしてだろうな。俺は君の事も気になって仕方がないのだよ。そうだな、何と言うか…離れ難いものを感じるのさ」
龍麻「え……」
奈涸「君から離れてはいけない。そんな気がする」
龍麻「あ、あの、俺………」(困ったように俯く龍麻)
奈涸「俺の中に流れる血がそうさせるのか…」
龍麻「奈涸さん…」
奈涸「奈涸」
龍麻「あ、な、奈…涸……」
奈涸「何だい、龍麻君」(にっこりと笑む奈涸)
龍麻「あの、その…手…手、離して下さい!」
奈涸「ああ……嫌だったかい?」
龍麻「そ、そういうわけじゃ、でも…っ」
奈涸「ふっ…龍麻君は可愛いな」(龍麻の手の甲をもう片方の手でさらりと撫でてからすっと離れる奈涸)
龍麻「か、からかわないで下さいっ!」(かーっと赤面する龍麻)
奈涸「別にからかってなどいないよ。思った事を口にしただけさ」
龍麻「………(焦)」
奈涸「……………」(愛しそうに龍麻を眺める奈涸)
龍麻「あの…あの(慌)!ところでこのお店って奈涸さんのものなんでしょう?」
奈涸「そうだが」
龍麻「じゃあ、飛水の人なわけですよね」
奈涸「それが?」
龍麻「ど、どうして澳継や…鬼哭村の人たちと知り合いなんですか?」
奈涸「ん……?」
龍麻「お、俺、天戒たちのやっている事を詳しくは知らないけど…あいつは自分の事を鬼だって言ってました。それに澳継も、徳川や現在の江戸の状況を悪く言ってばかりだったし。多分…天戒たちは貴方たち飛水の人間とは相容れない立場にいる存在ですよね」
奈涸「まあ、そうかもしれないな」
龍麻「天戒たちが悪い奴らじゃないって俺は知っているけど…。でも、翡翠をそこへ行かせたのは何故なんですか? 翡翠、あれでヘンに生真面目なとこあるし…」
奈涸「ふむ。確かに、徳川などに興味がないと言ったら彼は大層俺の事を怒っていたがね」
龍麻「……! ひ、翡翠、何かやらかさなきゃいいけど…」
奈涸「ん…? 鬼と聞いたら、彼は誰でも彼でも斬りかかるのかい」
龍麻「そ、そんなんじゃないですけど…」
奈涸「ははは。まあ、大丈夫だろう。君の翡翠も愚かな男ではない。バカな真似はしないさ」
龍麻「でもっ」
奈涸「また、天戒も所詮は人の子さ。翡翠を取って食べたりはしない」
龍麻「でも俺、やっぱり…!」
奈涸「今から追ってまたすれ違いになったらどうする」
龍麻「それは…っ」
奈涸「彼が気にかかる気持ちは分かる。今すぐ会いたいという気持ちもね。だが…今の君に出来る最良の選択は、ここにいる事さ。違うかな」
龍麻「……………」
奈涸「それでも気にかかると言うのなら、表の犬を村へ使いに出そう。天戒も君たちがどうなったのか知りたいだろうしね」(立ち上がって表に向かう奈涸)
龍麻「………ッ」
奈涸「龍麻君。余計な気遣いは寿命を縮めるよ。翡翠が戻るまでは俺が君を護る。安心してここにいたまえ」
龍麻「奈涸さん……」
一方、鬼哭村へと歩を進める如月の方も。
徐々に崩れていく天候と激しい風に、思うような距離を稼げずにいた。
まるで如月の行く手を阻むように空の黒雲はその数を増し、強く吹きつける風も肌に痛いくらいの刺激を与えてきた。
如月「まずいな…。一雨きそうだ…」
家来A「殿ッ! 近くに清水が湧いておりましたので、そこより水を汲んで参りましたッ!」(不意にすぐ傍の方角から張りのある声が聞こえた)
如月「……?」(咄嗟に身を隠してそちらへ意識を向ける如月)
感じの悪い偉ぶった男「おお、よしよし。では少しここらで休憩と行くか」
家来B「殿。何やら雲行きが怪しくなって参りました…。今日のところはお屋敷に戻られた方が宜しいのでは…」
偉ぶった男「ふん、何を言うておるのじゃ。お前たちには分からんのか。この怪しげな雲…空気…全ては鬼の住処が近い証拠ではないか」
家来B「は…? と言いますと…?」
偉ぶった男「愚か者め。鬼は我らが襲来を恐れ、このように妖かしの術を用いてこちらを翻弄しようとしておるのよ」
家来B「……とすると、彼奴らは天候をも操れる化け物という事ですか……」(ごくりと唾を飲み込む家臣)
偉ぶった男「畏れるでないッ! 所詮、鬼と言っても山賊の類よ。たとえ山の天気を読むのがうまくとも…洗練された武の心得を持つ我らの敵ではないわッ」
家来B「はっ!」
家来A「おお、殿! どうやら降り始めたようです…!」
偉ぶった男「む…くそ、忌々しい…! 仕方がない、何処か一時の雨を凌げる場所を探すのじゃ。いいか、下山は許さぬぞ。鬼の…鬼道衆の頭目の首、必ず討ち取って凱旋するのじゃ!」
家来A「ははッ!」
偉ぶった男「……聞けば我らの他にも一群を率いてこの山に入った輩がいるとか。フン、先を越されてなるものか…!」
如月「……………」(黙って侍たちを見やる如月)
???「……下山すればいいのにね」
如月「はっ……!」
???「やあ」
如月「いつの間に…!」
???「雷雨でも起きない限り立ち退かない気かな…。誤って村に辿り着きでもしたら命はないというのに……」(如月の横に並び、侍たちの一群に目をやる)
如月「………君は?」
???「俺のあだ名」
如月「………?」
???「俺のあだ名、知りたいか?」(にっと笑って如月を見る)
如月「………緋勇龍斗?」
龍斗「……………」
如月「人違いならすまない。僕は如月翡翠という、君は―」
龍斗「あーあー、そんなに急いで喋らなくてもいい」
如月「………?」
龍斗「お前が翡翠だという事はすぐに分かった。奈涸と同じ氣を持っているしな。面白くないのは、俺のあだ名を訊かない事だ」
如月「何を……?」
龍斗「本名なんて呼ぶなよ。俺はその名が嫌いなんだ」
如月「君は緋勇龍斗だろう?」
龍斗「……だから俺はそう呼ばれるのが好きじゃないと言っている」
如月「そんな事はこの僕の知った事じゃない。悪いが君のあだ名にもまるで興味がない。僕が興味があるのは―」
龍斗「翡翠」(びしっと如月の鼻先を指差す龍斗)
如月「……ッ!」
龍斗「……面白くない奴だな。お前。自分の事しか考えてないだろ!」
如月「そういうつもりはないが」
龍斗「いーや、お前、人間関係のうまい築き方ってのを知らないな。人と話をしたければな、まずは相手の言う事をきちんと聞け。そういう事、龍麻にも言われた事ないか?」
如月「……! 龍麻に会ったのか!?」
龍斗「ふふふ…さあ、どうかな」
如月「龍麻は今何処にいる!?」
龍斗「教えてほしいか」
如月「………ッ!?」
龍斗「なら、俺のあだ名を訊け」
如月「なっ……?」
龍斗「訊け」
如月「くっ……」
龍斗「ほらどうした」
如月「………君のあだ名は…何と言うんだ」
龍斗「ひーちゃん」
如月「分かった。それで龍麻の居場所は!?」
龍斗「せっかく訊いたんだから、ちゃんと呼べよ」
如月「はっ……?」
龍斗「ひーちゃんと呼べ」
如月「貴様…ふざけているのか…ッ」
龍斗「俺は大真面目だ。さあ、翡翠。俺をひーちゃんと呼べ。呼ばないと龍麻の居所は教えないぞ」
如月「貴様……ッ!」
龍斗「さあ、どうした翡翠」(肩を震わせて笑いをこらえている龍斗)
如月「……こんな人物が龍麻の……」(わなわなと俯いて怒りを鎮めようとしている如月)
龍斗「は? 何? 何か言ったか? ぶつぶつ独り言は怖いぞ。言いたい事があるのならはっきり言え」
如月「何でもない。呼べばいいのだろう、呼べば…!」
龍斗「うん♪」
如月「〜〜〜!」
澳継犬「ぐわわん、ぐわわーんッ【怒】!!」(悔しそうに喚きながら奈涸の書簡を首につけ疾走する澳継犬であった…)
以下、次号………