花の園



  リシュリューは花に興味がない。

  というか、興味のあること自体少ないのだが、唯一楽しみがあるとすれば、多忙な公務をぬって、自らの竜たちと山々を駆け巡ることは好きだった。
  リシュリューは「竜の棲み処」へ行くことを許されている、数少ない人間である。
  小竜のように人の手から生まれた竜でさえ扱いには十分な注意が必要だが、野生の竜はさらに危険だ。また「竜の加護あるオーリエンス」だからこそ、徒に竜の聖域を侵して、自らの欲の為に竜を捕えようなどという行為も、代々の王より固く禁じられていた。
  しかしだからこそ、そこには人の気配がない。
  つまり人間嫌いのリシュリューにとって、そこはこれ以上ない「息の抜ける場所」となり得た。……普通の人間ならば命が幾つあっても足りないところだが、幼い頃より竜の特性を心得ているリシュリューにとっては、竜の棲み処は「ちょっと散歩へ行ってくる」というくらいの場所なのだ。

  ただ、最近はそこで「現実逃避」することもめっきり減った。
  ついでに、小竜と戯れることも激減した。
  何故って、今のリシュリューにはクリスという婚約者ができたから。

「このブルーバユーには、元々“不可能”とか“有り得ない”って花言葉があるんです。それはこんなにも美しい青色をした花を咲かせることは人間の力ではできない、もし目にすることができたとすれば、それはまさしく奇跡だからということから生まれた花言葉なんです」

  嬉々として話すクリスの横顔こそ「奇跡だ」と思いつつ、リシュリューはその「全く興味のない花の話」を何となく耳に入れていた。
  そう、リシュリューは花に興味がない。
  しかし、そんなことはこの際どうでも良い。クリスが楽しそうにしていることが重要なのだ。クリスから発せられる話題なら何だって良いが、それはクリスにとって幸せで嬉しいことでなければならない。この可愛らしい唇が楽しげに動くところを眺められるだけでリシュリューも幸せだし、嬉しくなる。胸が高鳴る。
  だからクリスがここまで喜ぶのなら、この庭一帯を全てバラの花だけにしてもいいとさえ思う。
  クリスがそれでバラの花ばかり見てしまうのは、それはそれで妬けてしまうので複雑なところもあるけれど。

「僕ではうまく育てられるか心配でしたけど、アダンさんにいろいろ教えてもらえたお陰で、たくさん咲かせることができました」

  一番の古株である庭師の老人の名を出しながら、クリスはまだその青いバラとやらがうまく増えたことを話していた。
  確かにメディシス家の庭師らは、皆経験豊かな一流の職人だが、このとても貴重らしい奇跡の花がうまく咲いたことがクリスの功績であることは誰もが認めるところだった。アダンら他の庭師にはクリスにない経験上の知恵があり、それがクリスの力添えをしたことも間違いないのだが、クリスには彼ら職人にはない不思議な力がある。それはリシュリューは勿論のこと、屋敷の誰もが認めるところであった。
  クリスが持ち得る不思議な力。
  動物や植物と心を通わすことができるという稀有の力。
  不意に、叔父のジオットや隣国の知人が「クリスは特別だ」と言った時のことがリシュリューの脳裏を過ぎった。

「リシュリュー様?」
「……ん」

  そのせいで、リシュリューは不覚にも折角のクリスとのひと時を、一瞬とはいえ、ぼうとして過ごしてしまった。だからクリスが不思議そうに話しかけてきたことにもすぐに気づくことができなかった。

「ああ、すまない。どうした?」
「あの…リシュリュー様、お疲れではないですか?」
「俺が? 何故?」

  クリスの申し訳なさそうな表情に驚いて、リシュリューは瞬きしながら訊き返した。クリスと一緒にいて疲れるわけがない。仕事上の疲れはあるが、それもクリスといるお陰で癒やされているくらいだ。
  けれどそのことがこの控え目に過ぎるフィアンセには分からないらしい。

「折角のお休みですのに、僕の話など退屈なのではないかと…。申し訳ありません、浮かれて一人でたくさん話してしまって」
「何を言う! お前のする話なら、何だって楽しいに決まっている!」

  心底驚いてリシュリューは思わず声を張り上げた。それによってクリスはびくんと肩を揺らしてますます恐縮した顔を見せたのだが、リシュリューはそれに構うことができずに、余計焦ってクリスの肩を掴んだ。

「本当だぞ!? ああ、すまない、俺が間の抜けた顔をしていたせいでお前に要らぬ心配をかけてしまったのだな! 違うんだ、ちょっとつまらんことを思い出してしまっていて!」
「つまらないこと…?」
「ま…まぁそれは、お前にわざわざ教えるほどのこともないほどに、つまらないことだ! ああッ!? しかし、そんなつまらないことで折角のお前の話をロクに聞いていなかったとあっては、余計に申し訳ないか!?」
「い、いえ、そのようなこと! 僕こそ、リシュリュー様のことも考えずに――」
「だからそれは違うと言っている!」
「はいっ」

  勢いこんで「怒鳴られた」せいで、クリスは反射的に背すじを伸ばし、兵士のような返事をした。それでリシュリューはまたガックリときてしまったのだが、自分が落ち着かねばクリスがますます硬くなることは間違いないので、何度も深呼吸をした後は、まず自分の気を鎮めようと努力した。

「クリス…」
「はい…」
「何と言うか…。もう一度はじめから言うと、俺はお前のする話が好きだ!」
「…勿体ないお言葉です」

  まだ硬い。じりじりとした想いを抱きながらリシュリューは続けた。

「正直に言うと、花自体には興味がない。俺はこの通り無粋な男だし、メディシスという決められた枠の中で生きてきた俺の人生に、こういった…なんというか、この手のものが介在する余裕はなかった。ああ。言っておくが、植物の育成というものを軽視しているわけではないぞ。俺には縁遠いものだったと言いたいだけだ」
「分かります」
「ありがとう。だがな…愛するお前がこうして俺の傍にいてくれて、そんなお前が愛しいと思うものの話なら…やはり俺も同じように愛しいと思いたいのだ。…まぁ俺はどちらかと言うと、愛しいもののことを話す時のお前がより愛しいと思うばかりなのだが…いや!き、きちんと花のことにも詳しくならねばとも思っているんだぞっ?」
「リシュリュー様…そのようにおっしゃって頂けるだけで、僕は本当に幸せ者です。どうかご無理はなさらないで下さい」
「無理などしていない!」
「あの、僕こそ、リシュリュー様のお好きなことを同じように好きになりたいです。それに、お忙しいリシュリュー様のお手伝いもしたいです。僕にできることは何でもおっしゃって下さい」
「………」

  必死に言うクリスを健気だと思う一方で、「やっぱり気を遣われている」と思うと、リシュリューの胸は僅かに痛んだ。
  大体、リシュリューの好きなことと言えば竜と対等な戦いをすることだが、クリスはそんなことをしなくても竜を捕えることができるだろうし、手伝いと言ったら国の公務をこなすことで、それこそとんでもない話である。クリスを城へあげるなど考えただけで恐ろしい、余計な心配が増えるだけだ。
  しかしだからと言って「お前にできることなど何もない」と言うわけにもいかない。

「…お前は、ただ俺の傍にいてくれればそれで良い」

  だから結局いつもと同じことを言ってこの会話は終わるのだが…。クリスがそれで満足するわけもなく、2人の間には暫し気まずい空気が流れた。
  ああどうしてこうなってしまったのか。
  折角、クリスが嬉しそうだったのに。

「クリス」

  だからリシュリューはその空気を無理やり払拭するべく、おもむろにクリスを引き寄せてその甘い唇にキスをした。間が持たなくなったからと口づけするなどどうなのかという気もしないではなかったが、当面リシュリューがクリスに向ける愛情表現と言ったら、こうしたスキンシップがほとんどだ。これは元来リシュリューという男が不器用で口がうまくないこととも大いに関係しているのだが。
  けれどこの時はクリスもどこかホッとしたように感じられた。リシュリューからの求めにおとなしく応じ、二度、三度とそれがかわされた後は、安堵したような笑みすら浮かべたのだ。
  リシュリューはそんなクリスの顔を見ただけでたちまち全身が熱くなった。
  まだこんなにも明るいのに、もうクリスを寝室へ引っ張りこみたい衝動に襲われて堪らなくなる。

「リシュリュー様…」

  するとそれを素早く察したのだろうか、微かに途惑いを見せながらも、クリスはリシュリューの腕をぎゅっと掴むと、自分こそが早くそうして欲しいのだというように自ら身体を擦り寄せてきた。

「………っ」

  それでリシュリューの理性の糸はいともあっさり絶ち切れた。

「クリス…!」

  部屋に行く間も惜しいとばかりに、リシュリューはクリスの手を引くと、庭園の奥にある小さな宮を目指し、歩き出した。そこはクリスを初めて抱いた、いろいろな意味で複雑な想いの絡みあう場所ではあったのだけれど、今はただただ、欲望のままに歩を進めた。
  大振りの花びらを惜しげもなく開かせているバラの群れを横切ると、ふわりと芳しい香りが鼻先を掠めた。花には興味がない。けれど、悪くない。
  リシュリューはクリスの手をきゅっと握り返すと、その色彩に歓迎されているような錯覚に気を良くし、ふっと息を漏らした。
  すると、それと同時に、後ろにいるクリスもふっと力を抜いた良いに感じられた。
  それが真っ直ぐに伝わって、リシュリューはまた違う意味で胸が熱くなった。

  リシュリューの素晴らしい休みは、今こうして、始まった。




.....Fin.....