イオの薬(後編)



  男の名はアロイスと言った。姓まで尋ねれば外出の度に物々しい警備がつく彼の素姓も知れただろうが、イオは特に訊かなかったし、アロイスも話そうとはしなかった。
  アロイスはイオが薬草売りの仕事をする日には必ず会いに来るようになった。
  そして最初こそ取り留めもなく草の事など訊ねてきたが、さほども経たないうちに彼はイオ自身の話を好んで聞くようになり、そこでイオがあまりに惨めな暮らしをしている事が分かると、今度はあれこれと口出しをして世話を焼きたがった。それは服を買ってやるだの食事に連れて行くだのといった類の話なのだが、イオがそのいずれにも頷かないと、アロイスは後から人を使ってイオの家まで食料や衣服を贈りつけてきた。
  そうなると、いよいよもってイオは困惑した。
  アロイスを「ぶっきらぼうだけど良い人」と認識はしている。はじめこそ緊張したり戸惑ったりもしたけれど、今では堅い表情ながら優しい言葉をかけてくれるアロイスに純粋な好意を抱いている。
  アロイスはイオの話をよく聞いてくれるし、一方で、やはり国の中枢にでもいる人物なのか、イオの知らない世の中の事もたくさん教えてくれる。イオは「早く大人になりたい」と背伸びばかりしてきたから、そんな風に誰かに物を教わる事が新鮮だった。通いの薬師はイオの最初の師には違いないが、いつも必要最低限の話しかしてくれなかったし、どこかイオを「貧しい学のない子ども」とか、「都合の良い小間使い」位にしか見ていない節があった。イオが自ら森に出向いて積極的に学びの姿勢を見せる事にもあまり良い顔はしなかったし。
  だからこそ、アロイスの淡々としつつも明朗で分かりやすい語りをイオは半ば自分だけの「授業」のように感じていた。学校へ行けなかったからそれは尚更だった。
  それに、お父さん―……などと言ってしまうのは、きっとかなり失礼なのだろうけれど、アロイスはイオが想像するところの「一緒に遊べる兄」とみなすには年が離れ過ぎていたし、「先生」と呼ぶにも、出会いの時からくだけた口調で接してしまっていたから、今さら丁寧に接するのも照れくさくて無理だった。
  だからやっぱり思うのだ。想定するなら父親だろうか、と。
  けれど、そんなことを考えていた最中での、この度重なる贈り物。
  確かにイオはアロイスに身内のような親しみを感じている――が、あくまでも彼は他人だ。本来イオとは何の関わりもない、世界も違う。そんな人物にこんな風に特別良くしてもらい、構ってもらうのは「毒」ではないのか。この空気に慣れてしまうのは明らかにまずいのではないだろうか。
  現にイオは今もう既に「アロイスのような人が本当の父親であったなら」などという良くない想像をしてしまっている。アロイスはただのちょっとした親切心で、或いは金持ちの気紛れでこんな真似をしているに違いないのに。このままそんな同情のような施しに気づかぬフリをして甘えていても、イオの今後には何も良い事は起こらない。
  そしてそんな風にイオ自身が自覚し始めた時、だ。

「それでお前、そのお貴族様には、幾らでその貧相な身体を売ったんだ?」

  それはアロイスと出会ってそろそろふた月にもなろうかという頃だった。
  今やもうほぼ寝たきりである実の父から発せられたその台詞は、アロイスとの淡く穏やかな関係にささやかな幸せを見出していたイオの心を木っ端微塵に打ち砕いた。
  しかも父はそんな息子に構わず続けた。

「まったく物好きな金持ちもいたもんだ……。近所の連中もみんな嘲笑ってやがって、お前は父親の俺にも恥をかかせた……。だがな……まぁ、俺もこんなんなっちまったし、貰えるもんは貰っておけ。せいぜいうまく媚びて……、少しでも長く養ってもらうといい。それで俺にゃあ……、まぁそうだな……、立派な葬式でも挙げてくれや」

  喉をひきつらせたような笑いをこぼしながらそう言った、それはイオの父の最期の言葉となった。その後3日と経たないうちに、イオの父親は眠るようにあっけなく逝った。
  確かに、もう随分と前から薬師にももう助からぬ命だと言われていた。だからイオにも覚悟があった。特にここ数日は身体も弱りきっていたし、力ない張り手も暴言もすっかり精彩を欠いていた。分かっていた事だったのだ。だから、最期に息絶え絶えとイオへ向けて放たれた侮蔑の言葉、あれとて、考えようによってはあの父なりに一人残される息子の今後を想って吐いたものだと思えなくもなかった。
  けれどイオは父のその言葉に傷ついたし、その父の死によって何だか全てのことがどうでもよくなってしまった。張りつめていた糸が見事にぷっつりと切れたのだ。



  ******



「イオ。仕事を辞めたのか」
  イオが薬売りをはじめとした全ての仕事を放棄して間もなく、アロイスが初めてイオの家にやってきた。
  相変わらず警備兵らしき男たちが数人、遠巻きに、そしてあからさまに立っているのが見えたが、イオにもアロイスにもそれはどうでも良い事だった。
  イオは扉の前で自分より大分背の高いアロイスをぼうと見上げていたが、ふと葬儀の事を思い出してへこりと頭を下げた。
「そういえば…ありがとう」
「何の話だ?」
「父さんの葬式に花を贈ってくれたでしょ…。棺も立派だった。マイヤーさんはサービスだなんて言っていたけど、あのケチな葬儀屋さんが何の恩もない父さんにそんな事するわけないし。アロイスがしてくれたんだってすぐに分かった」
「俺もお前の父親には何の恩義もないと思わないか」
「うん…。でもアロイスは俺に親切だもん…」
  けどもう、と。
  イオは一度言葉を切ったものの、ふらふらと家の中へ戻りながらアロイスに背を向けた格好で告げた。
「もう全部やめて欲しい…」
「やめる? 何を?」
「俺にお情けみたいな施しをする事だよ。アロイスはそもそも俺と何の関係もない人なのに、こんなにしてくれるの、おかしいでしょ? ……それに俺、もう必死になって働く必要なくなった。父さんの薬代やら何やらなくなるし。だからもう薬の勉強も仕事も…どうでもいい。意味ないから……」
「意味がない」
「うん…」
「好きでしていると言っていたじゃないか」
「うん…。でも、もう、好きじゃない。よく分かんないけど…何もやる気がしないんだ。どうでもいいって思っちゃってる」
  投げやり、というよりは、どこか茫然と答えるイオにアロイスは相変わらず表情の読めない顔をしていたが、やがて自らもさっさと家の中に入りこむと、木造りのテーブルを挟んでイオの真向かいに当たる粗末な椅子にどっかりと腰を下ろした。
  そうしてアロイスははじめ何事か考えこむように腕組みをしていたが、やがて口を開いて言った。
「父親が死んで悲しいのか?」
「…え?」
  アロイスの簡素な問いにイオはのろりと顔を上げた。
  精悍な瞳が目の前にはあった。
「乱暴者でロクでもない親父だと言っていただろう。まぁそんな事を言う割には献身的に世話していたから、それなりの情があるんだろうとも思っていたが。……だが結局はそれも、お前が“出来た餓鬼”だからやれる事なのだと思っていた」
「出来……何それ…」
「どんなにどうしようもない奴でも親ならば“敬わなきゃならん”とか“助けなきゃならん”とか、そういう考えが自然と根付いている“出来た奴”ということだ」
「…よく分かんないけど…それって厭味?」
「ん?」
「そういう風に聞こえたから…。でも、俺はそんな奴じゃないけど。でも……そもそも、そういう考えっていけないこと?」
  イオのとつとつとした問いかけに、アロイスは軽く肩をすくめた。
「さあな。世間的には良い事なのだろうが、ああ、確かに厭味っぽくなったかもしれないな。俺は餓鬼の頃周りの奴らからそういう観念を押し付けられて嫌だったし、もしお前がそういう考えだったのなら、それがお前にとって良い事なのか……俺には分からないからな」
「アロイスが…? 子どもの頃?」
  不思議そうに首をかしげたイオにアロイスはここで初めて薄く笑った。
「俺とて餓鬼の時代くらいある。母親は初めからいなかったが、父親の方は俺が成人するくらいまではいた」
「俺とおんなじだ」
「……そうだな。似ているかもな」
「それで、そのお父さんのこと、嫌いだったの?」
  仄かに興味を揺らして顔を向けたイオに、アロイスは軽く眉根を寄せた。
「嫌い……と言う感情はなかったが、極力関わり合いになりたくなかった」
「へぇ……」
「おかしいか?」
「ううん、別に。むしろ何だかそれも、それじゃあ俺と同じかも」
「そうか? そこはお前とは違う気もするが」
「ううん…似てるよ。それにさ、さっきの出来た子どもってやつ。俺は全然、そんなのじゃないよ。別に父さんの事を無理にでも尊敬しなきゃとかも思っていなかったし……尊敬なんかした事ないし」
「では、やはり父親への情があったという事か。だから世話もしたし、今悲しいのか?」
  アロイスの問いにイオは力なく唇を動かした。
「そうなのかな…。ううん、別に悲しくないよ。悲しいわけがないよ。だって俺は父さんには本当に酷くされてきたし……その父さんがこういう風に死ぬ事も前から知らされていたんだし。……でも……そうだな、むしろ父さんは病気になってから殆ど動けなかったし、本当に嫌いだったら逃げられたのにね。なのにそんなこと、全然……、俺はしようとも思わなくて」
  それどころかイオは父親の為に薬の勉強をしたし、仕事を頑張ったし、先のないこの親の死に水を取れるのは自分だけだと、常に気を張って生きた。子ども扱いされる事を極端に嫌がり、自分で何でもやれると虚勢を張って、そのせいで父以外の短気な大人から「生意気だ」と殴られた事も何度もある。
  けれど反面、イオは突如として現れたアロイスという優しい大人には無邪気に懐いた。自分たちが周りにどんな風に思われているのかも気付けないくらい無防備に。
  そうしてアロイスが自分の父だったらなどバカな想像までして、それで罰でも当たったのか、実の父から酷い蔑みを受けて。
「何で逃げなかったんだろ」
  バカみたいだ。
「イオ」
  埃っぽいテーブルの上にぽたぽたと丸い水滴が落ちていく。それをぼやけた視界の中で他人事のように眺めていたイオは、アロイスがまるで咎めるように自分を呼んできても顔を上げる事ができなかった。こんな風にみっともなく泣きたくなんかなかった。この無骨そうな、けれど優しい男は、こうして弱っている自分に絶対手を差し伸べてくるに決まっているのだから。
「イオ」
  そんなイオの予感はやはり当たっていた。
「あ……」
  幾ら呼んでも頑なに顔を上げないイオに、アロイスががたりと椅子から立ち上がった音が聞こえた。そしてこちらに覆いかぶさるように近づく影を感じながら、イオは突然引き寄せられるように身体をまるごと抱きしめられながら頭部にアロイスの口づけを感じ取って驚き身体をびくつかせた。
「ひ…」
「逃げるな」
「ちょっ…何……」
  しかもイオが戸惑うのも構わずに、アロイスは、今度ははっきりと身体を屈めイオの顔を無遠慮に覗きこんできた。
  覗きこんで、そのまま顔を寄せイオに口づけた。
「んっ」
  両の腕が硬直したように固まって、イオは中途半端に肘を曲げた状態で咄嗟にきゅっと目を瞑った。アロイスが慰めてくれると思った、それは分かっていたけれど、まさか突然キスされる事までは想像していなかったし、何よりイオは誰かとこんな風に唇をつけあった事が一度もなかった。
  誰かの温度をこんなに間近に感じたことなど一度もないのだ。
「アロ……んっ…んっ……」
  しかもアロイスはイオの驚きや戸惑いや、或いは恐怖といったものが混じりあった感情の色を確実に感じ取っているようだったのに、口づけを止めようとはしなかった。最初こそそっと触れるだけだったのに、二度目、三度目の時には深く重ねられ角度を変えられて何度も啄むように唇を取られた。止めて欲しいと唇を開きかけたイオの口腔に舌を捻じ込んでイオ自身の舌を絡め取ってもきた。
「ふっ…んぅ!」
  ガタンと椅子が傾く音が遠くで聞こえた気がした。本当はすぐ傍で、まさにイオが座っている椅子が動いた音だったのだがそれに構える状態にはない。アロイスが体重をかけてきたせいだ。抱きしめられた格好だからそのまま床の方にまで倒れこむ事はなかったけれど、どんどん追い込まれている、その事だけはよく分かった。
  イオは顔だけでなく身体中が熱くなった。
  と同時に、死んだ父が嘲笑うように「お前はその貧相な身体を幾らであのお貴族様に売ったんだ」という台詞が脳裏を過ぎった。
「あ…っ…」
  薄く目を開いた先でアロイスの熱っぽい瞳ともろにぶつかった。
  だからすぐに思った。

  何だ、結局そうだったんだ。父さんの言う通りだったんだ。
  俺なんかのどこが気に入って、この人はこんな事をしたいと思ったんだろう。

  慰めてもらえるなどと思いあがったのがいけなかったのだろうか。イオが自虐的にそう思いながら、何だか全てがどうでも良くなって自暴自棄に身体から力を抜くと、アロイスはそれを了承とでも受け取ったのか、不意にイオを抱え上げるとそのまま、どうしてその場所が分かるのか、イオのみすぼらしい寝台にまで移動した。
(こんな所でいいのかな……。アロイスはお金持ちみたいなのに)
  2人が乗っただけでぎしぎしと壊れそうな音を立てるベッドの音が嫌だった。マットレスも汚いし、まだ明るいから、誰かが通りかかりでもしたら外からもこの様子が見えてしまうかもしれない。
  すぐ隣は、ついこの間まで寝ていた父のベッドだってある。
  嫌だな。
(……でもアロイスは俺に親切だった。アロイスのお陰で父さんの遺言通り立派な葬式も挙げられんだ。それをしてくれたアロイスに俺は何も返せないんだから……なら、アロイスがしたいなら、いいかな……)
  自分自身は経験がないけれど、子どもじゃない。男同士の夜の営みの事だって全く知らないわけではない。だから、まぁ大丈夫だろう。大体アロイスのような金持ちにはこんなこと、ほんの余興に過ぎないのだから。大した事ない、すぐ終わる。
「嫌じゃないか」
  アロイスはベッドの上でイオに覆いかぶさってきた時、一度だけそう訊いてきた。
  もう衣服を半分脱がされかけていたイオは今更そんな風に問うてきたアロイスを不思議そうに見上げた。その時に初めて、まだ自分の目には涙が残っていて視界がぼやけているのが分かったけれど、真っ直ぐにこちらを見下ろすアロイスの瞳の強さだけは見えなくても「見えた」。
  アロイスはカッコイイなと思った。
  それに綺麗だ。以前、アロイスが自分のことを「汚い餓鬼」と言った意味が今ならよく分かる、そう思った。
「嫌じゃない」
  だからイオはそう嘘をついた。
  本当は嫌……というよりも、凄く怖かったし不安だったのに、そう答えた。
  アロイスとの縁も今日限りだと思いながら。



  ******



  翌朝、室内で複数の人間の話し声が聞こえて、イオは薄っすらと目を開いた。
  扉付近に誰かいる。
「う……」
  気だるい身体を無理に起こしてイオがそちらへ意識をやると、「イオ」とアロイスの呼ぶ声が聞こえた。一体どういう人間なのか、ほんの少しの息遣いか、或いは身体を起こした気配だけで、アロイスはイオが目覚めた事に気が付いたようだった。
「目が覚めたか」
  朝の光の中でアロイスはもう昨日出会った時と同じきっちりとした服に身を包んでいた。気のせいか着ている物自体は変わっているような気がしたが、とにかく身体も怠いし起きたばかりでイオはそうした事を細かく追及する気力がなかった。
「外に誰かいるの」
  それでもそれだけは気になってイオは訊いた。昨日はまだ明るいうちからこんなあばら家でアロイスに身体を許し、まさに父や近隣の住民たちが好き勝手に憶測していた事を実行してしまった。だからもう、彼らに対して怒る権利がイオにはない。その彼らが、何だかんだとかこつけて様子を窺いにでも来たのだろうか、そう思った。
  嫌だな。
  でも、アロイスを悪く言われるのはもっと嫌だとイオは思った。
「気にするな」
  けれどアロイスは誰が来たとも何も言わずそれだけを言うと、すたすたと近寄ってきて「大丈夫か」と訊いた。
「うん」
  イオは単調にそう答えたが、ここで初めてまじまじとアロイスを見上げて、大丈夫かと訊いてきた当のアロイス自身がちっとも大丈夫そうではない事に気がついた。
「どうしたの」
「何がだ?」
  けれど本人は分かっていないらしい。イオの問いに怪訝そうに首をかしげたアロイスは、しかしそのままベッドに腰かけるとイオの頬をおもむろにさらりと撫でた。
  それがやはり変わらず優しいものだったのでイオは少しだけほっとした。
  一度したらもう捨てられるのかと怖かったから。
  昨日のことを最後にもう縁を切るのだと決めていたはずなのに咄嗟にそう思った自分が情けなかったが、イオはこの時確かにそう思った。
  アロイスが優しくしてくれて良かったと。
  それでいよいよアロイスの様子を気に掛ける余裕が出来てイオは再度尋ねた。
「でも顔が赤いよ。熱でもあるみたいに……」
「別にない。大丈夫だ」
  急いたようにアロイスはそう答えたが、自分の額に手をかけようとするイオにぎくりと一瞬仰け反るような所作を取り、その後どこか苦しそうにはっと息を吐いた。
  それでイオもいよいよ心配になってくる。
「とても大丈夫そうに見えないよ……あ、薬飲む? 少しなら、確かあるから……」
「いや、大丈夫だ。第一、お前にそんな事をしてもらうのは却って毒だ」
「え」
「それより、俺はもう行かないといけない。お前と夜を明かす気はなかった。用心していたのに、とんだ間抜けだ」
「………何」
  唐突に放たれたその台詞にイオがショックを受ける間もなくアロイスはまくしたてるような早口で続けた。
「昨日ここへ来たのは、お前とこんな風になる為じゃない。確かに俺はロクでもない奴で、お前が以前言っていたようないい人間なんかでは到底ないが、親を亡くして弱っているお前にこんな付け込むような真似をするほど落ちたつもりもなかった。病気は治ったと思っていたのに」
「……病気?」
  呆然として繰り返すイオにアロイスは真剣な顔で頷いた。
「ああ、そうだ。病気だ。お前といると具合が悪くなる病気だ」
「………」
「2度目に会った時のこと、覚えているだろう?」
「2度目……? え……あぁ……うん」
  アロイスが何を言おうとしているのか分からなかったが、イオはもうそれどころではなかった。じわじわとアロイスに言われた事に哀しく絶望的な気持ちがして身体中から血の気の引く思いだったのだ。
  そんな風に言うくらいならどうして昨日あんな風に。抱いてきたのはアロイスの方なのにあんまり酷過ぎる。
  それに今だってこんなに優しく手を握ってくれているのに。
「イオ」
  アロイスが俯いてしまったイオを呼んだ。イオは顔を上げなかったけれど。
「イオ」
  するとアロイスは視線をかわす事は諦めてさっさと自分の言いたい事を進めた。
「大丈夫だとは言ったが、問題がないわけじゃない。その俺の病気と、今外にいる面倒な奴らの事だ。いや、まあ、あいつらはいいか。それより、俺はあの時、たった2度しか会っていないお前のことが可愛いと思った。そう言っただろう? しかも、お前と離れている間はお前の事ばかり考えて胸が痛くなるし、お前の顔を見ないと落ち着かない。あのな、イオ。俺は恋を知らない十五の餓鬼じゃないんだ。俺はあのバカなリシュリュー・メディシスとは違う。一時あれと交流があったから、俺たちを知っている奴らからはよく似ているなんて揶揄される事もあるけどな。冗談じゃないんだ。そうじゃなく、俺は、本当はお前をまっとうに可愛がってやりたかった。そう思っていたはずなんだ、だから何度も接していれば、このおかしな病気も治ると思っていたんだ」
「………え。あの」
  熱に浮かされたようにまくしたてるアロイスにイオは最初悲しい気持ちからやがて唖然とし、最後にはぽかんとして目の前の「大人」をまじまじと見やった。
「アロイス……一体何を言っているの」
「だから」
  アロイスはどこか焦れたような顔をしながら一気に言った。
「だから俺は、本当はお前の父親になりたかったんだ」
「…………え?」
「――と、思っていたはずなんだが……、どうやら違ったらしい」
「え、ええっ??」
  訳が分からず今度はイオがぎょっとして仰け反ると、アロイスはそれを許さないとばかりにぎゅっと掴んでいた手を握り直してイオを自らの懐に引き寄せた。
「わっ…アロ…!」
「俺はまっとうな息子の役は出来なかった。だから、それならまっとうな親にはなりたいと思っていたんだ。だが、俺の立場では自由な結婚などはなから出来んし、したいとも思わなくなる……。だから、せめてキーリングの家を継ぐ養子くらいは自分で自由に選びたかった」
「よ、養子?」
「ああ。この国にいると色々面倒事が多いんで、近々隣国のオーリエンスにでも姿を隠そうと思っていたんだが、その前に俺は家の……というより、キーリングの名前だな、これを継いでくれる餓鬼が欲しかった」
「キーリング……」
「ああ。勿論、養子にした奴はこの国に残ってもらう事になるが、俺はまっとうな親としてそいつにまっとうな保証だけはしてやるつもりだった。そういう風にしたかったんだ」
「……それってまっとうな親のすること?」
  世間の基準とは明らかに外れているアロイスの考えに思わずそう発したイオだが、それにしてもキーリングとは聞いた事のない名だった。勿論、イオは王都の貴族全てに精通しているわけではないが、アロイスはこの否応もなく漂っている威厳といい、いつも傍にいるあの警備兵たちといい、恐らくはその名を聞いた瞬間、もう今のような関係を保てなくなるほどの名家の出である事は確実だと思っていた。
  けれどアロイスが残したいというそのキーリングという名に、イオは覚えがなかった。
「でも、養子なんて……。俺、こんな家の生まれだし」
「生まれなど問題じゃない。問題があったのはお前に親がいた事だな」
「え?」
  イオの分からないという風な顔にアロイスは小さくため息をついた。
「俺は家族のいる餓鬼から無理やり自分の元へ来させる事はしたくなかったから、なるべくなら、はなから親のいない奴か、或いは保護者とうまくいっていない奴が理想だったんだ」
「ああ……それであんな通りをうろうろしていたの」
  得心したようなイオにアロイスはぞんざいに頷いた。
「ああ。恵まれた環境で暮らしている奴より、この辺りで暮らしている餓鬼の方が根性の据わったのも多いと思ったしな。俺の元に来るからには、それなりに図太い神経でないと保たないだろうし――」
「え?」
「……いや。とにかく、だから、だ。俺はお前を気に入っていたし、お前を俺の養子にしたかったんだ。だから、俺はそうと決めてからお前の親父が死ぬのも心待ちにしていた」
  アロイスの言葉にイオは驚いて、思わずひゅっと喉を鳴らした。
「最低だろう?」
  けれどアロイスが素早く先取りしてそう言ったものだから、イオは割とすぐに落ち着きを取り戻せた。余計な事を考える間を与えられなかったのが却ってよかったのかもしれない。
  しかし、それより。
「あの………」
「ん?」
「あのさ……それで……。何で、そんな養子にしたいとか思っていて、何で……昨日みたいな事に、な、なるの?」
  イオはやっとの思いでそれだけ訊いた。アロイスはまだイオの手を取っている。それはとても温かくて優しいのだけれど、でも何だかよく分からない。分からないと気持ちがざわざわして不安な気持ちになる。
「だから言っただろう」
  けれどアロイスはそんなイオを改めてぎゅうと抱きしめて髪の毛に押し付けるようなキスをして、それからどこか腹立ち紛れに言った。
「病気なんだ。俺は。俺はお前が可愛くて仕方がない。お前が愛しいんだ。養子としてとかそういうんじゃない、お前を愛したい。昨日のように。……そんなつもりじゃなかったのに……本当に一体、どうしてくれる?」
「しっ……」
「し?」
  アロイスが身体を離してイオを見つめる。
  イオはそれに何故かカッとして思わず叫んだ。
「知らないよそんなのっ!!」
  それしか言えないとはこの事か。
「そん……もうっ、バカッ!!」
  ただイオはようやくそれだけ文句を言って、アロイスの胸を両手で突いた。イオより断然がたいのあるアロイスはそんなものにはびくともしなかったのだが、自分でも「バカ」だという事は重々承知しているのか、苦虫を噛み潰したような顔をしつつも「すまない」とようやっと謝罪の言葉を口にした。
「す……すまないって……。そんなの……」
  けれどそんなアロイスにほとんど絶句してしまったイオは。
「そんな……急に、そんな」
  そんな風に戸惑いの反応を見せつつも、イオは。
「ひどいよ……」
  とは言いつつ。
  始末の悪い事に、イオは相手のたったそれだけの言葉で毒気を抜かれ、あっという間に許してしまった。
  そうして泣きべそ混じりになりながらも、イオは勢いのままアロイスの首筋にしっかと抱き着いた。



  ******



  アロイスはカッコイイ憧れの大人だけれど、一方でどこかずれている子どもみたいな大人。
  その事がイオにもよくよく分かったのは、その日のうちに半ば攫われるようにしてアロイスの屋敷へ連れて行かれてからすぐの事だった。
「せ、先王の、第一皇子……?」
  王都の近郊とは言え、中央地からは少し外れた比較的こじんまりとした屋敷を見て、イオは最初率直に安心した。アロイスに選ばれてアロイスと一緒にいられると言うのは嬉しい事だったけれど、本当に自分がアロイスの…高貴の出の養子になるとか、そういう事はあまり考えたくなかった。その名が大きければそれは余計だ。そんな責任は負えないと思った。
  けれどアロイスはイオを形式上養子にするという事自体は諦めていないようで、イオを連れてきた翌日には自分の家の事を世間話のようにさらりと伝えた。
  そこで知ったのがとんでもない出自である。
「そういう風に呼ぶ奴もいたが、当時は呼ばない奴の方が多かった。確かに俺は先王が一番目に作った餓鬼には違いないが、母親が正妃でも妾妃でもなかったからな。俺を生んですぐに王宮を追われて、その後すぐに死んだ事だけ聞かされたから、嫉妬に狂った他の妃どもに殺されたのかもな。保険としてとりあえず王城に残された俺の方も常に微妙な立場で何回も殺されかけたし、あそこには全くいい思い出がない」
「ちょっ……」
「だから今の国王……つまり、一応弟という事になるが、これが生まれて俺はすぐに王族の地位を放棄した。その後一時隣国のオーリエンスに行かされたりしたが、まぁこの国には俺の存在を良く思わない奴が多かったし、先王にしてみればあの一見厄介払いな態度も親心だったのかもしれん。今にして思えば」
  淡々と話すアロイスにイオは咄嗟に自分の父の最期の言葉を思い出した。
  そしてそれに対し、「そうかもしれない。やっぱり今にして思えば、あれもあの人なりの親心だったのかもしれない」と、そう思った。――というより、そうでも思わないとやっていられない。
  だからイオは、自分も今後は父の「遺言」をアロイスと同じ風に受け取る事に決めた。
「それにしても……アロイスが王族の人だったなんてびっくりだよ。でもだからあんなに警備の人がたくさん後をついて歩いていたんだね」
「ああ、あの迷惑な奴らな」
  今こうしている間も、窓から見える庭園にはその周囲をぐるりと護るように立っている男たちの姿が見える。イオもいい加減顔を覚えつつあるが、そのいずれもが、がたいがあってよく訓練されているのが分かる体格の持ち主である。
「今、王城は現国王とその王弟どもがくだらん権力争いをしているから中が酷く荒れているんだ。それで、そのどの勢力にも入らない奴らが無理やり俺を擁立しようとし始めた。俺はオーリエンスのメディシスと繋がりがあるし、以前戯れに捉えた竜が権威の象徴のようになったのもまずかった……が、どう考えても無茶苦茶だろう? 俺はとうに王位なぞ捨ててる。だから関わり合いになりたくなくて、戦いの意思なしと俺自身は武器の携行を止めたのに、そしたら―ー……今度は、あの俺を護るとか言うあいつらが物々しく後をつきまとい始めたんだ。どうあっても放っておいてくれないらしい」
「そ、それで……亡命しようとしてたの?」
「まあな」
  アロイスはさらりと答えたが、直後ふっとバツの悪そうな顔をした。
「だからつまりは……これで分かったと思うが、俺と共に在るというのは危険な事だ。本当はお前を巻き込むべきじゃないとは、お前を知れば知るほど思ってもいた」
  だがな、と。
  アロイスは物憂げだった表情から不意にさっと揺るぎない瞳を湛えると言った。
「だが、そういういい人間の真似をするのは、所詮俺には無理な事だと気が付いた。俺は勝手な奴だからな。お前にとって俺の元にいる事が危険でも。俺はお前を傍に置きたい」
「傍に…? ただの、名前を継ぐだけの養子じゃなくて?」
「そうだ。……俺は、お前といると落ち着かなくて病のように身体が熱い。だが、お前がいなければ俺はもっと……死にそうになる、だから――お前自身が俺の薬になってくれ」
  アロイスのその熱っぽい言葉に、イオは殆ど条件反射のように頷いていた。
  何もかも、もうどうでもいいと思っていたはずなのに。
  アロイスと居続ける事は、それこそイオにとって毒だと思っていたはずなのに。
「うん。一緒にいる……いたい」
  他の選択肢など全く考えられない。何故って、何の事はない、イオはもうアロイスから片時も離れたくないと思ったから。
  だからイオはその想いのまま淀みなく笑った。
「……そうか」
  するとそうされたアロイスはまた胸を痛めたように少しだけ軽くそこを抑えたものの、何とか持ちこたえて「ありがとう」と素直な礼を吐いた。
  因みにアロイスが手を添えたその胸元にあの時のクロースが隠されていたとイオが知らされたのは、また大分後のことである。




Fin…