自由と鎖 |
リシュリューとは然程の年齢差もない「叔父」ジオットは、このところやたらとメディシス家の門をくぐる。 「もう商売には飽きたのか」 リシュリューはこの叔父のことが好きではない。元々人間嫌いで通っているので、好きな人間自体そういないのだが、例えば亡くなった父親のことは尊敬していたし、その父が崇拝していた現国王のことも、ほんの時々「首を締めてやりたくなる」以外は、「まぁ出来る人物」だと認めてもいる。長年メディシス家の執事として家を守っているシューマンは家族より近しい家族だし、少数精鋭で固めている直近の家臣たちも、「まぁまぁ使える者たち」としてその働きに見合った報酬や賛辞を与えることもある。だから勿論、嫌いではない。 しかしこのジオットは嫌いだ。 「お前の人生の恩人に対して、つまらない厭味を言うな」 ……そう、こういうところがあるから嫌いなのに。 それでも二の句が継げずにぶすりと沈黙するリシュリューに、その恩人であるジオットは慣れたように肩を竦めた。 「何度も言うようだが、俺とてこんな状況、本意ではないのだからな。お前たちの婚儀の件が片付くまで戻りたくても戻れんのだよ。お前が言うところの俺の商売にも大きく影響するんでね、この国の要人であるお前の結婚は」 「………ふん」 「それに、お前がこれ以上クリスに無体を働かぬよう、姉上から直々にお目付け役を仰せつかったというのもある」 「……………」 商売のことよりもこちらの理由の方が大きいのだろうことが分かって、リシュリューは否応もなく深いため息が漏れた。ジオットも嫌いだが、あの母親は大嫌いだ。拍子抜けするほどクリスとの結婚には賛成の意を唱え、その点だけは良かったのだが、どうにもすんなり自分たちの式を挙げさせようとしないのは、ここにいるジオットと同じようだ。 もっとも、リシュリュー自身、クリスの気持ちが固まるまで「待つ」と決めた身なのだけれど。 ジオットといつまでも対面しているのが嫌だったので、リシュリューはふいと視線を外へ向けた。窓辺のそこからはバラ園がよく見える。そこにはクリスがいる。いつものように楽しそうに嬉しそうに花の手入れをするその姿は、見ていて心底癒やされる。 ……ただ、その姿を完全に見ることは出来ないのだが。 「あのデカブツ……」 クリスの姿だけ見ていたいのに、傍にぴたりと寄り添う小竜がとてつもなく邪魔だ。クリスが庭に出ると、いつも小竜がああやってすっ飛んできて横にくっついてくる。以前とは大違いだ。 クリスが来る前の小竜は、リシュリューが屋敷にいない時は勿論、いる時とて、庭園になど滅多に姿を現さなかった。勿論、使用人らに近づくこともなく、裏手にある竜の森―リシュリューが手懐けた竜たちの棲み処―にいることがほとんどだった。小竜は生まれつきの障害のせいで他の竜たちからバカにされ、いじめられている節があるから、他の竜よりは人間の居住地に近い所にいるのだが、それでもリシュリュー以外の人間と馴れあうことなどなかった。 それなのに。 クリスがいるようになってからの小竜は、やたらとあの大きなナリで敷地内をうろちょろするようになった。竜の中では小柄と言っても、人の数倍はある身だ、そんな巨体がクリスの傍にいればクリスの全身はほとんど隠れてしまうし、自然、見る方も小竜の姿に目を奪われてしまう。そして、見たくもないのに、「あいつはわざとやっているんじゃないか」と思うようなクリスへの過度な甘え―身体を摺り寄せ喉を鳴らす―仕草を見せつけられる羽目になる。また、これにクリスも優しく応えて身体を撫でてやったりするから堪らない。 ずるい。 ……と、リシュリューは思う。何せリシュリュー自身は、婚約者(であるはず)のクリスから、一度もあのような「親しげなスキンシップ」をしてもらったことがないのだ。 「――おい。おい、聞いているのか、リシュリュー!」 「………あ?」 「……聞いていなかったんだな」 呆れたようにため息をつくジオットに、ここでようやくリシュリューは屋敷の中へと視線を戻した。まだジオットが何か言っていたらしい。外には邪魔な小竜、内にも邪魔なジオットと、どうしたらクリスと2人きりになることが出来るのかと、リシュリューは真剣に悩んでしまう。 「もう一度言うぞ。クリスに休みをやれ」 「休み?」 クリスという単語が出たことでリシュリューは完全にジオットへ意識を向けた。それから徐々に不穏な気持ちが湧く。一体何を言い出すのかと不快になった。 「どういう意味だ。確かにクリスは一日中忙しないが、その度、俺はきちんと休めと言っているんだ。しかしクリスがどうしてもと言うから――」 「庭の仕事や馬の世話のことを言っているんじゃない。それはクリスがやりたくてやっていることだ、俺も煩く言うつもりはないよ。むしろそれくらいやらせてやらないと、あの子が可哀想だからな」 「どういう意味だ!?」 「休みというのは、実質あの子が完全に自由になれる時間を与えろ、という意味だ。完全に1人になれる時間だ。実家に帰るでもいいし、気晴らしに何処かへ出かけさせるのでもいい。……クリスは、ここへ来てからまともに外へ出たことがないだろう?」 ジオットのその指摘に、リシュリューは思わずぴたりと動きを止めた。 だから返答出来たのはややあってからだ。 「そん……なことは、ない。お前と母上が俺からクリスを遠ざけたのはつい最近の話だろう」 「そんな話をしているのじゃない。あれはイレギュラーだ」 「何を…!」 「いいから、あれ以外で考えてみろ。お前自身がクリスにそのような時間を与えたことがあるのかと言っているんだ」 「……ないことはない。城下にあるハンナの花屋へ行くことはあるし、裏手の竜の森へも行ったことがある」 「それはお前も一緒だろう」 「当たり前だ、1人で行かせられるような場所じゃない! それが何だ!?」 「いちいち激昂するな」 ウンザリしたようにジオットは片手を振り、それから自らも窓辺へ寄ると、先刻リシュリューが見ていたバラ園へと目を向けた。 未だ同じようにクリスはバラの手入れをしつつ、合間にちょっかいをかけ、じゃれてくる小竜の遊び相手もしている。……と、言葉で言うのは容易いが、事情を知らぬ者が目にすれば一見して恐ろしい光景ではある。何せ小なりとは言え、一匹の竜が一人の青年にやたらと擦り寄っているのだから。 「以前、アロイス様から伺った。『剣も持たずに竜を掌握する人間は、世界でも稀だ』と」 何ともなしにそう呟いたジオットに、リシュリューは露骨にむっとした。 「それとクリスを自由にすることと何の関係がある」 「関係はない。……今のはただの独り言だ」 ジオットは何を考えているのか分からない能面でそれだけ返すと、再びいつもの飄々とした表情に戻って嘆息した。 「ともかく、お前は『待つ』と言ったのだから、時折はあの子にゆっくりと考える時間を与えるべきだ。いつもお前を強く感じる屋敷にばかりいては、それも叶わぬだろう。それくらいの余裕は見せたらどうだ?」 「な…っ」 最後の台詞を妙に静かに言われたせいで、リシュリューはいつもの怒号を出す機会をすっかり奪われてしまった。 それで。 それで、仕方なく。 リシュリューはクリスを呼んで、「渋々」、その提案をしてみることにした。 「クリス…。実家に帰りたいか?」 「え?」 「あ! 違うぞ!? お前を帰したいと言っているのではないからな!? そうではなくて、ただ俺は、お前に好きな時間を与えてやろうと思って…!」 「…好きな?」 きょとんとして首をかしげるクリスに、リシュリューは尚わたわたと慌てながら口を継いだ。 「ああ、お前はいつも屋敷のことを何でもしてくれて、それは助かるしありがたいが、偶にはゆっくり休んだらどうかと思ってなっ。使用人たちでさえ、7日に1度は休みを得ているのに、お前はずっとここにいるだろう。だから、もしお前が窮屈な想いをしているのなら、と」 リシュリューのこの早口に、今度はクリスが早口になって返す番だった。事の次第を理解して焦ったのだろう、あたふたとしながら両手と首を同時に振る。 「窮屈だなんてとんでもないです! 僕はいつも勿体ないくらい良くして頂いています! それなのにリシュリュー様にそのようなお気遣いを…! 本当に申し訳ありません!!」 「……いや……俺こそ悪い……」 またクリスに謝られてしまった。 きっと言い方が悪かったのだと思いながら、それでもモヤモヤしたものを抱えつつ、リシュリューは尚気力を振り絞って言ってみた。 本当は言いたくもないことだが。 「とにかく、お前に明日一日自由な時間をやるから、何でも希望があれば言ってくれ。ああ、家族の顔を見たいとなれば一日では済まないから、7日…いや、5日もあればいいか?」 「いいえ、家には帰りません」 「ん……」 リシュリューが怪訝な顔をするのに、クリスは思い切り苦笑した。 「こちらへ置いて頂くことを決めてから、家には二度と戻らぬと決めております」 「……家族は嫌いか?」 ここへ来た経緯が経緯だったと思い至って、リシュリューは途端心配になった。何せ自分の家の存続の為に息子を身売りするような父親である。帰れという方が酷だったかもしれない、そう気づいたのだ。 けれどクリスはそんなリシュリューの想いを素早く否定した。 「そうではありません。あの人たちは、皆、大切な家族です。ただ……僕という人間の根が元々薄情なのでしょう、特別戻りたいとも思わないのです」 「………そうか」 リシュリューはこのクリスの台詞にすぐさま言い返したい衝動に駆られたが、一方で「何も言うな」と囁く自分もいて、この時は後者が寸前で勝利した。 リシュリューはクリスを薄情とは思わない。現にクリスがここへ来たのは家族を救う為だし、今もジオットを通して両親や弟妹たちに何不自由ない生活を送れるよう、これでもかという程の気を配っていると聞く。だから、すぐにそうやって自分を貶めることの方こそを諌めたいし、「俺とて母親のことなぞ何とも思っていないが、それは俺が薄情だと言うことか」と意地悪なことを訊いてみたくもなってしまう。 ただ、クリスが家族に対しては勿論、恐らくは自分自身にも、何か表現し難い複雑な感情を抱いていることは薄々感じているので、下手に無神経な干渉をするのは良くないと思うのだ。 「では、帰郷の件はいいだろう。それ以外では、何をして過ごしたい? 出来れば、いつもの仕事は他の者に任せて、違うことをしてもらいたいのだが」 「え?」 「ああ、これでは自由でも何でもないか! いや、お前がそれで良いというのなら、いつものように過ごしても構わないのだが……た、ただ、もしお前が何か他にしたいことがあればと!」 「ありがとうございます」 クリスは深々と頭を下げて礼を言った。まるで主人と使用人の図だ。リシュリューは苦々しい想いでこっそり渋面を作った。ジオットが言った余計なことのせいで、何だか無駄に気分が悪くなっている。 本当はクリスに、自分の目の届かない所へは行って欲しくないし、何をしてもらいたくもないのに。 (いや、そんなのはそれこそ横暴か……だがもし1人で竜の森へ行きたいなどと言い出したら、それはさすがに無理だし…許すことなど出来ない…。町とてそうだ、どんな暴漢がいるかも分からん、やはり俺がついていないと…) リシュリューが悶々とそんなことを考えていると、ゆっくりと顔を上げたクリスが急に困ったような微笑を浮かべた。 そして言った。 「リシュリュー様。もしかしてジオット様が僕のことで何か言って下さったのでしょうか」 「え!? い、いや別に……」 「今日お帰りになられる時、『うんと贅沢なことを言うように』とだけ仰って。何のお話なのかと思っていたんです」 「あの野郎……」 あくまでも自分の提案としてクリスに申し出るつもりだったのに。これでは「懐の広いところ」を見せることなど出来ないではないか。 「リシュリュー様、僕などにそのように心を砕いて下さってありがとうございます」 それなのにクリスはもう一度、リシュリューに向かって深く頭を下げた。 勿論リシュリューはそれを嬉しいと思わない。 「そういう言い方はよせ。お前にだから俺はしたいのだから…」 「あ、はい、そうでした。申し訳ありません」 「謝るのもなしだ!」 「あ」 力なく笑い、クリスは困ったように頭だけをぺこりと下げた。仕方ない、クリスのこういうところはもう仕方がない、と。そう思いながらも、リシュリューは何ともしがたい気持ちでクリスの手を引き、強引に傍へと寄せた。 そうして自らの膝の上に座らせ、恥ずかしがるクリスに有無を言わせぬ口づけをした。リシュリューはこうしてクリスに触れる度、とても安らいだ気持ちになる。クリスの方は相変わらず緊張した面持ちで身体を硬くし、リシュリューにしなだれかかるその格好に恐縮しきりなのだけれど。 「これは言っても無駄なことだが…」 だからついリシュリューは愚痴めいたことを言ってしまう。 「もしも俺がメディシスの…国の要人などではなく、ただの男であったなら、お前ももう少し砕けた態度で俺と接してくれたのだろうか」 「リシュリュー様……」 「いや。恐らく俺という奴は、ただの男でもこのまま変わりないだろうから、やはりお前もこのような感じかな」 「……今、物凄く謝りたい気持ちなのですが、ここで謝っては駄目なのですよね」 「ん? はは…そうだな」 クリスの言い様がおかしくて、リシュリューは思わず目元を和らげた。自分も徐々に学習しているつもりだが、それはクリスにしてもそうらしい。嬉しくなってクリスにもう一度口付けると、クリスはすぐに目を瞑ってそれを従順に受け入れた。 だからリシュリューはその後も二度、三度と啄むようにキスを続け、それだけでは物足りなくなって、さらに深々とクリスの口腔内を激しく犯した。 「ふっ…ん…」 クリスがリシュリューの肩に遠慮がちながら手を添えた。触れてきてもらえる喜びにリシュリューは心内で震えた。たったそれだけのことなのに。けれど、小竜にはあんなに臆することなくべたべた触っているのに、自分には滅多にしてくれない。だから、こんな些細なことでもとても貴重な一瞬だと思える。 そんなことを考えていたら、リシュリューはもうクリスに「1日自由な時間」の話をするのが嫌になった。 ひとしきりキスを終え、リシュリューはまじまじとクリスの目を覗き込んだ。潤んでキラキラと光るその漆黒の瞳は美しいという言葉では足りない気がする。 リシュリューはそれをもっとよく見たいと、クリスの前髪をそっとかきあげながら自らの顔を近づけた。 「クリス。本当のことを言って良いか」 「本当のこと…?」 「偶にはお前を手放してやれる度量の広い男だと誇示したくて、ジオットの馬鹿な提案に乗った。だが、それは本心じゃない。本当は……本当は、俺はお前を、俺の目の届かぬ所へやるのは気が進まない」 「はい」 「しかし、お前も一人になりたい時くらいあるだろう。俺とてそういう時くらいある。だから…つまりな。そう思った時は、頼むから俺にそう言ってくれ」 クリスに無理をさせる自分ではいたくない。 そんなのは本当の愛情ではないから。 けれど。 「言わないです」 あっさりと返されたのは、そんな言葉。 「………何?」 リシュリューは暫し距離を取って改めてクリスの顔を直視した。 クリスは至って真面目な、しかし一方でどこか清々とした表情も見せていた。 そしてもう一度同じことを繰り返したのだ。 「言わないです、リシュリュー様。そのようなことを思う時などありません。勿論、リシュリュー様がお一人になりたい時は後ろに控えておりますけれど……それ以外は、僕はずっとリシュリュー様のお傍にいます」 「………クリス」 そのいやにきっぱりした物言いに、リシュリューは思わずたじろいだ。意外な反応、と言って良いかもしれない。いや、クリスならこう答えても不思議ではないかもしれない、けれど。 「それは……俺は、嬉しいが、しかし」 「リシュリュー様。本当にありがとうございます」 それ以上を言わせず、クリスはもう何度目だろう、リシュリューに抱かれた格好のまま、ゆっくりと頭を下げた。瞬間、リシュリューの鼻先にふわりと芳しい花の香りが風のように過ぎった。クリスの瞳と同じ漆黒の髪がリシュリューの目前で柔らかく揺れたからだ。 (駄目だ……もう) リシュリューの心臓はたったそれだけで―…クリスの匂いを嗅いだというただそれだけで、はちきれんばかりに高鳴った。 「俺はお前を手放せない…」 思わず天を仰ぎ、片手を顔に当てた格好でリシュリューは思い切り息を吐いた。すでに末期症状だと思っていたが、これ以上進行することがあるだなんて。この恋の病とやらは一体どこまでいってしまうものなのだろうか。 どこか絶望に近いような想いにすら駆られ、それでもクリスに触れずにはおれなくて。 リシュリューは自らに寄り添うクリスの背中を、さらに強く引き寄せた。 もう二度と、こんなくだらない提案はしないと心に誓いながら。 |
.....Fin..... |