小さなその手をとるために(+α…) |
「あれの母は、まさしく鬼のような女でね」 己の実母でもある元王妃に対し、そんな言い回しで国王シリウスはアサヒに哂って見せた。 「幼い頃からハルベルト以外の子はどうにも可愛くなかったらしい。それというのもこの俺を含め、ハルベルト以外は皆、国王以外の不義の子として噂が立っていたからだが」 「陛下」 近くで竜と戯れているフェイに聞かれてはとアサヒが気にしたように声を潜めたが、シリウスはまるで知らぬ風を装って変わらぬ調子で続けた。 「だが、フェイはまさしく先代の血…少なくとも、我がギルバドリクの血流の者だ。あの赤い瞳が何よりの証拠」 先代の王こそがその血を濃く受け継がなかったが、ギルドバリクで王位を継いだ名王は例外なく赤い瞳の持ち主なのだとシリウスは言った。 「無論、見目だけであれがこの国の王たるにふさわしいと思ったわけではないがね。何せあの竜にしろ、お前が帰ってきた事にしろ―…何かにつけて、あれが特別だという験(しるし)がそこかしこに表れるものだから」 「ギルバドリク国王は、シリウス陛下以外に考えられません」 「ハッ……俺を煽てても何も良い事はないよ? だがまあ、今はそういう事にしておこうか。何にしろ、他の兄弟も叔父上たちも何とも心許ない。あれらが王では、この身にもいつ災いが降るとも限らぬからね」 シリウスは相変わらず涼しい顔をしてそう言い放った後、ふうと軽く息を吐いて背後の宮をちらりと振り返った。恐らくは途中で放り出してきた執務の数々を思って憂鬱になったのだろう。 このところシリウスは弟王子の「変化」が楽しくて仕方がないのか、しょっちゅう適当な理由をつけ足しては、アサヒたちのいる中庭の宮にフラリと立ち寄る。その為アサヒも随分と気安く王宮の内情を聞かされるようになっていた。 そのせいで無駄な敵が多くなってきている事には、内心で溜息が止まらないのだが。 「あれはお前が来てから、ますます可愛くなったな」 シリウスが言った。 「7年前に俺がこの国に戻ってきた時は、とにかく捻くれて荒んでいた。今もそういうところは往々にしてあるが、それも昔の比ではない。まぁ、実の母に地下の岩牢へ突き落とされた事もあるというから、致し方ないと言えばそれまでだが」 「……………」 「その時にユディヒルの遺児とも会話をした事があるとかないとか……お前は覚えがあるかい」 「いえ」 短く否定してアサヒはその会話を流した。どうせシリウスはある程度知っていてわざとこんな探り方をしているのだろうし、律儀にフェイとの大切な思い出を話す必要もないと思った。フェイの守り役に就けてくれた事は感謝しているけれど、とにかくこの王は底意地が悪いのだ。 「アサヒ」 そうこうしているうちに、竜と遊び疲れたらしいフェイが2人の元にやって来て疑わしそうな目を向けた。シリウスと何かを話している時、フェイは大抵そういう顔をする。 「いつまで兄上と無駄話をしている? 早く俺の剣の相手をしろ」 「おいおい無駄話とはないだろう? フェアリィはいつでもこの兄をないがしろにする」 「そんなつもりはありませんが…。アサヒと何を話していたのですか」 フェイはシリウスには強く出られないのか、少しだけ躊躇うような態度を取ったが、それでもアサヒを渡したくないのか、その場に留まって仏頂面をして見せた。 けれどそんな弟王子だかこそ、からかいたくて仕方がないのだろう。シリウスはわざとフェイがムキになるような事を口にした。 「いや、何ね。お前にもあの緑竜が子飼についた事だし、アサヒにはそろそろ俺の仕事を手伝ってもらおうかと思って」 「なっ…」 「陛下」 アサヒが眉をひそめて諌めようとしたが、それでもシリウスは止まらない。大きな瞳をめいっぱい開いて驚愕しているようなフェイに更に追い討ちを掛ける。 「以前からお前はアサヒを邪険にしていたようだし? 自分の身は自分で守れると言っていたろう? ならばアサヒはもう必要ないな。俺の元に置いてしまおう」 「だ…駄目ですっ、そんな!」 「おや? それは何故? ああ、それと。アサヒにもそろそろユディヒルの家を盛り立てる為に美しい姫君を充てがってやろうとも思っているのだ。先ほどはその話も少しね」 そんな話は微塵もしていないのに、シリウスはニヤニヤとしたままフェイの一挙手一投足を見逃すまいとそんな事を言う。 フェイは見るも憐れなほど蒼白になってぶるぶると小さく震え出していたが、それでも兄王に強く出られない事は変わらないらしい。すっかり俯き黙ってしまい、外目からも明らかな落ち込み具合で、また動揺しているのが分かった。 だからアサヒも堪らず口を挟んだ。 「陛下。そろそろお戻りになりませんと、執政官殿がまた胃を悪くされてしまいますよ」 「ん? そうだな、それではそろそろ戻ってやるとするか」 俺の元につく事を考えておけよ、と。最後までそんな事を付け足して、シリウスはしょんぼりとしてしまった弟王子をそのまま放置し、軽やかな足取りで去って行ってしまった。可愛い可愛いと誉め倒す割に、シリウスはいつでも意固地なフェイをからかい、苛める事を何よりの息抜きにしている節がある。小さく息を吐いて、アサヒは下を向いて唇を噛んでいるフェイの元に膝を折った。 「フェイ様」 「……兄上の下に就くのか?」 「あれは王の戯れです。本気のわけがありません」 「どうしてそんな事が言えるっ?」 そんなの分からないだろうとフェイは怒鳴り、八つ当たりのようにギッとした視線をアサヒにぶつけた。傍で緑竜が「くう」と低く呻く。フェイの感情に驚くほど左右されるこの竜は、フェイの些細な心の揺れにも敏感に反応するのだ。 アサヒはそんな竜をちらりと見てから、そっとフェイの手を取った。 「アサヒはフェイ様のお傍を離れません。何度も申し上げましたでしょう」 「信じられない」 「では、信じて頂けるまで繰り返します」 「アサヒ」 酷く甘えるようなくぐもった声でフェイはアサヒを呼び、おもむろにその首筋に抱きついてきた。王宮の中で、しかもこんな風に誰がいつ見ているかも分からぬ場所で。 まずいかもしれないと思いつつ無碍に振り払う事も出来ずに、アサヒはそっとフェイの背中を抱いた。 「アサヒ……絶対に許さないぞ」 するとフェイが言った。 「俺以外の人間につく事は許さない。それは例え兄上であっても、だ」 「承知しております」 「そ、それにっ」 不意に顔を上げて視線を交わしてきたフェイは、ちらりと窺い見るような顔をした後、ぼそりと本当に小さな声で言った。 「け……結婚など、させないっ」 自分で言っておいて、その無茶な要求に自分自身で苦しむのだろう。フェイは真っ赤になった後、それでもその言葉を撤回も出来なくて、再度アサヒに抱きついてから今度は大きな声で言った。 「分かったのか!? そんな事…俺は絶対に許さないからな!」 「承知致しました」 「ほ、本当に分かったのか!? そ、そんな風に簡単に返事して!」 「簡単な事ですから」 本当にそう思ったからこそアサヒはそう言ったのだが、フェイは今イチ信じられないようだ、未だむっとした顔で再びアサヒを睨みつけ、それから不意に辺りを見回した後、「来い」と言ってアサヒの手を強引に引っ張り始めた。 「フェイ様?」 「いいから、来い!」 そうして首筋まで赤くしている主の姿に怪訝な想いをするアサヒをよそに、フェイは開けた王宮の中庭から少し外れた木陰の所にまでアサヒを引っ張って行った後、再度用心深い所作で辺りをきょろきょろと見回した。 「どうなさいました、フェイ様?」 「こ、ここなら……誰も見ていないから」 「は……?」 アサヒがいよいよ意味が分からないと言う風に首をかしげると、フェイはアサヒに再び膝を折るよう命じてから、顔だけでなく耳まで赤くした状態でぽつと言った。 「ま、前にしたの……しろ」 「前、ですか?」 「そうだっ。お前の屋敷で……お前が俺にしたこと!」 「はぁ……」 思わず曖昧な返事をしてしまい、アサヒはそれからハッとして驚いた顔を閃かせた。 フェイはアサヒのそんな様子に気づく余裕もないらしく、ただアサヒを離すまいとぎゅっと強く手首を掴んだまま、ひたすら視線をあちこちに飛ばして落ち着かないでいる。 「フェイ様…」 アサヒの屋敷でアサヒがフェイにしたこと。 あの緑竜が悲痛な声で啼いていた時、そもそもそれ以前にいつでも泣いていた孤独な王子は、アサヒがそっと触れるくらいの口づけをしただけでとても静かになり、そして素直になった。アサヒはただただフェイを愛おしく思ったが故にそうしたわけだが、後から考えるととんでもなく大胆な真似をしたものだと肝が冷えた想いもした。 何せフェイは意地っ張りが服を歩いているような存在だし、そんな王子を宥める為とは言え、あんな風に何度も己の唇を向けるなど、断罪されても何も言えないところだ。 フェイはアサヒのあの行為を何も指摘しようとはしなかったが、けれどあれ以来、シリウスが言うようにフェイが「余計可愛くなった」というのは真実だったし、また以前よりも格段に素直になったのも間違いのない事だった。 けれどまさかフェイの方からこんな風に「あの時の事をしろ」と言われるとは思いもよらなかった。 「アサヒ」 焦れたようにフェイが再び口を開いた。自分に手を掴まれたまま微動だにしない騎士に痺れを切らしたのだろう。ただでさえこんな要求をするのはきっととても勇気が要ったのに、相手が動かないのでは面目も立たない。フェイは今にも泣き出しそうな弱気な顔で、けれど声だけは精一杯意地を張った尖ったものを出してアサヒをねめつけた。 「アサヒ…俺の命令が聞けないのかっ!?」 「そうではありません」 ああ、やっぱり泣いてしまった。突然ぽろぽろと綺麗な滴が瞳から零れ落ちた事で、アサヒは慌ててその涙を拭いながら視線を合わせて微笑んだ。 「あまりに突然仰られたものですから……驚いてしまっただけです」 「嫌なのかっ」 「フェイ様こそ、お嫌だったのでは?」 「俺がしろと言ってるんだから、嫌なわけないっ。やっぱりアサヒは意地悪だ!」 ぶんぶんと何度か握っている手首を振って、フェイは再度「早く」とアサヒをせっついた。 ああいうのは勢いが重要なのであって、こんな明るい日差しの下、例え人気のない場所とはいえ王宮の中庭でする事ではない。けれどこんな風に相貌を崩した王子を見ていると、そのまま拒絶してしまう事の方が余程恐ろしくもある。 だからアサヒはフェイの指先を持ち上げてそこに軽いキスをした。 「こんなのっ」 「はい」 手だけでは駄目だと文句を言おうとしたフェイに、アサヒは先んじて返事をした。所詮アサヒとて、一度近づいたら止められないのだ。 「フェイ様」 だから優しくそっと呼びながら、アサヒはすかさずフェイの瞼にもキスを落とした。涙の残るそこに触れるとほんの僅か唇が濡れた。アサヒは大切なものに触れるようにそっとそこに唇を当てただけだったが、フェイはびくりと大仰に反応し、直後潤んだ瞳をさっとアサヒに差し向けた。 「もっと……」 そうしてアサヒの手にぎゅっと触れ、フェイは駄々っ子のようにそう言った。 「はい」 だからアサヒも従順に頷き、顔を寄せて今度はフェイの唇に自らのそれを重ねた。 「ん……」 フェイが目を瞑ったまま、喉の奥でくぐもった声を出した。いつの間にか握られていた手はアサヒの首筋へと移行し、くっと縋るようにそこへ触れられる。 アサヒはそれを意識しながら自らも己の手をフェイの頬へと運び、更に深い口づけを施した。 「はっ…んんっ…」 唇をほんの僅か開いたフェイの口腔内に己の舌を差し込み、中をまさぐる。フェイは更に身体を揺らして、息苦しそうにそっと眉をひそめた。それでもアサヒから離れる所作は見せない。アサヒ自身もどんどん身体が熱くなり、フェイの唇を、それこそこれまでには決してなかったほど乱暴に、強引に何度も何度も貪った。 「ふ…アサ…っ…んんっ」 苦しいと言外に訴えてきたフェイがアサヒの服を引っ張った。 「はあっ…」 それでアサヒもようやく唇を離したのだが、思いの外長い口づけだったのだろう、互いの唇は艶かしく濡れ、どちらのものとも取れぬ唾液がフェイの唇の端を辿っていた。 「フェイ様」 それをさり気なく拭いながらアサヒは困ったように苦笑した。フェイはまだ涙を零している。幾ら何でも理性の箍を外し過ぎたとアサヒも今さらながらに焦ったが、それでも不思議と悔いる気持ちだけは湧いてこなかった。 「アサヒ」 するとフェイは唇を震わせながらも酷く弱気な声で言った。 「この前のと……今のは、全然違ったぞ」 「そうですね」 申し訳ありません、と。大して申し訳ないとも思っていないような口調でついつい言ってしまったアサヒに、けれど意外やフェイは「謝るな」と不機嫌な顔を見せた後、ぼそりと告げた。 「この前のより……良かった」 「え?」 「アサヒっ」 そうしてフェイは出し抜けアサヒの首筋に再び抱きつき、それから顔を赤くしたままの状態でぎゅうぎゅうにアサヒに縋り付いて言った。 「ずっと……ずっと、俺の傍にいろ。兄上が何と言っても、絶対だ」 そうでないと許さない。 フェイはそう言ってアサヒが自らの背を抱き返すまでアサヒに抱きつく力を緩めようとしなかった。 「……はい」 だからアサヒもそんなフェイに更に愛しさが湧き上がり、至福の表情でしっかと返事をし、その小さな身体を包み込むようにして抱きしめた。 「ずっとお傍に」 フェイにはもう何度となく告げたその誓いだ。それでもアサヒ自身、その言葉は何度言っても足りないように思われた。 だからフェイが満足してアサヒに極上の笑みを向けてくれるまで、声が果てるまでそれを繰り返そうと心に決めた。 |
Fin…
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