執事シューマンの申し出



「リシュリュー様。少々お時間よろしいでしょうか」
「……良くはないが、それでも話す気なんだろう」
  屋敷の忠実な執事であるシューマンが畏まった様子でそう話しかけてきた時、リシュリューは思い切り苦い顔をした。
  登城するまではまだ少し時間に余裕があったが、だからこそ、そういう貴重な空白は全てクリスに回したかった。最近になってようやく共に食事をとれるようになったのだ。これから始まる王宮での憂鬱な仕事を考えれば、この朝のひと時はリシュリューにとって大きな癒しであり、必要不可欠なものだった。
「回りくどい言い方はよせ。何が言いたいんだ?」
  ちらりと傍のクリスへ視線をやり、リシュリューはぶすくれた声で言った。
  これまでがこれまでだけに、クリスの前ではなるべく不機嫌な様子は見せたくない。
  とは言え、執事や他の使用人たちがいる前で、締まりのない態度を示すわけにもいかない。クリスにだけ良い顔をするのも問題だ。何せ、ついこの間までは散々クリスを邪魔者扱いして、「お前なぞ、一日も早くジオットに引き取らせるからな!」と豪語していたのに、今やクリスへの待遇は、あのボロ小屋住まいから「客人級」の待遇でこの屋敷に住まわすという、180度「ころっと」異なるものへと変えてしまっているのだ。この上さらにクリスにだけ優しくしているところを見られては他の者に示しがつかない。そうでなくとも屋敷の主たるもの、いつでも厳然とした態度が求められるものだし。
  ……当の使用人たちにしてみれば、全くもって「そんなこと」という感じなのだが、リシュリューだけはそういうことを気にしていた。……けれども一方で、「クリスに怖い人間だと思われて無駄に怯えられるのは嫌だ」という想いも強く、何と言うか、本人自身、何とも言えないジレンマに陥っているのだった。
  しかもそんなリシュリューの悩みを知ってか知らずか、クリスの方もまた、その生来の奥ゆかしさ故に急変した己の境遇に居た堪れないらしく、ついこの間までは本当に異常なほどリシュリューとの近くなり過ぎた距離を気にしていた。だから同じテーブルにつくことも随分と躊躇っていたのだ。リシュリューが強引に「命令」と押し切って今に至るのだけれど。
  だからこそ、このぎこちない関係を何とかする為にも、朝のこういう時間は大切なのに。
「話とは何だ?」
  シューマンはこの屋敷においてリシュリューの子どもの頃を知る数少ない人物である。もともとリシュリューやリシュリューの母親の「ちょっと問題」な気性のせいで、オーリエンスきっての名門・メディシス家のはずなのに、長続きする使用人は非常に少なかった。何せ親子ともども心が狭くて他人に容赦ないから、よほど鈍感か人間が出来ているような者でないとここでの仕事は務まらないし、そもそも主人らによって「お前は気に食わないからクビ」という目に遭う者も多くいたのだ。
  そんな中にあってシューマンは前代の主の頃からこの屋敷の秩序を守り、気難し屋の今の主にも唯一まっとうに物が言える貴重な存在だった。
「リシュリュー様のお帰りのお時間についてでございます」
  そのシューマンは淡々として告げた。
「このひと月ほど、お帰りのお時間をお聞き致しましても、リシュリュー様はそれより一刻以上もお早いお帰りのことが殆どでございますので、わたくし共としましてはご主人様のお出迎えを満足に出来ないことを心苦しく思っております」
「……早く帰ってきては悪いのか」
  ちらちらとクリスの方を見たが、クリスはそんなリシュリューに戸惑いながらも、シューマンの言いたい事が掴めないようできょとんとしている。
  シューマンは続けた。
「とんでもございません。いつ何時でも、ご主人様のお帰りに対応させて頂くことがわたくしどもの務めでございます。…ですが、リシュリュー様は毎回徒歩でお戻りになられますので、そのお帰りを門前でお出迎えさせて頂くタイミングを計ることはさすがに難しく――」
「別に、そんな出迎えなどいらん」
「そういうわけにはまいりません」
  シューマンにとって、主人の戻りに併せて屋敷の外でその帰りを迎えることは実に当たり前の、そして必ずや成さねばならない仕事の一つであるらしい。勿論それはシューマンだけに限ったことではなく、使用人一同、出来得る限り全員が揃ってそれを成さねば意味がない。だからその為にはリシュリューから聞く「帰りの時間」は正確であればあるほど良い。
  無論、帰りの時間などずれこむことも多いだろうから、必ずやその通りの時間でなくとも良いし、そんなものは主人の勝手だ。それに大体は馬車の音なり、竜の羽音なりで門前に着く主人の帰りを誰かしらが察知することは可能である。……普通に帰ってきてくれる主人ならば。
「俺は馬車や竜で王城へ行くのは好きじゃないんだ!」
  そう、しかしリシュリューは国の要人としては全く「ありえない」ことなのだが、徒歩通勤者なのである。屋敷から王宮までは約5キロといったところだが、城下街の中央を突っ切って行けばリシュリューにとってそれは然程の距離ではない……らしい。とは言え、やはりリシュリューのような身分の者がそこまでの距離を普通に歩くなどとは、非常識という他なかった。
  けれどリシュリューは最近、歩いて帰ってくることが余計楽しくなっていた。
「とにかく、出迎えとかそんなものは特に気にする必要はない!」
「で、ですが……」
  その時、ずっと黙っていたクリスが恐る恐るという風に口を開いた。リシュリューがはっとして視線を向けると、クリスは心底申し訳なさそうな顔をしながらもどこか懇願するような目を向けた。
「僕も、リシュリュー様のお帰りにはいつも気づかずに失礼をしてしまって……申し訳なく思っていました」
「な、何を言うんだ。別にいいと言っているだろう!」
  むしろクリスは気づかなくていい。
  そう思っているリシュリューである。
「シューマン、お前、余計なことを言うな!」
「申し訳ございません。……ですが、このようにクリス様も日々お心を痛めておいででして」
「なっ…」
「シューマンさん…っ!?」
  これにはクリスも驚いて目を見開いた。
  この場でシューマンだけが平然としている。
「クリス様は今やリシュリュー様の大事なお客様ですのに、未だに屋敷の雑事やバラ園のお世話などをして頂いております。使用人一同、そのことに深く感謝こそすれ、クリス様が日ごろお気になされているような迷惑などということも決してないのですが……、クリス様の御身体はまだ万全ではございませんし、少しでも多く休息を取って頂きたいのです」
「シューマンさん、僕はもう大丈夫ですからっ」
「いや、クリス。これはシューマンが正しい。お前は働き過ぎなのだから少しは休んだ方がいい」
「で、でも……」
「ですが、この頃はリシュリュー様のお帰りのお時間が分からないので、クリス様も寝室でお休みになるのが憚られますようで」
「……は?」
「シューマンさんっ」
  クリスがいよいよ焦った風に声を上げた。しかしシューマンは構わない。
「特に先週の数日だけ取ってみましても、7日のうち2度もクリス様がお休みになっていらっしゃるうちにリシュリュー様がお帰りになられ、クリス様は『リシュリュー様を寝ていて出迎えられなかったなどとは無礼にも程があった』と、それはそれは気に病まれまして…、最近では頑としてお休み頂けず」
「そんな、そんなことっ」
「………」
  クリスは必死にそれは違うと言い張っていたが、リシュリューとしては言葉もない。
  そもそも、「それこそ」がリシュリューの狙いなのだ。むしろリシュリューはクリスの寝顔はもちろん、そうでなくとも自分の存在に気づかず伸び伸びと薔薇の世話をしたり本を読んだり、小竜と戯れている…そんなクリスの自然な様子が見たいからこそ、わざと「こっそり」帰ってきているのだ。それが楽しいのだ。
  しかし確かに、そう言われてみれば最近はそんなクリスの姿のうち、「お昼寝」のシーンはあまり見られなくなったなと思っていたが。
  まさかそれが自分のせいだったなんて。
「……クリス。その痩せた身体がまっとうになるまではよくよく休むのがお前の仕事だと何度も言っているはずだ」
  ごほんと咳き込みながらリシュリューは努めて威厳のある風に言った。
「きちんと休息を取った上で働くと言うのなら…お前がどうしてもやりたいというから仕方なく許していたが、そうでないのならもう仕事をすることは認められないな」
「でも僕はもう本当に大丈夫なんです!」
「煩い、大丈夫じゃないっ。い、いいか、命令だからな。ちゃんと休め! 俺の出迎えが気になって眠れないなら……分かった、これからはなるべく予告通りに帰る」
「リシュリュー様…」
  そうなるとクリスの寝顔はいよいよ見られなくなるが、仕方がない。我慢するしかないとリシュリューは心の中だけでがっくりと肩を落とした。
「お時間が分かりさえすれば、わたくしとしましてもありがたく存じます」
  するとどこか気落ちした風の2人に反し、シューマンはいやにしれっとしてからすっとリシュリューの傍に近づき、恭しく腰を曲げながらもそっとリシュリューにしか聞こえない声で何事か呟いた。
「……っ」
  リシュリューはそんなシューマンにぎょっとしたが、クリスの手前何も言わずに口を噤む。
「……クリス」
「は、はい」
  そしてクリスに向かい、リシュリューは言った。
「いいか。休むんだからな、きちんとベッドで! 薔薇の世話をするなとは言わんが……シューマンにも確認させるからな」
「はい……申し訳ありません」
  しゅんとするクリスにずきりと胸が痛んだが、それでもふうと息を吐いてリシュリューはすっかり冷めてしまったティーカップを勢いにまかせてぐいと煽った。

  シューマンの奴、なかなか策士だな。

  そう思いながら、しかし確かに協力体勢を敷いてくれる人間が1人はいた方がいいかと思い直す。
  シューマンは、リシュリューが帰りの時間を正確に教えてくれたなら、「その時間に併せて、クリスにお昼寝を勧める」と囁いたのだ。
  リシュリューは既に自分の心内をすっかり知られている昔馴染みの執事に冷や汗を流しながらも、今日からまたクリスの寝顔を見ることができると秘かにわくわくとする気持ちを止められなかった。
  だからやっぱり、今日も絶対早く帰ろうと心に誓うのだった。




.....Fin.....