天駆ける青の竜（＋α）



　 リシュリュー様が帰宅したら真っ先にまた謝ろう。
　 そう意を決し緊張していたクリスだったが、執事であるシューマンから食事は先に済ませておくよう託が届いたと告げられたあたりから、身体の力みは消えないまでも、心はひどく萎んでいった。
　 リシュリュー様はきっと、自分の顔も見たくないのだ――、そう思えば思うほど、クリスは足元がグラグラと覚束なくなった。しっかりしなければと叱咤してもどうにも駄目だ。自分は王の許可なく王城へ足を踏み入れた不届き者。その上、礼服どころか作業着で入城し、あまつさえその姿のまま、王が誇る第一騎士団の人々と図々しく言葉まで交わした。考えるだに居た堪れない。…クリスは己の言動をそう何度も自虐的に振り返りながら、ひたすら悶々とした時を過ごした。
　 そうこうしながらリシュリューの帰宅を今か今かと待ち構えていたクリスだったが、実際、それを告げられた時はたじろいで、一瞬ではあるが椅子から立ち上がるのが遅れてしまった。
　 螺旋階段を下りてその場に行き着くと、すでに扉の前ではシューマンをはじめ大勢の使用人たちがリシュリューを待ち構え、一列に並んでいた。以前はクリスもその列の後方で出迎えをしていたが、今はシューマンより前で出迎えるのが常だ。リシュリューの婚約者なのだからそれも当然なのだが、クリスは未だにその慣習に馴染めず、申し訳ない想いをしながらこそこそと進み出る。幸い、そうやってその場に到着した直後に扉は開かれた。リシュリューが颯爽と皆の前に姿を現す。もう大分遅い時間だった。

「お帰りなさいませ」

　 クリスは何とか気張って声を出した。無駄に大声を出すわけではないが、疲れて帰宅したであろうリシュリューを前に、陰気な声で迎えたくはなかった。きちんと出迎えて、その上でリシュリューが落ち着いてから改めて謝罪したい。そういう風に思ったのだ。

「クリス。城では悪かった」

　 しかしリシュリューはクリスのその決死の想いも何もかもを白くするような速さと、そして無機的な様子でそう言った。

「え…？」
「お前は何も悪くない。あのバカ女に強要されて断れる者はそういない。あの場ではお前を責めたが、無論、あの様な言葉は俺の本心ではない。分かってくれるな」
「…はい、勿論です」

　 リシュリューの立場を考えれば、あの時の態度など当然だ。ほんの一瞬は口ごもったものの、クリスはすぐにそう返した。クリス自身は己に非があると思っているので、そんな風に言われるのはいっそ恐れ多い。確かに、騎士団の人々でさえ押さえるのに難儀していた騎士隊長をあの場で拒絶することは、クリスにとって「物理的に」不可能だ。しかし、殆ど何の抵抗も出来ぬまま、流されるようにつき従ってしまった自分を肯定もできない。入城は避けられなかったとしても、せめて着替えを頼むことはできたはずだし、それくらいの願いなら彼女も叶えてくれただろう。また、詰所に着いた時点で、他の騎士に事情を話すことも出来たはず。それらを全く試みぬままに、ただ固まっていただけなのだから、やはりあの場でリシュリューが言ったことは間違っていない。

「リシュリュー様、あの――」
「今日は疲れた」

　 しかしクリスが焦って発しようとするのを、リシュリューはそう言って止めた。驚いてまた口を閉ざすと、リシュリューはそんなクリスを見下ろしてどこか冷え冷えとした調子で続けた。

「クリスは、食事は？　きちんと済ませたのか？」
「…っ。はい」
「ならば今日はもう休むといい。俺も寝る」
「リシュリュー様、お食事は」

　 さっさと歩き出したリシュリューの背にシューマンが静かに訊ねた。リシュリューはそれに振り返りもせず「要らん」とだけ応えると、後はもうクリスを一瞥することもなく階段を上って行ってしまった。いつも外着からの着替えを補佐している使用人らはかなり意表をつかれたらしく、慌ててその後を追ったが、リシュリューはそれにも煩い虫を払うかのような所作で「お前達も下がれ」と片手を振って拒絶した。
　 クリスは螺旋階段の向こうに消えたリシュリューを追うように顔を上げつつ、半ば唖然とした想いでフロア中央に立ち尽くした。
　 リシュリューの言葉と態度はまるでちぐはぐである。口ではクリスは悪くないなどと言ったが、全身から発せられるイライラとしたオーラは誰もが感じられるところであるし、怒っていることも明らかだ。本気で失望させてしまった。しかしこんな風に距離を取られてしまってはどうしようもできない。

「リシュリュー様もあの様に仰っておりますし、クリス様もどうぞお休み下さい」

　 その時、クリスの後ろに控えて立っていたようなシューマンが穏やかな口調で語りかけた。クリスが黙って振り返ると、いつもと変わらず淡々としている忠実な執事は、「今日は大変な一日でございましたから」と珍しくニコリと微笑んで礼をした。通常、彼が己の表情を変えることは殆どない。あまりにクリスがくずおれそうに見えた為、安心させようと思ったのかもしれない。…しかし今のクリスにはそんなシューマンの心遣いすら息苦しく、黙って礼をするのが精いっぱいだった。

（リシュリュー様が休めと仰ったのだから…休まないと…）

　 フラフラと自室に戻り、閉めた扉に背を預けたクリスは、心の中でまずそう思った。今の自分ができることは、リシュリューの命令に従うことだけだ。それはいつもと変わりがないが、今夜は特に守らねばならない。こっそり夜の庭へ出て行って小竜と戯れたり、バラを眺めたりといったことも、間違ってもしないようにしなければ。……もっとも、そんな気分にはどのみちなれるわけもないが。

≪クルオオォ……≫

　 けれど、クリスがそう思って首を振った時、タイミングが良いのか悪いのか、聞き覚えのある鳴き声が窓の外で響き渡った。クリスがハッとして窓際へ駆け寄ると、月下の明かりに照らされながら、ぎりぎりの低空飛行で、小竜がクリスの部屋の周りを旋空していた。片翼に障害があるとは思えぬ器用さで、小竜は大きな竜ではとてもできないような狭い場所をくるりひらりと美しく巧く飛ぶ。今夜もクリスがどこか落ち込んでいるのを察したのか、己のその飛翔を誇示するように得意げに啼いてみせながら舞っている。

「小竜、凄いね。……ありがとう」

　 部屋の中からだったが、クリスが口元を大きく開いてそう発すると、小竜はそれが分かったのか、もう一度嬉しそうに啼き、それから上空高く舞って行って、そのまま姿が見えなくなった。寝床の森へ帰ったのかもしれない。今夜はもう遊んでくれないと分かっているのか。

「クリス！！」
「えっ…」

　 その時、ノックもされぬまま勢いよく部屋の扉が開いて、リシュリューが焦ったような顔で飛び込んできた。

「リシュリュー様…？」
「竜が来たのか！？　アレクシスか！？」
「えっ…」

　 ツカツカと勢いよく侵入してきたリシュリューは、素早くクリスの身体を押しのけて自分が窓際へ寄ると、警戒したように外を見上げた。目線は上のまま、ガラス窓の扉に鍵がかかっているかも片手でがちゃがちゃ確かめている。クリスは口を半分開いたままの状態でそんなリシュリューを眺める他なかったが、ようやく落ち着いてから「小竜です」と小さく言った。

「は！？」

　 それによく聞こえなかったらしいリシュリューが目を剥いたような顔で訊き返してきた。だからクリスはさらにびくっとなりながら、今度はもっと大きな声で答えた。

「小竜です。夜の挨拶に来てくれて…今はもう、巣に帰ったみたいです」
「……あいつか。紛らわしい声で啼きやがって」
「あの、リシュ…」
「クリス。お前も、もう休めと言ったはずだ。まさかあいつに誘われて、外へ行こうとしていたんじゃないだろうな！？」
「え！　い、いいえ、僕は…」
「俺が休めと言ったら休め。む、これは何だ！？」

　 忙しなく身体を揺らすリシュリューはとても落ち着きがなかった。無駄に怒鳴って、しかしそれが小竜のせいだったと分かって気まずいというのもあったかもしれない。収まりがつかないようで、不意に机の上にあった小ぶりのノートに目をやり、今度はそちらへ足を動かす。クリスもまたそんなリシュリューにあたふたとしながら、その後へ続いた。

「日誌です」
「日誌…？」
「はい。庭園の作業をさせてもらった後に記録しているものです。花の色味や葉の状態、成長過程などを書いています」
「……何故、グレキア語で書いている」

　 無断でそれをパラパラめくり始めたリシュリューは、クリスの説明を耳に入れながらも目線はその冊子に落としたままだった。リシュリューは常々花には興味がないと公言していたから、日誌について質問されたことには少し驚いた。

「アカデミアを辞めてからグレキア語を使うことがなくなったので、忘れないように…」
「何故忘れてはいけない？」
「え？」

　 クリスが目を見開くと、リシュリューはますます決まりが悪そうな様子を見せたが、退く気はないのかきっぱりと言った。

「もうお前にこの言語を使う機会などないだろう。確かに、いつかはグレキアへ連れて行ってやると言ったが……別にお前が話す必要はない。この言葉を忘れても、俺がいれば事足りる」
「……はい」

　 驚きのあまりきちんと返事ができないクリスに、リシュリューはここでようやく声のトーンを一つ落とした。

「お前には……ここで好きな勉強をして良いと言ったし、書庫の物も自由にして良いと言った。――だが、俺を不安にさせるような真似はやめて欲しい」
「不安に…？」
「ああ。お前がグレキア語を学んでいると、俺は不安になる」

　 それはどこか自棄のような、言い捨てるような口調だった。恐らくリシュリューには己が無茶なことを言っているという自覚があるのだろう。
　 だからと言って、それを取り消す気もないらしいが。

「やめます」

　 それに対しクリスはすぐさま返答した。

「もう二度と。日誌も母語で書きます」
「……そうしてくれると助かる」

　 しん、と。２人の間に気まずい沈黙が流れた。しかしリシュリューに部屋を去る様子はない。しかも暫くすると傍にあった椅子にどかりと腰を下ろし、リシュリューはハアと小さなため息をついた。クリスはそれに何とも言えず、ただ佇んでいたが、今こそ昼間のことを改めて詫びるべきか、しかし今このタイミングで言うことは却って逆効果なのではないか？というような直感に悩まされ、逡巡した。
　 然して、その感覚は正しかった。リシュリューは再び苛立ちを抱えたような表情を見せてから口を割った。

「今日のことだが」

　 そうして一度切ると、リシュリューはクリスの前にさっと片手を掲げ、「決して謝らないでくれ」と先取りした。

「もうお前からの謝罪の言葉は聞きたくないから、それは頼むからやめてくれ。分かるな？」
「……はい」
「よし。では、その上で俺から報告することが２点ある。…本当は明日にでもと思っていたが、来てしまったついでだ、今話す。黙って聞いてくれ。いいか？」
「はい」
「…では話すぞ。まず、屋敷の警護責任者と番兵２名が今日付けで職を辞すると申し出てきたが、これを受理した」
「リシュリュー様！」
「黙って聞けと言っただろう！？」

　 意外なことに、クリスの悲鳴より、後から叫んだリシュリューの声の方がヒステリックさを伴っていた。そのせいもあり、クリスは咄嗟に歩み寄った身体をぴたりと止められたし、リシュリューもぐらりと揺らした椅子から転げ落ちずに済んだ。

「……２点目。ヴァージバル騎士長率いる竜騎士第一師団には、私の婚約者であるお前を無断連行し入城させた罪、及び宮内を騒乱させた罪とで、半年間の減給と市街及び郊外の警護任務三か月、顛末書の提出を命じた。言っておくが、極めて軽い罰だ。王の不在時に勝手な真似をした隊長と、それを止められなかった腑抜け共の罪は、本来こんなレベルで済む問題ではない。そもそも市街の警護など守衛隊の仕事なのだから、奴らなど邪魔でしかない、却って迷惑だ。竜騎士団が郊外へ出向けば、呑気な民衆は大喜びだろうが、町の長や官吏にとっては無駄な業務が増える上に、ヴァージバルのバカがいるだけでストレスの種になることは間違いない。いっそ何もやらない方がマシなくらいだ。実際、王妃や武官長は、俺に目くじら立てて奴らを処断する必要などないと笑ったし、何故、お前を早々帰還させたと、この俺を詰りもした。……しかし、そんな場所だからこそ、あそこでは俺という存在が体裁を重んじ、周囲を律してゆくことが必要なのだ。――分かるな？」

　 一気に話し「ふう」と息を吐いたリシュリューは、ここで初めてクリスに向けていた瞳を緩めた。そうして、クリスが何も言おうとしないことに安堵半分、不安半分のような色をちらつかせつつ、再び続ける。

「それと……ああ、要件はこれで終わりだ。この後の話は、俺の内心の問題になる。聞いてくれるか」
「はい…。ですが、僕の罪は……」
「何？」
「僕に対する罰は何なのでしょうか。僕が無断で登城した罪に対する罰です」
「そんなものはない」

　 何を馬鹿なことを言い出すんだとばかりにむっとしてリシュリューは即答した。
　 しかしクリスは全く納得いかなかった。

「ないわけはありません。僕も罰を受けるべきです。リシュリュー様が王国の規律を重んじ、体裁を守る為に皆様に罰を与えると言うのであれば、僕にも等しくそれをお与え下さい」
「お前に罪などない、そう言っただろう。あいつから逃れるのは無理だ、騎士団の連中でさえ――」
「ですが王宮では」
「あの時は第四師団のアブトがいたから、立場上、ああ言っただけだ。お前に咎などあるわけがない」
「では、警護の方たちを辞めさせることも、どうかお考え直し下さい」

　 クリスの逸ったような、しかし意思の籠った言い様に、リシュリューは途端カッとなったような声で叫んだ。

「俺がクビにしたわけじゃない！ あいつらが勝手に辞めると言い出したから、あぁそうかと受けただけだ！」
「リシュリュー様…」
「そん…っ、そんな顔をしても、駄目だッ！　何故！　何故、俺が、腹を立てている奴らを宥め、辞職を思いとどまらせねばならない！？」
「……やはり、お怒りなのですね」
「ああ、怒っている！　当たり前だ！」

　 椅子を蹴って立ち上がると、リシュリューは無意味に両手を振りながら部屋の中央まで移動し、結果的にクリスから距離の取れた位置で再度声を張り上げた。

「お前も、俺の気持ちを聴くより奴らの身の上を心配か！？　俺は、お前は悪くないと言った！　確かにその気持ちに偽りはないが、腹が立ったのは連中にだけじゃない、クリス！　俺は、俺は、本当は、お前にも腹が立っている！」
「はい」

　 クリスが神妙に頷き目を伏せると、リシュリューは恐らく自分の想いがとうにこの婚約者に伝わっていると察しながら、尚もカッと血流を上げて顔を赤くした。

「あぁそうだ！　俺は腹が立ったんだ！　何もかもに腹が立った！　勝手なヴァージバルがいつかバカをやらかすだろうことは分かっていたのだから、警護の者たちも含め、俺自身、何か早々に対策を講じておくべきだったのに！　大事なお前を置いているこの屋敷はザルのように穴だらけで手薄で、まるで張りぼてだ、まずはそれに腹が立った！」

　 勿論、一番に腹が立つのはヴァージバルの奴だがな！――と。そうリシュリューは付け加え、さらにまくしたてた。

「オーレンから、お前がヴァージバルに拉致されて城に連れて来られたと聞かされた時は、まずオーレンに腹が立った！　この忙しい時に、俺を不快にさせる話を持ってきやがってと八つ当たりだ！　手早く城内に警備を配して、お前が人目に触れないよう気を利かせた、お堅い第四師団の連中にも腹が立った！　理由などない、手際が良過ぎてイライラしただけだ！　ついでに、俺が戻るまでお前を守る役目を担ったアブトの奴も、普段は岩のように何もしゃべらん男のくせに、いきなりお前には口を開いていたから、これにも当然、腹が立った！」
「リシュリュー様、あの方は…！」

　 焦って歩み寄ったクリスを拒絶するように一歩退いたリシュリューは、一瞬髪の毛を掻きむしるような所作すら見せて、かぶりを振った。

「やめておけクリス！ それは俺にとって逆効果でしかないぞ！ お前が庇えば庇うほど、奴の立場はまずくなるんだッ。いや分かっている、別に奴をあれ以上責める気はない、普段は使える男だ、何も心配するな！　だがな、まだあるぞ！？　むしろこっちはきちんとした理由がある。お前を取り巻き、ギャーギャー騒いだらしい第一師団のバカ共だ！　連中には、はっきりと殺意が沸いた！」

　 その中でも、やっぱり一番の粛清対象はヴァージバルだがな！――と、またしてもリシュリューはその人間の名を口にした。こうなるとリシュリューはもう止まらない。いかにカミラ・B・ヴァージバルなる人物が自分にとって迷惑な存在かということ。ただでさえ母親の影響で女が嫌いなのに、彼女のせいでもっと女性不信になったこと。それでも家のしがらみで幼い頃から嫌でも付き合わなければならなかった悲劇等々…。クリスが口を挟む余地など全くなかった。
　 ただ、ひとしきり話したことで段々と落ち着いてきたのか、終盤にきてリシュリューの声色は明らかに変わっていった。
　 やや消沈気味ではあったが。

「しかし俺にとって今日一番の打撃は……国竜アレクシスの飛翔だ」
「え…？」

　 クリスが怪訝な顔をするのも見ずに、リシュリューは俯いたまま続けた。

「あれを見た時、俺は…本当の意味で、頭に血が上った。まるで互いに惹かれ合うようにクリス…お前があれを見上げていたことにも堪らなく…我慢ならなかった」
「こ…国王様の」

　 クリスはごくりと唾を飲み込んでからやっとの思いで口を開いた。

「国王様の、竜ではありませんか。僕はただ美しいと、それだけで…本当に…ただ、それだけで」
「……クリス。俺がお前に腹が立ったのは――」

　 リシュリューの眼にクリスはどきりとした。静かだけれど、奥底で激しく燃えているかのような深い色。それが分かってクリスは怖気づいた。
　 しかしその怯えに気がついたのか、今度はリシュリューが躊躇ったように口を閉ざした。そして言葉を諦めた代わりとでも言うように、リシュリューは急にクリスと距離を詰めると力強く腕を取り、そのまま強引に口づけを迫った。
　 クリスがそれを拒絶できるわけもない。押し潰されるだけの粗末なキスに目を瞑り、口を開くよう暗に唇を食まれた時も大人しくそうした。
　 するとリシュリューはそれに乗じてさらにクリスを懐へ引き寄せ、もう片方の手は強張る頬に添えて、いよいよ激しく互いの唇を重ね合わせた。クリスが呼吸困難になったように眉を寄せても、離してはまた吸う。それを何度も繰り返す。
　 熱が増してきたのか、やがてリシュリューは口づけを続けながらベッドまでなだれ込み、そのままクリスを押し倒した。そうしてクリスが依然として素直なのを良いことに、口づけを続けながらその身体をまさぐった。衣服の中に手を差し入れ、クリスの胸を撫で摩りもした。

「ん…っ」

　 思わずくぐもった声を出してしまったが、クリスは努めてリシュリューの望むままにと全身から力を抜いた。話の途中だったけれど、怒った理由を告げることはやめるのだろうか。それだけは気になったが、こうなってしまってはもう訊ねられない。何故ってクリスの使命はいつでもリシュリューの良いようにすることだから。
　 ただ、これが今のリシュリューにとって本当に「したいこと」なのか、クリスには分かりかねた。いつも何かを伝えたいのに伝えられない、或いは２人の間で会話が詰まった時に、リシュリューはこうしてよくキスをした。そして、クリスの身体を求めた。だから今もそうなのかも。ならば、それが良いか否かはともかく、リシュリューがそれで喜んでくれるのなら自分も嬉しいとクリスは思った。
　 特に今日はもう呆れられたと、失望されたと思っていたから。

「クリス…お前は特別らしい」

　 しかしリシュリューの愛撫に溺れて何もかも放棄できるはずだった、その時。
　 クリスは唐突に囁かれたその言葉に水を掛けられた思いがして目を開いた。
　 しかも驚いて「え」と訊き返した先、さらにどきりと胸が鳴った。自分に覆いかぶさるように顔を近づけているリシュリューの瞳が、またどこか冷ややかに光っているように見えたから。少なくともクリスにはそう見えてしまった。
　 そのリシュリューが言った。

「俺にとってすでにお前は特別だ。だが忌々しいことに、他の者たちにとってもそうらしい…。この世に“そういう人間”がいることは王を見て知ってはいたが、俺はお前が“そう”であって欲しくない」
「何の…お話なのですか」

　 実際何を言われているのかクリスには分からなかった。このまま全て忘れさせてくれるのじゃないのか。実際、今もリシュリューの手は、唇はこんなにも優しい。クリスの髪を梳き、頬を撫でてくれる。クリスの唇や瞼にキスをくれる。不可解な話をしながら、眼は爛々としていても声は穏やかだし、その口で「特別だ」と言ってくれる。
　 それなのに目の前のリシュリューがクリスには遠く感じた。王宮で見たリシュリューが手の届かない至高にいると痛感した時とはまた少し別の、まるで別々の場所に立っているかのような疎外感。

「クリス。俺は恐ろしい」

　 何を言っているのだろう。自分こそがリシュリューを恐ろしいと思っている。本来は直接口をきくことすら叶わない位置にいる人だ。今日とてそれを実感して、そんな自分が婚約者などでいいのかと、それでもリシュリューの傍にいたいのだとはっきり思ったというのに。
　 けれどそんなクリスの声にならない声を無視して、リシュリューは続けた。

「以前から、王も神官長もお前のことを知って早く会わせろとせっついてきた。だが、俺はそれが猛烈に嫌だった、そう言われることが……何か分からないが、妙に恐ろしかったんだ。これが今の正直な気持ちだ。そして今日、アレクシスの飛翔を見て……確信した。お前を王に近づけさせたくはない、と」
「リシュリュー様…分かりません、僕は…」
「いいから聞け…。だからな…今はもう、大仰な婚儀も挙げなくていいと思っている。俺たちだけでその約束を交わせれば――」

　 クリスに向かって話しているはずなのに、それは独語のようだった。否、リシュリューは間違いなくクリスに向けて言っているのだが、当のクリスがそれを受け止めきれずに混乱しているのだ。分からない。何の話をされているのか。何故、王が自分に会いたいと言って、それをリシュリューが「恐ろしい」などと言うのか。身分違いの相手を紹介することが恥ずかしいから等というクリスの卑屈な考えから導き出した理由などでは断じてない。何かもっと違うところの「不安」をリシュリューは語っているのだ。
　 けれどそれが何を意味するのか、クリスには見当もつかない。
　 するとそんなクリスの想いを正確に読み取ったリシュリューが、ここでようやく小さな笑みを見せた。それはどこか苦味を伴う笑みだったのだが。

「お前は本当に自分というものを分かっていない。無自覚だ。そんなお前がひどく危うげだから、だからこそ……俺はそれに腹が立ったんだ」

　 その夜、リシュリューはクリスを一時も離さず抱き続けた。
　 お陰でクリスは身体こそきつかったが、余計なことを考えずに済んだ。リシュリューが投げてきた言葉はクリスの不安を煽るのに十分だったから、もしもゆっくり優しくされるようなことがあれば、ただ身を委ねるばかりではいられなかったに違いない。言葉は要らないとひたすら突き貫かれたからこそ、クリスも無心でそれに応じることができた。
　 ただ喘ぎ、求め返して。
　 クリスは精一杯、自分はいつでもリシュリューの傍にいる、そうしていたいのだと言外に訴えた。そうしたつもりだ。
　 それは多少なり、リシュリューにも伝わったのだろうか。…翌朝、クリスが起き上がれないことを心配したり謝ったりしながら、リシュリューは一人登城の為の支度をして、出掛けにはクリスが心に掛けていたこともきちんと口にしてくれた。すなわち、クリスに罰を与えない代わり、辞職を申し出た警護の者たちの意向も翻意させると。……ヴァージバルら騎士団の処分には触れなかったけれど。

　 その日、クリスは、自分にキス一つ落として「早く帰る」と言ったリシュリューに応えるべく、ずっと屋敷内に留まった。いつも気にかける竜たちの声にも耳を傾けなかったし、彼らの飛翔を目にすることも意図して避けた。あの美しい竜たちの舞う姿を見られないことに心が残らないと言えば嘘になったが、今のクリスにとっては、リシュリューの気持ちを優先することだけが、ただひたすらに大切だった。
Fin…




戻