ちょっと前のはなし |
「おいッ! どこへ行く!?」 ひどく切羽詰まった調子で突然声を掛けられたものだから、クリスは驚いて振り返った。 改めて確かめるまでもない、相手は現在クリスが世話になっている屋敷の主で、国の中枢に関わる人物。 「リシュリュー様…」 リシュリュー・メディシス。この屋敷へ来た当初は言葉などほとんど交わさなかったのに、この頃はこうして毎日のように声を掛けられる。しかもやや恫喝に近い体で。クリスは戸惑いながら遠慮がちに一歩後ろへ下がった。 クリスも貴族の出自ではあるが、このリシュリューの家とは比べるのもバカバカしいほどの差異がある。メディシス家が代々オーリエンス王の最も傍近くに仕え、その国政のほとんどを掌握する身分であるのに対し、クロスウェル家は父の度重なる無謀な事業で、もはや存亡の危機にある「三等級貴族」だった。従って、本来ならリシュリューとこうして面と向かって話すなど考えられない立場である。 「どこへ行くのかと訊いている!」 そのリシュリューに再度強く尋ねられて、クリスはびくりと身じろいだ。 それでも努めてはっきり告げようと息を吸う。 「ワーカーさんのお手伝いに薬草園へ行くところです」 「何故お前がそんなことをする。勝手に屋敷の外へは出るなと言っておいたはずだ」 「は…はい、でも」 「でもじゃない! お前の仕事は休むことだと、何度言ったら分かるんだ!?」 リシュリューが執拗にこの手の話をするようになったのには訳がある。数週間前クリスが体調を崩し寝込んでからというもの、リシュリューは「うちで死なれたら俺が殺したみたいで後味が悪い!」と、これでもかというほどの世話を焼き出したのだ。 食事は?睡眠は?…いちいち尋ねてきては、クリスがきちんと休めているかを確認する。そのあまりの待遇差には困惑するよりないが、クリスがリシュリューに意見など出来るわけがないから、ともかくは「もう良くなったから働かせて欲しい」と同じことを繰り返すしかない。 しかし、リシュリューの答えはいつでも「NO」だ。 今日はそのリシュリューの帰りが遅いと聞いてすっかり油断していたのだが…。 「シューマンは何をしていた。他の奴らもだ。お前を勝手に外へ出して、何かあったらどうするつもりだ」 「な、何か…?」 「まさか、ここを出て行こうとしていたんじゃないだろうな…」 「えっ! 違います、僕は――」 「いいから、来い!」 リシュリューは言いかけるクリスの手を問答無用で掴むと、そのまま屋敷の中へと引っ張って行った。 こうなるともうクリスはされるがままだ。 けれどいつもの客室まで連れて行かれると、そこには思わぬ先客がいた。 「お前…! 何故いる!?」 リシュリューが珍しくぎょっとしたように身体を仰け反らした。拍子、クリスも共に後退する羽目になったわけだが、部屋の奥に佇むその人物の姿だけはかろうじて視界に入れることが出来た。 「お前が勝手に姿を消すからだろう。だから1人でここまで来た」 黒い礼服を纏った長身の男。 その整った体躯や佇まいからして王宮の騎士団長かとも思ったが、その割には剣を携行していない。そして何より気になったのは、リシュリューに対し敬語でない。この国でリシュリューと対等に、或いはそれ以上の威厳をもって口を利ける者など、王族と一部の執政官以外いないはずなのに。 しかしそんな風にクリスが一人戸惑っている間にも、2人の問答は続いた。 「何がここまで来た、だ! 俺がここへ来ていいと言ったか!? 言っていない! お前はいつもいきなり現れて勝手ばかり言うから腹が立つ!」 「この国であまり目立つなと言ったのはお前だろう。そうなると、身を隠すのにここより適した場所はない」 「くぅ…まったく! 本当に、お前が来るとロクなことがないのに! ともかくは出ろ、ここはクリスの部屋だ! もうお前の客室ではない」 「クリス?」 リシュリューにそう言われて、男は初めてクリスに目を向けた。それでクリスも途端緊張した。黒髪の男は怜悧な表情で見据えてくる為、つい気圧されてしまう。しかもどこか検分するようなその目線にはひたすら窮屈な想いがした。 「じろじろ見るな!」 しかしそれをリシュリューが諌めた。しかも意を汲んでくれたのだろうか、リシュリューは素早く言うと前に立ちはだかり、男からクリスを隠してくれた。リシュリューの背中しか見えなくなったクリスはほっと安心した気持ちになったのだが……、実はクリスがリシュリューといて安心するなど、「この時が初めて」であった。 「何だ、その餓鬼は。以前はいなかっただろう」 そんな2人の関係など分かろうはずもない男は、より一層怪訝な顔で訊ねた。 もちろん、それにもリシュリューはすげない態度だ。 「誰だろうとお前には関係ない」 「関係ないことはない。お前が囲っている者ならそれなりに興味もあるし、多少なり頭が良いようなら、俺の養子候補にしたい」 「何!?」 「何を驚く。お前も知っているだろう、俺が俺の家を継いでくれる餓鬼をずっと探していることを」 「う……な…ッ」 男の発言にリシュリューは一瞬絶句したが、すぐにぶんぶんと首を振って声を荒げた。 「駄目だ駄目だ駄目だッ! 何を言っているんだ、お前は!?」 と同時、いきなりぎゅっと手を握られて、クリスは驚きで身体を跳ねさせた。 「……ッ!」 するとリシュリューもクリスの態度にびくついたようになって振り返った。 が、握った手は離さず、「とにかく!」とリシュリューはクリスをいったん部屋の奥へ引っ張り、次に男を引きずり出すようにして部屋から追い出すと、振り返りざま「クリス!」とひどく焦った声を出した。 「いいか、俺がいいと言うまでこの部屋を出るな! 俺以外の奴をこの部屋に通すのもなしだ、誰が来ようが決して開けるなよ? いいな!?」 「は、はい…でもリシュリュー様、その方は…」 「アロイスだ」 「勝手に名乗るな!」 先にアロイスに言われたことでリシュリューは再びカッとなり怒鳴ったが、戸惑い顔のクリスに我に返ったのか、やがて低い声で付け足した。 「……腐れ縁という奴だが、これは本当に面倒過ぎる男だからお前は関わるな。絶対に」 そうしてリシュリューは、そのアロイスなる人物を何事か怒鳴りつけながら階下へと行ってしまった。 クリスはぽつんとその場に残され、所在なく部屋の隅に暫しとどまり続けた。 夕刻になっても室内「軟禁令」は解除されず、本もない寝所で退屈極まりなくなったクリスは、テラスになら良いだろうと窓を開け、外の景色に目を落とした。 今日はバラ園を見ることも出来なかったし、馬舎を覗くことも出来なかった。 「いつまで…」 屋敷に迎え入れられて過度の待遇を受けるようになってから、クリスは仕事という仕事をしていない。その状態はクリスの性格上、苦行に近かった。もちろんリシュリューは親切心で、あまつさえクリスを心配してそうしてくれた、それは分かっているのだけれど、元々ここへ寄越された経緯も考えると、クリス当人としては、この無為な時間に居た堪れなさを感じずにはいられないのだった。 リシュリューにとって自分が用なしならば、早々にここを出て働きたい。 そしてもしも……もしも、多少なり目をかけてもらえるところがあるのなら、ジオットが望んでいたような形でリシュリューに奉仕したいと……クリスはそう思うのだ。 「はあ…」 堪らずため息がもれた――…が、不意に被さってきた影に、クリスはハッとなってその気配のする上空を見やった。 《クルオォ…》 小さな、そして遠慮がちな鳴き声。 「あ!」 いつの間にそこを飛んでいたのか。クリスのすぐ頭上で、小竜が小さな羽をばたつかせながら、心配そうな眼差しを落としてきていた。 「小竜…!」 《クルオォォ!》 小竜は甘えた声でクリスに応えた。屋敷に入ってからは小竜ともほとんど会えていなかった。それをクリスはとても寂しく思っていたのだけれど、どうやらそれはこの小さな竜にしても同じ気持ちのようだった。 「わっ、大丈夫!? そんな所…!」 その小竜はふらふらと安定しない飛行でゆっくりとテラスの手摺部分に足をつけた。まだ羽はばたつかせているので「着地」ではないが、何とかそこへ降り立とうとしているらしい。細く頼りないその足場に小竜が降りることが出来るのか、クリスはハラハラしながら後退した。どうせならこのテラスの上にそのまま下りてくれば良い、そう思ったからだが、しかしまがりなりにも小竜の身体は、そのスペースにすっぽり収まるか収まらないかのサイズで、どこへ下りようが危うげな感じがするのは変わりなかった。 「無理だろう。下へ行け」 「!!」 その時、突然そんな声が投げかけられて、クリスは驚き振り返った。 見ると、いつの間に部屋に入ってきていたのか、あのアロイスという男が厳しい顔をして小竜を見つめ、ふいと素っ気なく手を振って続けた。 「諦めろ。この餓鬼は後で庭へ連れて行ってやる。お前のような奴がここへ降りたら、テラスが抜け落ちるかもしれんぞ」 《グオオ!》 「降りろ」 《グオッ!》 小竜は何度か威嚇するように羽を開き、牙も見せて悔しそうに吼えたのだが、元は賢い翼竜である、言われたことは理解したようだ。クリスへはもう一度甘えた声を出したものの、彼はそのままバサバサ飛び去って庭園の方へと消えて行った。 それにしても、小竜がリシュリュー以外の人間の言うことを聞くなどと、クリスは初めて見たと思った。 「あれでも竜だぞ。子飼いでも屋敷になど入れるな」 そのアロイスは非常識極まりないという顔でクリスを見やり、それから手首を引っ張るようにしてクリスを室内へと押し戻した。 言われるまま部屋へ戻ったクリスは、勢いのまま傍のベッドへ腰を下ろす格好になったが、アロイスはその目の前に立ったまま、再びあの検分するような眼を向け押し黙った。 「あの…」 しかもそれに耐えられずクリスが腰を浮かしかけると、アロイスは片手を出してそれを制し、「お前は」とよく通る声で質問した。 「あの子飼いとは、あれが出産の時から一緒だったのか?」 「え? 小竜…ですか?」 「そんな名ではなかったように思うが…まぁいい。そうだ、あの片翼に障害のある竜だ。野生でなくとも、ああいうのは逆に危険度が高い。よほど馴れていなければああはゆくまい。まるでお前が主人のようだ」 「いいえ、小竜は……友だち、です」 「友だち?」 「はい…」 クリスの答えにアロイスは露骨に眉をしかめた。 しかし声は依然として平静なままだ。 「お前、剣は使えるか?」 「え? いいえ…アカデミアの必修講義で何度か触ったくらいで…」 「ありえん。お前。クリスと言ったか」 アロイスはどことなく横柄な態度で一度かぶりを振ると、傍の椅子を引き寄せてそこにどかりと腰をおろした。 それからその背に両肘をのせた格好で、まじまじと目前のクリスを見つめる。 「リシュリューがお前との関係を教えようとしない。ただジオットが連れてきた客としか言わなかったが、その外見……グレキア人か?」 「片方だけ。母がそうなんです」 「なるほど。出自は? 異国の妻を娶れるのだから、父親は二等級以上の貴族だな。メディシスとの繋がりもあるのだから、相当高い血筋か…」 「いいえ、違います…。確かに元は二等級相当の土地を有していましたが…それも祖父の代までです。僕は……リシュリュー様の、使用人です」 「使用人? そんな、まさか」 アロイスが初めて驚いたように身体を揺らした。 しかしクリスはそんなアロイスよりもっと戸惑いながらすぐに首を振る。 「いいえ、本当です。リシュリュー様はお優しい方なので、身体を壊した私をこちらで休ませて下さったのです」 「いや、ありえない。お前の発言は間違っている」 「え?」 今度はアロイスがぶるぶると首を振る番だ。クリスも面喰らっているが、どうやらそのクリスよりもっと驚いているのが、この無表情のアロイスのようだった。 アロイスが言った。 「あれは優しい男などではないし、お前自身も、ただの使用人であるわけがない。あの竜の出産時を知らず、剣も扱えぬのに、あれがあそこまで心を許しているのが何よりの証拠だ。お前はお前の存在をもってして竜を掌握した。ただの餓鬼ではない」 「そんな…ことを、言われましても…」 「お前とて、自分を特別な人間だと思うだろう?」 アロイスのいかにも「当然」と言う口調に、クリスはここで初めて、ほぼ反射的に表情を曇らせた。 だからだろうか、返した言葉もどこか冷えたものだった。 「……まさか」 アロイスはそれに不快な顔を見せた。 「何が、まさかだ?」 「………」 「クリス」 「あっ…はい…」 「何が『まさか』なのかと訊いている」 「そ…その、そんなこと、ぼ…私は……思ったこともありません…」 クリスがボー然とそう答えると、アロイスはほんの一瞬だけだが、何か得体の知れないモノを見るような眼を向けた。 けれどその直後だ。アロイスはさっと立ち上がってクリスのすぐ目の前にまで歩み寄ると、実に偉そうに言った。 「お前の父はどこにいる。関係は良好か」 「え?」 「客人としてここへ来ていると言っていたが、お前のその不幸面から言っても、その容姿から言っても、ここに馴染んでいるとは思えない。――俺の養子になるか」 「え! そっ…あの…」 「以前から探していてな。出来れば自分の国から見つけたかったが、お前はグレキアの血が入っているようだから問題ないだろう」 「仰っている意味がよく分かりません…」 「別に分からなくとも良い。俺の家の事情はややこしい、連れ帰ってから説明する。ともかく、今取り立てて俺がお前に確かめたいのは、お前がこの国に残りたいか否か、それだけだ」 「ここに…?」 クリスの声は自然掠れたが、アロイスはそれに頓着せず、むしろ自分は自分で何事か考えこむように顎先に手を当てた。 「リシュリュー・メディシスに目をかけられているとなれば、確かにここに居た方が将来は安泰だろうな。俺の所に来ても落ち着いた生活を送れるまでには時間がかかるかもしれん…。――だが、俺はあれより面倒な男ではないぞ」 「あれ?」 「リシュリューのことだ。あれは優秀だが、とにかく面倒臭い。そう思うだろう?」 「そんな」 「それに、あれはお前のことがよく分かっていないようだ。宝の持ち腐れとはまさにこのことだろう」 「……僕は、リシュリュー様が居ろと仰って下さる限りは、こちらにいます」 ほんの一時の間はあったが、クリスはアロイスの言葉を受けてからすぐにそう返した。それが本心だったからだが、アロイスの自分への過度な評価に先刻湧きあがった拒絶心が再度頭をもたげたせいかもしれない。 控え目なクリスが見せたその硬い表情に、アロイスはふつりと黙りこんだ。 それから何気なく天井を仰ぎ、「ついていない」と呟く。 その直後――。 「アロイス! お前〜ッ!!」 バタンと勢いよく開いた扉の音と共に、リシュリューが猛然と突進してきた。息が荒い。クリスから遠ざけたはずのアロイスが何故またここにいるのか、そして何故自分はそれを許してしまったのか。そんな焦りと憤りの感情がごちゃ混ぜになった、リシュリューはそんな怒り心頭の顔をしていた。 「クリス! 大丈夫か!?」 そして物凄い勢いでそう訊ねてくる。クリスは急いで「は、はい!」と頷いたが、ツカツカと近づいてきたリシュリューから再び強く手首を掴まれて、思わず眉が寄った。痛みのせいではない、リシュリューを怒らせているという想いと、この何やら不可解な状況に心がついていけなかった。 けれどリシュリューに何か言おうにも適当な言葉が見当たらないし、何より自分のこの主は、アロイスを牽制するのに忙しかった。クリスにはリシュリューの背中しか見えない。 「お前はッ! ここへは来るなと言っただろう!!」 「本人に直接訊かねば納得いかなかった。お前が勝手にこの餓鬼を囲っているだけなら、俺が連れて行っても構わないだろうと思った」 「冗談じゃない! お前の家の養子なぞ、命が幾らあっても足りないだろうが! しかもお前は人に家を押し付けた後、自分は亡命する気だろう!?」 「そのつもりだったが、クリスが来るなら面白いし、残っても良いな」 「かっ……勝手に、クリスの名を呼ぶな!」 リシュリューは怒鳴り過ぎて倒れるのではないか。 ともすればそんな心配をしてしまうほどに、リシュリューの興奮は頂点に達していた。一方は冷静で、一方は唖然。この場でカリカリしているリシュリューだけが異端で、けれど正常にも見える。 そう、クリス自身もそれを不思議に感じながら、この時は確かにそう思っていた。 自分やこのアロイスという人物は、人としての感情の機微に乏しい。 何に対してそこまで怒っているのかは今いち量りかねるとしても、リシュリューだけがまっとうな「人」であると感じたのだ。 「……生きているうちに、お前のそんな顔が見られるとはな」 アロイスもクリスと同じことを感じていたのだろうか。 全く羨ましい事だと、彼はぽつりと独りごちた。それからふと苦い笑いを浮かべる。皮肉気な笑みだったが、そこには何の厭味もなく、単純にリシュリューの不器用さを笑っているようだった。 リシュリューの陰からクリスがそんなアロイスをじっと見やっていると、ふっとその視界が遮られた。驚いて顔を上げると、リシュリューがむっとしてこちらを振り返り見ているのが分かった。クリスは慌てて俯き、何となくリシュリューに握られている手を見つめた。 「クリス」 けれどリシュリューは自分を見ないクリスを許さず、さっと自らが身を屈めて視線を同じにしてきた。 「この男が戯言を抜かしたと思うが、俺は許さないぞ。…お前はグレキアなどと言われたら、騙されて行きたくなるやもしれないが――」 「そうなのか?」 「煩いアロイス! お前は黙っていろ! だがなクリス、こいつは向こうの王族どもから命を狙われている落ちぶれ王子なんだ! だから、こんな奴についていったりしたら、ロクな目に遭わない! 命がいくらあっても足りないんだぞ!?」 「お…王子様…なんですか?」 クリスが目を見開いてその単語を繰り返すと、それにはアロイスが肩を竦めた。 「この年でそういう呼ばれ方をするとむず痒いし、そもそも俺は、王位継承権なぞとうに放棄している」 「馬鹿が! そんな言い分が通用したのは、せいぜいが1年前までだッ。…お前の意向など関係ない。王宮とはそういう所だ」 「分かった風に言うじゃないか」 まぁ何にしろ、と。 アロイスは未だ必死にクリスを隠そうとするリシュリューを冷めたように見下げた後、ふいと横を向いた。 「今日はただの散歩だ。クリスが駄目なら、また国へ帰って養子を見つけねばならんしな。餓鬼を見つけてまた準備が出来たら訪ねるから、その時はよろしく頼む」 「誰が頼まれるか!」 「いや、お前は頼まれる」 リシュリューは優しくなどないと言ったのに、アロイスはそう断言すると今度こそ軽快な笑みを見せた。 クリスはリシュリューにこんな態度を見せるアロイスを、ただただ不思議な想いで見つめるだけだった。 「ジオットは、商売には最適だと言うが、今のグレキアはとにかく荒れている」 アロイスが去った後、リシュリューはクリスと2人庭園に出て、その話を始めた。 「だからこそ、周りで元第一王子のあれを王に押し上げようとする動きが出てきたわけだが。…元々先王からも、直接的にではないにしろ、その能力を見込まれ愛されていたしな。それに、アロイスはおかしな奴だが、何にしろ人の生き死にというやつはよく知っているから、その点が他の王子どもとは決定的に違う。だから確かに…あれが上に立つのなら、あの国も今よりはマシになるだろうとは思う」 だが腹が立つんだ!と、リシュリューは舌を打って、その後も延々とアロイスの悪口をクリスに話して聞かせた。 クリスはそのリシュリューに必死に合わせ相槌を打っていたが、どうやら2人の間に友情のようなものが芽生えているらしいことはよく分かった。 それで話がひと段落したのを見計らい、クリスは遠慮がちにオーリエンスを、ひいてはその繁栄に貢献しているリシュリューを誉めた。 「オーリエンスは本当に豊かな国ですね。リシュリュー様やメディシス家の方々のご尽力のお陰です」 「どういう意味だ?」 「そのままの意味です。僕のような存在でも鷹揚に受け入れてもらえますし…」 「お前はこの国の国民だろうが」 リシュリューが不機嫌な顔ですぐそう返したので、クリスは思わず破顔した。 「自国民だけでなく、周辺国の人々にとっても。オーリエンスはいろいろな意味で要石となり得ています。だからこそアロイス様のような御方も頼っていらっしゃいますし…、あ、ギルバドリクから亡命していらした、ユディヒルの方々もそうですよね」 「ああ…。ユディヒルの人間は元々国王の気に入りでもあったしな。あれの1番上が婚約者を募った時など、とんだ大騒ぎだった。おまけに弟の方は、ヴァージバルが下手に持ち上げて剣技会にも出させたから無駄に人気が出て…王宮の連中が自分の娘を嫁に貰えとこれまた大騒ぎだ」 恐らくはその騒動に自身も巻き込まれたことがあるのだろう、リシュリューは途端苦々しい顔をになってふうっと息を漏らした。 激しい内紛や経済不振に喘ぐ周辺国とは異なり、ここ数十年、取り立てた争いもなく平和なオーリエンスには、都度異国からの亡命者や留学と称した王族関係の人間が後を絶たずに訪れる。執政官のリシュリューにはその度頭の痛い問題になるのだろうが、クリスにしてみれば、そんなオーリエンスは常に尊敬に値する存在だった。 自国民としてというよりは、どこか他人事に眺めた上での敬意ではあるけれど。 「アサヒ様が出場された剣技会のお話は城下街でも大きな話題だったそうです。ハンナさんが教えてくれました」 「フン…この国の奴らは祭り好きだからな。ハンナなど特にそうだ。――近々アサヒは母国へ戻るらしいが」 「え?」 「向こうの新王から恩赦がおりたんだ。他の一族は帰らないと言っているのに、アサヒだけは向こうで家を再興したいと言ってきかないらしい。どいつもこいつも、家になぞ縛られてくだらない…って、俺もそうなのだがな」 「リシュリュー様も?」 「お前もそうだろう?」 素早く切り返されてクリスは一瞬言葉が出なかった。 それをどこか見透かすようにしてリシュリューは続ける。 「家のことがなければ、お前はここにはいないのだから」 「………」 何と言って良いか分からず、クリスは沈黙した。 家のことなんて。 家のことなんてどうでもいい―…そうは思わない。どうでもよくはない、大切なことだ。家には家族がおり、幼い弟妹たちがいる。世間知らずの継母に、心労で倒れた父も、愚かな人ではあるけれど心配には違いない。だから、どうでもいいことはない。決して。 しかし恐らく、頭を過ぎらせたことくらいはあるはずだった。 “あんな家のことなど、どうでもいいじゃないか”――と。 それでもクリスは家の為にここにいる。確かにリシュリューの言う通りだ。 けれど。 「リシュリュー様…」 「何だ」 「アロイス様がお戯れに私を養子にと仰って下さった時、僕はそれをすぐお断りしてしまいました。申し訳ありません」 「何故…謝る」 「その方がリシュリュー様のご負担にならずに済んだかもしれないのに」 「おい!」 リシュリューが声を荒げて立ち上がった。クリスがびくりとして顔を上げると、そこには上から激しく睨みつけるリシュリューの視線があった。 そうしてその視線はクリスが立ち上がる前に自らおりてきて、座ったままのクリスのそれと同じになった。 「お前は、俺が良いと言うまではここにいると言った。その約束を忘れたのか」 「いいえ…ですから僕は」 「あいつの誘いを断った。それで良い。お前はうちの人間なのだから、ここにいるのが正しい選択だ」 「え」 「いいな」 リシュリューが不意にクリスの両肩を掴んだ。がっつりと置かれたその手は妙に熱をはらんでいる。クリスは戸惑いながら、それでも目前に迫るリシュリューの瞳に引き寄せられた。 「いいな、クリス。これからも勝手な真似は許さんからな。ここにいるんだ、お前は。分かったか? どうなんだ、クリス!?」 「は……はい。リシュリュー様が……そう仰って下さる限りは」 「……そうだ。俺が命令しているんだ。だからお前は俺の言うことを聞けば良い」 クリスの返答でリシュリューの手に入っていた力はすっと緩んだ。 それでもなかなかそれは解かれない。だからクリスはもう一度「はい」と応え、力ないものではあったが何とか笑ってもみせた。 ――にも関わらず、その夜リシュリューの機嫌はなかなか良くならなかった。 (僕はいつまでここにいるんだろう…) 独りの部屋へ戻った後、再びテラスへ身体を向けて、クリスは心の中だけでそっとそう思った。 すると不意に夕刻聞かされたアロイスの声が頭の中で響き渡った。 “お前とて、自分を特別な人間だと思うだろう?” 「意味が分からないよ……」 緩くかぶりを振ってクリスは息を吐いた。 空には煌煌とした月が浮かんでいる。クリスはそれを眺めながら、アロイスの自分を見る眼を思い出し、ぶるりと身体を震わせた。 |
.....Fin..... |