貴方が思わず叫んだ理由
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その日、雪也は涼一からデートの約束をキャンセルされた。 雪也がバイト先の人員不足で助っ人を頼まれたとか、母・美奈子の我がままで涼一と会えなくなったとかいう事なら、これまでにも何度かある。しかし涼一から断ってくるパターンは非常に珍しい。それに、そんな不測の事態が起きた時、涼一は大抵悔しそうな申し訳なさそうな顔をして雪也に謝るのに、その時は電話で一言、「明日、駄目になったから」としか言わなかった。 だから雪也も「分かった」と頷きつつ、心内ではかなり驚いたし、途惑った。 「まあ、剣君にも急用くらいあるだろう」 創は興味のなさそうな素っ気無い声でそう答えた。 レンタルビデオショップ「淦」は現在全面改装中の為、表には「休業」の札が掛かっている。 それでも「友達の好」で中へ入れてもらった雪也は、カウンター前の指定席に収まり、先刻から立ちっ放しで商品棚と対峙している創の後ろ姿を眺めやっていた。 淦は表向き那智の父親が経営者であり、日中店番の殆どを受け持っているのも娘の那智だが、実際商品の納入や遠方からの受注、また経理全般を仕切っているのは創だった。本人は大学を卒業するまでの道楽と言っているが、そこまでしている彼が淦に一方ならぬ愛着を持っているのは間違いがないし、そんな淦だからこそ、雪也もこの場所が大好きだった。 ところが最近になって那智の父親が「今時ビデオ屋でもないだろう、全てDVDに移行しよう」などと言い出したから事は面倒になった。創は基本的にその考えには反対で、一応その旨も伝えたらしいのだが、「所詮、出資者には逆らえない」と言う結末を迎えたらしい。ビデオのコーナーも何とか一区画残せる事にはなったものの、創は「こんな店で時勢に倣おうとしても野暮なだけなのに」と珍しくボヤいていた。 「俺も何か手伝おうか」 手持ち無沙汰になって雪也は声を掛けた。涼一の為に丸々1日予定を空けていただけに、今日は本当に暇だ。雪也にも映画を観たり本を読んだりと言った趣味はあるし、料理をするのも嫌いではない。けれど映画は淦がこんな状態でビデオを借りる事もままならないし、1人で映画館に行ってまで観たい作品もない。料理も、誰か食べてくれる人がいるから作る張り合いがあるのであって、母も先週から出張で留守とあってはやる気が起きない。 そして本は…何だか読む気分ではなかった。余計な事を考えずに身体を動かしたかった。 「気になるなら訊けば良かったじゃないか」 依然として雪也の方は見ず、作業を続ける創が言った。 「どんな用が出来たのかって。それくらい訊けるだろ」 「訊けるけど」 「訊いていいか分からなかった…って? 桐野君って本当に成長ってものがないよな」 「創……今、結構不機嫌?」 言われた事に雪也が落ち込むでもなく小さく苦笑すると、厳しい事を言った創の方が微かに頬を引きつらせた。 それからゆっくり息を吐き出し、雪也同様苦い笑みを唇に浮かべる。 「さすが桐野君。八つ当たりって、分かってもらえないと虚しいんだよな。ただの性格悪い奴で終わりになっちゃうから。那智姉さんだと桐野君みたいに気づいてくれないから、言われてしょんぼりして終わりなんだ」 だからあの人は張り合いがないのさと冷淡に言って、創はようやくくるりと振り返り、笑った。 「むっとした?」 「創に? 全然。それに、たまに当たってもらわないと、いつも俺ばっかりだから悪いなって思うし」 「……そういう性格、ちょっとは考え直した方がいいよ。悪い奴につけこまれる」 「え」 フッと創は鼻で笑い、ほぼ空になった棚に背を預けると、手にしたペン先でガリガリと頭を掻いた。 「ごめん。店がこんなだからさ、ちょっとイライラしてたんだ。俺、桐野君に甘えた」 「いいって。それに、俺が成長しないってのは本当の事だし」 「そんな事ない。君はいつでも相手の事を考え過ぎるんだ」 創はきっぱりと言い切り、やがて腕を組みながらどこを見るでもなく、汚れた天井へすうっと視線を向けた。 「剣君が君との約束を反故にするなんてよっぽどの理由があるんだろうし。でも剣君がその理由を言わないなら、言えない何かがあるのかもって君は考えたんだろ。だから本当は訊きたかったのに訊けなかった。違う?」 「う、うーん。どうだろ」 創ほど自己分析に長けない雪也は困ったように首をかしげ、曖昧に笑んだ。 「確かに…どうして駄目になったんだろうって訊きたかった。それで今になってちょっと…やっぱり理由は訊きたかったな、何かあったのかなって思って……そう思った自分が嫌だったんだ。本当に…嫌なんだ、そういうの。俺は結局涼一に寄りかかって、いつも涼一からの言葉を待ってる。涼一にばかり頼ってるなって」 「……やっぱり剣君なんかに、君は勿体ないよ」 「え?」 「別れれば? 桐野君の事は俺が嫁に貰ってあげるからさ」 「な、何言ってんの創?」 唖然として焦った風の雪也に創は声を立てて笑い、直後思い立ったように背中を浮かした。 「あのさ。もうこの店の状態にはほとほとウンザリしてるんだ。叔父さんは悪い人じゃないけど、那智姉さんと一緒でちょっとズレた駄目な大人で。そんな身内に振り回される俺もいい加減可哀想だし、大体俺はここの社員でも何でもないし。―…だから、これからデートしよう、桐野君」 「デ、デート?」 ぽかんと口を開いたままの雪也に創は心底楽しそうに頷いた。 「そう。車出すからさ。裏回っててよ。戸締りしたら俺も出るから」 創は雪也が涼一と付き合っていると話した時も大して驚きはせず、その後も困った時には何かと相談に乗ってくれる頼もしい友人だった。 ただ、時々何を考えているのか分からない言動を取る事があるので、雪也はその度翻弄され、それにあまり引きずられると案の定というかで涼一から酷い叱責を受ける事もあった。 「俺と一緒にいると分かったら、剣君怒るだろうね」 「まあ…」 分かっているなら何故いちいち「デート」などという単語を使って面白がるのか。 まあ創も店の改装の事などで本当に不機嫌なのだろうと解釈し、雪也は軽快にハンドルを握る友人へ無理に問い詰める事はやめ、隣の助手席に深く身体を沈めた。 実際、雪也とて創といるのは楽しい。無理をしなくていいし、特に話をしなくとも「分かってくれている」と感じられるから。それは幼馴染である護もそうなのだけれど、彼に関してはあまりに引け目を感じる部分が大きいせいか、今では逆に「寄りかかって欲しい」という気持ちが強く、接していると妙に肩肘張ってしまう部分があった。そしてまたそれを護が素早く悟ってしまい、わざと雪也に甘えようとするものだから、雪也としては「護には永遠に頭が上がらない」のだった。 「たまにするドライブってのはいいもんだね」 空いた道路をスイスイと走らせながら創が言った。 「剣君とはどういう所に行くの」 「え? うーん。色々。遠出をする時は海から山から有名なレジャースポットまで繰り出して夜景見たりとか。近場だと、涼一ってホント色々なお店知ってるから、ご飯食べに行ったり買い物したり」 「へえ。普通の恋人同士みたいだ」 「…っと」 別に急ブレーキを踏まれたわけでもないのに雪也は思わず前のめりにずっこけるような動作を取ってしまった。 「普通の恋人」同士でない事は何となく自覚していたが、創からどういう目で見られているのか、その一端が今の発言で垣間見えたような気がしてしまった。 「あのさ、創…」 「剣君は元から色んな店を知ってるわけじゃなくて、調べているような気がするけどね」 「え」 「確かに、そこら中飛び回ってそうな性格だけどさ。聞く限りじゃ、剣君って大学入ってからは君にべったりで、そんな遊び回ってるってわけでもないだろう」 「う、うん…?」 「だからさ。君に喜んでもらいたいと思って、毎回デートの度に調べてるんじゃないの。あれで案外、努力家だろう」 「………」 淡々とそんな事を話す創の横顔をまじまじと見やりながら、雪也は暫し言葉が出なかった。 確かに創の言う通りかもしれない。努力家というのも然りだと思う。涼一は今の自由な大学生活を手に入れる為に、高校時代は「とにかくガリ勉だった」と言っていた。それが解放されてあちこち外で遊ぶようになったとは言ったが、その頃既に涼一は雪也を構いまくりで、自分で遊び場を開拓する暇などなかったはずだ。 当たり前のように誘われる先についていっていたけれど、涼一はいつも一生懸命考えて自分をエスコートしようとしてくれていたのかも…。 「は…創」 そう思うと、雪也は何だかこの状況にとても後ろめたいものを感じた。勿論、雪也は創を友人以外の何者にも思ってはいないし、それは創とてそうだろう。けれど、創は冗談でも最初「デートをしよう」と言って雪也の為に車を出した。それに雪也は何の抵抗もなく乗ってしまった。涼一は怒るかもしれないなんて頭で思いながらも、「でも許してもらえる」と心のどこかで思っているところがあった。 けれどやっぱり、こんなのは涼一に悪い。 「俺、やっぱり帰るよ」 「何で」 創は雪也がいつかそう言い出すと分かっていたようだ。途端ふき出してちらと車の時計に目をやり、「思った以上に早いな」と茶化した。 さすがに雪也も創の人の悪さに鼻白んでしまう。 「あ、あのね、創。幾ら機嫌が悪いからって、俺で遊ぶのは――」 「桐野君で遊んでるわけじゃないよ。どっちかっていうと剣君で遊んでる。後でこの話したら、きっとあの人烈火の如く怒るだろうしさ。『俺の許可なく雪をドライブに誘っただと! あんな狭い空間で2人きりになったのかーっ!』…ってさ。許可なんか取ろうとしたって取らせてくれないくせにね」 「創は涼一に怒られるのが面白いわけ?」 「あの人怒らせると那智姉さんが死にそうな顔になって、それがまた可笑しいんだよね」 ふふふと意地悪く笑い、創はそれでも車を走らせ続ける。 そしてややあってから口調を真面目なものに変え、創は言った。 「桐野君って本当に剣君の事が好きなんだな」 「え」 「君、趣味悪過ぎるよ」 「創!!」 「あははははは!」 すると遂に創は大笑いし、運転中だというのに眼鏡まで外して目じりの涙を拭おうとした。雪也はそれに途端慌てて、滅多に見る事のない友人の大笑いに驚く隙も作れずただあわあわとしてしまった。 そして創が当然のように車を停めたその場所には、また度肝を抜かれた。 「何で…?」 「あれ。剣君が住んでるマンションってここだろ」 「そ、そうだけど」 車の中からその見慣れ過ぎた風景をボー然として見上げ、雪也はその後ゆっくりと運転席の創を振り返り見た。 「今日断られた理由。訊きたいって言ったじゃないか」 「い、言ったけど」 「じゃ、訊いてきなよ」 「家にいるか分からないし…。だって今日は用があるみたいだったから」 「いや、ここにいるよ」 途惑う雪也をぴしゃりと制して創はそう言い切った。そうして、ジーンズの尻ポケットからおもむろに自らの携帯を取り出し、手持ち無沙汰のようにそれをカチカチと開閉する。 「俺、出掛ける前に、君が剣君といるもんだと思ったってフリして、彼の居所訊いたから。何しているのかは知らないけど、剣君、今マンションに独りでいるって言ってたよ。はは…すっごく機嫌が悪くてさ、『俺が雪といないからって雪誘うなよ!』…だってさ」 「……部屋にいるんだ?」 「君との約束断ってまで何してるんだろうね。俺もかなり気になる」 「…………」 「行ってきなよ」 シートベルトを外した創は、雪也の前に上体を伸ばして自らが助手席のドアを開けた。 雪也は創のフットワークの良さにただただ呆れたり驚いたりだったのだが、頭の中では「やっぱり創には敵わない」と思っていた。 そして、創と友達で本当に良かったと思った。 「うん。訊いてくる。邪魔だったらすぐに帰ればいいんだしね」 「邪魔なわけないだろ。感動して泣いちゃうよ。『俺の事気にしてくれたのかー』って」 「はは…。あのさ、創」 雪也は車から降りると勢いよくドアを閉め、身体を屈めて窓越しに自分を見つめる創に言った。 「その涼一の真似、全然似てないから」 もう何十、何百と見たマンションのフロア、そしてエレベーターだったが、涼一の部屋に向かうまでは何故だか胸がドキドキした。 元々引っ込み思案で遠慮がちなところのある雪也は、自分から誰かを遊びに誘う事、約束もしていない誰かの家へ行く事など滅多になかった。恋人である涼一でさえ、そういう不意打ち的な事をしたのは喧嘩をして気まずくなった翌日とか、そういうパターンくらいだ。それも涼一のリアクションが大体読めるから、気は重くとも今日のような緊張感を抱いた事はなかった。 創はああ言ったけれど、涼一は本当に迷惑に思わないだろうか。 今日は会えないと言ったのだから、いきなり行ったら怒られるかも。 嫌われないかな。 「俺って本当悲観的なんだよな…」 いつも最悪なパターンばかり想像してしまう己には思い切り嘆息する。それでももう来てしまったのだからと、雪也は「よし」と気合を入れて、チンッと目的の階の到着を告げたエレベーターの扉を睨んだ。 けれど。 「え」 ガーッと開かれた扉の先に立つ2人。雪也は一瞬で動きが止まった。 涼一と、見知らぬ若い女性。 「……あ」 涼一の方も待っていたエレベーターに雪也が乗っていた事で、同じように動きを奪われたらしい。驚いたような顔を見せたものの、口を中途半端に開けたまま何も言おうとしない。 「……何?」 そしてそんな涼一の隣にいた女性も、見つめあい硬直する2人の男に一瞬「?」マークを浮かべたようだ。 「あ!」 しかし彼女は再び閉じそうになるエレベーターの扉に逸早く我に返り、慌ててそのドアを片手でぐいと押さえつけた。 「ちょっと、何ぼうっとしてんの! 下行っちゃうじゃない!」 「あ、ごめ…」 反射的に謝った雪也は「開」のボタンを押しながら慌てて外へ飛び出たが、反対に扉を押し留めた女性はそこへ乗り込もうとはせず、そのままエレベーターが再び階下へ行くのを黙って見送った。 因みに涼一はまだ唖然としてフリーズしている。 「涼一の知り合いなの?」 女性はそんな涼一の態度に思い切り不審な目を向け、雪也の事を不躾にじろじろと見やった。彼女はヒールを履いているせいもあって涼一と同じくらいの背丈で、雪也を見下ろすその眼光は威圧的で恐ろしかった。ただ、ダークブラウンの髪をストレートに背中まで垂らし、意思の強そうなその表情は自信に満ちていて無性に惹きつけられる。おまけにスラリとした細過ぎるその体形はどこぞのモデルのように美しかった。 涼一と並んでいるこの姿を見たら、誰の目からも「お似合いのカップル」だと認識され、注目を浴びる事だろう。 「雪……何でいるの?」 涼一がやっとくぐもった声を出した。 雪也はそれに思わずびくりとし、咄嗟に「ごめんっ」と謝った。やはり来てはいけなかったのだ、涼一の暗い表情からもそれは一目瞭然で、雪也は彼女が誰なのかと問い質すどころかただ「ごめん」と繰り返してしまった。 「何? 大学の友達?」 女性は訳が分からないという風にイライラした様子で2人を交互に見やった。 そして涼一が自分に答える気がないと見えると、彼女は雪也を先刻の鋭い眼光で睨み倒し、「貴方、誰」と居丈高に尋ねてきた。 「あ、俺…桐野と言います…。涼一とは大学が…」 「ああ、やっぱり大学の友達。なら他のお仲間に広めておいてくれない?」 「え? 何をですか?」 あまりに相手が偉そうなのでつい敬語になってしまう。しかし今はそんな事も瑣末事項で、雪也はただ女性のよく動く形の良い唇を眺めていた。凄く赤い唇だと何となく感心した。 「この人、遊びが過ぎるけど。元々住む世界は別の所にあるのよね」 「……!」 けれどその赤い唇は彼女が発した言葉の直後、あろう事か何の衒いもなく、さっと隣に立つ涼一の唇を塞いだ。 「なっ…」 らしくもなく意識を保っていなかった涼一は彼女の不意打ちに完全にしてやられた。後頭部をがっつと掴まれ、力強く押し潰されたようなその口づけは、恋人である雪也が見ている前で堂々と行われ、そして終えられた。 雪也はその一部始終をまさに至近距離でただ目を見開いたまま見てしまった。 「この人、アタシの許婚なのよ」 キスをまるで握手のように済ませた彼女は、何故かそうした己の唇をぐいと片手で拭った後、どこか腹を立てたように言った。 「だから、大学でこの話皆さんにしておいてもらえる? 多分、この男を狙ってる女って多いんでしょ? そういう事しても無駄だからって」 「あ、あの……」 思わずどもりながら雪也は自分でも何を言おうとしているのか分からず、一歩前へ踏み出した。ようやく今目にした光景が脳の奥にまで染み渡って、直後信じられないくらいの震えが全身を襲うのが分かった。 酷い、と。そう思った。 「あの…俺…!」 だからかもしれない。雪也は彼女が自分にとって特に苦手な部類の人だと分かっていても、声を出さずにいられなかった。 「何よ?」 けれど女性が偉そうに腕を組み、雪也の言葉を受けとめようとした、その時。 「うわあああぁ――ッ!!!」 その階全体が、いやマンションの建物自体が揺れたのではないかと思う程の絶叫が辺りに容赦なく響き渡った。 「なっ…」 「う……っるさい涼一ッ! アンタ、何なの!?」 雪也はその涼一の「叫び声」に思わず片手を耳に当てて目をチカチカさせたのだが、女性の方はすぐさま立ち直ってがっつと涼一の胸倉を掴んだ。 しかし今度は涼一の方も爛とした眼を光らせて女性である彼女の腕を容赦なくぎりぎりと締め付けた。 「ふ、ふ、ふざけやがってテメエ〜! 殺す! 殺してやる、テメエなんざ!」 「やれるもんならやってみなさいよ、望むところだってのよ、このバカ涼一がッ!」 「バカはテメエだ! よ、よくもよくも雪の前でテメエ…!」 涼一は怒り心頭だったが、一方でどこか泣き出しそうでもあった。 そのあまりに情けない取り乱した様子に女性はたちまち不審な顔をし、さっと眉をひそめる。 「は? 同級生にキス見られたのがそんな恥ずかしいわけ? あんたそんな清純役で学生生活エンジョイしてたの」 「るせえってんだよこのクソ女! マジ殺す! 永遠に俺の前に姿現すんじゃねえーッ!」 「あ・ん・たがそれを言うんじゃないわよ〜!」 「あ、あの…?」 女性に暴力を奮おうとしている涼一も涼一なのだが、彼女の方も大層恐ろしい。雪也はすっかり毒気を抜かれてその場にただ力なく立ち尽くした。 まるで子どもの喧嘩宜しく、2人は互いの首を絞めあい、汚い言葉を罵りあっては、「俺の穢れない唇を返せ!」とか、「嫌がらせよバカ! アンタだけ楽しんでるなんてズルイのよ!」とか訳の分からない遣り取りをしている。 周囲の住人達が何事かと顔を出し始めた頃、それに気づいて我に返った雪也が2人を必死に止めようと間に入るまで、2人はとても20歳を越えた大人とは思えない言動を繰り広げたのだった。 「世界一嫌いな従姉だ」 ぷりぷりとしながら帰って行った彼女を上階のバルコニーから眺めていると、背後からすっかり憔悴しきったような涼一が言った。 「俺が雪也のババアが嫌いなのは、どっちかっていうとババアの正体知る前からだから。最初っからあいつに似ててむかつくと思ってた」 「涼一…」 母親を悪く言われるのには慣れたものの、やはりと言うかでリアクションに困り、雪也は言い淀んだ。 しかし、そう言われてみれば合点のいくところは幾つかあった。「涼一は人付き合いがうまいから」で全て片付けてきたが、母の美奈子に会わせると、最初は誰もが度肝を抜かれたり困ったりしてやがて距離を取って行くのに、涼一は始めから泥酔した母の相手もうまくこなしていたように思う。 「そういえば…あの人の強気なところ、母さんにちょっと似てた」 思わずクスリと笑って雪也はここで初めて涼一を見た。涼一があまりに悲愴で真面目な顔をしているものだから慌ててすぐに逸らしたものの、窓を閉めて中に入ると、そのまま黙って涼一の前に腰をおろした。 涼一は立ったままだった。 「今日何で約束駄目になったのかなって気になって」 「それで来たの」 「うん。ごめん」 「何で雪が謝んの」 別にいいよと投げ遣りに言って、それから涼一はぎゅっと拳を作って唇を噛んだ。 「……あのバカ従姉はうちで絶対権限を持つ叔父貴の娘で、ちょっと……仕事の話でどうしても今日じゃなきゃ駄目だと言いやがるから…だから……」 「家の用事ならそう言ってくれればいいのに」 「家の話したくなかった。あのクソ女の話したくなかった」 突然座りこんで涼一は雪也の手をぎゅっと両手で握り締めた。 「許婚なんて嘘だから」 「うん。分かるけど」 雪也があまりにあっさり頷くので、涼一は驚いたように目を見開いた。 「えっ、分かる!?」 「うん。だって喧嘩している最中、2人で色々言いあってたから。『許婚なんて如何にも財閥っぽい噂流して、涼一の学生ライフを潰してやる』みたいに言ってたじゃない、あの人」 「そうだったか?」 「うん。涼一も、『自分がフラれたからって八つ当たりするな』って言ってたし」 「そうだっけ」 「うん」 雪也は頷き、それから手を握られていなかった方の手を自ら涼一のそれに重ねた。涼一は途端びくりと身体を動かしたものの、みるみる先刻見せたような崩れそうな顔になり、ごつんと額をその手にぶつけた。 「ごめん、雪。俺、不覚取られて、雪以外の奴にキスされた」 「いいよ、もう」 「よくねえ!」 がばりと顔を上げ、涼一はそのまま雪也の唇にキスをした。それ以前に何度も口を濯いで消毒までして、「これで大丈夫」などと言っていたのはこれの為だったのだろうか。 可笑しくなって雪也は笑った。 「あんな親戚いたんだ。何か…テンションが涼一に似てる」 「よせよ、気色悪ィ。あんなの大嫌いだ。俺が好きなのは雪だけだから」 「……うん」 「ホントだから」 「うん」 分かったからと何度も頷いたが、涼一は納得しないようだった。握ったその手を放そうとはせず、その体勢のまま何度も雪也にキスを仕掛けて、それでも「ああ」と嘆きの声を落とし続けた。 「涼一」 だから雪也はそんな涼一を慰めるのに必死で、何度も「誤解なんかしてない」と繰り返した。 そしてそれも効き目がないと分かると、わざとおどけたようにからかいの言葉を投げた。 「それにしても涼一のさっきの叫び声。本当にびっくりした。あんな絶叫初めて聞いたよ」 「……一瞬気が狂うかと思った」 「大袈裟だよ、ちょっとからかわれたくらいで。そんなの、涼一だってすぐに分かったんだろ?」 「違う、キスの事じゃない!」 「え?」 思わず怒鳴るようにそう言い切られ、雪也が驚いたように動きを止めると、涼一は「あ、いや」ともごもごと焦った風になりながら横を向いた。 「あれも…そりゃ、むかついたけど。俺があの時叫んだのは……焦ったから」 「何?」 雪也が意味が分からず首をかしげると、涼一はちらとそんな雪也を盗み見るような目で見やり、ぽつりと言った。 「俺があいつにキスされた時………雪、泣きそうになってた」 涼一の言葉に雪也が何も言えずにいると、涼一は再びうろたえた。 「俺、雪にあんな顔絶対させたくないって……雪は絶対俺がいつも笑わせてやるって思ってたのに、その俺が……雪に、嫌な想いさせた」 「俺……」 「雪、我慢出来ないならマジであの女殺してこようか? 事故死か何かに見せかけて」 「……いや、そんな冗談いらないから」 バカな台詞で何とか冷静さを取り戻し、雪也はきっぱりとその申し出を断った後、それでも気まずそうに俯いた。 「俺……泣きそうだった?」 「うん。俺……心臓潰れるって思った。雪をそんな気持ちにさせた俺はマジでクズだ」 「そんな事ないよ」 「そんな事ある」 言いながら落ちてきた何度目かのキスをまた受け入れて、雪也はぎゅっと目を瞑り、それからそっと息を吐いた。 涼一が優しく強く握り締めてくれるこの手の感触も、そして口づけも。 本当に大切だし、愛しい。今それをとても実感する。 じんじんと胸が熱くなって、雪也は意図せず本当に泣きそうになってしまった。 泣きそうになったから、慌てて誤魔化すように口を切った。 「涼一にちゃんとどうしてって訊けない自分が嫌だったんだ。だから…迷惑かもしれないって思ったんだけど、来ちゃったんだ」 「嬉しいよ、雪」 俺のこと気にしてくれたんだなと言い、涼一は雪也を握るその指先にも何度も唇を寄せた。 それを素直に受け入れながら雪也は笑って頷いた。ようやく、幾らか気持ちが落ち着いてきていた。 だから正直に言った。 「うん。創が連れてきてくれたんだ」 「………何?」 「創が、ちゃんと訊いた方がいいって。車出してくれて」 「車?」 「うん。創も色々と今お店の事とか大変なのに。いつも親身になってくれて、だから俺達の事も――」 「……親身?」 「……あれ?」 何やら風向きがおかしいと雪也が気づいたのはその数秒後だ。 本当はその従姉の事ももっと訊きたかったし、家業の事や複雑そうな親戚付き合いの事も涼一にきちんと話してもらいたかった。涼一はあまり話したがらないけれど、いつかは……これからも涼一と共に歩いて行きたいと考えている雪也は、いつかは涼一の事を全部ちゃんと知りたいと思っていた。 そしてそれを自分からきちんと訊かなければ、と。 けれど。 「何でッ! どーして俺が約束駄目になったら、そうやってすぐ創の所に行くんだよ雪はーッ!!」 「痛っ!」 いきなり乱暴に押し倒されたせいで床にしこたま頭をぶつけた雪也にも涼一は「全く」お構いなしだ。 がむしゃらに雪也の首筋にがぶりと噛みつくや否や、乱暴に服を脱がせにかかって最早猛獣。先ほどの優しさは幻だったのかと思う程の豹変ぶりだった。 「しかも2人っきりで車になんか乗るなっての! いつも言ってるだろ、あいつは護より危険なんだ! どっか良からぬ所へ連れて行かれたらどうするんだよ!? 雪はそれでもいいってのか!?」 「は、創は…痛っ…ちょっ、涼…! 創は、こんな酷い事、しないよ…!」 「はああ!? 酷くないように抱いたってのか!? ゆゆゆ雪〜!」 「涼一って…あっ……もう…!」 「訊きたい」と思っても、涼一がそういう隙を与えないというのも一因では。 「もう雪はいっつも俺をおかしくする…!」 「痛いっ…痛いって、涼…あ…ッ」 そうなんだ、涼一も悪いんだ、これは。 いつもの如く結局涼一のいつものパターンに収まって、雪也はその強引な恋人に組み敷かれながら、こっそりそんな不満も浮かべてしまった。 |
了
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