Bottoms up!



  まったくもっていつものことなのだが、涼一があまりにもぶすくれた顔をしているので、雪也は困り果てていた。
「あと必要なものあるかな?」
「ないだろ」
  やっとの思いで話しかけても涼一は素っ気無く返すだけ。にこりとも笑わない。折角バイトも入っておらず、母の美奈子もいつもの短期出張で不在というのに、どうしてこんなことになってしまったのだろうと、雪也は心内で頭を抱えた。

  事の発端は大学の友人、藤堂だった。

「なあなあ、桐野。今度さ、康久と一緒にお前んちに行ってもいいか?」
「え?」
  その時、いつも傍にいるはずの涼一は、学友の康久から「用がある」とかで、何処かへ呼ばれていなかった。
  1人広い講堂で講義用教本を開いていた雪也に藤堂は言った。
「よくよく考えたら、俺らだけで集まることってめったにないし、あったとしても大抵涼一の所だろ。まあ、あいつんち広いし、誰もいなくて集まりやすいからだけど。でも実はそのこと、涼一はあまりいい顔してないだろ?」
「う、うん」
「それで康久と、たまには内輪だけでじっくり飲みてえよなって話してたんだけど、野郎だけで酒盛りするのに、いちいち店行くのもかったるいし。それに今俺、金欠なんだよな! んで、桐野ん所はどうかなってなってさ!」
「………」
  思わず黙りこむ雪也に、藤堂は途端焦ったように言った。
「あ、駄目なら別にいいんだぜ、別に! 何つーか、目的は桐野んちに行くことじゃねえし。ま、ちょっとはそれもあるけど。けど、一番の目的は、桐野と飲むことだし!」
「え…?」
  雪也がそのにこにこした害のない丸い顔を不思議そうに見上げると、藤堂はさらにニカッと大きな口を開いて、人好きのする笑みを浮かべた。
「たまにはいいだろ? 実は康久がさ、お前と話したいのに、いつも涼一が邪魔するって煩いんだよな。しかもあいつ、最近いちいち変なこと言うしよ! 全く相野じゃあるまいし…」
「逢坂……何て言っているの?」
  「変なこと」という藤堂の発言にどきりとして雪也が途惑うと、そんな相手の反応にはまるで気づいていないのだろう、お人よしの偽ラガーマンは片手をひらひらと振って、可笑しそうに目を細めた。
「いや、気にすんな。お前らがあんまり仲いいもんでさ。実は涼一がずっとひた隠しにしている恋人は、桐野なんじゃないかってさ!」
「……っ」
「んな馬鹿なことあるわけねーだろって! なあ!?」
「と、藤堂…」
「あー大丈夫、大丈夫! あいつのうわ言みたいな言い掛かりを知っているのは俺だけだから! でもさぁ、あいつ、やたらとしつこいんだよ。だから、それは違うってことを再確認する為にも、一度桐野とはじっくり飲み明かすかってことで。あいつって馬鹿だからさぁ、昔から一旦気になったことにはホントしつこく執着すんの。ねちっこいんだよな、何か。性格が。だからあいつは、あのまあまあの見てくれでも全然モテねーの。かかかっ、俺と一緒だ!」
  ヒヤヒヤとした想いで雪也は藤堂の話を聞いた。
  逢坂康久は涼一や藤堂の高校の頃からの同級生で、涼一曰く「腐れ縁」の1人である。藤堂が大学入学時に作ったテニスサークルの立ち上げも手伝っており、学部も一緒だから必然的に雪也も顔を合わせれば話すし、その際の印象は「話しやすくて楽しい」と、良い部類に入っている。お人よしの藤堂の周りには実にたくさんの「仲間」がいるが、その中には人気者の涼一といつも一緒の雪也に悪感情を抱く者も少なくない。だから今では当初義理で籍を置いていたサークルにも殆ど顔を出していないのだが、この康久とだけは繋がっていた。サークル在籍時から、康久は集団の中で常に気遅れてしまう雪也をいつもさり気なく気遣ってくれたし、気の利いた冗談で笑わせてくれた。何より、絶対的なカリスマ性で他を従えさせているような涼一に対して、康久は藤堂と並び、臆せず物を言える数少ない人物だった。だから雪也も自然康久には関心を持って接していたし、康久もそんな雪也には積極的に声をかけてくれていた。
  しかしその友人と思っていた人物が…否、だからこそか。涼一と雪也の関係を訝っていたとは。…雪也の胸は激しくざわめいた。
「あのさ…。もしかして、逢坂が今日涼一に、用があるって言っていたのは…?」
  秘かにいやな汗を浮かべる雪也に、藤堂は自分も不可解だと言う風に首を捻った。
「いやぁ康久の奴、涼一がいる前で桐野に誘いをかけても、『絶対涼一が断りを入れてくるから!』とか言ってさ。『俺が涼一の注意をひきつけておくから、その間にお前が桐野を誘え!』とか言って。『桐野が1度約束してくれればそれを破ることはないだろうから、とにかくまずは桐野の了承を得ろ!』ってさ。な、変な奴だろー?」
「う…うん…」
  藤堂はまるで分かっていない様子だったが、雪也の方はとても平静でいられなかった。
  そんな風に言うなんて、自分たちの関係がよく分かっている証拠ではないか? 気づかれているのか……想像するだけで、雪也は居た堪れない気持ちに襲われた。
  確かに、普段から涼一の態度は露骨だ。雪也が構内の誰かと少し喋っただけで、涼一はたちまちむっとするし、時には雪也をその場から連れ出そうとする。サークルの女の子が雪也とメールをしたいからと涼一に自分のアドレスを渡した時も、涼一はそれを勝手に処分して知らんふりを決め込んでいたこともある。これまではそれらも何だかんだと誤魔化してこられたが、普段涼一が雪也に対して行っている過度の束縛を見れば、皆にバレても何の不思議もない。それくらい、涼一の言動はあからさまなところがあった。
「桐野〜。んな考え込むなよ〜。気にしなくていいって!」
  しかし頭に「超」がつくほど鈍感な藤堂は、雪也たちの一番近くにいても、「そのこと」に気づいた風はない。ただ、雪也が何でか落ち込んでいる、というのは分かるらしい。おやつのメロンパンを口に放り込みながら、優しい学友は何でもないさというようにへらりと笑った。
「あいつは変な奴なんだよ。基本、妄想野郎だな! けど1度サシでじっくり飲んでさ、そん時にでもさらっと否定しとけば、あいつも桐野のこと分かるから。な?」
「うん…」
「おっ! じゃあ、飲み会はオーケーだな!? お前ンちでもいい?」
「あ…。親が…いない時なら…」
「オーケー、オーケー! サンキュなー。ははっ、楽しみー。そんじゃ、康久にもメール出すわ……って、あれ?」
「あ……」
「何話してんだよ」
  藤堂が尻ポケットから携帯を取り出して顔を上げた先…雪也も流れるようにして見やった視線の向こうには、これでもかという程仏頂面をしている恋人―…涼一の姿があった。
  雪也は段々と気が重くなるのを感じながら、それでもこの飲み会は許してもらわなければと思った。





「だから、隠さなければいいんだよ。言っちまえばいいんだ。俺と雪は付き合っているって」
  自宅の台所で「極力」無心に動き回る雪也を、リビングのソファから涼一がぶすくれた調子で言った。
  先ほどから何度も同じ台詞を繰り返している。
「何でこんな飲み会。だる!」
「涼一」
「あーあ、くそ。今日ばかりはあのババア、いきなり帰ってきたりしねェかな。そしたらこんなくだらない飲み会もあっという間になくなるのに」
「だから、渋々でも、うちで飲むことを頷いたのか」
  雪也の半ば呆れたような言い様に、涼一はむっとして唇を尖らせた。
「渋々って何だよ! けどまぁ、そういうこと。俺んちにしたら、あいつらずっと居座りそうだし」
  大体にして、涼一は今日の飲み会に雪也が簡単なつまみを作ることにも猛然と反対した。仕方がないので、大抵のものはスーパーで購入し、あとは本当に些細なもの…キュウリとわかめの酢の物だとか、冷やしたトマトやチーズを切り分けて皿に並べるだとか…その程度を準備するだけに留めた。
「なあ雪。どうしても駄目? 康久に言ってもいいだろ?」
  その雪也の些細な作業をリビングから覗き見る涼一は、もう何十回目なのか、そう提案して「その方がいいって!」と自分の意見を後押しした。
「いつかはバレることなんじゃねーの。俺は前からそう思ってたよ。そもそも何であいつがそんなこと勘繰ってくんのか、雪は全然分かってないだろ? あいつも俺と同じなの。あいつは雪のことが好きなんだよ」
「そんなことあるわけないだろ」
  涼一のその「いつもの」発言に笑ってやれるだけの余裕が、今の雪也にはない。涼一は折に触れその手のことを言い出すが、言っては悪いと思いながらも、雪也には単なる「妄想」としか思えない。何故って、涼一は友人の創や、時には寛兎にすらその手のことを言い出すから。
  しかし涼一にしてみれば、それは間違いのない事実である。だから今も至って真面目に言ったに過ぎない。それをあしらわれたものだから、ますますむっとして、涼一は荒っぽい声を出した。
「何でそう言い切れるんだよ。雪よりよっぽど俺の方が鋭いぜ、こういうことには。ていうか、雪は全然分かってないから! 自分のことも、周りのことも!」
  フンと鼻を鳴らし、それから涼一はすっかりいじけて黙り込んだ。雪也は、「ああ、また気まずい空気が」とため息をかみ殺すのに必死だったが、涼一の機嫌を直すべきか否か逡巡する前に、藤堂からの電話は鳴った。最寄りの駅に着いたから迎えに来てくれとの、それは今日の青空のように能天気な声だった。





「お邪魔しまーす」
「お邪魔―!」
  手ぶらじゃ何だからと、2人はそれぞれ差し入れを持参してきた。藤堂はコンビニで買ったというスナック菓子数種。康久は缶ビール1ダース分に、炭酸の日本酒だった。
「こっちでも用意していたから良かったのに。重くなかった?」
  藤堂はともかく、大荷物を持って上がってきた康久に雪也は驚いた。
  しかし康久は平然として笑った。
「全然。ビールはそこのコンビニで買ったやつだし。あ、でもこっちは手持ちね。桐野は酒があまり強くないって聞いたから。でもこれなら飲めると思うよ」
「へえ、見たことない。スパークリング清酒? こんなのあるんだ」
「アルコール濃度低いから飲みやすいの。気に入ったらまた持ってくるな」
「また、なんかねーよ…」
  ぼそりと呟いた涼一の台詞に雪也はぎくりとして咄嗟にぎんと睨みつけたが、いじけまくっている恋人と視線が合うことはなかった。
  幸い、2人にも聞こえなかったらしい。康久は何ともない様子で「とりあえずの数だけ残して、他のビール冷蔵庫に入れていい?」と無遠慮に台所へ向かっていたし、藤堂もいつもの呑気さで「ここが桐野の家かあ。思ったよりでかいな!」と感心しながらきょろきょろしていた。
「涼一。本当にお願いだから」
  その隙を見て、雪也は涼一の腕を引っ張りながら心の底からの懇願をした。涼一はそれでますますむうっとなったのだが、雪也のお願いを無碍にも出来ないらしい。「努力はする」と小声で返した。
「乾杯しよ、乾杯。とりあえず」
  どっかとソファに腰をおろした藤堂は、うきうきしながら雪也が用意していた4つのグラスに、なみなみビールを注いでいった。
「桐野も最初はビールでいいだろ?」
「うん」
「乾杯って何に乾杯すんだよ」
  藤堂の向かいに座った涼一が白けた風に訊ねる。康久が戻ってきて「何でもいいんじゃねえ」と適当に応えた。
「バカ、これは超レアで正式な内輪飲みだ。だから真面目に乾杯すんだよ」
  すると藤堂は突然そんなことを言い出して、妙にきりりとした顔で背筋まで伸ばした。
「いいか。桐野を除く俺ら3人はそれぞれ結構長い付き合いになるが、これまではそりゃあ酷かった」
「酷かったって、何が」
「主に、俺へのいじめが」
「「いじめてねえ」」
  まるで息の合うコンビのように涼一と康久は声を揃えて否定したが、藤堂はそれを歯牙にもかけなかった。
  雪也はそんな3人をぽかんとして眺めるのみである。
「いじめる側ってのは、大概そうやって自覚がねえもんだ。特に涼一は、普段あんだけ他の連中に猫被りまくりの“スマイル・サービス”しまくってんのに、俺に対する素のどつき。あれはない。お家柄、多少横柄になるのは仕方ねえと半分諦めている部分もあるが、親しき仲にも礼儀ありって言葉を知って欲しいと思ってたね、常々」
「それは言える」
「康久! お前だって藤堂のことは蹴りまくりだろーが! 猫被りも、こいつの方がえぐい!」
「どこが!?」
  たった数十秒前までは名コンビのように台詞を合わせていた2人が、今度はいがみ合いだ。藤堂はしれっとして2人のやり合いを聞いていたが、雪也としてはどうしたものかと戸惑ってしまう。藤堂の言う通り、付き合いの長い3人のことだから、これも一種のじゃれあいと取って良いのだろうけれど――。
「いやいや、まあね? そんなどうしようもないお前らだけど、たまには良いところもあるし? 良いとこ悪いとこ天秤にかけて、大体4−6くれえだ。だからまぁ、そこはいい。俺も許してやっているとこあるから」
「……何か凄ェ偉そうなデブがいんだけど!」
「腹立ってきたな!? 涼一、もう殺るか!? いっそのこと!?」
「ちょっ…!」
  しかし2人が藤堂の演説に対して、いよいよ頭にきたという風に辛辣なことを口走り始めたものだから、それには雪也も慌てて身体を揺らし、止めようと口を開きかけた。
「そこっ!」
  けれど、言われている当人はまるで動じた風がない。むしろこの展開を呼び込む為に今の長口上はあったとばかりに、藤堂はびしりと雪也のことを指さして「それだよ、それ!」と声を上げた。
  これには雪也をはじめ、あとの2人も呆気にとられて動きを止めた。
  最初に口を開いたのは涼一だ。
「それって何だよ…。ていうか、雪のこと指さすな」
「つまりな。俺が言いたいのは、こういう俺ら3人の中に、桐野が加わってくれて、すげー良かったって話!」
「え?」
  雪也が藤堂の言葉に驚いて声を漏らすと、藤堂はいつもの人の良い顔でにこにこと目の前の雪也に杯を掲げて見せた。
「今さ、俺がひどい目に遭いそうだと思ったら、桐野、止めてくれようとしただろ? それなのよ、俺が欲しかったものは! 要は、桐野はいつもこのキツイ2人の緩衝材になってくれてるって言うかな! 桐野がいるようになってから、明らかにこいつら変わったもん。少なくとも、桐野がいる時は、涼一も康久も俺に対しての毒が五割減って感じだ。そうだろ? お前らも、桐野の言うことだけは聞くもんな!?」
「そ、そんなこと」
「あるある。そんなことある! だからさ、俺は本当に嬉しいんだよなぁ、桐野と大学で知り合えて! けど何ていうの? お前ってあんまりこういう飲み会好きじゃないしさ。思えば、無理やり連れてった飲み会とか、無理やり涼一の所に押しかけて飯食ったのとか抜かしたら、俺らがこうやってじっくり飲むことってなかったじゃん。たま〜に飲めても、涼一が何やかやってすぐに追い出すしさぁ!」
「そりゃそうだろ…。予告なしに来られたら迷惑だ」
  涼一のぼそりと呟く横槍を無視して、藤堂は依然として雪也を見て言った。
「だからさ。今日はこうやって桐野んちに来ることまで出来て、俺、素直〜に、嬉しいんだよな、ホント!」
「それは本当にそう」
  すると今度は康久がうんうんと頷いて藤堂の言葉に同意した。
「俺、正直、こいつらとだけだったら、この関係は続かなかったと思うね。涼一は我がまま暴君で、そのくせモテまくってんのむかつくし。この藤堂はこの通りのバカだし? けど、桐野は優しいから、そういうこいつらのこと、すげーフォローしてくれんじゃん。俺らの間のバランスもうまく取ってくれるし。本当、桐野みたいな貴重な人材はめったにいないと思うわ」
「え、えーと、何か、変だよ? 2人とも、誉め過ぎ…」
  こんな風に同年代の友人らにもてはやされたことがない雪也はすっかり参ってしまった。何せ、普段から自己否定の著しいネガティブ人間である。最近でこそ、涼一から好きだ愛してるだと連呼され、雪也のこういうところがいい、こういうところが尊敬できると褒めちぎられてきたことで、少しずつ己の肯定感なるものも育ちつつあるのだけれど。
  まだ飲んでもいないのに顔が熱い。雪也は嬉しさと恥ずかしさがない混ぜになってどうして良いか分からず、たちまち俯いてしまった。
「可愛い…」
「おいっ!」
  しかしその幸せもあまり長く続かなかった。いきなり涼一が怒りの形相で立ち上がり、先刻藤堂を注意したくせに、自分が目の前の康久をびしりと指さしたのだ。
「今、お前何て言った!?」
「え、何が?」
  康久は涼一が怒った理由をよく分かっているようだった。唇をひくつかせながらもふざけたような笑みを浮かべ、大袈裟に藤堂の身体を盾にしながら開き直ったように聞き返す。
「今何て言ったって訊いてんだよッ!」
「桐野の照れる顔が可愛いと思ったから、『可愛い』って言っただけだけど。何? それが悪いの?」
「悪いッ!」
  ぴしゃりと言って涼一は「見んな!」と怒鳴った。雪也は途端焦りまくって「涼一っ」と呼びながら自らも立ちあがった。涼一の激昂は明らかに不自然である。
  しかしそれこそ、この面子のバランスをうまい具合に取っているのではないかと思われる藤堂が、「俺を巻き込むな」と迷惑そうに言いつつ、康久を嗜めるように口を挟んだ。
「まぁ悪くはねーけど、男の桐野を可愛いって言うのもなぁ、どうかという気はするよな。桐野もあんま良く思わないんじゃねえ? なぁ桐野?」
「えっ!? あ、う…うん。そうだね…」
  雪也がぼそぼそと応えながら頷くと、康久は「あ、そうなの?」と苦笑した。
「桐野がそう思うなら、ごめん。ただ俺は正直に感じたままを言っただけなんだけど。だって男でも、可愛いって思う瞬間はあるだろ? 藤堂、お前ないの?」
「いや、あるよ。そりゃフツーにあるよ。俺は常々、自分のこのぽっちゃりとした身体を可愛いと思ってるからな!」
「わははは。出た! 勘違いナルシスト!」
「煩ェなあ!」
  藤堂のくだらない発言に康久がげらげらと笑い、それにつられて藤堂も笑い出した為、場の空気は一瞬で元の穏やかなものになった。雪也はほっとしてちらりと立ち上がったままの涼一を見つめた。
  涼一は……未だ承服しかねるという風な顔をしていたが、一応冷静さは戻っているようだった。
  ただ、雪也が安心するのはまだ早かった。
「お前、俺と雪のことをどうこう言っているらしいけど、結局のところ、お前が雪のことをそういう目で見てんじゃねえの」
  涼一は腰を下ろした後、ごとん!と、乱暴にグラスを置いて、いきなりそんなことを言い出した。
「りょっ…」
  雪也はこれにまた仰天して目を剥いた。涼一からその話題を持ち出してどうする、そう思ったからだったが、藤堂もそれは思ったらしい、「あれえ」といまだ乾杯の出来ないビールを見つめながら、どこか迷惑そうに言った。
「何? 乾杯前にその話題出しちゃうの? 早くねえ? ていうか、とりあえず乾杯だけしねえ?」
「だよな。そうしようぜ」
「駄目だ。康久、答えろ」
  しかし涼一は退かなかった。藤堂は「え〜」と不満そうに零して、「もう飲みてえよお」と情けない声を出したし、康久も「めんどくせえなあ」と零しながら雪也をちらりと見て、ため息をついた。
「ホント、お前って困ったちゃんだな」
「早く答えろよ」
「何? 俺が桐野を好きかって? そりゃ好きだよ」
「なっ…」
  絶句する涼一に構わず康久は早口で続けた。
「だって桐野は性格いいし、可愛いし。傍にいるとホッとするって言うの? まさに理想の癒し系だよなぁ。近年めったに会えない物件じゃん。な、藤堂?」
「えー。まぁ、そうかも? でも、俺はソッチ系の趣味はねえからな。あ!? もしかして涼一じゃなくて、お前がソッチ系だったの!? 今日はそれをカミングアウトするつもりで俺らを集めたのか!?」
「はあ〜? ……まぁ、別にそれでもいっか。俺、最近思うんだけど、もしかしてどっちもありかも?って気もしてきてたから」
「ええ〜! わははは、マジかよ〜!」
  藤堂は康久が冗談を言っていると思って、まるで本気に取っていない。しーんと静まり返る2人に反して、1人でけらけら笑っている。
  雪也は生きた心地がしなかった。康久が本気で自分を好きだと言っているとは思っていないし、もしそうだとしても、その気持ちは友情としてのそれだろう、こちらを見やる表情からしてもそれは恐らく正解だと思う。
  しかし勿論、涼一はそう取らないに違いない。今やすっかり黙り込んで、しかし何を思ってか康久の方は見ずに、ただ一点、黄金色に輝くグラスを眺めるだけだ。
「まっ! それじゃあ、康久が重大発表したところで、乾杯しようぜ、乾杯! 俺らの熱き友情にかんぱ〜い!」
  その「友情」とやらも途中までは良い話だったはずだが、藤堂のその音頭に笑顔で応じたのはその爆弾発言を仕掛けた康久だけだった。雪也はかろうじて「乾杯」と小さく呟けたが、とにかく無言の涼一が恐ろしい。この会が始まるまでは、雪也は自分たちの関係を涼一がバラしてしまったらどうしようと、ただそれだけが心配だった。しかし今は涼一と康久の関係が心配だ。その気掛かりは、自分たちの恋人関係を2人に知られること以上に胸がきしむような苦しさだった。
「あ……」
  どうしよう。だったらもう、言うべきだろうか。
  僅か数分の間で雪也の葛藤はピークに達した。本当はまだとても怖い。この2人が真実を知って、今と変わらず笑顔を向けてくれるのか。世の中において発言権が増したと言っても、同性愛者がマイノリティであることに変わりはない。世間は差別と偏見に満ちている。ましてや、元々ノーマルだった涼一をその世界に引き込んだのは雪也だ。雪也はそのことをまだどこかで重石に感じているところがあった。涼一はきっと将来、何らか表舞台へ出て行く人間だ。そうなるべきだ。そんな涼一を自分と同じ場所へ引き込んだことに何も感じないでいられるほど、雪也の性格は図太くない。
  それでも。
「……あの」
  そういった諸々の怖さがあっても、雪也を仲間として迎え入れ、こんな風に笑い、あまつさえ好きだと言ってくれる人たちの前で嘘を吐き続けることは……許されるのだろうか。
「あのさ…」
  駄目だ。きっと涼一が「いつかは言わなくちゃ」と言っていたのは、つまりは、こういうことだったのだ。
「あの、皆…」
  ドクンドクンと異常に高鳴って行く心臓の音に押し潰されそうになりながら、雪也は再度、言おうとした。自分でも分かる。頭がキーンとなって、血の気が引いている。さっきまであんなに顔が熱かったのに、今は寒い。視界も定まらないような気がする。でも、言わなくちゃ。
  ごちゃごちゃとした思考の中で雪也はそんな風に思いながら、顔を上げた。
  しかし、その時だった。
「俺もそうだから」
  涼一が康久に言った。
  えっと思って雪也がはたと横を向くと、いつの間にか顔を上げていた涼一は、真っ直ぐに康久の方を見て、ひどく真面目な顔でそう答えた。
  そして、立て続けに。
「けど、お前のとはレベルが違うから。全然違う。相手にすんのもバカバカしいくらい」
「……ふうん。そうなの?」
「ああ、そうだよ。あと、誰でもってわけじゃないからな。雪だからだ」
「まぁそれは分かるけど」
「え、ちょっ…」
  ぽんぽんと2人の間だけで進む会話。雪也があ然としてそれに何とかついていこうとすると、不意に康久はさっと雪也の方を見て、ニッと、いつもの軽快な笑みを浮かべた。
「知ってた! そりゃ見てれば分かるよ!」
「逢……」
「ただ、何て言うのかなぁ? ずっと何も言ってもらえないのも寂しいじゃん。だから何か、鎌掛けみたいになっちゃったけど、まぁいいだろ? 俺がお前ら好きなのは本当なんだからさ!」
「お前らじゃなくて、雪だけだろーが、お前は!」
  涼一がすかさず怒鳴ると、康久はわざと片耳を押さえる所作を見せて眉をひそめた。
「バカ、そりゃそうだけど。ここはお前も入れておかないと、桐野が気を揉むだろうが。優しさだよ、優しさ」
「ふん…。とにかく、いいな、これで分かったな!? だからお前、もうくだらない茶々入れんなよ!」
「はは……分かったよ」
「何、何だよお前ら、何暗号で喋ってんの? 俺がこの奇跡のカクテル作ってる間に何話してたんだよ?」
  3人の会話を聞いていなかったのだろうか。否、何となく聞いてはいたのだろうが、まるで分かっていないらしい。藤堂はご機嫌な様子で、勝手に運んできたグラスで自分好みの酒を作っていたが、それをさっと雪也に渡すと、自分は傍にあったつまみを口に放り込んだ。それから、ようやく身を乗り出すようにして3人を見やる。
「なぁ、何の話してたの? 涼一が康久に何か挑んでたのか?」
「――…ああ、そうだよ。俺はこいつより酒が強いって話」
「しっかし、こいつってほとんど奇跡の男だよな。桐野もそう思わねえ?」
  まともに相手をするのが面倒だと思ったのだろう、ごまかし台詞を言う涼一に、からかうようにして雪也へ話を振る康久。無論、藤堂はそれに「仲間外れ」の空気を感じて不服申し立てを行ったのだが、当然のことながらこの2人がまともな相手をすることはなかった。
「はは…」
  雪也はそんな騒がしい3人の、言い合いをしたり酒を煽る姿を眺めやることで、自然穏やかな笑みを零した。先ほどの動悸は何だったのかと思うほどに、今は恐ろしいほど落ち着いている。
  そして、言い様もなく心地よい空気に包まれている自分を感じた。
  だから涼一には悪いとは思いながらも。
「あのさ…俺、今からこのビールと日本酒に合うつまみ、作ろうかな」
「おっ、いいねー!」
「やったね、桐野の手料理! 実はそれを期待してたんだよなー!」
「だ、駄目だっ! 雪!」
  藤堂、康久、涼一の三者三様の反応にもう一度くすりと微笑んでから、雪也は自分のグラスを一気に煽って「作る!」と力強く言った。涼一がそれに横で思い切りたじろいでいるのが分かったが、雪也は身体中に巡るアルコールに酔いしれながら、「今日は作って作って作りまくりたい」と腕をまくった。
  その夜の3人が、雪也の手料理で何sか体重増加したのは言うまでもない。











私は基本的に英語のタイトルはつけない主義です。
でも、今回はこれしか思い浮かびませんでした。
この後は皆ぐいっと煽って酔っ払い、帰宅した美奈子ママに絡まれると思う…(笑)。