ハッピーデート



  涼一は基本的に雪也の向こう1週間くらいの予定は把握しているし、していないと「気持ちが悪い」と思っているが、やたらと「いつ、どこで、誰と、何をしている?」といった作文論法で相手を縛っては「嫌がられるかもしれない」ことくらいは分かっている。周りにいる友人知人もしょっちゅう言う。「桐野のことになるといちいち煩い」、「束縛し過ぎなのでは」、「はっきり言ってウザイ」等々。雪也自身は涼一に向かってそんなことは決して言わない。だから「当人は嫌がっていないのだし、別にいいじゃないか」と思わないでもない。けれど一方で、「雪也は優しいし、気遣い性だから、もしかしたら本当は嫌なのに我慢して言わないのかも…」という疑念が全くないわけでもない。それは雪也を疑っているというよりは、涼一が自らの過去の所業を思い返した時、自分に自信が持てないせいだ。いつも自信が服を着て歩いているような男だと揶揄されてきたのに、そして今もって根本ではそんな男であることに間違いはないのに、涼一は雪也のことに関してだけは、そうなりきれないところがある。そういった部分は涼一の人間的成長の証と言えなくもないのだが。
「涼一、今日この後って何か予定ある?」
  そんな、毎日が試行錯誤の連続と言っても良いくらいの恋人との生活だが、ある日、雪也が涼一にそう訊いた。それは大学の講義が早めに終わった15時前のことだったが、最近ではめっきり暗くなるのも早くなった。雪也が大丈夫だと言ってくれるなら、一緒に買い物でもして早々自分のマンションへ行こうと誘おうと思っていた涼一は、駅に向かって歩く恋人を見て驚きを隠せなかった。
  何せ雪也の方から涼一の予定を訊いてくることなど、全くないとまでは言わないが、実に珍しいことだったから。
「用…とか、別にないけど」
  だからだろう、さらりと答えるつもりが何故かたどたどしい返しになってしまった。しかし雪也はそんな涼一には気づかず、「そう?」と嬉しそうに反応すると、にこやかに続けた。
「だったらこの後、美術館行かない? ――これ」
  雪也は財布から2枚のチケットを取り出して涼一に見せた。それは国立美術館が期間限定で開催している「恐怖」をテーマに描かれた西洋の名画展で、雪也が言うには、そうした絵画を解説した本がベストセラーになったのをきっかけに企画されたものらしい。
「でも雪也って、怖いの苦手じゃなかったか」
  誘ってもらえたことは嬉しかったが、あまりにも意外で、先にその疑問が出た。すると雪也は案の定「そうだったんだけど、創が勧めてくれて」と、想定内だけれど不愉快になりそうなことを言い出した。
「その本はどうしてそういう絵が描かれるに至ったか、その時代の歴史的背景とか、絵の中の登場人物の物語を詳しく解説していて、凄く面白いんだ。それで本当は、美術展は創が行くつもりだったらしいんだけど、用があって開催期間中に行けなくなったからって、同じ本読んだ俺にチケット譲ってくれて」
「本当はあいつ、雪と2人で行こうとしていたんじゃねぇ…?」
  途端くぐもった声を出す涼一に雪也は軽く笑い飛ばした。最早この程度の嫉妬では動じなくなったらしい。
「言うと思ったけど、違うよ。創は那智さんと行こうとしていたんだ。俺もホラー映画とか好きじゃないけど、那智さんはもっとだろ? でも創が言うには、“恐怖”って感覚はそんなに尻込みして避ける類のものじゃない、悪いものじゃないって言うんだ。だから那智さんに恐怖を教えたいとか言って…まぁ那智さん当人にはその考え、めちゃくちゃ否定されて、美術展どころか本も読まれなかったみたいだけどね。俺は熱く語られて本読んだら結構良かったなってなったけど」
「……ふーん」
  内容はどうでもいい。どんなことであれ、創に感化されてそれを雪也が「面白い」、「興味深い」と感じたことが気に食わない涼一である。自然、ぶすくれた気持ちがしたが、そうこうしている間に駅にはついてしまった。
  それで雪也が再度訊いた。
「美術館、家と反対方向だから。涼一、どう? 一緒に行ってくれる?」
「そりゃ…」
  行くに決まっている。特に用事もないのに、だからこそ涼一は雪也を自宅に誘おうと思っていたのに、この「何の関心もない」美術展行きを断ったら雪也とはここでお別れである。だから美術には興味がなくとも、美術館へは行く気満々だ。仮に涼一が「そんなのつまらない、それより俺んちへ行こう」と言ったところで、雪也は困るだろうし、嫌がるだろう。最終的には涼一の方にあわせる可能性もあるが、そんなことは勿論、涼一自身望むところではない。
「良かった。俺、美術館ってあんまり行かないし。というより、独りで行ったことなんてないし、涼一も来てくれたら嬉しいと思っていたから」
  同行を了承すると雪也は殊の外喜んだ。それで涼一も忽ち胸の中がほっこりとし、気持ちが上昇した。きっかけが「創」というのは癪に障るし面白くないことこの上ないが、雪也が喜んでくれるならいいか、そう思えた。第一、これはれっきとした、「雪也から誘ってくれた」デートではないのか。そう、間違いなくデートである。そう思うと、これは前向きにこの時間を楽しまなくては、そう思えてきた。
  電車に揺られながら車窓越し、本の話を続ける雪也はいつになく多弁だった。それも新鮮だった。いつもなら涼一ばかりが率先して話し、雪也は聞き役である。それをつまらないと思ったことはないし、むしろ話をうんうん聞いてくれる雪也が涼一は大好きなのだが、これはこれで、この形の良い唇の動きを眺めているだけで至福である。
「結構混んでいるんだな」
  駅から歩いてすぐの国立美術館は、その規模のせいか、或いは雪也が言う通り、その企画展示が評判だからか、平日の夕刻前という時間にあってもチケット売り場や入場口に長蛇の列ができていた。これには雪也も驚いたようで、「すごいね」と怯んだような顔をした。
「涼一、大丈夫? 入場までに30分もかかるって書いてあるよ。ごめん、俺、こういう感じだと思ってなかった、すぐ入れてすぐ観られるもんだと思っていたから」
「別に俺は平気だよ。まぁこんなもんかなとも思っていたし」
「本当? でも涼一だって、美術館なんてそんなに来ないだろ? それなのに分かっていたの、こういう感じって」
「うん、俺ガキの頃はこういう美術館だけじゃなくて、博物館とか科学館とか、とにかくいろんな所、行かされていたから。その頃の家庭教師がそういう方針の人でさ」
「へえ…?」
  よく分かっていない顔をしながら雪也は首をかしげながら笑った。分からなくて当たり前だ。涼一は断片的に口にすることはあっても、あまり自分の家のことや過去を語らない。雪也が率先して訊こうとしないから、というのは違う。自分が話したくないことを雪也が察して口にしない感じを、涼一も分かっている。
  だからこの時も雪也は「そこの部分」は流し、列の最後尾に向かいながら言った。
「じゃあ涼一の方が先輩だね。絵画事情にも精通していたり?」
「いやそんな精通まではいかないけど…」
  しかし「先輩」という響きには何か惹かれた。雪也に言われてちょっと嬉しい。
  悪戯心が沸いて身体を寄せつつ言った。
「じゃあ今ちょっと、“涼一先輩”って呼んでみて」
「えぇ? 何言ってんの」
「いや何か。そういうのいいかなって。呼んでみてよ、別にいいだろ、減るもんじゃなし」
「嫌だよっ」
「何で。だってさっき自分で言ったんだろ、俺の方が先輩って」
「そうだけど。改めて言われると何か恥ずかしいよ」
  照れる雪也に妙にドキドキし、また楽しくなってしまい、涼一はついしつこく「呼んで呼んで」とねだったのだが、そんなじゃれ合いができたせいか、並んでいる数十分など、あってないようなものだった。
  そうか、こういうのも楽しい。雪也と一緒に待つ喜び。
「やっと入れるね」
  けれどあくまで雪也は絵画鑑賞が目的だから、涼一とは違う感覚だったらしい。それに少し残念な想いを抱きながら、涼一は雪也の後から薄暗い会場に踏み入った。初めて来た場所ではないが、当然のことながら企画展用に大きくレイアウト変更している。テーマに合った雰囲気を出すべく、照明は絵画が見づらくならない程度には落としているし、解説ボードの下部にも仄暗い絵を大きくプリントするなど、「恐怖らしさ」を演出している。ただ、雪也のように本から興味を持ったいわゆるミーハー的客層が多いせいか、純粋に名画を楽しむ為に来たというよりは、いっそアトラクション的な何かを期待していそうな若者が多い。館内はざわついており、静かに鑑賞を楽しみたい人間には不向きな環境であった。
  もっとも涼一には静かでも賑やかでもどちらでも良かったのだが。
(雪って、基本勤勉なんだよな)
  1つ1つの作品やその解説をじっくり丁寧に見ていく恋人の横顔こそを、涼一は興味深く観察した。雪也はいつも自分には趣味もないし、とりたてた才能があるわけでもない、つくづくつまらないヤツだなどと卑下することがあるが、涼一が雪也をそういう風に思ったことは一度もない。確かに「これ」という何か夢中になって打ち込むものはないようだが、例えば映画ひとつ取って見ても、これまでジャンルはホラー以外は分け隔てなく観ていたし、その話が面白ければ原作を読んだり、そこから興味の沸いたことは率先して調べたりする。涼一の話もいつも楽しそうに面白そうに聴いてくれるし、恐らくは本人無自覚ながら「知りたがり屋」の類なのだろうと思う。だから涼一は雪也に話すのが楽しくて好きだ。自分も好奇心旺盛な方で、だからいろいろと興味が移るのだが、そこで体験したり見知ったものは基本的には誰かにも知って欲しいし、その楽しさを共有したい。それが好きな相手ならなおさらだ。雪也はそんな涼一の希望をいつも叶えてくれる。それに、ただ聴くだけではなく、優し気に笑って応えてくれる。その瞬間を見ることが涼一にとっては堪らなく幸せな時なのだ。
  混雑している為、一つのスペースにいる時間は限られている。しかし雪也は館内にいる間、熱心に絵画鑑賞を続け、時にはメモを取ったり涼一にこっそり話しかけては、この絵のエピソードはとても怖い、でもうまく言えないけれどとても美しくて感動する、絵を見て心が動くのは初めてかもしれないなどと興奮した様子を見せた。涼一はそんな雪也を食い入るように眺め、語りかけには必要以上にうんうん頷き、自身もまた「違う意味での」感動を味わいながら、仄かに頬を赤らめた。雪也のことは大分分かってきたと思っていたのに、今また新たな面を見られたことに激しく心が浮き立っていた。
  小1時間ほどで鑑賞スペースを回り終え、企画展らしいグッズコーナーに差し掛かったところで、雪也は図録と絵葉書を買いたいと言った。
「大丈夫? 涼一は疲れてない?」
  ショップに入る前に雪也がまた気遣う風に訊いてきた。入場の際もそうだったが、「今日は自分に付き合ってもらっている」という負い目があるのかもしれない。涼一にしてみれば、列に並んでいる時から数えれば1時間以上も雪也の隣にいて、雪也の美しい横顔や熱い眼差し、それでいてどことなく楽し気な様子等、いろいろな雪也を堪能できて大満足である。むしろこの余韻に浸っていたいくらいで、買い物がしたいなど望むところである。だから全く構わない、むしろ欲しい物など俺が全部買ってやると意気揚々申し出たら、それは見事に断られた。
  そこで久々に拗ねる。
「何で。こんくらい全然いいし、買わせてよ。そもそもチケット代、俺払ってないじゃん」
「チケットは俺だって創から貰っているんだからいいんだよ」
「えっ、あいつ、タダで譲ってきたの。あの如何にもケチそうなヤツが!」
  やっぱり奴は、雪也には甘い。そして下心があるなどと思っていたら、雪也がまたそれにフォローなんだか火に油なんだか分からないことを宣った。
「俺も悪いからお金出すって言ったんだけど、代わりにまた店で映画レンタルしたり那智さんにお菓子レシピ教えに来てくれればいいって」
「………要は頻繁に自分の所へ来いと」
「でもそれは俺もしたいことだし、俺に得なことしかないよね」
「雪、あのな。いや……いや、うん。もういいや」
「え?」
  涼一がぐっと言いたいことを飲み込んだため、雪也は意表をつかれたように目を丸くした。恐らく雪也自身も、話している途中で「いつものパターン」に気づき、「この発言内容では涼一が怒るかも」と察したはずだ。だから涼一がその後予想に反した返しをしたことが意外だったのだろう、逆に雪也はそわそわとして、「えーと」と無駄に口ごもった。
  だからここでも涼一が代わりに先陣を切った。
「もういいよ、あいつの話は。ただしショップの支払いは俺な。もしも駄目なんてごねたら、俺はこの場でその倍ごねるけど、いい?」
「………いや、それは絶対に嫌です」
「何、その言い方」
  むっとする涼一に今度は雪也がすかさず両手を出して「いや!」とその空気を断ち切った。
「何でもない、うん、分かった、ありがとう。でもじゃあ、その代わりさ、帰りにコーヒーでも飲んで帰らない? そこは俺が出すから。それならいいでしょ?」
「えっ」
「えっ、何? もしかして、もう帰ろうと思ってた?」
  素っ頓狂な声を出す涼一に雪也も驚いて声を上げた。それから「疲れてるなら―…」と言いかけるものだから、一瞬は口を開けたまま固まった涼一もすぐさま立ち直ってかぶりを振った。
「そうじゃないよ、行きたい! 行こう? 絶対行こう?」
「う、うん…?」
  雪也は訳が分かっていないように頷いたが、涼一は再び、先刻の嬉しかったテンションを取り戻した。一時は創のせいでまた不機嫌になるところだったが、今はあっという間にご機嫌である。何せ「また」雪也の方から誘ってきたのだ、コーヒーでも飲もうと。美術館に誘うだけではなく、その後のことまでも。これは涼一にとっては本当に予想だにしない幸せな誤算だった。思い返すに、これまでのデートはほぼ涼一が行き先を選び、大まかなスケジュールを立て、そこで食事する場所や内容も決めていた。別に一方的にしたいわけではない、本来であれば自分だけでなく雪也のことも喜ばせたいから、雪也の希望に沿ったデートプランを練りたいと思う。けれどこの恋人はいつだって涼一のいいようにと答えるし、涼一が決めてくれた方が行く場所にしろ入る店にしろ、楽しいし確実だから嬉しいなどと言う。涼一もそういうことを考えるのが好きだから、そういう風に誉められると調子に乗る。だからそのことを特に不満に思ったこともない。
  けれどいざこうして、雪也が自分から「デート」に誘ってくれて、あまつさえすぐ帰ろうとするのではなく、あそこに寄りたいとかお茶でも飲んで行こうなどと誘ってくれると、とんでもなく心が跳ね上がる。有頂天になってしまう。だから、これらのきっかけが「創」だったとしても、今日だけは忘れようと思える。
  ショップで雪也が欲しいと言う図録と絵葉書を買うと、これまた雪也は嬉しそうに笑い、礼を言った。その笑顔を見られてまた得をした。ハッピーだ。こんなに幸せで良いのかと素直に思える。今日は神にも感謝だ。
  幸運はそれだけに留まらない。寄ることになったカフェも、雪也が事前調べなどするわけもないから、駅前で目についた所へフラッと立ち入ったら、これが結構な「当たり」だった。店内は明るく、思った以上に広く、1つ1つの座席スペースが十分に取られている。内装も店主のこだわりか、やや古風にアレンジされていたが、それが洒落ていて涼一の気に入った。雪也もそう感じたようで、「いいお店だね」と嬉しそうに笑ったので、「自分と同じことを考えていた雪也」ということで、また涼一のテンションは上がった。
  だから上がったついでに、メニューを見ながら言ってみた。
「雪、ケーキ食べない?」
「珍しいね。別にいいけど」
  雪也が驚きながら応える。しかしその返事が色よいので、また言ってみる。
「そんで、それぞれ違うの頼んで、半分こずつにしよう」
「え? うん。でも…、うん、いや何か。何か涼一、可愛いね?」
「スイーツ好きの女子みたいなノリと言いたい?」
「いや、まぁ。別に男だって甘い物食べたい時あるだろうし、そうしたらいろいろな種類を食べたいと思うことだってあるだろうし。でも珍しいなと思って。普段、ケーキなんてそんな食べたがらないじゃない」
「こういうテンションだから食べたい」
「どういうテンション?」
  ぽんぽん飛ぶ会話の中で雪也が面白そうに笑った。それでますます嬉しくなり、注文を取りに来た店員に2人で別々のケーキセットを頼んだ後、涼一はもう一歩踏み込んで言ってみた。
「俺が今どういうテンションかって言うと、これからさらに、頼んだケーキをそれぞれ食べさせ合うところまでしたいというテンションだよ」
「それは駄目でしょ」
  きっぱりとばっさりと斬られたが、そんなことは想定内である。涼一はまるで動じなかった。
「だからこの植木と柱で死角になるであろう端の席を選んだわけだけど、俺は」
「いやいや駄目だよ、それは。フツーに。何かそろそろ言い出しそうな気配は感じたけど、それは嫌だよ」
「俺も雪也がそうやってフツーに断ってくるのなんて予測済みだけど、いや今日は何かいけるね。何かできると思うよ?」
「何がいけるんだよ…涼一、おかしいよ、確かに。テンション」
  しかし雪也は逆に突き抜けたように軽く言う涼一に危機感を抱きにくかったのか、ふわりと笑ってツッコミを入れた。いい感じである。涼一は、「いつもなら焦って、『絶対駄目、絶対嫌だ!』とか頑なになるのに」、そうはならない雪也にまた胸がどきどきしてきた。きっと雪也も、今日のこのデートは特別だと感じているに違いない、そう確信した。
  だからケーキの食べさせ合いっこくらい、大したことはないのである。
「何かさ…俺、今、雪のことスゴイ好きだから。勿論いつも大好きだけど、今日の好きはまた一味違うんだよな」
「ちょっと涼一」
  どんどん高ぶってきている涼一に反し、さすがに雪也は周りを気にし始めて声を潜めた。涼一はいつでもどこでもいきなり愛の告白をしてくるが、雪也はそれにいつまで経っても慣れず、こういうあたふたした態度をすることが多い。
  ただ涼一は、高揚はしているが冷静だった。ちょっとアクセルを踏み過ぎたか、じゃあ今度は少し緩めようなどと考える余裕があった。
  だからわざと、今度は情を誘うようにふっと俯いてみせ、神妙な面持ちで声も一段落として言った。
「俺、今日凄く嬉しかった、雪が美術館誘ってくれて。絵を観るなんてさ、最近じゃあまりなかったし、最初はテーマも“恐怖”だし、正直、は?とか思ったけど。観に来たら面白いしさ、いろいろ発見もあったし。新鮮だった。偶にこういうのもいいよな」
  本当は絵なんて殆ど観ていない。何故って、涼一がずっと鑑賞していたのは、絵を観る雪也だったのだから。しかしそんなことは決して悟られてはいけない。あくまでも雪也が誘ってくれたものに自分がとても興味を惹かれ、為になったのだということをアピールしなくては好感など得られない。
「入るまでも楽しかったし。俺はまぁ、雪と一緒にいられるならどこでも楽しめるけどさ、雪が行きたいって所へ行けるのはまた違った喜びがあったよな」
  これは本当。だから先の台詞より気持ちを込めて言えたし、最後に「だからありがとうな」なんて殊勝な礼も言えた。そして雪也を改めて見る。雪也の態度はどうだろう、自分が嬉しかったと告げたことで、雪也もまた「それなら良かった」と笑ってくれるなら大成功だ。
「それなら良かったけど」
  すると雪也は涼一が望んでいた通りの台詞をほぼ一言一句違えず言った。
  「けど」という余計な2文字が入っていたから、それだけで大分「あれ?」という気持ちになってしまったけれど。
  しかしそれには雪也がすぐに答えをくれた。
「涼一が本当に楽しんでくれたのなら良かった。だって涼一、何かしょっちゅう俺のこと見ていて、楽しくないのかな?ってちょっと心配だったんだ」
「え?」
「これって『もう退屈だから早く出たい』ってアピールなのかなぁって、それでちょっと焦ってたんだ、実は。でもだからって直接『つまんない?』って訊くのも、わざわざついてきてくれた涼一が余計気分悪くするかもって思って言えなかったし…。もともと絵なんてそんな興味ないだろうに無理やり連れてきちゃったからね、悪かったかなって。でもちゃんと涼一も楽しかったんだ? それなら本当に良かったよ」
「…………」
「あの中で何が1番印象に残った? あ、今買ってもらった図録出してもいい?」
「いや……」
「え、駄目?」
  その時、タイミング良く店員がケーキセットを運んできたので、雪也は「だからか」と解釈し、出しかけた図録を引っ込めた。目の前には待ちに待った2種類のケーキがテーブルの上に置かれている。
「…………」
  しかし涼一はそれを前にして、もう先刻のように「食べさせ合いっこしたい」とねだることができなかった。率直に、気が引けたからだ。自分は物凄く、それこそ天にも昇る気持ちでこのデートをしっかり堪能していたわけだが、雪也の方は、自分が誘った手前、「涼一もきちんと楽しめているか」と気にしていて、実際当人は最高に楽しんでいたわけだが、「絵は観ていなかった」という点で、雪也の希望には反しており、それにより雪也を無駄に心配させていた。

  そりゃ、あれだけ凝視していたらさしもの雪也も気が付くよな。
  俺が見過ぎていたせいで、雪こそ鑑賞を楽しめなかった?

  そう思うと、涼一は急に胸が痛くなってきた。自分だけが楽しむのでは駄目なのだ。雪也も一緒に楽しいと思ってくれていないと意味がない。雪也は館内でもよく笑いかけてくれたし、図録等をプレゼントした時も眩しく微笑んで礼を言ってくれたけれど、一方では気を遣っていたのか、そう考えると居た堪れない。
「雪……俺……」
「うん、分かった、分かったよ。でも一瞬。一回だけだよ? しかもすぐに食べてよ?」
  ところが涼一がしゅんとして謝ろうとしているところに、ついと差し向けられたのは、雪也がフォークでさしたケーキの欠片。
「ん?」
「は、早く涼一…! 誰かに見られないうちに食べてよ!」
  雪也が焦った風にきょろきょろ視線を躍らせながら言った。涼一は訳が分からないまま、口元へ運ばれた生クリーム付きのスポンジ部分をぱくりと雪也の手ずから口にした。甘い、何とも言えない美味が口中に広がる。
「は、恥ずかしいな、やっぱり…。もう、涼一はすぐにこういう無茶なこと言うんだからな…! でも、もうやらないよ!? あと俺は要らないからね!?」
「何で雪、やってくれたの?」
  きょとんとして聞き返すと、雪也はそんな涼一にぎょっとして「えっ!? やらなくて良かったのか!」と驚いたように声を上げ、すぐ後、すかさず口を押えて赤面した。
  そしてそうしながらもごもごと言い訳する。
「だって涼一はいったん言い出したら絶対退かないと思ったしさ…。それに、涼一が今日楽しんでくれていること分かったし、やっぱり俺もついてきてもらえて嬉しかったから、お礼のつもりで…。でも冗談だったんなら、やらなくても良かったんだ!? は、早まった、馬鹿みたいだ…!」
「いや、やってくれて最高に嬉しかったけどさ…」
「え、だって全然嬉しそうじゃないじゃん、何その顔。とても最高って感じじゃないよ!?」
「最高過ぎると表情が消えるんだよ」
「何それ? よく分かんないけど…! まぁいいけど!」
  依然として赤面したままの雪也を見つめながら、涼一は何だか泣きたい気持ちになった。可笑しく、嬉しいはずなのに。そう、嬉しいのは間違いないし、最高なのも間違いがない。けれどたった今まで落ち込んでいたのに、雪也のこの行動はずるいと思う。ずるくて、恨めしくて、やっぱり最大級に好きだと世界に向けて宣言したい。
「なぁ、雪は今日ホントに楽しかった? 俺が見過ぎたせいで観足りないとかなかった?」
「え? ううん、俺は楽しめたよ。ありがとう涼一、本当に。今日付き合ってくれて」
「雪、好き」
「えっ?」
「すっごい好き。だから今は我慢する。我慢するから、ケーキまた違うのテイクアウトして、今日帰ったら誰も見てないところで食べさせ合いっこしよ?」
「は?」
「もう決定。ここから先は俺のプラン」
「え、いや、あの。涼一?」
「はぁー。何かここのケーキ本当に美味いぞ。お持ち帰りしよ、ケース一列分くらい」
「……は。何言ってんだよ、そんなに食べきれないよ」
  涼一がハアと息を大きく吐いて清々しく言ったせいだろう、雪也もようやく落ち着いてきて、自らも肩で息をしてから笑った。それから今度は自分の口に、先刻涼一に食べさせたケーキを運ぶ。それから「あ、ホントだ」と言って、幸せそうに微笑んだ。涼一はそれを見て、「自分は今雪也が感じた気持ちの百倍くらい幸せになれた」と思った。
  だから涼一はその後もまた、よせばいいのに雪也が戸惑うくらい、ケーキを食べる雪也、コーヒーを飲む雪也をじっと鑑賞しまくってしまった。