いつも、いつでも
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その日、雪也の傍には珍しく涼一の姿がなかった。 「お、桐野。珍しいなあ、藤堂に連行されたんだ?」 「あ…うん」 構内で涼一と一緒にいない時、雪也は大抵図書館棟で1人本を読むかレポートを作成するかしている。しかしその時は藤堂から「たまにはいいだろ」と半ば強引にサークルのメンバーがいる食堂へと連れて行かれた。 「わ、雪也君久しぶり!」 「本当、たまには私たちとも遊んでよ!」 部室以外の第2の溜まり場となっているそこには、既に何人かの見知った顔があったが、雪也は未だその集団に馴染みきれていない。次々と自分に話しかけてくる仲間たちに途惑いを覚えながら何とか笑顔を返していると、そのうちの1人がきょろきょろと辺りを見回してから驚いたように言った。 「今日は涼一いないの?」 「あ…えっと…」 「寝坊だって」 雪也が言う前にそう答えたのは藤堂だった。落ち着かない様子の雪也を空いている席に座らせてから、自分もその隣の席にどっかと腰をおろす。その悠然とした様はやはり「皆のリーダー」然として見えた。 「相野もいないのか」 そんな藤堂は食堂にたむろしている数人に向かってどことなくほっとしたようにそう言った。同じサークル仲間の相野は人とうまく接する事ができない雪也に対してひどく冷たいところがある。無理に雪也を連れてきた手前、彼がいない事には安堵の気持ちがあったのだろう、藤堂は額にかいていた汗を片手でぐいと拭った。 「いなくて万々歳」 すると冗談とも本気とも取れるような調子で、先刻1番に雪也に話しかけた青年が皮肉っぽい笑みと共にそんな事を言った。青年はざっくりと大雑把に切られた赤茶けた髪をしており、仲間たちの中でも目立った風貌をしている。その顔は笑うと少しだけ年齢よりも幼く見えたが、その時の表情にはどう見ても酷薄なものがあった。 「康久ね、さっきからこの調子なの。例によって彼女自慢されてキレてんだよ」 青年の隣に座っていた女子学生が可笑しそうに目を細めて言った。「ヤスヒサ」と呼ばれたその青年は痛いところを突かれたのか、「何言ってんだよ。俺は全っ然平気だよ」と言いつつも、どことなく苦々しい顔をしていた。 また別の、今度は雪也の斜め前に座っている女子学生も苦笑気味に藤堂に向かって口を開く。 「実際私らも限界だよ。藤堂、あの世間知らずのお坊ちゃん、ホントにどうにかならないかな?」 「……まあ。度が過ぎたら俺がきっかり言うからよ」 「度? 過ぎまくりだと思うけどね、俺は」 康久が唇を尖らせながらそう毒づいた。しかし雪也がじっと見やっている事に気づくと少しだけ焦ったようになりつつ、「俺だって陰口は嫌いだけどさ」と言い訳のようにつぶやいた。 いろいろあるんだ。集団の中じゃ仕方ないよな。 皆の会話を耳に入れながら雪也はぼんやりとそんな事を思った。殆どの者は昼食を済ませたようだが、中には話す事に夢中でそのまま食事を放棄している者もいる。1人の席の前には食べかけのカレーライスがあったが、途中で放り出されたそこには大きめの銀のスプーンが暇そうに皿の上に転がっていた。 「桐野」 その時、雪也の目の前の席にいた康久が声をかけてきた。 「メシ、食った? まだなら俺が何か持ってきてやろうか?」 「え……」 「ちょっと、何それ?」 康久の発言にすかさず反応した女子学生が頬をひきつらせたような笑いを浮かべながら不審の声をあげた。藤堂は初めのうちはきょとんとしていたが、やがてむっとしたように「俺だってまだなんだけど!」などとぶすくれて見せた。 「あんた、あたしらにだってそんなんしてくれた事ないじゃん。何で雪也君にはそんな親切なわけ?」 「ホント。可笑しい」 「あー…。まあ何となく」 康久は女子学生たちにそう責められて自分自身戸惑ったように髪の毛をがしがしとかきむしっていたが、それでも気まずそうにしつつ雪也には腑抜けた笑みを見せてきた。 「ま。涼一もいないし」 「!」 一瞬、その台詞にどきんと胸を鳴らし、雪也は目を見開いて康久を見やった。 何か知れてしまっているのだろうか、そんな事がちらりと頭をよぎったが、勿論表情に出すわけにはいかない。雪也は困ったように俯いてから「いいよ」と席を立った。このまま帰ってしまいたかったが、藤堂の手前そうもいかない。何か食べて間をもたせるしかないと思った。 しかしそんな雪也を女子学生の1人が片手を挙げて制した。 「あ、ちょっと待って待って。ほら、希美ちゃん」 「え?」 雪也が立ち止まって聞き返すと、不意にその女子学生の隣からか細い声が降ってきた。 「あの…これ」 そこには黒髪を肩にまで垂らしたひどく線の細い女子学生が座っていた。 「これどうぞ」 「これ…?」 「桐野君、この子本当料理上手なんだよ! 食べてみなよ! ほら藤堂も! あんたもいつもラーメンとかカツ丼とかばっかり食べてないでこういうの食べてみなって! 希美ちゃんの作ったものはホントに最高だよ!」 そう言って雪也の目の前に差し出されたのは、可愛いバスケットに入った品の良い形をしたサンドウィッチだった。もう既に幾つかはなくなっていたが、それでもたくさん作ってきたのだろう、まだ2、3人分はありそうだった。 「あれ、えーと?」 すると藤堂が珍しく困惑したような声を出した。どうやら雪也だけではなかったようだ。普段はよく気のつく藤堂でさえ、今の今まで彼女の存在に気づいていなかったらしい。そんなリーダーの様子に気づいたのか、先刻の女子学生がうっかりしていたという顔をして早口でまくしたててきた。 「あ、藤堂にも紹介してなかったよね。この子、今度からうちらの仲間入りした希美ちゃん。よろしくね。桐野君も」 「あ、う、うん」 「あの…不味かったら残してもいいですから」 ぺこりと挨拶をした後、彼女はそう言って雪也に自信のなさそうな笑顔を向けた。 途端、慌てたようになって身を乗り出したのは藤堂だった。 「んな事ないよ! い、いや〜助かるわ! じゃあ貰うな!」 そうしてがつがつとそれを口にほうばった藤堂が「美味い!」という言葉を吐き出すのにそう時間はかからなかった。雪也も促されるようにそれを一つだけ貰い、遠慮がちに口にする。 「あ……」 「あの、どうですか…?」 「あ、美味しいよ。すごく…っ」 しばらく声を出せなかった雪也は相手に訊かれて焦って口を継いだ。 本当に美味しくて感想を言うのを忘れたのだ。 「希美ちゃんはこの通り可愛いし、料理も上手だし、おまけにすごく気のつく子なのよ。だから藤堂みたいな変な虫がつかないか心配なんだけどね〜」 「こ、こら! 何だその言い草は!!」 「だって既に目をつけてるでしょ?」 「お前なあ…!」 「でも駄目だよ。希美ちゃんの本命は別にいるんだから」 「はあ?」 「せ、先輩っ」 初めて強めの口調で希美が抗議するような声を出した。しかし余程恥ずかしいのだろう、既に頬だけでなく顔全体が真っ赤になってしまっている。そんな様子もひどく愛らしく、藤堂の視線などはすっかり釘付けだったのだが、責められた女子学生は冷ややかな目をしてそんな藤堂にあっさりと言い放った。 「この子は一途なタイプだからあんたに望みはないって。あ、でも希美ちゃんの想い人には彼女がいるから、全くの希望ゼロとは言い切れないけど?」 「えっ。何、片思い?」 「その嬉しそうな顔はやめろ!」 藤堂と女子学生の会話に希美はますます困ったように声を失っていたが、そんな様子を黙って見やっていた雪也に、席から半分身を乗り出したような康久がこっそりと耳打ちしてきた。 「あの子、涼一狙いでここ来たんだって」 「え……」 「っていう噂。でも皆言ってるよ」 そう言って「ま、それもいつものことだよな」などと言う康久は、本当に自分たちのことを知っているのかいないのか微妙な表情をして雪也のことを見つめていた。雪也はそんな康久から努めて視線を外しながら、未だ困ったように俯いてしまっている希美をじっと見つめた。 涼一がサークル内に留まらず多くの女子学生たちに人気があるなどという事は既に公然たる事実であったが、「剣涼一には既に美人の恋人がいる」という噂が効力を発揮しているせいか、こういった話題を雪也が耳にするのは珍しかった。希美のように涼一目当てでサークルに加入してくる者も後を絶たなかったが、それでも当の涼一自身がそういった類の人間を相手にしないせいで、大した活動もしていないテニス同好会に長く身を置く者もそういなかった。 それでも雪也は口に広がったその後味の良い希美の手作りサンドウィッチに暫し思いを寄せ、黙りこくっていた。 涼一が好きそうな味だと思った。 「雪」 その時、いつの間に現れたのかすぐ背後にその当人―涼一が立っていた。 「あ……」 「こんな所にいたんだ。電話したのに」 仲間の手前、口調は平然としていたが明らかに気分を害しているようだ。雪也は焦ったようになりながら自分の後ろに突っ立っている涼一を見上げた。それから慌てて携帯を取り出し目を落とす。ざわついた食堂内で聞こえなかったのだろう、開いた携帯の液晶画面からは確かに「着信履歴アリ」という表示が残されていた。 「こんな所とは何だ、こんな所とは!」 藤堂が不満気な声をあげたが、涼一には何という事もなかったようだ。当然のように雪也の隣の席に腰をおろすと、藤堂には目もくれず素っ気無い言葉だけを返す。 「どうせお前が連れ回してるってのは分かってたよ。それより雪、何食った? 起きてすぐ来たから腹減っちゃったよ」 「涼一、これ! これ食べて!」 「あん?」 待ってましたとばかりに口を挟んだのは希美を紹介した女子学生だった。藤堂に占領されていたバスケットを奪うようにして取り戻すと、さっと涼一の目の前にそれを差し出す。 「何これ?」 「希美ちゃんが作ったサンドウィッチ。いいから食べてみ?」 「希美ちゃん?」 「この子この子」 怪訝な声を出す涼一に女子学生はぐいぐいと相手を押しやるようにして、隣の席で少女のように恥らった顔をしている希美を紹介した。 「……っ」 希美は余程緊張しているのか、へこりと頭を下げたまま何も言おうとしない。涼一はそんな相手の様子に首をかしげてからいつもの「人好きのする」笑顔を向けた。 「ふうん? 俺、食べていいの?」 「は、はいっ!!」 「……っ。びっくりした。いきなりでかい声」 涼一は裏返った声をあげる希美に意表をつかれたような顔をしていたが、苦笑しつつも差し出されたサンドウィッチを一つつまみあげた。……もっとも、藤堂が1人でばくばくと食べ続けてしまっていたせいで、バスケットの中身は既にその1つしか残っていなかったのだが。 雪也はそれを口に運んだ涼一の横顔をこっそりと眺めた。 「……へえ」 その時、涼一が驚嘆したような声をもらした。 瞬間、雪也はどきんと胸を鳴らした。 「ね! 美味しいでしょう?! 希美ちゃんは料理の天才なんだよ!」 女子学生が涼一の表情を読み取ってまるで自分のことのように自慢気に胸を反らした。それから再度もじもじする希美の背中を叩いて笑う。 「この子、今度から私らの仲間になった神崎希美子ちゃんって言うの。よろしくね」 「よ、ろしく…お願いします…!」 「希美ちゃんはおとなしくてちょっと人見知りするところがあるんだけど〜。ま、そこが可愛いっちゃ可愛いんだよね。涼一好きでしょ、そういうタイプ」 「俺?」 涼一は女子学生のその発言にやや眉をひそめつつも、反論するつもりはないのか「まあな」と軽くかわしてから希美に優しげな笑みを向けた。 「本当美味いよ。才能だね。俺、こういう味結構好き」 「ホ、ホントですか…?」 希美の顔がぱっと花が開くように綻び、心底嬉しそうな笑顔になる。可愛い子だなと雪也は思った。 料理が上手で控え目で。 黒髪の可愛い女の子。 そういえば涼一が好む女の子のタイプなど訊いたことがなかった。 「桐野」 その時、不意に康久が物思いに耽ったような雪也に声をかけてきた。涼一は希美たちと話しているせいかこちらを見ていない。まるでそれを見計らったかのように、康久は慌てて顔を上げた雪也に少しだけ照れたような笑みを浮かべた。 「あのさぁ、この間藤堂に聞いたんだ。桐野も料理得意なんだろ?」 「え…俺…?」 「プロ級だって。そうなの?」 「そんなことないよ」 「でもさ、そのうち俺も作ってもらいたいかなって」 「え?」 突然そんなことを言い出した仲間の1人に雪也は思わず驚きの声を上げた。同じサークルにいる同士と言っても、雪也は涼一や藤堂以外の人間とまともな会話を交わした事がないし、そんな自分がたまにこうして顔を出しても皆に親切にされているのはひとえに仲間のリーダー的存在の藤堂や涼一のお陰だと思っている。だから今こうして康久が自分個人と接してこようとしている事に、雪也はすっかり面食らってしまった。 勿論、それを嫌だとは思わなかったけれど。 「駄目?」 「そ、そんな事はないよ」 「ホント? やった、ラッ――」 「雪」 しかし雪也が何とか笑顔を返し、康久がそれに嬉しそうな声をあげきる前に。 「雪、もう行こう」 「えっ?」 突然横から涼一の声がかかったかと思うと、雪也がそれを感じたときにはもう腕を掴まれていた。そうして涼一は全く何でもない事のように悪びれもせずに言ったのだった。 「そういや俺らこれから用があったんだよ。またな!」 「え、ちょっと〜!」 「おい涼一…」 涼一は仲間たちに対して一方的に愛想を振りまいた後、突然会話を端折られて声を出す女子学生や戸惑う希美たちには構わずに雪也を引っ張るとさっさと彼らから背を向けてしまった。 「涼一…っ?」 雪也に至っては彼らに別れの挨拶をする事もできず、ただ先導され掴まれる手首にじんじんとする痛みを感じながら、もうそれに従うしかなかった。 早まる鼓動を鎮める暇もなく、雪也は涼一に連れられて構内を出た。 ××× 大学構内を出て駅に向かう細い道を歩きながら、雪也は自分の前を行く涼一の背中を見つめていた。さすがに掴まれていた手首は食堂を出てすぐに開放してもらっていたが、無理に引っ張られたせいでまだじくりとした痛みが残っている。 先刻から涼一は一言も言葉を発しない。 今日は怒らせるような事はしていないはずなのにと、いささか不満な気持ちが頭の中を支配する。 「涼一」 たまらず何度目かの声掛けを行ったが、それでもやはり返事はなかった。堪らなくなり、尚も口を開きかけた瞬間、しかし突然前方を行く涼一の足はぴたりと止まった。 「わ…っ」 驚いて自らも歩を止めると、不意にくるりと振り返ってきたその恋人の顔は、やはり不機嫌極まりないものだった。 「涼一…」 「何」 「何って…」 ようやく声を出してくれた。雪也はほっとしつつも、多少抗議めいた気持ちが湧き眉をひそめた。 「何じゃないよ。急に人のこと引っ張り出して黙りこくって。今日は何を怒ってるんだよ?」 「お前。素でそんなこと言ってるわけ?」 涼一の呆れたような声に雪也はますます不審な顔をした。 「電話出なかったこと…? だって音量が小さかったから聞こえなかっ…」 「違う。そんな事じゃない」 「それじゃあ――」 「お前、いつから康久とあんな仲良くなってたわけ?」 「え…?」 言われた事の意味が分からなかった。黙ったままその場にぼうと突っ立っていると、途端にイライラしたような声が返ってきた。 「あいつに料理してやるの?」 「……さっきの聞いてたの?」 確か涼一は希美たちと談笑していたはずだ。さすがに驚いてこちらこそが呆れるというような声を出すと、涼一はますます不快な表情で刺々しい口調を発した。 「あいつ前からアヤシイと思ってた。絶対雪に気がある」 「何…何言ってんだよ…」 康久とまともに会話したことなど殆どと言って良いほどない。確かに、全く交流がない仲間内の中では、向こうは何度かそんな自分を気にかけて声をかけてくれようとした事もあるが、その度間に割って入ってきたのはこの涼一だ。その事をこの恋人は全く認識していないのだろうかと半ば真剣に思い悩んでしまう。 大体、それを言うのなら。 「俺なんかより涼一の方が…」 「俺? 俺が何なんだよ」 ぽつりとつぶやいた声をすかさず拾われて、雪也は何故か自身が困惑したようになって俯いた。 それでも何とか後を続ける。 「あの子、涼一のこと好きだよ」 「あの子? 誰のことだよ?」 しかし涼一の方は思い切り怪訝な顔をして雪也に訳が分からないというような声を返してきた。 「さっきの子だよ」 「だから誰のことだよ!」 「だ、誰って…っ」 逆に真剣に問い詰められて、雪也は半ば威嚇されたようになって後ずさりした。しかしすぐさま涼一に距離を縮められ、再度詰問される。 「雪、何の話してんだ? 訳分からないこと言って今の話を誤魔化そうとでもしてんのか?」 「お、俺が何を誤魔化すって言うんだよ…?」 「だから! 康久と何かあったのかって話だよ!」 「い、今はそんな話してんじゃなくて…」 「その話だろ! 大事なのはよ!」 「……っ」 何故責められているのは自分なのか。 先刻までのもやもやとした想いを抱えながら、雪也は怒りを通り越し半ば呆気に取られた顔で目の前の恋人をただ見やった。 「あの…!」 「え…?」 その時、後方から通りの道を全力で駆けてくる希美の姿があり、2人はぎょっとして同時に口を閉ざした。 「良かった、追いついて…っ」 「君……」 ハアハアと息を切らせながら涼一の前で呼吸を整えている希美に雪也は驚きながらも何とか口を開いた。涼一は怪訝な表情をしたまま黙りこくってそんな雪也を見つめていたが、顔を上げた希美が自分を見やったのに気づくとすぐに「いつもの」外面の表情を作っていた。 「剣先輩、忘れ物してたから」 「え、俺?」 意表をつかれたような涼一に差し出された物は駅前の本屋が使っている紙袋だった。ここへ来る前に専門書でも買っていたのだろうか、その中身はいやにかさばって重そうだった。 「午後の講義に使うかと思って…。でも、こっちに歩いて行くの見えたから…もう帰られるんですか?」 「あ、うん。それよりこんなのの為にわざわざ走ってきてくれたの? ありがとう」 さすがに涼一もこの時は心から有難いと思ったようで、申し訳なさそうな笑みを浮かべつつ希美に感謝の視線を向けた。希美はそんな涼一の態度にひどく嬉しそうにしながら何度か礼をし、そうしてすぐにそのまま去って行った。雪也はそんな希美の後ろ姿を見送った後、紙袋に目を落としている涼一を見やった。 「……ったく、焦って出てきたせいで大損するとこだった」 「何それ?」 「え? ああ別に。レポートに使う資料。それより、あの子って俺らの知り合い?」 「え?」 ぽかんとしていると涼一は首をかしげて続けざま更に言った。 「何か見た事あるよな? 近くにいた?」 「サンドウィッチ食べただろ…?」 性質の悪い冗談でも言っているのだろうかと思ったが、どうやら涼一は至って本気で訊いているようだ。雪也の言葉に「ああそうか!」などと得心してから、今度はまたころりと表情を変えて恨めしそうな顔をして見せた。 「大体、雪が康久と仲良さそうにしてるから飯も食わないで出てきちゃったんじゃないか! この責任は取れよな!」 「責任……」 茫然と声を出すだけの雪也に、涼一はむっとしたまま当然のように続けた。 「そうだよ。もう帰ろ。そんで俺にメシ作って」 「………」 「……何だよ? 何黙ってんだよ?」 声を出したかったが無理だった。ただ、今さっきまで感じていた鬱々とした気持ちがパリンと音を立ててあっさりと消えてしまった事だけは分かった。色々な感情がごちゃまぜに襲いかかってきながらも、その割れた何かに呼吸する事を思い出し、雪也は一気に自身の身体の力が抜けるのを感じた。 だから気づかなかった。 「ゆ、雪…?」 ひどく途惑ったような涼一の表情と声を認識するまで、自分がどんな顔をしていたかなんて。 「何だよ雪…。そんな…そんな顔するなよ。俺が怒ったから…? …だったらごめん、言い過ぎた」 「え…?」 「だから…ホント、そんな顔するなよ。もう疑わないから!」 「……涼一?」 「雪が康久とどうもないなんてこと分かってるよ。たださ…あんまり仲良く話して欲しくなかったから」 「俺、どんな顔…?」 けれどそう聞き返した時、雪也は自分がひどく泣き出しそうな感情に囚われている事に気がついた。 どうしてだろうと思う。別段、涼一にひどい事をされたわけでもない、ああやって責められるなどいつもの事だし、それに。 涼一はこんなに自分の事を想ってくれているのに。 「あ…そ、か……」 「え? 雪?」 けれど雪也は本気で困ったようになっている涼一を改めて見つめ、ようやくはっとなって声を出した。 「俺……」 「雪、どうした?」 「………」 そうして涼一が不思議そうな顔をして首をかしげるのに、雪也は暫くしてからやっと少しだけの笑顔を返して言う事ができた。 「俺…何でもないんだ。涼一、何食べたい…?」 「あ、良かった! 機嫌直してくれたのか?」 途端にぱっと明るくなる涼一に雪也は苦笑しつつ「うん」とだけ答えた。そしてこちらをじっと見つめてくる涼一の視線に心底安堵し、涼一の言葉にどうしようもなく嬉しくて泣きたくなっている自分を自覚していた。 「雪、俺さ」 そんな雪也の心意に気づかず涼一は言った。 「昼飯はサンドウィッチが食いたいな。さっきの結構うまかったし。もっと美味しい雪ので満足したい」 「あの子のには勝てないよ。俺の方が下手だよ」 「何言ってんだよ! 雪より料理上手い奴なんてこの世にいないって!」 「……涼一」 「な? だって俺にはいつだって雪のが最高だからさ」 「………」 いつからだろうと雪也は思った。当に知っていると思っていたし、分かっているつもりだった。けれどまだまだ足りなかったのだと思った。 「涼一…」 「ん?」 「俺……」 雪也は言いかけて、けれどどうしても照れくさくて先の言葉を続ける事ができなかった。 「やっぱり何でもない…っ」 「……ん、何なんだよ雪? ヘンな奴」 「うん、ごめん。でも、何でもないから…」 涼一に笑顔を見せながら雪也はただそう言って俯いた。言葉には出せそうもなかった。 「何でもない」 だから雪也は「その言葉」を言う分、涼一に精一杯美味しい物を食べさせてやりたいと思った。 こんなにも自分を満たしてくれる、涼一の言葉や視線に応えるために。 |
了
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