（あ…いいな、あれ……）
　 何気なく買い物をしていた時、そこだけが妙に明るくて煌びやかだった。大学からの帰り道、気紛れで遠回りした場所で不意に見つけた洋菓子店に、それはあった。
　 雪也は足を止め、鮮やかにライトアップされているそのショーウインドーの中の物にじっと魅入った。ひし形のそれは小さく行儀良くまとまっていて、洒落た透明のグラスにきちんと収まりすましている。その周囲に飾られている三色のリボンもとても上品に見えた。
　 場所が場所なので男の自分がこういう物をいつまでも眺めているのはおかしいだろうかと頭では思っていたが、それでも雪也は暫しその菓子に目をやり続けた。…そういえば以前はこんな風に街を歩いていても、あれが欲しいとかこれがいいなとか。そういう風に感じた事はなかったかもしれない。雪也はぼんやりとそんな事を思い巡らしながら、ふっと思いついたようになって顔を上げた。
　 涼一に作ってあげようかな、と思った。
帰りを待って



　 涼一が「家の法事で１日実家に帰る」と言ったのは、丁度雪也がバイトを休むと言った日だった。
「ホントにいつも急に呼びつけるんだよ、あの家は！」
　 いつもの事ながら雪也に当たるような強い口調で涼一は悔しそうに言った。法事なら前々から決まっていた日取りなのではないかと雪也が控えめに言うと、涼一は「俺には直前まで教えないんだよ！」とより一層イラついたようになって唾を飛ばした。
　 未だに涼一は自分の家や親族の事を雪也にあまり話したがらない。「ロクでもない」という話は聞くが、どうロクでもないのかは雪也にはよく分からなかった。それに何だかんだと言って涼一がその家族の言ってくる事に逆らうことは一度もなかったから、雪也としては自分に気を遣ってそういう風に言っているのだろうくらいにしか捉えられなかった。
「どうして雪は俺が出掛ける時に限ってフリーなんだ」
「どうしてって言われても……」
「なあ、休み変えれば？」
「もう無理だよ」
　 困ったようにそう答えると、涼一はぶすっとしつつも無茶な事を言っている自覚はあるのか、すぐにぐっとなって黙り込んだ。
　 けれどその後はいつものように雪也の事をぐいと引き寄せ抱きしめた。
「じゃあさ。雪はその日はずっとここにいろよ？　俺が戻るまで帰ったら駄目だからな」
「いつ帰ってくるの？」
「晩飯までには帰るから……多分」
　 言葉を濁す涼一。久しぶりに実家に戻る涼一を家の人だって引き止めるだろうなと雪也は思った。それでもその思いは口にはしなかった。「折角だからゆっくりしてくれば」などと自分が言えばどうなるかは、何となく想像ができたから。
　 ただ素直に頷く。
「うん、分かった」
「え…っ？」
　 実は了承されると思っていなかったのか、涼一は自分が言い出した事のくせに意外だと言わんばかりの顔で雪也を見つめた。しかしすぐに嬉しそうな表情になると、涼一は「俺、途中途中で電話入れるから！」と何度も言った。
「買い物とかも行っちゃ駄目。ずっとここにいてな」
「ええ…？」
「誰か来ても出なくていいから。電話も俺の携帯以外のは取らなくていい」
「りょ、涼一…」
「あとはな……」
　 途惑う雪也には構わず涼一のまくしたてる口調はその後暫く止まらなかった。
　 雪也はそんな涼一の口許を見つめながら、ただその勢いに圧倒されるのみだった。


×××××××


『雪、今何してた？』
　 出掛ける前、何度も雪也に「早く帰るから」と言いながらキスをした涼一は、その後ほぼ一時間毎に電話を掛けてきた。いつもは離れていてもこんなにしつこくなる事はないのに、と雪也は多少困惑を隠せなかったが、それでもただ従順に自分が涼一の部屋でしている事を話した。
　 ただ一つの事は除いて。
「特に何もしてないけど…テレビ見てた、かな」
『何の？』
「ん…何かのワイドショー」
『……雪、暇そうだな』
「いや別に……」
　 殆ど惰性でつけていたそのテレビ画面からは見た事のない芸能人の離婚のニュースが流れていた。雪也は殆どキッチンにいて作業をしていたから、テレビなどつけていなくとも良さそうなものだったが、涼一にこう何度も「何をしているのか」と訊かれるからには、何か適当でも誤魔化せる物を同時にしておく必要があった。
『なあ雪…。俺、もう帰りたい』
「え……でもまだ……」
　 実家に着いた、という声を聞いてから一時間しか経っていない。親族も全員集まっていないらしく、お経もまだのようだし、帰るわけにはいかないだろう。涼一もそんな事は分かっていて愚痴を言っているのは分かっているが。
『はぁ〜だる。な、雪。俺、雪のこと凄い好き』
「な……」
　 それは如何にも適当に、ついでのように紡ぎ出されたような気安い台詞だった。雪也は受話器を耳に当てながら、それでも何だか照れくさく妙に恥ずかしい気持ちになって声を失った。
『なー…雪は？』
「な…にが？」
『俺の事、好き？』
「………うん」
『それじゃ分かんねェよ。ちゃんと言えよ』
「だっ……て。そこに誰もいないの？」
『ん？　周り？　いないよ。だって今俺、自分の部屋にいるから。１番煩い叔父貴が仕事のケリつかないとかで遅くなってるんだってさ。マジむかつくよなぁ、こっちは早く帰りたいってのによ』
「でも部屋って言っても…いっぱい親戚の人来てるんだろ？　あんまりそんな大声で話してたら…」
『はあ…？』
　 雪也が何を気にしているのか涼一には今イチ分かりかねるようだった。電話の向こう側から不満そうな声が少しだけ漏れ聞こえ、それから再度大きな声が返ってくる。
『雪の言ってる事、何かよく分からないけど。大丈夫だよ、俺ン家広いから。聞こえてないよ、この会話』
「………」
『大体、聞こえてたって別にいいし』
　 けれどそのあっさりとした涼一の声に雪也が反応しようとした瞬間、電話口の向こうでバタバタという誰か別の人間が近づいてくる音が聞こえた。雪也がはっとすると、それとほぼ同時に涼一の微かにされた舌打ちも聞こえた。
　 そしてすぐに。
『……ごめん、また後で掛けるな』
　 涼一はそう言うと雪也の声を聞かずに電話を切った。焦ったような雰囲気が伝わってきた。
　 やはり家族に知られるのはマズイのではないだろうか。
　 涼一の両親がどんな人たちなのかはよく知らないが、どのみち自分たちの息子が男の雪也と付き合っているなどと知ったら、彼らはどんな反応を示すだろう。いつも口やかましく説教じみた事ばかり言う叔父さんとやらも。
　 先に切られた電話を見つめながら雪也はその場に座りこみ、暫しそんな事を考えた。


×××××××


　 その次に来た涼一の電話は、すっかり日も沈んだ19時頃だった。
『ごめん雪！』
　 開口一番そう言って涼一は謝り、なかなか親族連中に放してもらえなかった事、そもそもお経を読み出した時刻も随分遅かったという事を早口で語った。雪也を部屋で１人ずっと待たせたという罪悪感でいっぱいなのか、涼一は電話口でひどく必死な感じだった。雪也はそんな涼一の声を聞きながら思わず笑みを零した。
「大丈夫だよ。俺、ちょっと寝たりして、ゆっくりしてたし」
『………本当？』
「うん。それより今どこ？　駅着いた？」
『うん。あと…ちょっとで帰るから』
「うん、待ってる」
『………』
　 雪也が柔らかい口調でそう言うと、不意に涼一はしんとなって電話口のすぐ傍で沈黙した。息遣いはすぐ近くで聞こえるから切ってはいない。雪也は不審な顔をした。
「涼一…？」
『な、雪。ドア、開けて』
「え？」
『今。ドア開けて』
「ドア……？」
　 言われている意味が分からずただ言葉を繰り返した雪也だったが、それでも受話器をその場に置き、立ち上がりざま玄関に近づいた。チェーンを外して鍵を開ける。
「雪！」
「わ……っ」
　 と、同時に。
「ただいま〜！」
「りょ……！」
　 ドアを開いて顔を上げた瞬間、いきなりの声と同時にもう抱きすくめられていた。あまりの事に一瞬息を詰まらせたが、顔の当たった相手の胸は可笑しそうに少しだけ揺れていた。
「びっくりした？」
「涼一…」
「もうすっげえ帰ってくるの遅くなっちゃったからさ。家出る時とかに電話して、また数時間待たせるとかってのも嫌だったから。本当は電話したかったんだけど、ここに来るまで我慢してた！」
「駅で電話してって言ったじゃないか。夕飯、まだできてない」
「いいよそんなの！」
　 言いながら更にぎゅっと抱きしめる腕に力をこめる涼一。そうして雪也の身体を完全に自分の中に包み込むようにしてから、涼一はハッと大きく息を吐き出した。
「やっと息、吸えた」
「え……？」
「雪！　なぁ雪！」
「え？」
　 雪也は自分こそが窒息しそうだと思いながらも何とか涼一のその呼びかけに応えた。しかし当の涼一の方はそうは言ったものの特に何を言うでもなく、更に何度か「雪、雪」と呪文のように雪也の名前を呼んだ。
　 そうしてやっと顔を上げ、いい加減何なのだと抗議めいた目を見せた雪也に、楽しそうに。
「なぁ、キスしよう」
　 涼一は言った。
「…あ……」
　 あっという間に接近してきた涼一の顔に雪也はただ茫然としてしまった。不意にされた口づけに、雪也は慌てて涼一の腕を掴み目を閉じた。
　 そうするのが１番涼一からのキスを受け入れやすいと知っていたから。
「ん……」
「……もう１回」
　 涼一は一旦離れた後、ねだるような甘い声で言った後、ぼうっとする雪也の瞳を見つめ再度唇を重ねてきた。涼一は自身が苛ついていたり寂しかったりと負の感情が先走っている時、いつも何度でも、それこそ雪也が息を詰まらせて涙ぐむまで口づけを続けた。逃げ出そうにも力強いその拘束からは絶対に逃れられなかったから、そんな時、雪也はいつもそれが終わるのをただひたすら大人しく待った。
　 それでも今日のはいつもよりは少しばかり勝手が違った。そのキスはそれからすぐ後、ゆっくりと優しいまま終わった。
　 それが、何だか。
　 悲しそうな感じなのだけれど、それでもこちらを気遣っているようにも思えた。
「……涼一？」
　 薄っすらと目を開けて未だ自分を抱きすくめる涼一を間近で見つめると、雪也のその視界には既にじっとこちらを見つめてくる強い光があった。
「どうかした……？」
「別に……」
　 涼一は呟くようにそう応えてからゆっくりと雪也の身体を離した。それから無理したような笑みを浮かべ、明るい口調で言う。
「やっぱり腹減ったかも。な、ラーメンとかある？」
「……ご飯炊いてあるから」
　 誤魔化すように食事の話をし出した涼一に、それでも雪也は応えながら自分も無理に笑ってみせた。
　 涼一はやはりどことなく考え込んでいるようだったけれど。
　 家族と会って何か思うところがあったのか。自分が今日１日少しだけ思いを巡らせたような事を涼一も考えたのか。雪也は涼一に探るような目を向けながら、それでも直接それを訊く事はできないでいた。
「………あ、そうだ」
　 だから、だろうか。
「俺、涼一に……」
　 雪也は言いながら思い立ったように急いで台所へ向かった。
　 本当はまだ、あの店で飾られていたような装飾は終わっていないのだれど。
「涼一」
「え？」
　 慌ててキッチンに入った雪也をすぐに追ってきた涼一は、不意にそう言って明るい声を出した恋人を不思議そうな顔で見つめた。
「夕飯できるまでこれ食べてて」
「これ……？」
「うん。作ってたんだ、今日１日。これ」
　 雪也はそう言いながら、オーブンから取り出した型の綺麗に取れたチョコレートクッキーをテーブルの上に置いた。
「店の人はさ、すごく嬉しそうに色々教えてくれたりしたんだけど。包装は間に合わなかった。涼一が帰るまでにやればいいやって油断してた」
「何で？」
「え？」
「いや…何でわざわざ…？」
「あ、だって……。来週の今日ってあれだろ…その…チョコ、あげる日とかだろ…」
　 バレンタインデーという単語を使うのはさすがに恥ずかしかった。記念日に贈るのも憚られた。雪也は決まり悪そうに俯いた後、今の自分は相当赤面しているのだろうなと焦りながら思った。
　 偶然立ち寄ったあの店で見つけた、「聖なる日」用のあのお菓子。
　 本当はあそこに飾られた菓子そのままを真似したいと思ったのだが、付け焼刃であの綺麗な型や味を作れる程には、雪也は菓子作りに長けていなかった。だから以前、手をつけた事があるクッキーにしてみたのだが…何を思ったのか、あの店の若主人は材料を買い揃える雪也に実にあれこれと必要以上の世話を焼いてくれたのだった。うまいタイミングで焼き上げるコツから、箱に詰める形、ラッピングの仕方に至るまで。
「その…今日１日暇だったし…」
「……雪、俺のこと好きなの？」
　 暫し黙っていた涼一がようやく口を開いた。目はひたすらテーブルに置かれたプレートの上のチョコレート菓子に注がれている。
「今さら義理とか言われたら泣くんだけど、俺」
「何…言ってんだよ…」
「だって雪がこんな気の利く事するなんて信じられない」
　 涼一はきっぱりと言ってから、おもむろにその程良く焼かれた色合いの良いクッキーをぱくりと口に放り込んだ。あっという間に飲み込んでから「さすが」とだけ呟く。それでも雪也は涼一のその感想に心底ほっとした。
「雪がバレンタインデーに何かしてくれるなんてこと、俺は全然期待してなかったんだぜ？」
　 そして涼一はそう後の言葉を続けた。
　 まあ……今日は14日じゃないけど……という台詞もつけ加えて。
「……それは…俺も、思った」
　 雪也はそんな涼一の言葉に素直にこくんと頷き、それからようやく少しだけ笑った。涼一の台詞で緊張が和らいだ。妙に感激されたり大袈裟に何かを言われたらあのまま熱くなってどうなっていたか分からないと思う。
　 きちんと言える事は言ってから、熱くなりたい。
「記念日なんか…あんまり考える方じゃないし。でも、あの時は涼一の為に作りたいって思ったんだ。そもそも俺、涼一に何か作るのって凄く好きみたいだから」
「………ふぅん」
「何？」
「……まぁいいよ」
「え？」
　 何事か考え込んでそう応えた涼一の態度に、雪也はやはり困ったような顔をした。それでも、帰ってきたばかりの涼一が見せたあの悲しそうな気配はもう感じられないと思った。
　 いつもの涼一の感じがした。
「俺に何か作るのが好きって事は、つまりは雪も俺を好きって事だよな」
　 そして涼一はやっといつもの調子になるとそう言って笑った。それからたて続けに整然と並べられたクッキーを口に入れる。
「うん。俺も雪のこと、好き！」
「あ、涼一あんま食べると夕飯食べられなくな――」
「ならないって。俺、あっちの家で何も胃に入れてないもん。雪の飯って思ってたから、ひたすら我慢してたし」
　 涼一はそう言いながら、何を急いでいるのか一口サイズのその菓子をどんどんとそれはもの凄い勢いで食べ続けた。まるで誰かに取られては敵わないというように。
　 そうして涼一は不意に思い出したようになると口角を曲げ、食べる合間合間に実家での不平不満を述べた。
「それにしてもあっち、いい大人が昼間っから酔っぱらってんだぜ。嫌になる」
「久しぶりにみんなが集まったから…」
「しょっちゅうだよ。ったく、騒ぐの好きだから」
「……でも涼一」
　 雪也はここでようやく自分の心配を涼一に訊く気になり、恐る恐るという風にだが声を出した。
「本当に大丈夫だった？ その…すぐに家、出てきちゃって」
「家？　……ああ。大丈夫に決まってるだろ」
　 けれどそう訊かれた涼一の方は、不安そうな顔をする雪也に何を言っているんだと言わんばかりの顔をしてから苦笑した。
　 そして実にあっさりと。
「俺の帰る家は雪がいる所だから」
「涼…」
　 名前を呼びかけて、やはり後の言葉が続かない。雪也は今度はもう完全に赤面していた。自分がどんなに恥ずかしい思いをしても、必死になっても、同じような事を涼一の方は何でもない事のようにかわしてやったり言ったりしてしまうのだ。
　 だから雪也はこの時もすぐには涼一の言葉に反応を返す事ができなかった。
「………涼一」
　 それでも、我ながらうまくできたと思われる１番形の良い菓子を一つつまむと。
「……はい」
　雪也は本当に小さな声を出しながら、手にしたそれを涼一の口にそっと運んだ。
了




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