可愛いひと



  涼一は最高に不機嫌だった。

「ごめん、涼一…俺、もうお前と付き合えない…」
  心底申し訳なさそうに言ったあの顔と声が、実にリアルで。
「何で……?」
  茫然として聞き返している自分が実に間抜けで。どんな顔をしているのかもハッキリ分かった。雪也と自分、対面しているその横で、涼一は自身がその光景を目の当たりにしていたから。

  夢の、中で。

「俺…やっぱり……のことが好きなんだ。だから……」
「何? 誰が好きだって? よく聞こえなかった、何て…」
  眉をひそめて訊き返している自分。それを傍目で眺めている自分。困ったような顔をして泣き出しそうな顔をしている、雪也。
  嫌な夢だ。
  これは夢だと分かっているのに。
「ごめん、涼一……」
  ただそう言って去って行く雪也の背中だけ脳裏に焼きついた。


×××××


「…………涼一」
  いつもの事だけれど。
「涼一、今度は何?」
  半ば諦めにも似た気弱な声で背後から声を掛けてくる雪也。
  夢見が悪くて雪也にむかついたから、口をきかない。
  そんな無茶苦茶な事を言ったら、雪也はまたどんな顔をするだろうか。……きっと笑って許してくれるだろうけれど。
「ばかみてぇ……」
「え、何?」
  無意識につぶやいた涼一に、背後から雪也がはっとして声をあげた。涼一は慌ててかぶりを振り、それから雪也を突き放すようにして歩を速めた。これ以上一緒にいたらまた当たってしまう(既に十分当たっているが)。とにかく今日はもう雪也とは一緒にいたくないと涼一は思った。
  だから雪也を無視したまま、涼一はそのまま相手を振り切って家へ帰った。


  自分がおかしいと思い始めたのは、多分護の存在を知ってからだ。
  涼一は自宅に帰り着くと真っ直ぐに寝室のベッドへ向かい、そのままそこにどっと倒れ込んだ。
「くっそ……」
  もやもやする心。
  雪也は自分と一緒にいる事を選んでくれたけれど、月に何回かのペースで特に意味もなく不機嫌になった。不安になる自分がいた。どうしようもなくなる。
  雪也が自分以外の誰かと話している時。
  雪也が自分以外の何かを考えている時。
  雪也が自分以外の場所で何かをしている時。
  今日は傍から離れたのは自分の方だと言うのに。
「むかつく……」
  構内で雪也の顔を見た途端、今朝方見た夢がふっと思い返されて猛烈に腹が立った。あんな風に申し訳なさそうに謝られたとて、所詮は自分から離れたい、逃げたいという事ではないか。何て勝手な奴。そんなこと絶対に許せない。
  そう思ったら、たとえそれが自分の見た勝手な夢だろうが、自分をこんな風に不安にさせる雪也が悪いのだという気になってしまう。
  いつまでこんな事が続くのだろう。
  いっそ別れてやろうか。
  そう思う時だってあるのだ。
「ん……」
  そうやってしばらく悶々としていた時、不意に傍に置いてあった携帯が鳴った。うつ伏せになった姿勢のまま腕だけを伸ばしてライトグリーンに光る着信番号に目をやった。
  雪也。
「………」
  珍しい。
「電話…嫌いなくせに…」
  それでもつい先刻まで別れてやってもいいなどと思っていた思考はどこへやら、涼一は結局すぐにそれに反応してしまった。
「何」
  それでも精一杯不機嫌な声で応答した。雪也はどんな態度を取るのだろうと思った。困ったように口ごもるのだろうか。
『あ…俺………』
「………」 
  やっぱりだ。涼一は心の中で少しだけくすぐったい気持ちがした。何を言っていいか分からないという調子の声。想像していた通りの声。
  俺はお前の事なら何でも分かるんだ。
「何だよ」
  また意地悪く冷たい声で言ってやった。こんなに好きなのにどうして雪也に当たってしまうのだろう。何も悪くない雪也に。
『………何で…怒ってる…?』
「別に」
『………』
「用がそれだけなら切る」
『あ、今…いるんだけど』
「は?」
  慌てたようにそう言った雪也に、涼一は目を見開いた。
『ドアの前にいるんだけど…』
「え………」
  追いかけてきていたのか。
『入っていい……?』
「………鍵持ってるだろ」
  そう言って電源を切り、けれど一拍おいて涼一はすぐに起き上がると玄関へ向かった。そして勝手に入ってくればいいと思っているくせに、もう手は鍵の閉まったドアを開けていた。自分から。
  雪也の顔が見たかった。
「あ………」
  雪也は中へ入ろうかどうしようかと逡巡していたようで、突然開いたそれに思い切り面食らった顔をしていた。しばらくお互い無言で向き合う。
  先に口を開いたのは、やはり涼一だった。
「何してんだよ」
「え」
「来たんならすぐ入ってくればいいだろ」
「………怒ってるようだったから」
「じゃあ来なければいい」
  またわざと冷たく言って、それでも涼一はドアを開けたまま先にリビングへ戻った。背中を見せれば雪也はそのまま自分についてきて中に入ってくると思ったから。
  案の定雪也はそろそろと涼一の後へ続いて部屋の中に入って来た。背中を向けたままの姿勢でちらとその姿に目をやると、雪也の手にはいつものスーパーの袋がぶら下がっていた。そこから顔を出している野菜の姿。いつものスープの材料だと思った。
  それが分かっていても、涼一は未だ雪也の方を向かずに後ろを見せたままぶっきらぼうに言葉を吐いた。
「用、何?」
「え……。よ、用ってほどの事はないけど」
「………」
「涼一…お腹空いてるかなと思って」
  雪也のその声と同時にがさりとビニール袋がテーブルに置かれる音がした。振り返らなくとも雪也の動作一つ一つが涼一には見えた。いつもまず台所へ行く前に、雪也はここで買った物の確認をするのだ。
「俺、今日バイトないし…。夕飯、一緒に食べようと思ってたんだけど」
「………」
  ガサガサとビニールの擦れる音が止んだすぐ後、雪也のそういう声が耳に響いた。涼一はじっとしたままその雪也の声を聞いた。雪也の遠慮がちな、それでいてよく通る声が好きだと思った。
「涼一」
  いつからか、自分の事を「涼一」と呼んでくれるようになった。そう呼ばれる瞬間が好きだった。
「涼一…っ」
  我がままばかりの自分に対していつも困ったようにしながら、それでも付き合ってくれる雪也がとてもとても好きだった。
「涼一って!」
「……え?」
  その時、突然の大きな声に涼一はびくりとして反射的に振り返った。
  そこには、もう何度も呼んでいるのに無反応な恋人に対してさすがに居た堪れなくなったような雪也の顔があった。
「あ……」
  返事をしなかったのは無視していたわけではないのだが。
  しかし最初の八つ当たり等で知らぬフリをしていた事を考えると、今もわざと無視していたと思われるのは至極当然のことだった。涼一は雪也の眉を潜めた顔に少しだけ焦ったようになりながら、それでもわざと咳き込んでからぽつりと応えた。
「何だよ」
「どうして無視するんだよ」
「別に……」
「言ってくれなきゃ分からないって言ったの…涼一だろ」
「………」
  確かに。
  返す言葉もないと思っていると、雪也が小さくため息をついたのが分かった。それから買い物袋を再び持ち上げ、くるりと涼一に背を向ける。涼一はびくりとなって弾かれたように顔を上げた。
「か、帰……!」
  帰るのか。
  そう聞こうと思った瞬間、しかし涼一は慌ててその言葉を飲みこんだ。雪也が向かった先は玄関ではなく台所で、どうやら涼一には構わずに夕飯の支度をするつもりのようだった。移動した先で腕まくりをし、袋から取り出した野菜を洗おうとしている。
  それを見て涼一は心からほっとした。
  雪也はここにいてくれる。
「………また洗い物ためて」
  流しに向かった雪也がぽつりとそうつぶやく声が聞こえた。雪也がいないと涼一はいつも使った物はそのまま使いっ放しだし、ゴミもロクに捨てないので自然台所は汚くなった。それでも最低週一の割合で雪也が部屋に来てくれるので、涼一は1人のこの生活で困った事が一度もなかった。
  涼一は溜まった洗い物を始めた雪也の背中を黙って見つめた。するともうすぐに堪らなくなった。我慢できなくなった。涼一は無意識に立ち上がるともう雪也の傍に寄っていた。
「………雪」
  そしてもう声を掛けていた。
「え?」
  声がすぐ近くでした事に驚いたのか、はっとして振り返る雪也。
「雪」
「あ…ちょ……」
  その目を見た途端、涼一はもうそんな雪也に抱きついていた。雪也の戸惑ったような様子がびくんと揺れた身体の振動から伝わってきた。
「雪」
「ちょっ…涼一…」
  ぎゅっと両腕で抱えられるようにがんじがらめにされて身動きの取れなくなった雪也が、流れっぱなしの水を気にしたように涼一を呼んだ。けれどその暗に離してくれと言う態度に涼一は余計抱きしめる腕に力を込めた。
「好き…雪……」
  そして甘えるように耳元に口をつけてそっと囁いた。少しでもいいからこの痛みを雪也に知って欲しいと思った。勝手な痛みと分かっているけれど、感じて欲しかった。
「………」
  すると涼一のその声を聞いた雪也は突然しんとなって身じろぐ動きを止めた。そうして縛られたようになってうまく動かせない片手をくんと曲げると、涼一のやや震えた手にそっと触れた。
「……涼一。何で怒ってたの?」
  ひどく優しくそう訊かれて、涼一は思わずかっと赤面した。やはり言わなければならないだろうか。言ったら雪也はやはり怒るだろうか。さすがに口をきいてくれないかもしれない。
  最初こそ正直に言っても笑って許してくれるはずと思っていた涼一も、いざこうやって理由を訊かれるとやはりバツが悪くて口ごもってしまった。
「涼一?」
「……言わなきゃ駄目?」
「え?」
「………無視した理由」
「そりゃ…聞きたいけど」
「………」
  雪也にそう言われて涼一は益々困惑したようになったが、それでも甘えたように縋りついた腕は離したくなくて、更にぎゅっと抱く腕に力をこめると、そのまま雪也の項に唇を当てた。
「あ、りょ……」
「言ったら雪、俺のこと嫌いになるから」
「え……?」
「呆れる」
「だから何なの?」
「……だから、言いたくない」
「は、はあ…?」
  涼一の駄々っ子のような言い分に雪也はそれこそ呆れたような声を出したが、後は黙って自分に抱きつき動かない涼一に、すっかり根負けしたようになった。ふうと大きくため息はついたが、雪也は黙って涼一のされるがままになった。
「俺の傍にいろよ、雪…」
  だから涼一も声を出しやすくなった。
「何処にもやらないからな…」
  こうやって好きに言っても、雪也は絶対おとなしくしていてくれる。だから、今はこうして言葉を出せる。
「な。雪、聞いてる?」
「………」
  するとずっと黙って涼一の言葉を聞いていた雪也は、不意にふっと苦笑したようになると微かに身体を揺らした。
  そして、ぽつりと一言。
「ばっかだなあ……」
  けれどそう言った雪也の声はとても穏やかなものだった。
  全部を許してしまったような声だった。
「雪……」
  だからもう、涼一はそれだけでふわりと幸せな気持ちになった。雪也が傍にいてくれるだけで、やっぱり幸せだと思った。
「涼一、もう離してよ。水、勿体無い」
  我がままな恋人の安心した空気を感じ取ったのか雪也は口調を変えてそう言い、涼一の手をぱしりと軽く叩いた。そして涼一が素直に離れると雪也はちらと振り返り、目を細めて優しく微笑した。その笑顔に涼一は途端ドキンと胸を鳴らした。いつもは自信なさ気にしている雪也が、こんな風に時折見せる大人びた表情。目を離せずに見つめていると、雪也は再び流しに視線を戻して落ち着いた口調で言った。
「涼一、可愛い」
「え?」
  涼一がぽかんとして聞き返すと、雪也は肩を少しだけ揺らして小さく笑った。
「何でもない」
「ゆ、雪……?」
  何だろう。
  何だか完全にリードされてしまったようなそんな気持ち。
  可愛い? 自分が…?
「な、何だよ……」
  思わず不満そうな声を出して少しだけ抗議してみる。けれど案の定雪也からの反応はなかった。
「何だよ……」
  けれど涼一は早まる心臓の鼓動を自らの内に感じつつ、どことなく楽しそうな雪也の背中にすっかり安堵する自分を自覚していた。そしてそれが妙に嬉しいと思った。
「………」
  だから涼一は自らも口を閉じ、後はただ忙しそうに手を動かしている雪也の後姿をじっと見つめやった。
  そうして。
  もう一度、今度は雪也が水道を止めた時にめいっぱい抱きしめてやろうと思った。