きみが好き。



  創は従姉である那智のいわゆる「絶叫」には慣れているが、ここ最近ではすっかり落ち着いていたし気分も良さそうだったから、完璧に油断していた。
「不覚…」
  だからその店中に轟かんばかりの金切り声には思い切りこめかみを痛めたし、全く不本意ながら全身をも震わせてしまった。創は那智の叫び声にはとんと弱いのだ。
「姉さん…。何事ですか」
  ほんの数分だ。
  創は那智に店番を任せ、自分は奥のキッチンでコーヒーを淹れていた。那智が淹れてくれるお茶や絞りたてのフルーツジュースも嫌いではないけれど、今日はとびきり苦いブラックコーヒーが飲みたい気分だった。創は食に対する欲求は低いが、コーヒーを飲むのは好きだ。それ故、銘柄から豆の挽き方・お湯の温度にまで、実は密かなこだわりがある。那智に言うと無駄に神経質になるから黙っているが、だからこそ本当に自分が美味しいと思うコーヒーが飲みたい時には、こうして自身で用意する事にしているのだ。
  その至福の時を過ごそうとした、ほんの数分の間に。
「那智、大丈夫か」
  店に戻ると、常連客である「うさぎ」こと寛兎が、うずくまる那智の傍に突っ立って平静と声を掛けていた。嫌な予感がすると眉をひそめた刹那、寛兎が察したように創の方をさっと見上げ、素直に「俺のせいみたい」と言った。
「だろうな。那智姉さんに何を見せた」
「見せたくて見せたわけじゃない。那智には観ない方がいいぞとも言った」
  最初は潔く罪を認めたのに途端ぶうたれる子どもに、しかし創は大きくかぶりを振った。
「お前ね。前から言っている事だけど、勝手に棚から商品出してここで見るのはやめろ。この間も18Rなホラー映画観てただろ。案の定スプラッタな場面に遭遇した那智姉さんは気絶寸前だったし」
「那智が変に凄いんだ。いつも悪いタイミングで現れて、一番見ちゃいけないシーンを見ちゃう」
「お前が謀って見せてるんじゃないのか」
「俺、那智には意地悪しない!」
  むうっと唇を尖らせた後、寛兎はまるで小さな子どもを慰めるように、未だ傍でうずくまる那智の背中をぽんぽんと優しく叩いた。なるほど、確かに多少なり心配はしているようだ。那智の精神的な弱さが一般的に見て「普通ではない」とは、さすがに幼い寛兎でも容易に分かる事らしい。それなら余計な火種は起こすなよと創などは思うわけだが、そこが寛兎のトラブルメーカーなところであり、那智の想像を絶する間の悪さでもあると言えた。
「――で? 今日はどんな恐ろしい映画を観ていたんだ?」
「これ」
  既に画面は消され、しんとした店内。寛兎はすっと傍に置いていたビデオのパッケージを掲げ、創に見せた。
「…………………」
  勿論創はそれを見た瞬間ぴたりと動きを止めたのだが、寛兎の方はまるで悪びれた風がない。
「なあ。桐野ってあのバカ涼一といつもこんな事してんのかよ」
「……さあね」
  創はややあってからとぼけてみせたが、それがより一層寛兎の熱を煽ったらしい。ますます納得いかないという風に不機嫌そうな顔をちらつかせると、手にしたパッケージを乱暴にぶんぶんと振り回し、ともすればそのまま壁に投げつけてしまいそうな勢いで悪態をついた。
「嘘つくなよっ。創に分かんない事なんかあるわけないだろ? 俺が子どもだから教えてくれないのか!?」
「確かにお前は子どもだけど、そこらの子どもとは違うから、そんな無駄な隠し事はしない」
  最近、より一層口が回って生意気になったなと思うのだが、寛兎が「こう」なっているのは、長い事一番近くにいたこの自分自身の影響もあるのではないかと疑っているので、創自身もあまり大きくは出られない。
  極力平然とした風を装って、創はしかしこれだけはせねばと、寛兎からすかさずビデオのパッケージを奪い取った。ついでにテレビのリモコンも。
「もう観るなよ」
「何で」
「店のものだし、そもそもお前の年齢じゃ、まだ観ちゃいけない物だ」
「もう観ちゃった」
「忘れろ」
  我ながら無茶を言うと自覚していたけれど、創とて小学生相手に「そんな」話はしたくない。
  しかし、黙っていたらいたで、次に起こる弊害も分かってはいる。
「創が教えてくれないんなら、桐野に直接訊くぞ?」
  ほらきた、やっぱり。
「……寛兎」
  はあぁと珍しく大きな溜息をついた創は、しかしとりあえずはと、未だ蒼白になって俯いたままの那智を無理に促すようにして立たせ、店の奥へと連れて行った。
  それから、さてどうしたものかと腕を組む。コーヒーを淹れるタイミングもすっかり逸してしまった。
「創。これなら観てもいいか」
「……それも同じだ。お前、これ以上調子に乗ると当分出禁にするぞ」
「何それ」
「この店に入れないって事だ」
  創の言葉が本当だと思ったのだろう、寛兎は創と那智が店内から消えた一瞬の隙に掴んだ新たなビデオを渋々棚にしまった後、さっとカウンターの所にまで戻ってきていつもの席に座った。
  創はそんな寛兎の姿を冷徹に見下ろした後、自らもゆっくりと傍のパイプ椅子に腰をおろした。
  そうしてわざとゆっくり口を開く。
「今さっきの質問だけどな。俺は知らないし、桐野君にも余計な事は訊くな」
「何で」
「お前が嫌われるからだよ。桐野君に嫌われるのは嫌だろう?」
  創が言うと、寛兎はたちまちぐっとなって眉間に皺を寄せた。
  近年、めっきり「雪也ラブ」となっている寛兎は、何かと言うと桐野桐野とまとわりついて、そんな時ばかり自分が子どもであるという特権を生かそうとする。
  お陰で雪也の恋人である剣涼一からは無駄に睨まれ、何故か知らないが創まで「保護者の管理が行き届いていないからだ」と責められている。
  まったくいい迷惑だ。
「桐野は、何だってあんなバカ涼一がいいんだ」
  暫し考え込んでいた創に寛兎がぽつりと言った。
「ん…」
  創が目を向けると、寛兎はますますムキになったようにキッとした視線を向け、手荒くカウンター席を何度か叩いて見せた。
「何でだよ? あんなバカ、ただのバカじゃないか」
「……まぁ否定はしない」
「桐野は優しいし綺麗だし。いい奴だ、凄く。あいつが笑うと、何かあったかくなるし。桐野のこと、好きだ」
「………」
「俺、桐野のこと好きだ」
  まるで自分の気持ちを確かめるように寛兎は二度そう言って、それから不意にうると大きな瞳を潤ませた。どうやら本気らしい。創は多少驚いた思いで目の前の小さな少年を凝視し、それから(まったく羨ましいな)と単純に思った。
  いつからだろう、自分はそんな風に素直に誰かを好きだと口にする事がなくなってしまった。否、もしかすると生まれた時から本当に心から誰かを好きだと思った事などないかもしれない。別にそんな自分を冷酷な奴だとも、人としての感情が欠落している駄目人間だなどとも思わないけれど、それでも従姉の那智同様、自分は何かが「おかしい」のだろう、と。
  薄ぼんやりとだけれど、昔からそれだけは漠然と感じていた。
「創」
  不意に寛兎が呼んできた。
  はっとして顔を上げると、寛兎は何かを探るような目で創を見据え、それから「創は?」と訊いた。
「何が」
「桐野のこと、好きかよ」
「………」
「好きだろ?」
「……まぁね」
  好きか嫌いかと訊かれたら、それは勿論好きに決まっている。彼に喜んでもらえたら嬉しいし、彼が幸せなら自分も幸せだと思えるくらいに、彼――桐野雪也を気に入っている。
  そう、だからこの場合「気に入っている」などという陳腐な言葉はむしろ似つかわしくない。創は雪也の事が本当に……好きなのだ。
  たとえそれが剣涼一や寛兎が抱く感情とは別のものだとしても。
「桐野君はイイ奴だよな」
「うん」
  だから創が素直にそう言うと、寛兎はすぐに力強く頷いた。そのリアクションがあまりにすぐだったものだから創も思わず破顔し、「やっぱりお前はいいな」とつい口にした。
「お前、前はそんなキャラじゃなかっただろ。でも、今のお前の方がずっといいよ。これも桐野君効果かな?」
「多分な」
「けど、お前。桐野君は難しいぜ。何せ相手が相手だ」
「あんなバカ涼一、俺の敵じゃねえよ」
  フンと鼻を鳴らした寛兎は、しかしその直後、急にピンと耳を立てるようにしてから背筋を伸ばし、野生の動物のような仕草ですかさず店の入口を振り返った。
  そうして、嬉々として叫んだ。
「桐野だ!」
「はぁ?」
  一体どうしてそれが分かったのだろう、寛兎がだっと駆けて行ったのと同時、店の外から噂の人・雪也が、あのいつもの遠慮がちな笑顔と共に現れた。
「どうも…わっ」
「桐野!」
「ひ、寛兎?」
  突然抱きつかれたせいで当然の事ながら雪也は思い切り面食らったようだ。それでも寛兎の身体を咄嗟に両手で抱きしめ返してやるところが雪也は優しいと思う。
  決して相手を拒まない。

  ―…けれど寛兎がそんな雪也の懐で幸せな気分を味わえたのも、まさにほんの一瞬だった。

「このクソガキ! 雪から離れろッ!」
「あ。やっぱり」
  折角雪也の笑顔で華やいだ店内が一転、巨大な悪鬼が雷雲と共に現れた。…そう、何の事はない、寛兎の行為に後から入ってきた涼一が烈火の如く怒り狂ったのだ。
「あぁもう! 何っで、この店に来るといっつもこのクソガキがいるんだよ!?  んで、俺の雪に馴れ馴れしく抱きつきやがる! さっさと離れろ!」
「煩いこのバカ涼一! お前が桐野から離れろ!」
「んだとこの野郎!」
「涼一っ、やめてくれって!」
  店の入口付近でこの3人がこういった遣り取りをするのは最早日常茶飯事だ。
  それをカウンター席からぼんやりと眺めていた創は、いつもの呆れた気持ち半分、そして「何となく羨ましい」気持ち半分といった複雑な気持ちを抱きながら、意図せずふっと溜息をついてしまった。久しぶりに那智の叫び声など聞いたから、今日は少し自分も精神状態が危いのかもしれないと思う。
「創? どうしたの、気分でも悪いの?」
  そんな創の状態に逸早く気がついたのは勿論雪也だ。涼一と寛兎の未だやまない言い合いを放置し、雪也はさっとカウンター席にまで近づくと創の顔を心配そうに見つめやった。
「何か顔色悪いし…。あ、また徹夜したんだ? もう、ほどほどにしないと、本当に身体を壊すよ?」
「……あぁ、ありがとう。でも…、うーん。俺はそういう事では倒れない自信があるんだけどね。……何だかね」
「…? 何?」
  らしくもなく煮え切らない態度を取る創に、雪也がいよいよどうしたのかと不安そうな瞳を向ける。また創が徹夜で読書なり映画鑑賞なりで体調を崩したと思っているようだ。会う度、「もうちょっと自分の健康にも気を配りなよ」と控え目に言う雪也は、それが全く押し付けがましくない心遣いで創の気持ちを落ち着かせてくれる。今とてそうだ。雪也はいつでもこうした細やかな気配りをして創の気持ちを和ませる。きっと誰にでもそうなのだろうけれど、少なくとも今この時は、雪也は他の誰でもない、創を想ってくれているのだ。その事がとても嬉しいと、とても尊い事だと創には感じられた。
  だからつい、口が動いていた。「ああ、そうか」と思ったから。
「俺、桐野君のこと好きだな」
「……え?」
「何かさ。君のそういうところが。あぁ好きだなって。迷惑かな?」
「え? や、その。迷惑とかって事は……な、ない、けど」
  でもどうしたの?と、雪也が途惑った風に問い返すのを、創は思わずふっと笑って眼鏡の奥の目を細めた。こうやって困っている顔を見るのも楽しい。不思議だった。人間を観察するのはいつだってブラウン管の向こう側、映画の中の世界でだけだったのに、こうして「友人」だと認めた存在・雪也と直に見つめあい、直に関わっていると、本当に心が休まると感じる。
  こういうのも悪くないなと思える。

  もっとも創のその喜びも、先刻の寛兎同様、本当に数秒のものだったのだけれど。

「は、は、創ェ…ッ!!」
  地を割き、天を揺るがす怒りの波動。
「……あ、しまった」
  創が気がついてそう口走った時には、しかしもう遅い。
「テメエッ! こ、こここ、この野郎! 今お前何言った!? よ、よくもおまっ…お前、この俺がいる目の前で雪にっ、こ、告白なんかしやがってッ!!」
「いや、剣君。これはちょっと告白とは違うんだけどね?」
  はははと適当に笑って受け流そうとしたが、無論そんなものが怒りの王子・剣涼一に通用するわけもない。因みにいつもは必死に止めてくれるはずの雪也も、どうやら創の意外過ぎるほどストレートな感情表現に翻弄されて口ごもっている。というか、心なしか赤面している。
  だから創も余計に困ってしまった。
「あのさ、2人とも勘違いしないでくれよな。俺はただ桐野君を1人の人間として好きだと言っただけで――」
「るせえッ! てめえ、表出ろ! 前からなぁ! 俺はお前の事はいっちばん! 怪しいと思ってたんだッ! 俺はお前みたいな無自覚野郎が一番むかつくんだよッ!」
「え? 別に無自覚なわけじゃなくて、俺はちゃんと自覚して桐野君を好きなんだけど?」
「こ、この〜…!」
「俺もそんなの前から知ってたけど」
  しれっとして呟いたのは背後に立っていた寛兎だ。どうやら完全に涼一から置いてけぼりを食い、今や視界にも入れられていない事が面白くないらしい。「俺の方がよっぽど危険人物なのに」とぶちぶち言いながら、しかし好き好んで涼一と喧嘩がしたいわけでもないのか、したたかなウサギは、今度はあからさま隙の出来た雪也の傍に寄って行って勝手に手など繋いでいる。
  けれど今や完全にターゲットを移行させた涼一の怒りは全て創に向いていた。
「おい創、テメエどこ見てんだ、無視してんじゃねえよッ! 俺はなぁ、雪がどう〜してもここに来たいって言うから、今までずっと許してきたけどッ! お前がそういう気持ちなら俺はもう絶対雪をここへは連れてこさせねえぞ!? 分かってんのか!?」
「いや、だからそれは困るな。あのね、大体俺は君みたいな面倒臭い人と桐野君を取り合う気なんかないんだから」
「めんどくさい!? 俺だってお前みたいなオタク野郎と関わっていたくなんかねーんだよ!」
「あ、あの……2人とも……そろそろ……」
  ようやく復活してきた雪也が恐る恐る横槍を入れる。創は「お」と思って視線をそちらへ向けたが、しかし今はそんな些細な仕草すら王子の怒りの琴線に触れてしまうらしい。
  恋人である雪也にすら怒りの矛先を向け、涼一は店中に響き渡る声で言い放った。
「大体雪ッ! お前、こいつに告られて『迷惑じゃない』って何だそれ!? さっき確かに言ったよな!? 違うだろ? お前が言うべき台詞はそーじゃないだろ!? お前がいつもいつもそんなだから、こいつらが調子に乗るんだろうがッ!」
「桐野君が“そんな”じゃなかったら、剣君は今頃相手にもされてないと思うけど」
「……ッ!!」
「ちょ、創…! 涼一のこと挑発するのやめてくれって…」
「あ、つい口が動いた」
  そうなのだ、つい口が動く。
  創は心の中でこっそりと笑いながら、本当に自分は変わったと思った。
  自分はここにいる連中に関わってから、実によく喋るようになった。笑うようになった。ユーモアってものも、映画の中だけでなく理解出来るようになってきた気がする。

「―…つまりは、そういう事なんだよな」

  創の呟きに涼一が怪訝な顔を向ける。
「あ!? 何だ、何ぶつぶつ言ってんだよ!?」
「いいや、何でもないよ。ところで俺、最近では剣君のこともそこそこ好きだよ?」
「はぁ…!?」
「あはははは!」
  ぎょっとして目を剥く涼一とぽかんとする雪也を前に、創は遂に大声をあげて笑ってしまった。傍で寛兎が訳が分からないという風に不機嫌そうな顔をしていたけれど、それすら可笑しいと思った。
  そう、何だかここにいる奴らがみんな愛しい。
  そして、こんな風に思える自分がまた好きだ。
  だから創は、そんな風に御機嫌になっている自分を奇異の目で見つめる雪也に笑い返して、「まだ俺、具合悪そうかな?」と訊いてみた。
「……ううん」
  すると雪也は暫し躊躇った後、ようやっと自分も吹っ切ったような笑みを浮かべてから小さく首をかしげた。
「今は…もう大丈夫みたい。創、あんまり心配掛けさせないでよ」
「うん。ごめん」
  にこりとして笑い返すと、すかさず横から涼一の猛抗議が始まってしまったが、それでも創は雪也を見つめながら改めてカウンター席に落ち着き、悠々と頬杖をついた。
  今日は折角のコーヒーを飲み損ねてしまったけれど、何かが一つ理解出来たようで気分が良い。那智にも今日の事は後で是非教えようと決めた。
  この大切な人たちのことを、創は家族にももっと知ってもらいたいと強く思った。