殴る彼、惑う彼。



　 「あっ、寛兔！」
　――その悲劇はある日突然、訪れた。


　 雪也は20歳の誕生日に涼一と護それぞれから、デザインのよく似た銀の腕時計を貰っていたが、普段は涼一から貰った方をつけて、護からの物はもっぱら室内用、自室の勉強机に置いて使用していた。どちらも大切な人がくれた物だ、元々物持ちの良い雪也はそれらをとても丁寧に扱っていたが、その日は「淦」で那智の水仕事を手伝う為に外したほんの僅かの隙に、涼一からの時計をいたずら好きの寛兔によって壊されてしまった。
　 寛兔は「わざとじゃない」とぶうたれ、創や那智も酷く申し訳なさそうに謝ってきたからすぐに大丈夫と笑って済ませたのだけれど、地元近くの時計屋では思いの他「修理に時間がかかる」と言われてしまい、雪也は思わず溜息を漏らした。
　 左手首には今現在、護から貰った腕時計がある。こちらは壊れてしまった物とは違い、カチコチと規則正しい時を正確に刻み続けている。
　 時計は修理すれば直る。だから問題ないと分かってはいるものの、雪也は自分が心の片隅で「涼一にバレないうちに直したい」と思っていたことに気づき苦笑した。直るまでの間くらいなら護がくれた時計をつけていてもいいはずだ。きっと涼一は怒らない。そうは思うのだけれど、以前涼一は「護からのはするな」と言っていたから、これだとあの時の約束を破ることになってしまう。最近の涼一は以前ほど護とのことにカリカリと煩いことを言わなくなったし、２人で会うことも（事前に了承さえ取れば）許してくれる。だから大丈夫、心配することはないと思う……思うのに、やはり「壊してしまったことを涼一に知られたくない」という気持ちは強かった。
「涼一、怒るかな……」
　 護の時計にちらと触って雪也はまた溜息をついた。周りには、元より時間は全て携帯で確かめるという、腕時計をつける習慣のない学生もいたが、携帯電話というそれそのものに慣れ親しんでこなかった雪也にとって、それはとても難しいことだった。そもそも講義中に携帯の電源をつけっ放しにしておくことにも抵抗を感じるタイプだ。涼一はマナーモードにすればいいだろう、マメに連絡が取れないじゃないかといつでもそのことを怒るのだけれど、長年培ってきた習性をすぐに直すのはなかなかに骨の折れることだ。要は、変なところで雪也も頑固な男なのである。
「やっぱり最初に断っておこう」
　 知られたくはない。本心では隠し通してしまいたいのだけれど、下手なごまかしをしてバレた時の方が余程厄介だ。やはり涼一に指摘される前に今回のことはさっさと告白しておこう。雪也はそれを固く心に決めて大学へ向かった。寛兔が壊してしまったと言ったらまた色々大変そうだから、破損はうっかり落としたことにしよう。色々なパターンをシュミレーションしながら、雪也は久しぶりに緊張した面持ちでいつもの講堂へ足を踏み入れた。
「おう、桐野！」
　 最初にそんな雪也を見つけて声を掛けてきたのは相変わらずの縞シャツルック、藤堂だった。そろそろ季節も秋に差しかかろうかと言う頃合なのに、酷く暑そうに汗を掻いてバタバタとスポーツ紙を団扇代わりにして仰いでいる。
「あっちぃなあ。まだ夏日だな！」
「う、うん……」
「どこが暑いんだ。テメエの身体がぶ厚過ぎんだよ」
　 横に座っていた同じサークル仲間の康久が鬱陶しそうに眉をひそめる。先ほどから藤堂が立て続けにメロンパンを食していたことも「意地汚いにも程がある」と罵り、どこか機嫌が悪い。雪也は途惑いながら首をかしげた。
「何かあったの？」
「あっ、ごめん！　いや、何でもないけどさっ」
　 けれど康久は雪也の心配そうな顔を見ていっぺんに声色と態度を軟化させ、藤堂を押し退けるようにして自分が雪也の隣に陣取った。
　 そうしてにこにこと実に愛想良く笑う。
「何かあったと言やぁ、あったんだけどさ。もういいよ、桐野の顔見たら復活した！　あ〜何かさあ、桐野ってホント癒し系だよなぁ。俺のドス黒い気持ちもサーッとキレーに洗われる感じ？」
　 ともすればそのまま顔を近づけてきそうな勢いの康久に、雪也はどう反応して良いか分からず苦い笑みを浮かべた。
　 すると藤堂が横から口を挟む。
「こいつさぁ、さっきから俺に当たりまくりだったんだよ。俺はただここで大人しくメロンパン食ってただけなのに、いきなりうぜえとか言ってよう。ホント、参るよなあ！」
「うっせ！」
「いてっ！　だから、テメエはすぐ蹴るなって！　最近マジで涼一化してきたぞ！？」
「今ここであいつの名を出すなあっ！」
「涼一と何か関係あるの？」
「うっ」
　 雪也が素早く反応すると、康久はあまり話したくないというような様子で押し黙った。するとそんな友人には全く気付いていないのだろう、俺が話してやるとばかりに藤堂がもしゃもしゃと残りのパンを口に放り込んだ後、言った。
「何かな、こいつ涼一にすっげキレられたんだってよ。よせばいいのに、ずっと内緒の彼女のこととか訊こうとして」
「え……」
「だってよ……、あいつがいい加減秘密主義だからぁ……」
　 バツが悪そうに康久はちらちらと雪也を見ながら呟いたのだが、藤堂は依然として能天気に続ける。
「もう諦めろって。あいつだって言いたくなったらそのうち言うんだろうしよ。何か知らんが、どうにもあいつにとってその彼女って地雷なんだよな」
「地雷？」
　 その言葉に雪也がぎょっとして聞き返すと、藤堂は何でもないことのように頷いた。
「だってちょっとでもその話振るとスゲ不機嫌になるし。あいつのイライラ具合は今に始まったこっちゃねーが、ありゃどうにも異常だな」
「な、何でそうなるのかな……」
「そりゃあ、あれだろ」
　 康久が自棄気味に答えた。
「ホントは自慢したくて堪んないのに、それが出来ないから。『俺だって黙りたくて黙ってるわけじゃねーんだボケがあッ！』――っていう、単なる八つ当たりの怒りだと思うぜ」
「はあ？　そうなのか？　俺はてっきり、あいつは自分の彼女のこと誰にも知られたくないから黙ってるもんだと思ってたぞ？」
「ちげーだろ。あれは話したいのに話せないことに対するストレスだ」
　 藤堂の反論を無碍もなく切り捨てて、康久は再び雪也をそろりと遠慮がちに見据えた。
「桐野はどう思う？」
「あ……」
　 けれど雪也がその問いかけに思い切り動揺して口篭った時、だ。
「雪」
　 いつの間にやら涼一が講堂にやってきていて、雪也たちがいる席の横に突っ立っていた。
　 康久などはそれで「お前は何故いつもこういうタイミングで現れる……」などと息を吐きつつぎりと歯軋りまでしていたのだが、藤堂は呑気に「よう」などと言って律儀に席を詰めようと身体をずらした。
「……帰る」
　 けれど涼一は藤堂のその所作に気付いてだろうか、ちらとも座る気配を見せずにそう言い捨てると、くるりと踵を返してそのまま廊下へ出て行ってしまった。
　 これには雪也も驚いて何も声を掛けることが出来なかった。
「何だ、ありゃあ」
「何しに来たんだ、あいつ」
　 藤堂や康久も思うところは同じらしい。口々にやはりあいつは何を考えているか分からない、けど不機嫌なのは間違いなかったから、「触らぬ涼一に祟りなしだ」と結論づけて無責任にけらけらと笑いあっていた。
「涼一…っ」
　 けれど雪也にしてみれば笑い事ではない。ああいう涼一を見たのは初めてではないが、だからこそ何かまずいことが起きたのは分かる。しかもそれは九分九厘自分のことで。
「あの……俺も……」
「え？」
「えーっ！　何で、桐野もサボり？　折角涼一がいないんだから、この後飯でも一緒しようぜ！」
　 きょとんとする藤堂、ひどく惜しそうに誘いの言葉を掛けてくる康久にもう一度断りを入れて、雪也は慌てて立ち上がった。今追い駆ければすぐに追いつけるだろう。何やら康久と藤堂の話によれば涼一は「彼女のこと」で不機嫌だったらしいし、きっとまた悶々としていることがあるに違いない。そうなら自分に話して欲しいと雪也は思った。
　 自分たちの関係のことを藤堂や康久、他の大学の仲間たちには言わないで欲しい、内緒にしておいてと頼んだのは雪也だった。元々己の性癖を認めたのも大学に入って涼一と知り合ってからで、途惑いや恐れがとても大きかった。母親を含め周りの目もひどく気になった。それに対して涼一はいつも「俺は周りのことなんて気にしない」、「どうして俺たちのことを連中に言ったら駄目なんだ」と不機嫌になっていたけれど、雪也がどうしても頼むと、最後には必ず折れて「分かったよ」と頷いてくれた。
　 でも本当は、いい加減にしろと思っていたのかもしれない。
　 以前、涼一は「雪は、俺と付き合ってることを恥だと思ってんのか」と訊いてきたこともある。決してそうではないと雪也は否定したけれど、涼一がその想いを拭い切れずに不満を溜めていたのだとしたら、その責任はやはり自分にあるのだと雪也は胸が痛くなった。
「涼一……」
　 外に出てきょろきょろと広いキャンパスをぐるりと見渡したものの、意外や涼一の姿を見つけることは出来なかった。焦りながら携帯を取り出して電話を掛ける。けれど電源そのものが切られているようで、無情な音声案内がじんと耳に木霊した。
　 いつもは常に連絡を取り合えるよう、携帯の電源は絶対消すなと涼一が言っているのに。つまり今の涼一は、雪也と連絡を取りたくないということだ。
　 雪也の背中に寒いものが走った。
　 何だか分からないけれど、涼一のことを怒らせている。藤堂らの話を聞くに、それはどうやら昨日かららしい。何があったのだろう。昨日は涼一が家の用があるから会えないと言って、雪也は「淦」で呑気に創らと映画を観ながらお茶を楽しんでいた。けれど、そのことは事前に涼一にも伝えてある。護のことだけでなく、涼一は雪也が自分のいない所で創らと会うことにも良い顔をしないから、一人で淦へ行く時とて雪也は涼一にマメな報告を欠かさないのだ。いつだって雪也は涼一に気を遣っているつもりだった。涼一を怒らせたくない、無駄な喧嘩はしたくないと思っているから、だから雪也はいつでも涼一の機嫌を気にして、いつもたくさん先回りをしているつもりだ。
　 でもまだまだそれは足りないらしい。
「どこ行ったんだろ……」
　 思わず呟いて雪也はちらと時計を見やった。まだ午後の授業も残っているのに帰ってしまったのか。そういえばこの時計のことも話す暇がなかった。まぁ幸いというかで、これは涼一がくれた物とデザインが似ているから、涼一もまさかあの一瞬の接触だけで時計が違うなどとは気付いていないだろうし、その点は心配ないだろうけれど。
　 とにかく、涼一の不機嫌の理由を早々に問い詰めなければと雪也はぐっと拳を作った。

　 しかし、それから１週間。雪也は涼一に避けられまくった。

　 大学では毎日顔を合わせている。同じ学部だ、同じ講義とて幾つも取っているから、長時間同じ空間にいるのに。
　 涼一は講義が始まるぎりぎりに教室に入ってきては、わざと雪也から離れた席に腰をおろしたり、何とか雪也が話しかけようと素早く近づいていっても、露骨にそれを厭う仕草を見せてさっさと遠ざかって行ってしまう。周りも、いつも一緒にいた雪也たちがこうあからさま別行動を取っているのを心配して「喧嘩したのか」と聞いてきたりもするのだけれど、当の涼一はそんな藤堂ら仲間連中に対しても無視を決め込んでぶすくれた顔のまま一人で行動し、１週間を過ぎたあたりではとうとう大学にも顔を出さなくなってしまった。
「何で……」
　 電話にも出てくれない。マンションを訪ねてもインターホンを鳴らしても、いるのかいないのか、中から反応は何もない。思い余って、怒られてもいいと合鍵を使って入ろうとしたが、中からチェーンが掛かっていて駄目だった。そこから必死に涼一を呼んでみても、中に人の気配はするものの、決して姿を見せてくれない。
　 いよいよ事態は深刻だと思い、雪也は途方に暮れた。
（こんなことになるなら、いつもみたいに怒り狂ってくれた方がマシだ……）
　 涼一の「何でお前はそうなんだ」と声を荒げる様子や、「雪は俺の気持ちが全然分かってない」と憤る過去の声が脳裏を過ぎって雪也は何だか泣きたい気持ちになった。涼一に一度フラれる前の雪也は、どうせこの付き合いは涼一の気紛れで始まったものだし、こんなに何でも出来る奴がいつまでも自分のような人間と恋人でいたいなどと思うはずがない、いつか飽きられて別れる時が来るだろう、それはそれで仕方がないなどと考えていた。そのせいで雪也は無自覚に涼一を傷つけたし、涼一も酷く荒れて雪也に暴力を振るったりもしたけれど…、今は互いが「あの頃」のことを酷く悔いていて、互いに対して「悪かった」と思っていて。今度こそ真剣に互いを思い遣れる、理想的な関係に近づきつつあるのでは……と、少なくとも雪也の方は思っていた。
　 第一、 今の雪也は涼一のことが大好きだ。もしも今、涼一から別れたいと言われても、雪也はきっとすぐに「分かった」と頷くことは出来ない。もしかするとみっともなく縋って「別れたくない」と言い出すかもしれない。そんな、過去には到底考えられなかった自分の姿を雪也は想像することが出来る。涼一と一緒にいるようになったからこそ生まれた新しい自分だ。
　 涼一のことが好きだ。だから今こうして無視され続けているのがとても辛い。

「じゃあ、チェーン切っちゃったら？」

　 コーヒーカップの中のミルクをスプーンでくるくると回して掻き混ぜながら、護は何でもない事のようにそう言った。
「え」
　 場所は護が通う大学から程近い場所にある静かな喫茶店だ。気のいい女性店主が淹れてくれるコーヒーがとても美味しくて、雪也は護が教授のお供でアメリカへ行っている間にも、涼一と何度かここへ来たりしていた。
　 この日は護が雪也に「美奈子さんに頼まれたアメリカ土産を渡したいから」ということで同じ店で待ち合わせをしていた。
　 今回の出来事を雪也は早速護に話して聞かせた。それでそれをひとしきり聞いた護がさらっと放った台詞が先のものというわけだ。どうしてもドアを開けてくれないのなら、そのチェーンを切って強引に侵入してしまえばいい、と。
「切る道具貸してあげようか。今ちょっと大学に戻ればあるはずだから、そういう工具」
「いや、でも」
「案外、そうしてくれるの待ってるかもよ、あの王子様は」
　 護は可笑しそうに笑ってからちらと外へ目をやった。雪也が不審に思ってそちらへ目をやると、「何でもない」とすぐに打ち消して護は雪也の手首をぐいと引っ張った。
「わっ」
　 それに意表をつかれて雪也が驚いた顔をすると、護は相変わらずひょうひょうとした体で静かな微笑を湛えながら「雪」と、いつもより一段低い含めるような声を出した。
「涼一が大切？」
「え？　それは……うん」
「じゃあ、ちゃんとそう言ってあげれば？」
「だって！　話してくれないんだよっ。目も合わせてくれないし！」
　 本当に避けられているんだからと力説しようとして、雪也はその悲しい現実にまた目が潤む想いだった。これまでの雪也は色々なことに諦めていて、母親以外の誰かのことでムキになったり考えたりといったことがなかった。護と再会した時はこみ上げる熱いものが確かにあって、凍てつき止まったままの時間が呼び戻される想いだったが、弱い自分を根底から変えてくれたのは優しいこの人ではない。本当の意味で雪也に過去を振り切らせ、先を見据える力をくれたのは、あの海沿いの町で俺を選べと言って抱きしめてくれた涼一なのだ。
「俺……涼一に甘え過ぎてたのかな」
　 雪也がぽつりと呟くと護は呆れたように息を吐いた。
「何でそう思うんだ？」
「だって……」
「いつも優しい雪に甘え過ぎているのは、涼一のような気がするけど？」
　 護の言葉に雪也は驚いたようになって激しく首を振った。
「そんなことないよ。涼一はいつもびしっとしてて、優柔不断な俺に真っ直ぐの道を指し示してくれて。何か……楽させてもらってたんだよ。だからそれに寄りかかって……また涼一の気持ち考えることを怠ったんだと思う」
「そうかなぁ」
　 護は何が楽しいのかニコニコしながら椅子に背中を寄りかからせた。それから手にしていた銀のスプーンをちょいちょいと動かす。
「いつもさ、俺とこうして少し会うだけでもいちいち報告して。どこそこで何時に会う、何時に帰るから。帰ったら帰ったで、護とはこういう話をしたよ、こんなことしたよって細かく逐一報告して？　通常じゃ考えられないよ。俺だけじゃない、友だちに対してだってそうらしいじゃない。それでも、雪はそれ全部受け入れて、あいつの好いようにしてあげてたんだろう？」
「だって……そんなの、当たり前だよ。俺だって好きにさせてもらってるんだから」
「そうなのか」
　 どことなくからかう色が含まれていることに気づき、雪也はむっとして唇を尖らせた。はじめこそ護とはぎこちなかったが、今では大分くだけてきて、雪也も昔と同じような自然の態度を出せるようになっている。雪也自身、そのことにはまだ気付いていないが。
「とにかく、涼一は悪くないんだ。悪いのは、絶対俺の方。俺が何かしちゃったんだ。でもそれが何か……分からない」
「ふうん？」
　 カランとスプーンを受け皿に置いて、護は何気なく俯いた後、「俺は」とおもむろに口を開いた。
「俺は会った瞬間、分かったけど？」
「え？」
「王子様が怒ってる……いや、嘆いている理由」
「嘘っ！」
　 雪也が突然大声を出したことに、カウンター内でグラスを磨いていた女主人も驚いたように顔を上げた。護はそちらに少しだけ視線を向けて笑ってから、改めて雪也の顔をじっと見やった。
「分かるよ。逆に雪って不思議な奴だよなあって。それだけ涼一のこと想ってて涼一に気を遣ってるのに、最後の最後でツメが甘いって言うの？　それでこんなに悶々としちゃうんだからなぁ。これからも先が心配な２人だよ」
「ま、護っ！　何！？　その理由って、何！？」
　 護の自分への言葉などもう聞こえない。雪也は半ば身を乗り出すように護に詰め寄った。自分は一週間もの間一生懸命涼一が会ってくれない理由を考えていたというのに、何故今少し会って事情を聞いただけの護が分かるのか。
「護っ！」
「それでしょ」
「え」
「だから、これ」
　 護はようやく椅子に寄りかからせていた背を浮かせ、自らも身体をテーブルの方に寄せると雪也の手首を軽く突付いた。
　 正確に言えば、雪也の手首についている腕時計を。
「……これ？」
「うん。これは俺があげたやつじゃないか。涼一のはどうしたの」
「あ……それは……ちょっと壊しちゃって、修理に出していて。でも！」
　 これは原因じゃないと言わんばかりに雪也はぶんぶんとかぶりを振り、護に言い訳じみた早口でまくしたてた。
「これは違うんだ。だって涼一は俺がそうする前日からもう怒ってたみたいだし！　俺の顔見て帰ったあの日だって、すぐに帰るって言って、この時計のことになんか気づくわけないし！」
「どうしてそう思うんだよ。俺は会った瞬間気付いたよ？」
「それこそ、どうしてっ。それは護がおかしいよ！」
　 護が気付けたのは単に人一倍観察眼があるからで。
　 だってこの時計と涼一のあれはとても似ているし――…そう言ったものの、徐々に語尾が弱くなる雪也を見て、護は困った幼子を見るように僅か眉を寄せた。
「好きな人にあげた物だよ。いつだって気にして見ているよ。ましてや相手はあの王子様だろう？　会った瞬間あいつは気付いた。『俺があげた時計を雪がしてない。いつもしてくれていたのに、今日に限って突然してない。どうして？』ってね」
「じゃ、じゃあ……どうしてそう言って……」
　 いつもみたいに怒り喚いて叱ってくれれば。きちんと伝えてくれれば雪也だってこれのことをきちんと話せたし、何もつまらない誤解をしなくて済んだのに。
　 どうして今回に限ってこんな風に沈黙を通して頑なに雪也を拒絶したのか。
「王子様にだって怒鳴りちらすばかりじゃない、違う面もあるってことじゃないの」
　 護はさらりとそう言って、それから雪也が何かを返す前に続けた。
「とにかくさ。いつも強引な王子様が雪の方からの強引な何かを待ってるんなら？　チェーンくらい切ってみせなよ。雪がそんなことしたらさすがに驚いて口きいてくれるかもしれない。いや、いい加減限界なのは、やっぱり向こうだと思うよ」
「限界……？」
「王子は雪と話したくて仕方ないってこと」
「そんなの……」
　 それは自分の方だと言いかけて、しかし雪也は黙りこんだ。
　 確かに護の言う通りだ、ドアのチェーンくらい切ってしまえばいい。そんなものは後で幾らでも弁償しよう。いつもいつも、雪也は涼一を待つ側だった。涼一が何かを仕掛けてくれて、それに応える。その方が楽だし、その方が波風も立たない。そんな無難なスタイルに居心地の良さも感じていた。
　 やはり甘えていたのだ。
「で？　工具、取ってきて欲しい？」
　 護がそう訊くので雪也は思わず頷いた。
「うん……」
「そう。……あぁでも、いやだな。結局は手遅れだ、雪」
「え？」
　 護が苦笑しながらちょいちょいと窓の外を指差した。雪也がそちらへ流れるように視線をやると。
「あ！」
　 一体いつからこちらの様子を窺っていたのか。涼一が車道を一つ挟んだ通りの向こう側、電信柱の陰に立ち尽くしてこちらを睨んでいるのが見えた。
「涼一っ」
　 慌てて立ち上がる雪也に護はハアと溜息をついた。そうして当然のように言う。
「俺は一緒に行かない方がいいだろうから、ここにいるよ」





　 雪也が急いで店を出てくるのに涼一も気付いていたようだ。じっと身じろぎもせずそのままでいて、雪也がそのまま道路を突っ切ってくると、すうと眉をひそめて不快な表情を浮かべた。
「涼一…」
　 そうして雪也が息を切らせながらも急いで時計のことを伝えようとすると、涼一は先に口を開いた。
「俺は雪に愛されてない」
「えっ…」
　 絶句する雪也に涼一は不意に息を荒く継ぐように肩を震わせながら俯いた。
「――…そう、言われたんだ。あの日。雪が俺の時計外して、それ……護のそれをつけて大学に来た前日。康久に」
「逢坂に…？」
「あいつ、あんまりしつこく恋人のこと教えろってしつこいから。ちょうどその日は家のこともあってごたごたしてて……、ただでさえイラついてたのに、そんなしょーもねえ電話掛けてきて延々と…っ。だから、『いい加減にしろ、俺だって本当は教えたいけど、俺の恋人が嫌がってるから言えないんだ』って言ったら……『そんな風に言うなんて、お前はその恋人に愛されてないんじゃないか』って」
「そん…」
「あいつの言ったことは問題じゃない」
　 雪也の言葉を再度制して涼一は言った。
「そう言われてすぐに……『ホントにそうだ』って……そう思った、俺の気持ちが問題なんだ」
　 苦しそうに息を吐いた涼一は、さっと顔を上げて切なそうな目を向けた。
「分かってる。雪は俺を大切にしてくれてる。凄くそう感じてた……ここ最近は特に。それなのに、自分の望みを雪が叶えてくれない、そのことに頭きて……俺はあの日、絶対雪に言ってやろうと思ってた。『もうお前の希望は十分聞いてやっただろう、今度は俺の番だ、俺は俺の望むように、俺たちのことを周りに全部言ってやる！』って」
「涼一……」
「そしたら……そんな風に思って行ったら。雪が、それ、してた」
「あの！　これは！」
「嫌だ！！」
　 雪也が今度こそ事情を説明しようと声を張り上げたのに、涼一は更にそれよりも大きな声でそれを掻き消した。そうして雪也をぎゅうと抱きしめ、道を行く通行人がぎょっとしたように眺めて行くのも構わず、泣き出しそうな声を出す。
「別れないっ。絶対別れないぞ、雪！　俺、ホントに勝手な奴だけど…っ。そんなこと、とっくに分かってるけど！　けど、雪からそんな言葉聞いたら、俺どうなるか分からない！」
「ちょっ……涼……」
「あそこにいてニヤニヤ笑ってる厭味な護の野郎も！　俺に訳の分かんねえいちゃもんつけてきた創の奴も！　今回ほど殺してやりたいと思ったことはないんだからな！　どいつもこいつも……自分の方が、雪のこと分かってるってしたり顔してよ！」
「だから……ちょっと……」
「ああ、そうなんだろうな！　結局はそうなんだ！　雪は俺にはいつでも気ィ遣って遠慮して！　けど、あいつらにはちゃんと自然に笑ったり言いたいこと言ったりしてる！　そんなの見てれば分かるよ！　だから……だから雪、やっぱり護を選ぶことに決めたんだろ…！？」
「だから、この時計はっ」
　 涼一の拘束がきつくて息が詰まる。
　 それでも雪也は必死になって声を継ごうと頑張った。涼一が暴走し始めている。１週間沈黙を守ってきた分、往来で人を「殺してやりたい」なんて物騒なことを口走るくらいに取り乱してしまっている。もしさっきの不穏な発言を聞いて驚いた通行人が警察にでも通報していたら事だ。
　 とにかくこの場を収めて、そして涼一を落ち着かせなければ。
「は、話っ。話なら、ほら、折角だからあそこでしよう？」
　 しかし雪也もすっかり冷静さを欠いていたようだ。よりにもよって雪也は面白そうな顔でこちらの様子を窺っている護のいる店を指差してそう言ってしまった。
「冗談じゃねえっ！」
　 だから当然、涼一はそれによって余計無駄にヒートアップした。
「あいつのいる所で話って、やっぱり雪は俺と別れるつもりだったんだな！？　だから……だから俺は！　本当は雪に言いたいことたくさんあったはずなのに、謝りたいことも怒りたいこともたくさんあって、頭ごちゃごちゃしてたのに無駄に時間費やして！　怖くてこの１週間会えなかったのに、何であいつのいるところで！？」
「こ……怖くて？」
　 雪也が驚いて聞き返したことに涼一は機械的にそうだと頷いた。
「聞きたくないに決まってる！　雪の話なんて……どうせ雪のことだから、『涼一は悪くない』とか、『涼一のことを嫌いになったわけじゃない』とか！　そういう適当に優しい言葉並べてさ！　穏便に済まして俺から離れようとでも思ってただろうけど、そんなことに納得出来るかっ！」
「適当に！？」
　 これには雪也も一瞬カチンときたが、興奮している涼一がそれに気付こうはずもない。
「そうだよ！　お前は波風が立つのを嫌うんだもんなっ。だからいつだってそんなおとなしそうな控え目な顔してさっ。俺にもいつも申し訳なさそうな弱気な態度で、そんなん、俺が余計不安になることもあるって気付けよな！　俺たちのこと隠すのだって……いずれ別れる時のための保険なのかって疑うだろ！？」
「な…っ」
「そうだよ！　雪はどうせ俺のことなんかいつか捨てて――」
「いい加減に……しろッ！！」
　 自分でも驚くほど、涼一の身体を振り解いてからの行動は素早かったと雪也は思った。

　 ゴッツーン！！

　 ともすればそんな音すら聞こえそうな勢いで、雪也は涼一から身を引いた瞬間、半ばジャンプすらしたのではというような跳躍を伴って涼一の脳天に己の拳を振り落とした。
「……ってえぇ……」
　 涼一はそのげんこつでもろに頭を下へ落とし、前かがみになったまま両手で殴られた頭を押さえつけた。
　 僻みめいた声が聞こえてきたのは、それから約３秒ほど後のことだ。
「…な…に、すんだよ…！」
「………これで」
　 雪也はじんじんとする拳の痛みに気付いた後、もう瞬間的に「ごめん！」と謝りそうになったのだが、ぐっとその殴った方の手首をもう片方の手で押さえながら、そこは何とか踏ん張った。
「これで、あいことかに……出来ない？」
　 そして雪也はすっかり青褪めた情けない顔のままそう言った。
「時計のこと…すぐに言えなくてごめん。涼一の気持ちも考えられなくてごめん。でも……涼一も、俺のことひどく誤解したり、俺のそういう嫌だと思うとこ、今勝手に怒鳴り散らしたりしたんだから……お互い様、だろ？」
「……殴られた俺の方が負荷が大きいよ」
　 ゆるりと頭を上げて不服そうに言う涼一に、雪也は思い切り苦笑いした。
「自分でもびっくりだよ……。どうにか涼一に落ち着いて欲しくて」
「それで殴る？　普通さ…。しかも思いっきり、ぐーで」
「じゃあ涼一も殴っていいよ。それでおあいこ」
　 そうしたら、この１週間の互いの葛藤について話し合おうよと雪也が言うと、涼一は泣き出しそうな顔をしてぐっと足元を見つめた。
「冗談。俺は雪を……二度と殴らないって決めてる」
　 ハアと何度目かの嘆息をした後、涼一は続けた。
「俺、自分に自信がないんだ。どうしようもないくらい」
「涼一……」
　 それは自分の方なのにと雪也が目を見張ると、涼一はちらと通りの向こう側、未だこちらを見ているような護の方へと視線をやった。
「護に勝ちたい。創の奴にも……でも、俺は全然負けてる。いつでも雪の１番になりたいのに」
「１番だよ」
　 雪也はすぐにそう答えたが涼一は曖昧に笑っただけで何も言わず、ただ雪也の手だけはぎゅっと強く握ってきた。
「ホント、ガキだよな……俺。恋なんてしたことなかったから。雪が、初めてだから」
　 だから本当に毎日毎日よく分からなくなると涼一は言って、また少しだけその端整な顔をくしゃりと崩した。
　 雪也は堪らずそんな涼一の手をぎゅっと握り返して――それでも足りないような気がしたので、今度は自分から涼一の首に両腕を回して抱きついた。涼一は雪也のその所作に酷く驚いたようだったけれど―…やがて「雪っ」と切なく呟いて、自らも強く抱きしめ返してきた。
　 いつの間にか通りには立ち止まってそんな２人を見物するギャラリーでいっぱいになっている。
　 雪也はそれに首から耳までもう真っ赤にしてしまったのだけれど、それでも今この温もりを失うくらいなら、どんなに人に見られても構わないと、そう思った。





　 それから数日後。
　 「いつもの」テンションに戻った涼一は、確実な手段でもって、この１週間自分たちを苦しめた【元凶】に復讐を開始した。……もっとも、それを事前に察知した雪也がやんわりとたしなめたせいもあって、それはひどく可愛い嫌がらせに過ぎなかったのだけれど。
「あいつのイジメは小学生以下だあっ！」
　 それに対して康久は何をされたのか、キーッと女子のようなヒステリーを上げて。
　 涼一の時計を「うっかり」壊してしまった寛兔は。
「バカ涼一！　死ねー！！」
　 ――と、何やら不穏な暴言を吐いて暴れていた。こちらは事情を聞くに、目の前に有名洋菓子店の菓子をずらりと並べて見せつけた挙句、寛兔にちらとも触れさせずに撤収したとか何とか……。
　 確かに子どもみたいだと苦笑しながら、それでも雪也は腕に巻かれた時計をちらりと見て微笑んだ。
　 もうすぐ涼一と会う時間だ。ようやく直ったこれを見せて、今日はとびきり美味しい夕食を作ってあげようと思った。
了




戻


まだまだ発展途上の２人です。