シンクロニシティ



  涼一は悪気もなく、自分が他人より数段優れている“特別”だと信じていたから、退屈な高校生活において、季節外れの転校生・桐野雪也がやって来た時も、「こいつが俺の暇潰しの相手をするのは当然」と思ったし、「むしろ俺に構ってもらえるなんて、何てラッキーな奴」と、一人悦に入っていた。
  それで涼一は自らの「王子」特権を利用して雪也を自分の隣の席にして「あげた」し、これまでは大勢ととっていた昼食も、「これからは雪也と二人で食べる!」と宣言して、いつでも傍にいて「あげた」。
  雪也はおとなしく控え目な性格で、口数も少ない。そのため、知り合った当初は退屈凌ぎの相手としてはいささか物足りなく映ったが、日を重ねるにつれ、却ってそういう面こそが新鮮で好ましく思えるようになった。これまで付き合ってきた人間にないタイプだったからかもしれない。実際、周囲の“気紛れなお遊び”という評価に反して、この涼一による「転校生構い」はひと月以上も続いた。おまけに、受験勉強を理由に学校をサボりがちだった王子殿が、雪也の相手をして「あげる」ことを理由に、欠席も遅刻もしなくなったのだ。

「あれ…。おい藤堂、雪は?」

  そんなある日。
  担任から職員室に呼ばれて少し席を離れた隙に、教室から雪也の姿が消えた。
  時は放課後で、教室に残っている人数もすでにまばらだったが、涼一は視線をあちこち飛ばしながら、康久とスナック菓子をつまんでいる藤堂に問いただした。
「あいつ、どこ行った?」
「さあなぁ。もう帰ったんじゃねえの」
「そんなわけあるか。雪には、一緒に帰るから待ってろって言ってあったんだから」
「それがウザいから逃げたんだろ」
  康久がからかうように口を挟むと、涼一はむっとして、クラスで唯一自分に口答えする腐れ縁を睨みつけた。
「どういう意味だよ」
「そのまんまの意味だよ。お前、桐野のこと、一体何だと思っているわけ? あいつが転校してきてからこっち、ずっと一人で桐野のこと囲んでさ。お陰で俺らは、ぜんっぜん、あいつと喋れねぇし。桐野もお前につきまとわれているのがいい加減鬱陶しくて逃げ出したんだぜ、きっと。『帰りくらい一人にさせてくれ!』ってさ」
「何だと!?」
「ま、まあまあまあ。康久、お前もそんなヒドイ言い方するなよなー。涼一は転校してきたばっかりの桐野に、親切にしてやりたかっただけだろ?」
  藤堂が両手を広げながら双方を宥めるようにして仲裁に入った。
  それで涼一も康久の言い様にはカッときたものの、とりあえずその場に留まる。
「そうだ! 俺は雪が一人にならないように構ってやっていただけだ! 雪は大人しいから、あんまり自分からいくってことを知らないし――」
「一人になんかならねーよ。少なくとも俺は桐野と話してみたいって前から思っていたんだからな。なのに、お前がメシの時も移動教室の時も常に桐野にまとわりついて、俺らなんか近づく機会も与えられなかったじゃねぇか。無理やり話しかけようとすると、お前が上からかぶして桐野のこと連れてっちゃうし」
「……そんなことしてねー」
  むっとしながら声をくぐもらせる涼一に、康久は眉をひそめながら、やや引きつった笑いを浮かべた。
「お前なぁ、それ本気で言ってんのか? もしかして自覚なし? やれやれ、これだから傲岸不遜な王子様は困るぜ。誰もがお前の言うことを何でも聞くと思ったら大間違い――」
「成敗!」
「ぎゃっ!」
  昔からの付き合いである康久がこうやってズケズケと好き勝手言うことを、涼一は時に好ましく、時に無礼な奴だと思うのだが、この時の感想はまさに後者だった。
  だから涼一はその旧友を足蹴にして椅子から転倒させたわけだが。
「て、てめえ…!」
  当然の如く、康久は背中を擦りながら怒り心頭。
  しかし、そんなことは涼一の知るところではない。
「おい待て、涼一!」
「煩ェ! お前なんかに構ってられるか!」
  とにかく雪也を探さなければ。
  涼一は自らの鞄を肩に掛けると、急ぎ足で教室を出た。背後ではまだ康久が文句を言っていたが、これも当然の如く黙殺だ。大体、康久がバカなことを言ったのがいけない。あいつの言うことなどでたらめだ、そう思った。

(雪が俺を迷惑に思っているなんて、絶対嘘だ…。だって転校してから、雪は俺が話しかけるといつも笑っていたし…俺といて楽しそうだった。そうだ、楽しかったに決まってる!)

  めったに自己主張しない雪也だから、涼一は自分から昼食や登下校を一緒にしようと誘いをかけた。
  未だ教科書の届いていない雪也の為に机をくっつけて自分の物を見せて「あげた」し、ノートを買うと言った雪也に購買までついて行って、そのノートは勿論、自分と同じシャーペンや消しゴムも買って「あげた」。雪也は恐縮して何度も「自分で買う」と断っていたが、最後には根負けして「ありがとう」と受け取った。
  涼一は雪也を思いやって善意でやってあげたのだ。本来なら学園中の人気者、何でもできてカッコ良くって完璧なツルギリョウイチ様が、キリノユキヤという、いたく地味で平凡な男子高校生の為にここまで動いてやったとなれば、むしろもっと感謝されても良いくらいだ――。
  とにもかくにも涼一は、トイレは勿論、本日授業で利用した化学室や体育館、更衣室、購買等々、次々と見て回った。最初に確認した昇降口の靴入れには靴があったから、やはりまだ帰ってはいない。そう、当然だ、雪也とは一緒に帰る約束をしたのだから。雪也が無断で自分との約束を破るような人間でないことは、涼一もこのひと月の付き合いでもう十二分に分かっている。
  そうしてへとへとになりながら辿り着いた場所は図書室。
  一緒に行ったことはなかったから失念していたが、雪也はよく文庫本を鞄に入れて持ち歩いていた。
「あ! 雪!」
  図書室に入ってすぐ、カウンターの所に立っていた雪也を認めて、涼一は思わずと言った風に声を上げた。そのあまりの声量に雪也はビクリと肩を揺らし驚いたように顔を上げたのだが、涼一はそんな相手の顔を見ると、先刻まで「どうして待っていなかったんだ!」と怒鳴りつけてやろうと思っていた気持ちが、あっという間になくなって笑顔になった。
  とにかく雪也が見つかって良かった、そう思った。
「雪、こんな所にいたんだな。どこに行ったのかと思った!」
「あ、ごめん。探してくれていた…? 剣、先生に呼ばれていたし、まだ時間かかると思ったから――」
「いいよ、いいよ、何? 何か借りたい本あった?」
「うん。というか、ここの図書カードって、まだ作っていなかったから」
「そっか。そうだよな」
  言いながら近づくと、雪也はちょうどこの学校の図書室で使われている電子カード作成の申込書に記入し終えたところだった。繊細で綺麗な字だ。もうとっくに気づいていたことだけれど、涼一は雪也の品を感じさせる筆跡がとても好きだった。
「悪いけど、出来上がるまでに3日くらいかかっちゃうんだ」
  その時、カウンターにいた生徒が素っ気なく言った。当番の図書委員だろう、雪也はその相手に「いえ、お願いします」と律儀に言って微笑んだ。
「………」
  この、たったこれだけのやり取りに、涼一はこの時、何故だか無性にむっとした。
  折角雪也を見つけて、雪也も自分に気が付いてこちらを見てくれていたのに。こんな見も知らぬ図書委員に笑顔を向けて、「お願い」なんてして。大体、自分たちが話しているのに間に割って入るように話しかけてきたこいつは、一体何なのだ?偉そうな眼鏡面も気に食わない。どこか神経質そうな顔をしているし。
「それで桐野君、どうする? 映画の話」
  しかもその男子生徒は追い打ちをかけるようにそんなことを言った。
  そうして涼一が怪訝な顔で動きを止めている間に、2人の会話は尚続いて。
「えっと、じゃあ10日とか?」
「10日ね。OK。じゃあ、放課後ここで待ち合わせしようか」
「うん」
「それじゃあ、友だちも来たみたいだし、またね?」
「うん。……ありがとう、創」
「どういたしまして?」
  ふっと微笑む「創」と、同じく控え目ながらもどこかとても嬉しそうに笑む雪也。
  涼一の思考は完全にフリーズ状態だった。

  ナンダロウ、コレハ。
  ナンダカ、イミガワカラナイ。
  カイドクフノウダ

「剣?」
  先に図書室を出た雪也が、自分の後についてきていない涼一に気づいて不審の声をあげた。
「ああ…」
  その声に流されるようにして機械的に足は動かしたが、涼一としては未だ釈然としなかった。それは校舎を出てから、駅のホームで電車を待っている間も同じで、いつもならべらべらと絶え間なく話す涼一が無言なことに、雪也の方があからさま落ち着かない様子を示し始めた。
「剣、どうかした?」
  だから普段は涼一の話に合わせて相槌を打つだけだった雪也の方が先に言葉を切った。
「え」
  涼一はそれでようやく我に返ったのだが、こちらを不安そうに見つめる雪也には、改めて何度か瞬きしてから、自分こそが不快だという風に眉を寄せて、むっとした視線をぶつけてやった。
「何が」
「えっ…と、何か、俺、悪いことしたのかなって…」
「何でそう思うの」
  いつもなら、雪也を困らせることはしたくない。それでもこの時の涼一はとても意地悪な気持ちだった。
  何故って、今のこの胸のモヤモヤは明らかに雪也のせいだから。雪也のせいで、今こんなに嫌な気持ちになっている。そもそも待っていろと言ったのに教室で待っていなかったのが悪い。しかも、図書室では涼一の知らない奴と親しげに話したりして。
「雪、自分が悪いって自覚あんの!」
「え」
  雪也が驚いて聞き返した。自分が悪いのかと問いかけはしたものの、実際本当にそうだとは思っていなかったのかもしれない。雪也の戸惑った顔で涼一は尚のこと不機嫌になった。
「そうだよ、雪が悪いんだ! 俺がこんな気分悪いの!」
「俺…何した? ……あ、わざわざ探させちゃったから?」
「違う! …いや、教室にいなかったのもそうだけど!」
「ごめん」
「でも、それが1番じゃない、怒っているのは!」
「何?」
「な…何って、分かんないのかよ! 自分で考えろよ、そういうのは!」
  叩きつけるように怒鳴ると、ホームにいる人々がちらちらと好奇の目を向けてきた。見世物じゃないとそちらにも怒鳴りつけてやりたかったが、今はただ雪也から目を離せなかった。嫌だな、雪也がどんどん困っている、こんなはずじゃなかったのにと思いながら、それでも涼一は止まらなかった。
「……分かんないうちは、もう口きいてやんないからな」
「え」
  雪也が再度驚いたように問い返してきたが、涼一はわざとふんとそっぽを向いた。するとそのタイミングを図ったかのように、電車がホームに入ってきた。涼一は少しほっとした。電車に乗る動作が入れば何となく間がもつ。気まずいまま、ここで2人立っているのは嫌だった。
  しかしそれは相手にしてもそうだったらしい、雪也は先に車両へ乗り込んだ涼一に続くことなく、ホームに佇んでいた。しかも涼一がそれに不審な顔で「どうしたんだよ」と問うと、「えっと…」と言い淀んだ後、想いもよらぬ言葉を返してきた。
「ここで別れようと思って。俺は次の電車に乗るから」
「は!?」
  瞬間、涼一は反射的に電車を飛び降りた。
  そして勢いのまま雪也の両肩を掴んだ。
「何言ってんだよ!? わか、別れるって、何!? 何でそういう方向へいく!?」
「え? いやだって…話してくれないって言うし…剣が何を怒っているのか分からないし、考えなきゃと思って。一緒の電車じゃ気まずいし…」
「気まずいのかよ! お前は、俺といるのが!」
  自分とてそう思っていたくせに、それらは全て棚に上げて、涼一は声を荒げた。
  しかしながら、がくがくと肩を揺すぶられている雪也にしてみれば、余計訳が分からない。突然いじけられ、突然怒鳴られている。傍から見ても理不尽極まりない。
  ただ、このひと月あまりの付き合いで何となく相手のことが分かっているのか、雪也は翻弄されながらも、一生懸命言葉を返そうとはしていた。
「気まずいっていうか…。まぁ気まずいんだけど、とにかく考える時間が必要だなと思って。剣、放課後に入るまでは怒っていなかったと思うし…」
「そうだよ! だから、ちょっと考えれば分かるんだよ、俺が怒っている理由なんて! だかっ、つまり、わざわざ別れなくてもいいの!」
「でも、剣は俺といるのが嫌なのかなって…」
「嫌じゃない!」
  フンと鼻を鳴らして涼一はそう言い切ったのだが、こんな無茶苦茶な態度に自身で何ら不自然さを感じないところが、腐れ縁の康久からしてみたら「おめでたい奴」ということになるのだろう。「王子様」の恐ろしさ故に誰もそのことを突っ込めないのだが。
  それはともかくとして、涼一は依然として自力では答えを出せそうにない雪也に早々降参してしまい、大きくため息をついた後、ぼそりと口を割った。
「だから。つまり。あれ、誰だよ…?」
「誰?」
「あの図書室にいた、いかにも陰気そうな男!」
「創のこと?」
  雪也の返答に涼一はますますカッとした。
「誰だよ、そいつ! 同じクラスでもないし、何であんな奴と…!」
  雪也に涼一の知らない知り合いなどいるわけがない。そんな知り合いを作る暇などなかったはずだ。
  何故って、雪也が転校してからこっち、涼一は康久が指摘する通り、ほとんどずっと雪也と一緒だったし、下校した後も割と頻繁に電話しては、夜、互いが眠るまで話すこともザラだった。
  そしてその間、雪也から「創」なる男のキーワードが出たことは一度もなかった。
  現に、図書室とて今頃カードを作りに行ったくらいだ。従って、涼一の知らないところで雪也があそこへ行き、あの男子生徒と知り合いになったという可能性は極めて低い。
「創は図書委員の人だよ。今日知り合ったんだ」
「今日?」
  やっぱりか。
  でも、それにしてはいやに親しそうだったけれど……。
「創って……苗字?」
「え? いや、苗字は確か、服部って言っていたよ」
「じゃあ、何で!」
「え?」
「……何でもない!」
  どうして自分のことは知り合ってひと月も経つのに未だ「剣」なのか。
  知り合った当初から、涼一は雪也に、「みんな俺のことは涼一って呼ぶから、お前もそう呼んでもいいぞ」と言って「あげた」のに。
  何故か雪也はずっと涼一のことを「剣」と苗字で呼んでいた。
  ただ、それは涼一だけではなくクラスメイト皆に対して「そう」だったから、そういう性格なのだと思っていた。
  そう納得しかけていたのに。
「あいつとは今日知り合ったばかりで、何であんな親しくなれるんだよ…」
  ぼそぼそと涼一は口元で不平を述べた。
  別に不思議なことではない。頭では分かっている。自分とて波長の合う人間となら、初対面でも2、3言葉を交わしただけで意気投合、なんてことはある。
「気が合ったんだよ」
  そしてその通りのことを雪也も言った。
「前から読みたいと思っていた本の作者のことをよく知っていて、いろいろ教えてもらったんだ。あと映画のことも凄く詳しくて、俺も普段から家でよく観る方だから、好きな作品とかでちょっと盛り上がって」
「映画……」
  涼一は雪也とひと月も一緒にいて、雪也の趣味が映画鑑賞だなんて初めて知った。
  雪也はおとなしくて自分から話題を振る方じゃなかったから、退屈しないようにと、涼一はいつも自分から色々な話を振って、自分ばかりが話していた。雪也はそういうのが好きなのだと思っていたのだ。それに、相手を飽きさせない話術にかけて涼一は自分にかなりの自信があった。周囲の皆だって、それでいつも「涼一の話は面白い」、「もっと聞かせて」と集まってきていたから、そんな自分の話を独り占めできる雪也は何てラッキーなのだろうと思っていたくらいだ。
  全部雪也の為にやってあげていたのに。
「映画なんて何が面白いんだよ。2時間ずっと黙って観ているだけじゃん。折角一緒に遊んでいても、その間は話も出来ないし!」
  涼一とて映画がまるきり嫌いなわけではない。むしろ自宅で受験勉強に明け暮れていて、息抜きといったら読書か映画くらいしかなかったから、一般の男子高校生と比べたら割と観ている方だと思う。
  それなのに、この時は何故かそんな風に拗ねた言い方をしてしまった。
  ハッとした時にはもう遅かった。
「うん、そうだよな。剣はそういうの興味ないって思ってた。いかにもアウトドア派って感じだし」
  雪也は気分を害した風ではなかったけれど、あっさりとその厭味を流して力なく笑った。
  その態度は涼一に嫌われたくなくて常に話を合わせようとする他のクラスメイトたちとは大分趣の違うものだった。
  涼一はざわざわとした胸をぐっと掴んだ後、再びホームへ入ってきた新たな電車を忌避するようにじりりと後退した。
「剣?」
  それに不審の声をあげたのは勿論雪也だ。
  けれど涼一はそんな雪也に蒼褪めた顔を向けたまま、軽く首を振って唇を震わせた。
「だから……趣味の合う創と、映画へ行く約束をしたってわけだ? 10日に。俺とは学校以外で遊びに行ったことなんて一度もないのに」
  だって雪也は何かというと「バイトがあるから」とか、「家の用事があるから」と言って涼一の誘いを断っていた。涼一はそもそも人から遊びの誘いを断られたことがない。だから実際に断られた回数は2、3回でも、そのダメージが大きくて、その後は頻繁に声を掛けられなくなっていた。
  それでもいつかは雪也と二人でどこかに遊びに行きたいと思っていた。
  何故って。
  涼一は雪也のことが大好きだから。
「あ…」
  電車の発車を告げる騒がしいメロディのお陰で、思わず声を漏らした涼一のそれは雪也の耳には届かなかった。
  それでも隠しようもないのは、涼一自身でも分かってしまうほどの顔の熱さ、赤さだ。

(やばい……何だよ、今気づかなくたっていいだろ……)

  自分で自分の想いにツッコミを入れながら、涼一はほとんど石化した状態で目の前の雪也を見つめた。当然のことながら全く動きのなくなった「王子様」に対して雪也はとても不思議そうだ。まずい、何とかしなければ。普段から頭の回転は速い方で、だからこそ思考は次の動きを命じているのに、驚くほどに動けない。
「剣、本当にどうした…? 大丈夫?」
「……雪」
  心配そうに近づき、熱でもあるのかと額に手を当ててきた雪也に、涼一は思わず抱きつきそうになった。雪也のことが好きだ、だからこうして触れてもらえれば嬉しいし、気にかけてもらえれば天にも昇る想いだ。
  だから逆に、自分を見てくれていないところを想像すると、身が裂けそうなくらいに苦しくなる。
「……映画、行っちゃやだ」
「え?」
  だから必死の想いで涼一はそう言った。差し出された手を両手でぎゅっと握り、涼一はほとんど甘えの体で雪也を縋るように見つめ、再度力強く懇願した。
「俺の知らない奴と…映画とか行くなよ。そんなの、嫌だ。絶対行かせない」
「つ、剣? どうしたの? ちょっと、手…」
「行かないって言えば放す! 今は!」
「今は!?」
  なかなかに強引なことを、それでいて後からも恐ろしい予感がする発言に、雪也は完全に戸惑っていた。けれど握られた手を遠慮がちに解こうとする、その仕草が涼一には辛くて、余計に意固地になり、涼一はさらにぎゅうぎゅうと手を握って「早く」と急かした。
「行かない!? 映画、あいつと行かない!?」
「で、でも、もう約束しちゃって…」
「断ればいいだろ! そんなに観たい映画なら、俺が一緒に付き合うし!」
「そんな無茶苦茶な…。俺は創と…」
「俺以外の奴の名を呼ぶなッ!」
  同級生の手を握りながら駅のホームで絶叫する男子高校生の図。涼一自身、行き過ぎていることは分かり過ぎるほどに分かっている、これ以上はさすがにまずいだろう、とも。
  それでも当面大事なのは、雪也を離さないことだ。
  だって涼一は雪也を独り占めしたいのだ。誰にも渡したくないのだ。
「雪……好きだ……」
  だから、最後には。
  思いつめたように涼一はそう告げた。もう雪也の顔は見られない。雪也が嫌がっていたらどうしよう、迷惑な奴だと眉をひそめられていたら?考えるだに恐ろしい。


「……どこにも行かないから。大丈夫だよ、涼一」


  その恐怖の時間は一体どれだけあったのだろう。
「……え?」
  ふわりと頭に優しい感触があって、雪也に頭を撫でられていると感じた。顔を上げてそれを確かめたい、けれど何故かその時それはできなかった。
「雪…?」
  それでも確実に、今しがた聞こえたのは雪也の声であり、その声が「どこにも行かない」と言った。「大丈夫」だと、「涼一」と言ってくれた。
「雪…!」
  顔が見たい。しかしどうしたことか、不意に涼一の視界は真っ白になった。駅のホームが見えない。雪也も見えない。けれど確実に頭を撫でてくれるその手の感触と、自分が寄り添っているその近くに雪也の吐息は感じられたので。
「雪!」
  涼一はその感触を頼りに、ただ無造作にぎゅっと強く抱きついて、慰めるように自分の髪を撫でてくれている雪也にひしと縋りついた。


「俺って……まだこんなに、涼一を不安にさせているのかぁ……」


  その時、頭の上から雪也のそんな呟きが聞こえてきた。何だろう、そう思うも、ともかくも今は雪也を離せない。だからその声を耳に入れながら、涼一は尚も雪也に密着して、その懐に顔を擦りつけた。雪也がそれにふと笑った気配を感じた。見たい。どうして雪也のその顔が見られないのだろうと思いながら、それでも涼一は確実に感じるその温かな熱にようやく安心して、すうっと意識を沈め、瞼を閉ざした。





  翌朝。
「ねえ涼一。俺、昨日、涼一に何か悪いことしたのかな」
  ふと目覚めて、ベッドを降りて。
  ぼーっとする意識のまま機械的に寝室を出てリビングへ入った瞬間、「おはよう」と言う綺麗な声。そしてその後、すぐさま掛けられたその言葉に。
「……………」
  涼一は目の前の「恋人」を寝ぼけ眼で見つめながら「……何?」とようやく訊けた。ただ視線はもうリビングのテーブルに移っている。そこには豪華過ぎる朝食がすでにずらりと用意されていた。
「いや、だからね。俺、昨日、涼一に何かしたのかなって」
「……何で」
「だって涼一……ああいいや。何でもない」
「………俺、変だった?」
  急に恥ずかしくなって涼一はふいと横を向いた。段々事態が呑み込めてきてバツが悪くなる。昨夜、ベッドの中でこの雪也に思いきり甘えて縋りついたこと、頭を撫でてもらいながら「大丈夫だよ」とあやしてもらったことなどが鮮明に思い出されてきて――。
  だって、あんな。
  ああ、何てファンタスティックな夢を見てしまったのだろう。
「ありえねえ…」
  片手で顔を覆いながら思わず呟くと、そんな涼一に傍でお茶を淹れようとポットを手にしていた雪也がふと手を止めて、小さく首をかしげた。
「うん、でも…。涼一と高校も同じだったら、きっと楽しかったよね」
「………え」
「え? いや、何でもない」
  ごめんごめん、と。
  今度は雪也が恥ずかしそうな顔をして笑った。それから、「顔洗ってきて」と涼一を急かし、雪也は皿の上のパンにバターを塗り始めた。
「………うん」
  その指先を綺麗だな、などと思いながら、涼一は何ともなしに生返事をし、くるりと背を向けた。暫し思考が定まらない。それでも雪也の言われた言葉を反芻する、確かに。確かに、雪也と高校も同じだったなら、どれだけ楽しい日々だっただろう。
「はぁ…まぁ、いいか」
  それでも涼一はそこで考えるのをやめて、恋人の進言に従うべく、洗面所へと向かった。今はあの素晴らしい朝食と本物の雪也がいる確かな日常がある。それで良い。








2人の人間が同時に同じ夢を見ることって本当にあるらしいです。
そういうのシンクロニシティっていうらしいです。よく分かんないけど(ヲイ)。