届いた手紙



  その日、雪也がいつものように図書館棟の脇にあるベンチで読書をしながら涼一を待っていると、不意に「桐野君」というどこか聞き覚えのある声が頭の上から降ってきた。
「え…?」
  驚いて上げた視線の先には、サークル内でも何度か見かけた事のある「明美」がいた。すらりとした細身の身体に快活そうな表情が印象的な女性だ。雪也自身は彼女と幾らも言葉を交わした事がないのだが、涼一とは何度か話しているのを見た事があり、顔だけは覚えていた。
  そんな明美の隣にはこれまた何処かで見た事のある髪の長いおとなしそうな女子学生が控えめな様子で立ち尽くしていた。
「桐野君、この子知ってる? 知らないでしょ、片木沙耶って言うのよ」
「え?」
  突然発せられた明美のその言葉に、雪也は思い切り面食らった。
  明美はそんな雪也にやや意地の悪いような笑みを閃かせて先を続けた。
「そりゃあ、顔が分からなかったら多少不安っていうのもあるかもしれないよね。でもね、ほら、こんな可愛いのよ、この子。だからメールの1通くらいくれたってバチは当たらないんじゃない? 言ったでしょ、別に彼女にしてくれってわけじゃなくて、ただ仲良くしたいだけだって」
「え? あの…?」
「それとも何? 桐野君も涼一と一緒で彼女に義理立てして他の女とは一切接触持たないタイプ? まあそれならそれでもいいけどさ、仮にもメルアド渡されているわけだから、一言くらいはそう言って断って欲しいよ、やっぱり」
  明美の実によく動く唇をじっと見つめながら、雪也はここでようやく彼女が自分に対して怒っているらしい事に気がついた。横にいる沙耶と呼ばれた人物はどうやら明美の勇み具合に却って恐縮しているようだったが、それでもこちらの返答を待っているようではあった。雪也は途惑いながらも何とか明美の発した言葉を繋ぎ合わせるようにして口を開いた。
「メール?」
「そうよ。涼一から渡されたでしょ? 沙耶のメルアド」
「りょ……あ、そうだね。…うん」
  何となく事態を読み取った雪也は慌てて頷き、それから沙耶に向かって「ごめん」と頭を下げた。沙耶はそんな雪也の態度にどことなく嬉しそうに頬を緩めて「いえいいえ!」などと応えて大袈裟に首を振っていたが、傍にいる姉御肌の明美の方はそれだけでは納得しかねるようで、尚も厳しい詰問が展開された。
「ねえ桐野君。その『ごめん』ってのは何に対してのごめんなの? メールを送れなかったこと? それともこういう事されるのは勘弁して欲しいっていう断りを含んだ『ごめん』?」
「あ…えっと…メール、送れなくて…」
「なら、送ってくれる? ちゃんと」
「うん…」
「ほ、本当ですかあ!?」
「!?」
  突然素っ頓狂な声を出した沙耶は明美にさえぎょっとされていたが、雪也のその返答が余程嬉しかったのか、激しく興奮したかと思うと「宜しくお願いします!」と大きくお辞儀をした後、そのまま物凄い勢いで駆け去って行ってしまった。
「な……」
「……まったく」
  明美はそんな沙耶の去って行った方向を暫しぽかんと眺めていたが、やがて苦笑すると再び雪也に向き直った。
「あれ見たら分かるよね? あの子、本当桐野君のことが好きなんだ」
「………」
「でもさっきも言ったけど、別にだからって無理に付き合ってとかそういうんじゃないんだよ。桐野君に彼女がいること、あの子も知ってるし。でもね、せっかく同じサークルなのに話すらできないなんておかしいじゃない? 桐野君、あたし達の中に入らな過ぎだし」
「うん」
  暗に責められているのが分かり雪也は思わず俯いた。明美の強すぎる空気は雪也には痛かった。美奈子で慣れているようで、やはり肉親と他人との違いは大きいらしい。雪也はやはり女性という生き物全般が苦手だった。
  それが独特の香水の匂いを発している女性ならば尚更だ。
「……とにかく。よろしくね」
  何も発しない雪也に間が持たない事を感じたのか、明美は言うだけ言うと颯爽と踵を返し、去って行った。
「………メール」
  雪也は1人その場に取り残されながら、涼一に何と言えば良いものかと考えていた。


×××


「それでさぁ、あのアホはホントどうしようもないアホだって事がその事で更に分かったわけだよ。俺は、普段はあんなでも、もうちょっとはできる奴なんじゃないかと思ってやってたのにさ」
  アルバイトがない日の雪也は大学の講義を終えると大抵涼一のマンションへ直行する。勿論、涼一も一緒にだ。
「それでいてあのアホはこの俺に偉そうに説教するんだぜ。『お前のそういうところが駄目だ』とか『気が利かない』とか、『人生無駄にしている』とかさ、偉そうに。俺だから親切に最後まで聞いてやったけど、ホントあいつの説教って長くてウザイんだよなぁ。お前は俺の親父かっての!」
  涼一の親友である藤堂は、涼一の素の部分を知りながら尚理解を示してくれる唯一の人物だ。付き合いが長いからということ以上に、それは藤堂の人並外れた懐の深さに拠るところが大きい。
  今日は一日中雪也と一緒にいられるという事に浮かれているのだろうか、涼一の親友に対するとりとめのないそんな話は先刻から延々と続いていた。元々根が話好きという事と、雪也の口数が少ないという事から、涼一は2人きりの時は本当によく喋った。それを互いが苦痛に感じるという事はないのだが。
「藤堂はいい奴だよ」
  既に自分の家のように慣れきってしまっているキッチンで2人分の紅茶を淹れながら、雪也は控えめにそう答えた。トレイに移して運ぶ前、ちらと背後の流しに目をやる。少し来ないだけでどうしてこんなに汚す事ができるのかと半ば感心してしまうが、これは後で片付けなければなと頭の片隅で思う。
「えぇ〜」
  そんな雪也に対して、涼一の方はリビングのソファに踏ん反り返ってまくしたてていたものの、恋人の発言を予想しつつも不満だったのか、唇を尖らせてすぐに反撃の言葉を出した。
「だからあいつはいい奴っていうよりはアホなんだって。俺だけじゃなくて皆言ってるよ。康久なんかこの間からやたらとしつこく言ってた。雪はお人よしだからあいつの天然に迷惑なところとかが分からないんだな、だからそんな優しい風に言っちゃうんだよ。それに雪、あんまりあいつに近づくなよ? あいつ、また隙さえあればお前のこと合コン連れて行こうとか思ってるから」
「え? そんな事もないだろ。俺がそういうの好きじゃないこと知ってるから」
  雪也は涼一のその言葉に苦笑しながらリビングへ湯気のたゆたう紅茶を運び、それを中央のガラステーブルの上にそっと置いた。涼一が砂糖を入れない事は知っているので、自分の分だけスティックタイプのものを使って半分だけカップに入れる。
  涼一はそんな雪也の様子を眺めながら尚もしつこく口を切った。
「んな事ないぞ。あいつ、しょっちゅう言う。雪がどんな彼女いるのか知らないけど、たまに飲みに行くくらい許されるだろうってさ。お前目当てで合コン来るって言ってる女多いからって」
「また…それは涼一のことだろ?」
  あれ、こんな展開になってしまったらまた訊くタイミングを逸してしまう。いや、むしろ好都合なのだろうか?
  頭の中で忙しく考えながら、雪也は雲行きの怪しくなってきた恋人をちらと見てから「何か食べる?」と訊いた。
「いいよ。夕飯楽しみだから」
  涼一はすぐにそう言うとようやく身体を浮かし、テーブルに置いてある紅茶のカップに手を伸ばした。一口啜ってすぐにそれを置き、それから下のカーペットに座っている雪也を背後から突然ぎゅっと抱きしめる。
  それはいつもの涼一の行動パターンではあったのだけれど。
「ちょっ…こぼすだろ…っ」
「雪、抱き心地いい」
  雪也の不平の言葉にはまるで無視で、涼一は顔をうずめるようにして首筋に唇を押し当て、身体ごと密着してきた後、暫しその温度に酔ったように静かになった。
「………」
  それで雪也もじっとおとなしく背後から自分を抱く涼一に意識を集中させた。とくんと胸の鼓動が聞こえたような気がした。多分これは自分のものだと雪也は思った。
  けれど2人がそうやって互いの熱を確かめあっていたのも、実はほんの数秒に過ぎなかった。
  突然、涼一の携帯が激しく震えた。
「わ…っ」
  振動のせいでテーブルからガタリと落ちたそれに雪也がびくっと肩を揺らすと、涼一はむっとして「何だよ」とぶすくれた声を出した。それから仕方なく雪也への拘束を外し、落ちた携帯を拾って相手を確かめる。
  涼一の顔が曇った。
「出ないの?」
「……ん。いいや」
  言い淀んだようになったその態度に雪也が首をかしげると、涼一はつまらなそうな顔をしてから携帯の電源そのものを切ってしまった。
「面倒臭いから」
「面倒臭い?」
「どうせ今から出て来いとかそういうのだろ。明美だったから」
「え…」
  その名前に雪也が驚いたような反応を示すと、涼一は素早くそれに気がついて目つきを変えた。雪也が隠し事をするのを涼一は極端に嫌がった。
「何? 明美がどうかした?」
「え…な、何で…?」
「今、雪、明美の名前聞いてすごくリアクション大きかったから。あいつと何か接点あったっけ」
「別にないんだけど…」
  図らずも恐らくは自分の望む展開になったようだったが、しかし雪也はここにきて不快な顔をし出した涼一にこんな話をして良いものだろうかと躊躇した。実際雪也自身、片木と名乗る女子学生とメール交換がしたいわけではなかったし、できる事ならこのまま知らない顔をしてしまいたいというのが本音だった。
  けれど、雪也はそれ以上に涼一が周囲から信用を失くすのが嫌だった。
「雪? 何だよ、どうかしたか?」
「あ…」
  ますます不機嫌になっていく涼一を前にうまい事を言える自信はなかったが、それでも再度せっつかれた事で雪也はようやく声を出した。
「あの、涼一、メールアドレス預かってる?」
「は…?」
  ズバリストレートに訊いてみると、相手の反応は実に鈍く要領を得ないものだった。
「メールアドレス?」
「うん…」
  ソファに座ったままこちらを見ている涼一を恐る恐る見上げ、雪也は相手の反応をじっと待った。涼一は怪訝な顔をしたまま眉をひそめていたが、やがて。
「…………あぁ」
  瞳の色がくゆった。記憶が蘇ったようだった。
「明美、雪に何か言った?」
「うん、まあ…」
「……あいつ、もしかして雪のこと責めた?」
「そんな事ないよ!」
  涼一が怒ったらえらい事だと思い、慌てて口をきった雪也だったが、それは余計相手に火をつけてしまったようだった。ぎりと歯軋りした涼一は何事かを言いかけて一旦は口を開いたものの、言葉を出すのが困難だったのか、すぐにまた口をつぐんでしまった。
「涼一、その、片木って子の…」
「あんなもん、捨てたよ」
  涼一は言いかけた雪也の台詞をかき消して実にあっさりそう言い放った。
「………」
「当たり前だろ? すぐ捨てた。その日のうちに捨てた。もうない」
「涼一……」
「雪だっていらないだろ?」
「それは…」
  はっきり言ってしまえば、それはそれでありがたい事ではあった。あったのだが、しかし。
「涼一、頼まれたんだろ?」
「何が? 明美に? 俺は頼まれてないよ。勝手に押し付けられただけ。うんともすんとも言わないうちに向こうはどっか行っちまったしさ」
「その、片木って子は…?」
  メールを送ると言った自分に異様にはしゃいで駆け去って行った片木という女子学生。彼女の後ろ姿を思い浮かべながら、雪也は努めて静かな口調で涼一に食い下がった。
「あの子も涼一に頼まなかった?」
「………何なんだよ雪」
  涼一の嫌そうな顔にヤバイと思いつつも雪也は自身も眉をひそめて言った。
「俺、涼一がそうしてくれたの嬉しいけど…。でも、涼一が頼まれたこと無視したって分かったら大変だろ。信用されて渡されたわけなんだから」
「別にいいよ、何て思われても。あ、忘れてた、ついでにメモ入れたジャケットをクリーニングに出してぐしゃぐしゃにしちゃったとでも言う?」
「……俺、受け取ったって言ったから」
  苦々しい顔で雪也が言うと、涼一はここで初めてぎょっとしたようになって「はあ!?」と素っ頓狂な声を上げた。それからすぐに雪也のいるカーペットに自分も腰を下ろし、その顔を覗きこむようにして詰問してきた。
「お前…雪、何だよそれ…っ?」
「だから…。涼一からはちゃんとメモ貰ったって言ったんだ。メールは俺が送るの忘れてたって」
「そ! そんなの! そしたらお前がヤな奴みたいじゃん! 何だよ、俺、明美に言うよ、渡してねーって!」
「いいよ今更。それより本当にメモはもうないの?」
「何で? 別にいらないだろ、それより明美に――」
「俺…送るって約束しちゃったから」
「な…」
  涼一は雪也のその言葉に更にまた絶句したようになり、暫しその場で固まっていた。
  涼一が黙ると部屋は一気に静まり返る。雪也は居心地が悪くてその場から少し距離を取りたかったが、知らない間に涼一に右手首を掴まれていてそれは叶わなかった。
  やがて。
「……雪もあのアホと一緒だな」
  涼一は言った。しかし意外にも先刻まであった不機嫌な雰囲気は消えてなくなっていた。
「涼一…」
「いや、あのアホ以上だ。でも雪の場合はいい奴、な」
「そんなの」
「雪、女ってな、一度でも優しくすると付け上がるんだ。面倒くさい生き物なんだぜ。大体オトモダチでいいなんて怪し過ぎだぜ。んなわけねーだろっての」
「どうして。だって俺が付き合ってるの知ってるって」
「関係ねーよ、そんなの」
  涼一はきっぱりと言ってから雪也を掴む手に力を込めた。それからそこに唇を寄せるとちゅっと音のするキスをした。
「好きになったら相手に恋人がいようがいまいが、そんなの関係ないだろ。そういうもんじゃないの。恋愛なんてさ」
「……そうなのかな」
「そ。だから俺は雪に護だとか創だとかうさぎだとかがくっついてても、絶対負けない」
「それ…何かおかしいよ?」
「そうか? 俺には切実な問題だけど」
「それより…」
  何度となく手の甲に唇を押し付けられるのをくすぐったく思いながら、雪也はようやくその手を引っ込める事を許してもらった後、涼一を見つめ困ったように言った。
「やっぱりメモはないんだ? ならメール、どうしよう」
「無視でいいって」
「でも…」
「もういいの、忘れろ!」
「あっ!」
  雪也の煮え切らない態度に焦れたのか、涼一は命令するように言葉を吐くとそのままの勢いで雪也の身体を強引に押し倒し組み伏せた。突然のそれに雪也が思い切り背中を打ち付けてしまった事にも構わず、涼一はそんな雪也の上に覆いかぶさると、そのまま唇へのキスをした。
「ん……」
「…な、雪」
  そうしてそれをすぐに離すと、涼一は雪也の鼻先に唇を近づけたままそっと言った。
「でも雪、心配してくれたんだ? 俺が仲間から悪く思われたら嫌だって」
「え…」
「だからそんな気にしてんだろ? アドレス受け取ったなんて嘘言ってさ」
「あ…だって…」
「雪、俺のこと、好き?」
「え……」
  途惑って聞き返すとすかさぐ突っつくように何度か唇を重ねられ、諌めるような目を向けられた。
「なあ」
  催促のような甘えるような、そんな声で涼一は雪也に言った。
「雪、俺のこと好き?」
「うん…」
  それで雪也も今度ははっきりそう言って目でもそれを肯定した。「好き」という単語を口にするのは気恥ずかしかったから、気持ちだけは伝わるように精一杯頷きもした。
「ふ…」
  すると、涼一は口の端だけで笑うとそんな雪也の首筋に今度は噛むようなキスを始めた。
「ん…っ、涼……」
「んー…?」
「い…っ。ちょっと、嫌だ…」
「わざとやってんだもん」
  そうして涼一はのうのうとそう言いのけ、抗議の声を上げようとする雪也の開きかけた唇をまた自分のそれでしっかりと捕らえた。
「んっ!」
「……ああ、もう」
  雪也が呼吸困難で喉の奥から漏らした声に、やがて唇を開放した涼一は参ったというように嘆息して情けない声を上げた。訳が分からずに雪也が不思議そうな目を向けると、涼一はいよいよ困ったようになって、そんな雪也の耳元に唇を寄せ、囁いた。

  好き過ぎて死にそうだよ。

「りょ…」
「黙ってろ、もう」
  言い聞かせるような声を漏らすと、涼一はただもう貪欲に雪也の身体をまさぐった。ズボン越し、雪也の股の間に手を伸ばし、びくんとはねる相手の反応に気を良くする。煽られるままに涼一は自らの身体を雪也のそれに重ねあわせ、更に深い口付けを続けた。
「ふ…んぅ…」
  いつしか雪也もそんな涼一の熱に翻弄され、そして溺れた。



  だから2人は気づかなかった。
  その日、まだ知られているはずのない雪也の携帯に片木からメールが入っていたこと。
  雪也がメールをくれると言った事に有頂天になった彼女は、結局待ちきれなくて「雪也のもう1人の親友」である藤堂から雪也のアドレスを教えてもらったのだ。勿論、それをした彼女に一切の悪気はなく、そのせいで後に怒り心頭の涼一が藤堂を蹴り飛ばすなど、その時は誰も想像もしていない事だった。