時にくる



  元々その日は、前触れはあったのだ。涼一の様子がおかしいと察せられるようなこと。
  まず一つ目は、口数が少なかった。
  涼一は基本的にお喋りである。本人は「そんなことない」と言うし、確かに雪也があまり話さないから、その分、涼一が話してそう感じるところもあるだろう。だから今日の涼一が「たまたま」どこか物憂げで「だんまりが多いな」と感じたとしても、「それが本来の剣涼一だ」と言われてしまえばそれで終わりである。
  しかし、それなりに付き合いの年数も長くなった。そんな雪也にしてみたら、涼一の部屋に2人きりでいるこの状態で、ほとんど口をきかずに本を開いて微動だにしない恋人を「何か変だ」と思うのは当たり前だ。
  また、不審に思ったのはそれだけではない。二つ目の理由として、今日は雪也が康久と「2人だけで」、「10分以上も」話していたのに、涼一は今の今まで文句を言っていない。すぐにやってきて「帰ろうぜ」と雪也を立たせることはしたので、当然、康久は抗議したし、雪也もいつものこととは言え戸惑ったのだが、そこからすぐに来るであろう、「何で雪は!」という定番の「お説教」が来なかったので、むしろそのことの方に意識を持っていかれてしまった。
  そして今に至る。
  前から今日は泊まることを約束していたから、涼一のマンションにはそのまま足を運んだが、雪也は涼一が何も言ってくれないこの時間にどうしたって気づまりを感じた。もちろん、今は全部を涼一に任せにしたりはしない。ここへ来るまでの間に、当然の如く「どうしたの」「何かあったの」と訊いてはみたのだ。……が、それに対して涼一は「別にどうもしないよ」「何でそんなこと訊くの」と逆に微笑んで問い返してきたので、それ以上追及できなかった。そう、実際、涼一は特に怒っているようではないし、雪也に何か含むところがある風ではない。
  けれど、明らかに、おかしい。
  雪也が用意した食事には手をつけるし、後片付けの手伝いもするのに、どこか距離を取って喋らない。否、まったく話さないということもない。雪也が気にしたことで気遣いの気持ちは生まれたのだろう、2つ、3つと、とりとめのないことを話して笑ったりはした。……しかし、そんな涼一こそが「不気味」だったし、その見えない謎の「壁」にもう一歩踏み込めず、雪也はどうにも出来ずに心内で狼狽えた。

「その番組、観たいの?」

  そこに風穴が空いたのは、その時だった。
  涼一が何やら物言いたげにそう言ってきたので、雪也はすぐに「涼一は観たくないのだな」と思ったのだが、一応こんなことに嘘をつくのもなんだなと思ったので、「うん」と頷いた。
  第一、あまりに不自然な静寂が続いたから、テレビのリモコンにも手が伸びたのだ。

「これ、一応毎週観てるんだ。今期から始まった連続ドラマ」
「雪ってドラマとか観るんだ」
「そんな熱心にって程でもないけど、たまたま時間あって観たやつは、割とその次の週も観たりするよ。何となくあの続きってどうなったのかなとは思うし」
「ふーん…」
「別にそこまで思い入れ持って観ているわけじゃないから、涼一が嫌なら消すけど」

  すでにリモコンの「消」を押す態勢にしつつそう訊いてみたが、涼一はやや逡巡したような素振りは見せたものの、「いいよ」と首を横に振った。

「雪が観たいなら…。俺は別にいいよ」
「…じゃあ、つけておくけど」

  やっぱり、おかしいなと思う。何しろ、涼一という男は分かりやすい。以前は自分のことしか見えておらず、「涼一が分からない」などと感じたことも多々あったが、ここ最近では雪也も自身のことを「よっぽどあの頃の俺は自己中だったんだな」と思うばかりだ。
  この涼一が分かりにくいなどということが、あるわけがない。
  だから思う。
  今の涼一は、否、今日の涼一はやっぱりおかしい、と。

「涼一、本当に何も言いたいことないの?」
「何で。別にないよ」
「本当に?」
「うん。それより、俺と話す方がいいなら、テレビ消す?」
「涼一、話すことあるの?」
「いや特にないけど。でも雪が話したいなら、何か話題探す」
「……テレビ観るよ。涼一が話すことないなら、俺もないから」
「………」

  あ、明らかに不貞腐れた。
  それがさっと変わった表情に如実に現れていて、雪也はこんな時なのに思わず笑いそうになった。もちろん、笑っている場合ではない、もしかしたら深刻なことかもしれないのだ。けれどこういう分かりやすい顔を見せる涼一は「可愛い」と思うことも止められない。もう咄嗟に思ってしまうのだ、子どもみたいに不貞腐れる涼一を可愛いと。
  ただ、そんな呑気なことばかりも言っていられない。仮に涼一を怒らせたり機嫌を損ねたりすると「面倒」なことが起きることも、もう分かり切っている。そうなると、今夜一晩泊まるだけの計画が、無駄に延びたりすることだってあり得る。そうなると、また母への言い訳を考えるのが大変だ。
  もっとも最近はそういう涼一による「面倒事」すら、雪也には幸せなことのように感じている部分もあるのだが。

《ミナコ…!? 大丈夫!? 何があったの!?》

  その時、テレビ画面から主人公女優のひどく切羽詰まった声が響き渡った。雪也がハッとして視線をそちらへやると、ドラマはすでにシリアスな展開に入りこんでいて、主人公の女優と、もう一人の主人公―痛々しい青あざが顔についている女優―とを交互に映し出していた。

《大丈夫…普段は優しいの、あの人…》
《そんなの! 警察行こう! こんなの許せないよ!》

  2人の女性はそれぞれが苦しそうな顔をして何やら激しく言い合いをしている。
  先週から見始めたドラマではあるが、テーマはドメスティック・バイオレンス。主人公の親友は夫からいわれなき暴力を受けているが、それを唯々諾々と耐え忍んでおり、主人公は自らの父がDVで母を苦しめてきた姿を散々見てきたので、そんな親友をとても放っておけないと息巻いていた。
  DVは昨今でも大きな社会問題となっているが、このドラマはその問題を半分リアルに、そして半分はミステリーとして描こうとしている意欲作であった。
  それにしても、この親友に暴力を働く夫は許し難い。

「この人のDV夫役が結構有名な俳優で、これまでの役柄とは大分イメージ違うんだけど、巧いんだよ。リアルに怖いもん、暴力ふるうところとか、スゴイ迫力で」

  何気なく言ったその説明に対し、涼一からは何の返答もなかった。
  それで「ん?」となった雪也が画面から目を離して涼一へ視線を戻すと。

「……涼一、何やってんの?」

  涼一はテレビを見ていなかった。というより、雪也も何も、見ていなかった。
  ただ傍にあったクッションを両手で顔に押し付けて、自ら何も見えない状態にしていた。その異様な姿と言ったら、雪也も呆気にとられるしかなかったのだが―…しかしそこでやっと「ああ」と得心もした。と同時に、日中、大学で康久と話していた時の話題や、それを恐らくは聞いていたのだろう、涼一のいやに複雑そうな表情とが今の納得と見事にリンクして、雪也は途端、自分の頭上に光が当たったような気分になった。
  何故、涼一の様子がおかしかったのか。
  ようやく分かった。

「涼一」
「…駄目。ごめん、俺、やっぱりこれ観られない」

  クッションからくぐもった声を出す涼一に、雪也は優しく微笑んだ。

「うん、分かったよ。消してもいいよ? でも、気にするなんてバカげているよ」
「何で?!」

  雪也があっさり返したのが意外だったのか、それとも予想していても尚納得できなかったのか。
  涼一はがばりと顔を上げてクッションを横へ投げ捨てると、まさに逆ギレとはこのことであろう、鋭い視線を雪也に向けて突き刺した。

「何がバカげてるんだよ! 俺がこんな苦しんでるのに!」
「何で苦しむの? 罪悪感?」
「分かっているなら、いちいち言うなよ! あぁそうだよ、悪いかよ!? 俺が一人で罪悪感抱えてんのなんて、ある意味ただの自己満足だし! そんなんで、過去雪にしたことが許されるなんて思ってないし! でも、俺はつらいの! あの時のことを思い出すのが!」

  テレビの中の女優たちは未だ真剣な話し合いを続けている。どうしたらあの暴力的な夫から逃れられるのか、と。そして主人公の女性は、何故、親友がこのような理不尽な目に遭わなければならないのか、あの男だけは絶対に許せない!と歯軋りして悔しがっていた。
  折しも雪也は、今日、康久ともこれと似た話の映画で盛り上がったばかりだった。お互いにこのドラマを観ているというところから発展した、それはただの雑談だったのだが、以前に康久が観た海外作品でも似たような話があったと言う。映画通の雪也もそれは同じで、日本が海外のヒット映画をオマージュして類似作を作ることは珍しくないし、やっぱりあのドラマもそれらの焼き直しなのかなと話した。
  まぁつまりは、それだけだ。
  しかし康久が、「付き合ってるからって何してもいいと勘違いしている最低男」の話をしている時に、ちょうど涼一は現れたのだった。

「あいつ…俺たちを別れさせたくて、わざとあんな話をしたのかと思った」
「そんなわけ…」
「わけないって、頭では分かってる。あいつは昔の俺らのこと知らないし。けど、俺自身に後ろめたいことがあるから、そう思うこと止められなかった。全部俺が悪いの分かってる。だから雪に文句も言えない。けど、グラグラきて…。雪が気にしているの分かったけど、だからって本当のことも言えないし。でも今こうして言っちゃったら意味ないよな、ごめん」
「……何で謝るの?」
「だってこれは、俺が自分の胸に留めておくことだと思うから」
「ええ…? 何で…」
「言っちゃったら、雪に甘えることになるだろ。雪は絶対、もう気にしてないよとか何とか言うだろうし。現に今、気にするなんて馬鹿げてるって言っただろ。そういうの、俺を救う台詞だし、俺を甘やかす台詞だと思う。だから雪には言いたくなかった」

  先刻まであれほど黙っていたのに突然ぺらぺらと話し出した涼一は、しかし一気に口に出して息が切れたのか、これまた突如としてぷつりと黙りこくった。
  暫しの沈黙。
  雪也は涼一の言葉をひとつひとつ反芻していたから言葉が追いつかなかったが、そんな雪也を見る涼一の方も、改めて自分の発言に後悔して苦い顔をしていた。
  結局、また最初に斬り出したのは涼一だったが。

「ごめん、結局こんな話して。けど俺はつらいんだ。あの時のことを思い出すと。忘れていいわけないけど、忘れたいって思う自分もいる。ひどいよな」
「いや……」
「だから俺のことそうやって許さなくていい」

  涼一がむっとした顔ですかさずそう言うのに、雪也はようやく顔を上げて苦笑した。

「いや、今言おうと思っていたのはそのことじゃない。俺も……ちょっと、つらいかも」
「えっ…」
「うん。俺もあの時のことを思い出すとつらい。やっぱり…うん、つらいな」

  涼一に冷たい視線を浴びせられたことや暴力を受けたことではない。一番は、自分のことしか考えられなかった自分。そして、それこそ「忘れてはいけないことを忘れていた自分」を直視した時のあの衝撃。あれらについて想いを馳せる時、雪也はいまだ強い胸の痛みを感じる。それは一生消えないものなのだろうかと不安になる時もある。
  ただその痛みに気づき、さらにそれを乗り越えようと思えるようになれたのは、涼一との付き合いがあったからだ。
  だから涼一には「気にするなんて馬鹿げている」と言ったのだけれど。

(でも……そのあたりのことをごちゃごちゃ言っても、結局「悪いのは俺」とか言いそうだから、うまく言うの難しいな……)

「……雪」
「あ、ごめん、またこのタイミングで黙っちゃって。何でもない」

  雪也ははっとし、慌てて取り繕うように笑った。案の定、雪也の素直な発言に涼一も今まで絶句してしまっていたようだ。俺を甘やかすなと言っておいて、実際「つらい」という言葉が雪也から出るとは、あまり想像していなかったのかもしれない。
  青白い顔をしている涼一に、雪也は「何か言わなくちゃ」と焦った。
  けれどそれより先に、雪也は涼一からぎゅうっと力強く両手を握られ、きっぱりと言われた。

「愛してる」
「えっ…」
「雪、愛してる」

  あまりに切実に言う為、雪也は呆気にとられた後―……破顔した。

「嬉しい……けど、突然そんな風に言われるとやっぱりびっくりするね」
「突然じゃない、あの頃から俺の気持ちは変わらない! けど、だからってそれを理由にあの時のことは正当化できない、それは分かってる! けど…けど、俺のこと、許してくれなくてもいいから……傍にいて!」
「当たり前だよ」

  改まってそう言われると何か照れるよと。
  雪也がそう返しながらまた笑うと、涼一は逆にますます不安になったような目を向けて、それでも自虐的に、未だ嵐の真っただ中であるドラマの中の「暴力」に目を向けた。
  丁度、画面は再びDV夫が主人公の親友を甚振っているところで。
  涼一には、それが過去、自身が雪也に対してしたこととひどく重なるのだろう、再度辛そうに顔を歪めて、けれどぐっと唇を噛みしめて。
  それから一拍後に、涼一は言った。

「あの時……雪が俺の、思う通りにならなくて…本当…むかついてた…」
「…うん。俺もあの時のことは反省してる」
「違うっ、悪いのは俺だ、雪をあんな風に殴るなんて…あぁもう駄目だ、吐きそう!」
「えっ。ここではやめて欲しいって言うか」
「雪!」
「わぷっ!」

  おもむろに抱き着かれて、雪也は思わずおかしな声を出した。涼一が衝動的になって突然こういうことを仕掛けることにはいい加減慣れているはずなのに。
  やっぱり、こんな風に力強く抱きしめられると息が出来ない。違う意味で苦しくもなる。
  確かに、あの頃の自分たちには何とも泣けてくる。
  けれど、「でもそれは違うんだよ、涼一」とも。雪也は言いたい。

「涼一…あの時、俺、自分のことばっかりで、涼一のこと全然考えられなくて…本当に、ごめん」
「……何言ってんの。だから違うって。俺が雪のことちゃんと捕まえて、雪が嫌でも俺しか見えないようにしておければ良かっただけ。自分の力のなさを全部雪のせいにしていただけ」
「……それじゃあ…今は涼一って、スゴイ力があるってことだ?」
「え」

  涼一がふと力を緩めて自分の方を見たので、雪也は首をかしげながら再び笑いかけた。

「だって俺…今は涼一しか見えてないから。涼一のことばっかりだから」
「う……」
「ん?」
「う」
「う?」
「嘘だぁ……」
「えぇ…? 何でそこでその返しかなぁ?」

  がっくりと身体から力が抜ける思いがして、雪也は思わず不平を漏らした。
  ただ、けれど。
  自分も変わったけれど、涼一も変わったのかもしれない。
  雪也はそんなことを思いながら、まじまじとこちらを見つめて、いまだ「信じられない」という顔の涼一の額をさらりと撫でた。そしてもう一度笑って見せて、「涼一はやっぱり面白いな」と、本当に自然に、ぽろりと出てきた言葉を発した。
  その本心は、今のこの恋人には、あまりに不本意なものだったらしいが。

「……面白いとか。何それ? カッコイイとか、好きだなとか、そういう台詞が欲しいんだけど!?」
「え、ごめん。思わず」
「思わずって何だよ、思わずって! しかもこんな状態でそれって! 雪はそういうボケたとこがあるから駄目なんだよ!」
「え、駄目? じゃあ俺のこと嫌いになった?」
「……んなわけないだろっ!」

  雪のバカ!と。
  まるでどこぞの我がままカノジョによる駄々のような言い方で、涼一は雪也をバカ呼ばわりし、それから再びぎゅうぎゅうと抱きしめて、その後暫く何としてでも離れなかった。
  暴力はなくなったけれど、こういう「縛り」は前より凄まじいかもしれない。

(でも……こういうの、好きだな……)

  それは口にして言わなかったが、雪也はいよいよ文句を言い始めた涼一の懐でそんなことを思った。
  だからもうちょっとだけこの涼一による「BGM」を聴いて、それからお茶を淹れよう。涼一の好きな銘柄のものを、じっくり上手に淹れてみせる。――…そんな風に思って、雪也は目を閉じたまま、すぐ傍のリモコンに手を伸ばし、それからテレビの電源を消した。