ツタナイ言葉



  その日は「いつものように」雪也が母親の世話にかまけて午前の講義を休んでいたから、普段は表向き誰にでも気さくな剣涼一の表情もどことなく暗く不機嫌なものだった。
「涼一、今日は1人なんだ?」
  だからそんな涼一に何の気もなしに声をかけてくるのは余程の鈍感か、さもなくば図々しい類の人間と言えた。
「丁度良かった。これお願い」
  話しかけてきたのは後者のタイプの人間だった。
「……何だよ」
「何って。だからこれ」
  大教室の窓際の席、涼一がいる机の上にそう言って小さなメモ用紙を置いた人物は、涼一とは高校時代からの顔馴染み、斉藤明美だった。細身のその身体とは対照的に、ざっくばらんなその性格と豪胆な態度は多くの仲間たちから尊敬と信頼を集めており、後輩などからも何かと相談を受ける事が多い。しかしそんな斉藤は涼一からすればただの「キツイ女」で、強引ではっきりとしたその言動はどちらかというと苦手なタイプに属した。しかも控えめでおとなしい雪也と付き合っているせいか、涼一は最近富にこの斉藤を面倒な相手だと思うようになっていた。
「これ、この子のメルアドと電話番号。桐野君に渡してくれる?」
「……はあ?」
  面倒くさそうに机に頬杖をついていた涼一はその言葉でようやく顔を上げ、斉藤とその背後に立っているおとなしそうな女子学生に目をやった。どこかで見た事がある。ああ、この間サークルに入ってきた何とかかんとかっていう1年だ。ぼんやりとそんな事を思った。
「桐野君に直接渡しても良かったんだけど、涼一から口添えしてもらった方がいいかなって思って」
「何を?」
  この馬鹿はこの俺に一体何をさせようと言うのだろうか。
  抑えていても自然と険しくなってしまう表情を意識しながら、涼一は目の前で悠然と立ち尽くす斉藤に尚視線をやった。隣の女子学生は涼一のただならぬ雰囲気を察したのだろうか、ますます斉藤の陰に隠れて所在なさ気にしている。
  それでも斉藤は全く構った風なく言った。
「桐野君に彼女がいるって話は藤堂からも聞いて知ってるんだけど、まあこの際そんな事はどうでもいいわけよ。この子ね、ただ単に桐野君と仲良くなりたいって。ただそれだけでいいからって。ね?」
「あ、はい…!」
  焦ったように、そして今ではもうすっかり真っ赤になって、その女子学生は必死に頷いた。赤茶けた髪の毛を肩まで綺麗に垂らし、人形のように端麗な顔立ちをしている。ほんのりと朱に染まった頬のせいで肌の白さは一層際立っていた。藤堂の好きそうなタイプだと涼一は思った。
「桐野君はどうもガードが固いからさ」
  斉藤が言った。
「彼女に義理立てしているのか何だか知らないけど、私らともあまり喋ってくれないでしょう? でもね、この子すごいの。すごく知ってるのよ桐野君のこと」
「あ、明さん…っ」
  戸惑う後輩に構わず、「頼りになる先輩」斉藤はけらけらと笑いながら先を続けた。
「かなり怖い観察眼だよ。涼一、知ってた? 桐野君がここ1週間で借りた本の題名とかさ、桐野君が学食で食べてたランチメニューとか」
「……知ってるの?」
  声になっただろうか。そんな事を思いながら涼一が斉藤の背後に立つ後輩に据わった目を向けると、その相手は再びびくりと怯えたようになりながらこくんと頷いた。
「は、はい…っ。あの、桐野先輩、専門書だけでなくて私が大好きな作家さんの本とか歴史書とか凄くたくさん読んでるし…それに、料理の本とかも…」
「料理?」
「あはは、すっごく驚いちゃった。桐野君ってそういうのまで手ぇ出すんだねえ」
  斉藤は合いの手を入れながら涼一に害のない笑いを向けた。
「それに……」
  そんな先輩の明るい声に後押しされたのだろうか、彼女は雪也の姿を思い浮かべたような嬉しそうな顔で言った。
「桐野先輩、よく図書室にいますよね。私もで…。私と同じで。それで、本当はもっとお話したいなって思ってるんですけど、でも自分から声かけるの何だか勇気がいって…」
「その割にはこの子、かなり煩いのよ。今日は桐野先輩はAランチだったから自分もそれにするとかさ、桐野先輩がこの間読んでた本は自分まだ読んでないから絶対読むとか。ね、可愛いでしょ〜」

  健気だよねえ?

  斉藤は照れて更に焦ったようになっている後輩の背中を叩きながらあはははと甲高い声で笑った。涼一は眉をひそめたままそんな斉藤をただ黙って見やるだけで、分かったとも嫌だとも返答しなかった。声を発するのも忘れてしまった。
  しかし勢いのある相手方はそれを当然の了承と受け取ったのか、「それじゃあ、よろしくね」と言い残すと去って行った。後ろにいた後輩もしきりにぺこぺこと頭を下げ、そのままその場からいなくなった。
「………」
  言葉を失ったままの涼一は暫く顔を歪めたまま固まっていたが、講師が教室に入ってきて辺りがしんとなった事でようやく我に返り、机の上に残されたメモに視線を落とした。

  片木沙耶(カタギ サヤ)

  綺麗な、しかしやや癖のある小さな丸文字で書かれたその名前には丁寧に振り仮名まで振ってあった。電話番号とメールアドレス。涼一はそれが書かれた紙片を数秒の間眺めやった後、ぐしゃりと片手で握り潰した。


×××


  そもそも雪也に携帯を持てと言ったのは涼一だった。本人には内緒で当時の最新機種を選んで契約し、その後初めて「金も全部自分が払うから」と言って半ば強引にそれを渡した。雪也は突然そんなことをしてきた恋人にただ驚き慌て、それは幾らしたのか、お金は自分で払うと言い続けた。涼一にしてみれば雪也のその電話番号は自分だけが知っていればいい自分専用の連絡手段のつもりだったから、自分が金を払うのは当たり前だという意識があった。しかし雪也は頑としてそんな恋人の主張を受け付けなかった。結局契約者は涼一のまま毎月の料金は雪也が持つという、何とも不可思議な状況で落ち着いたのだが、それでも涼一は雪也が自分の渡した携帯を抵抗なく持ってくれた事が素直に嬉しかった。
  しかしその電話番号も今では雪也の母である美奈子が知り、藤堂が知り、レンタルビデオショップ「淦」の店員・創と那智、常連のうさぎが知り…そして雪也の幼馴染・護までもが知っているという哀しい現状となっている。
「その上誰だよこいつは……」
  キャンパスの一角、いつも雪也が座っているベンチに腰かけてから、涼一は握りしめてくしゃくしゃになってしまったメモ用紙を再度ジャケットのポケットから取り出し眺めやった。
  何だ、あの女。
  何だ、斉藤の奴。
「くそ…っ」
  ぐるぐるとする思考の中で涼一はもう一度ポケットにメモを突っ込み、忌々しそうに舌打ちした。午後の講義が始まろうとしていたが、とてもじゃないがそんな気分にはなれなかった。
  こんなものはこのまま破り捨ててしまえばいい。
「………」
  そう思っても、ただそれをしてしまうのも何だか癪な気がした。あの控えめな様子でおろおろしていた見知らぬ後輩。雪也の事を嬉しそうに話すあの顔を思い返すにつれ、無性に苛立たしく暗い感情が沸き立ってくるのを感じた。
  お前が雪の何を知ってるっていうんだ。
「……勘違いしやがって……」
  ただ、こうやって雪也に近づこうとしてくる人間は、別段彼女が初めてというわけでもなかった。雪也自身はまったく気づいていないが、寡黙で優しい笑みを見せる桐野雪也という人物に興味を抱く人間は男女ともに決して少なくなかった。それが愛情にしろ友情にしろ、そしてただの好奇心にしろ……涼一にとっては皆脅威であり、そして忌むべき存在だった。
  そんな狭量な自分が嫌にもなるのだけれど。
「………」
  もう何度目だろうか、涼一はもう一度メモ用紙を取り出し、それから再びそれを仕舞いこんだ。
  メールアドレス?
「……俺だってそんな送った事ないっての……」
  涼一は雪也に会えない時、会いたい時に電話はよくしたがメールというのはあまり使った事がなかった。どうせなら雪也の声が聞きたかったし、雪也当人も「メールはよく分からない」などと今時の学生にしては時代遅れな事を言ったものだ。
  だから。
「あいつはこんなもん、使わないんだよ…」
  また独りごちてしまい、それから涼一はまた一人でかっとなって眉をひそめた。
「………」
  しかしあの女は実際雪也にどんなメールを送る気なのだろう。
「……何が自分と同じだ」
  あの時言われた台詞がここまで脳裏に残っていたとは、と涼一は自身ではっとしながらも、そう呟いた後、今度は自らの携帯を取り出し、それを眺めた。
  雪也に送ってみようか。
  恐らくはもうこちらに向かっているだろう。午後の講義には間に合うと言っていたから、もしかするともう教室にいるかもしれない。そうでなくとも駅の近くにはいるはずだ。
「……っ」
  そう思うといてもたってもいられなくなり、涼一は真剣な目になると顔を近づけて必死に携帯のボタンを押し始めた。普段メールなど滅多に使わないから、動作がたどたどしい。それでも何故か夢中になった。電話をする気にはなれない。ただこの文字が今すぐ雪也の元に飛んでいくのなら、それはとても素晴らしい事のような気がした。


  ゆき、今どこ? 会いたい


「は…」
  たったそれだけの言葉なのにいやに疲れた。それは操作が不慣れなせいだからか、それとも。
  涼一が座っている辺りは学生の姿もまばらだった。天気もあまり良くないせいだろう、暗い空の下では授業に参加しない学生たちも中のラウンジで休憩を取るか、部室にでもこもった方が良いと考えたのかもしれない。涼一はふうと息を吐いた後、通りの並木道の向こう、前方に建っている図書館棟を眺めやった。自分も読書をしている時の雪也は好きだ。同じように思っている人間が一体あと何人いるのだろう。
「あ…?」
  ぼんやりとそんな事を思っていたその時、携帯メールの着信音が鳴った。
「ゆ……」
  慌ててそちらに目を落とし、メールを開く。案の上雪也だった。そこには実に簡単な、それでいてほんのりと温かくなるような。
  文字が。


  涼一のすぐそば


「え……?」
  驚いて顔を上げ、反射的に振り返った。
「涼一」
  いつからいたのだろう。通りの向こうから歩いてくる雪也の姿がすぐさま涼一の目に飛び込んできた。微笑して真っ直ぐに歩いてくる雪也は今日も何冊も本を抱えているのか、大きめのリュックを肩にかけ重そうに身体を傾け歩いてくる。
「………」
「涼一、講義は?」
  ぽかんとしている涼一にまたにこりと笑いかけ、雪也は訊いてきた。
「びっくりした。涼一、普段あんまりメールなんてしないだろ? 俺も使い方ちょっと忘れちゃってたから…あれだけ打つのにもすごい時間かかった」
「いつからいたんだ?」
「ここに? 15分くらい前かな? どうせ講義は遅刻だし、本返してこようって思ったら涼一がここに座っていたから」
「………」
「どうかした?」
  今一つ反応の鈍い涼一に、ここで雪也はようやく怪訝な顔をして首をかしげた。それからやや戸惑い気味に笑ってみせ、手にした携帯に目を落とす。
「……あ、あのさ…。たまにこういうのもいいな…。俺、これ読んだ時、何だかすごく…嬉しかったから」
「え……」
  雪也の台詞に驚いて涼一が顔をあげると、目の前に立ち尽くす恋人は照れたようになって俯いた。その仕草に思わずどきんとする。ああ、やっぱりこいつの事が好きだと涼一は思った。
「……雪。もう帰ろう?」
「え?」
  だから立ち上がるともうそう言っていた。
「帰ろう? 俺ん家行こう?」
「だ…帰るって、だって涼一…?」
  俺は今来たばかりなのに。
  そう言外に訴える雪也には構わず、そして周囲にはそれこそ一切気を配る様子も見せず、涼一はぎゅっと雪也の細い身体を抱きしめた。
「ちょ…涼一っ!」
  当然の如く焦って逆らおうとする恋人に、しかし涼一はますますその拘束力を強めて、雪也の髪を撫でつけ引き寄せながら、すぐ耳元で囁いた。
「早く帰ろう。今すぐ抱きたい」
「涼…っ。…どう、したの…?」
「ん……」
  言葉なんてもどかしい。
  今のこの気持ちを外に出したって、きっと自分はロクな事を言わない。現に今とて我がままな欲求しか口にできないでいるのだ。
「りょ…ちょ、涼一…っ。人、人、見てる、から…!」
  雪也のいよいよ当惑したような声が聞こえた。人なんか知るか、そんな事を思いながら、涼一はその抗議の言葉に逆らうように更に強く雪也を抱きしめ、撫で付けた髪の毛に慈しみのキスを落とした。
  ざわりと。
  風か、周囲の人間か。何かが激しくざわつくのを感じたが、どうでも良かった。
  ただ必死に自分の名前を呼ぶ恋人の声、そうしてこの温もりがこの時の涼一にとっては全てで、絶対のもので。

  だから涼一は雪也には何も応えず、ただ黙ったままその温度の心地よさに暫し溺れた。