繋ぐ?



  ぺちぺちと軽く頬を叩かれて雪也が目を覚ますと、傍にはベッドの端に腰をおろす涼一がいて、どこか眠そうな視線でこちらを見ていた。
「涼一…」
「ごめん、起こして。でも、雪も風呂入るかなと思って」
「…うん」
  本当はこのまま寝てしまいたかったし、実際、涼一が起こしてこなかったらそのまま朝を迎えていただろう。
  それでも自分の身体のことだ、涼一の言いたいことも分かったので、雪也は素直に返事をしてむくりと身体を起こした。
  室内にいてもまだしんとした夜の静けさが感じられる。床に入った時間自体遅かったから直に明けるだろうが、こうして涼一のベッドに横たわってからまだ然程時間は経っていないのかもしれない。そう思いながら、雪也は暗闇の中で時計を探した。
「寒いだろ。これ」
「うん…ありがとう」
  部屋は暖房が利いていて裸のままでも肌寒くないが、浴室に至るまでが結構冷えるのだろう。涼一が渡してきた上着を雪也は礼を言って受け取った。手元にそれしかなかったのか、それは涼一の外出用だったが、涼一自身はすでに寝間着用の軽装に着替えている。髪もまだ乾いておらず、やや濡れているのが夜目にも分かって、雪也は何となくその艶やかな黒髪に触れた。
「何?」
「んん、別に。ちゃんと乾かした方がいいよ。風邪引くから」
「大丈夫。雪こそ早く行きな」
「うん」
  一瞬、こちらから触れたせいでまた始まるかもと、触ってから「まずい」と思った雪也だったが、意外なことに涼一は素っ気なくそう言っただけで、それどころかその手を払うようにして「早く行け」とせっついた。雪也はそれで「もしかしてまだ怒っているのかな」とも思ったが、敢えて「それ」について自分から触れる気もしないから口を噤んだ。言われるままに涼一の上着を肩に羽織り、そろりとベッドを出る。まだ中に涼一のものが残っているのが分かった。太腿から足先にかけても、どちらのものとも分からぬ精がこびりついている気がして、もう慣れたはずなのに雪也は立ち上がることに少しだけ気まずさを感じた。
「雪」
  すると、雪也が立ち上がるのを待っていたかのようなタイミングで涼一がふと声をあげた。
「ん…」
  応じて振り返ると、涼一は「やっぱり」どこかむくれた顔をして、たった今自分から離したばかりの雪也の手をぎゅっと掴んだ。
「やっぱり、今日は俺も行く」
「………そう思ってたけど」
「何で。俺、行くなんて言ってないじゃん」
「でも……」

  涼一が留守番すると言うなんて想像できなかったし――。

「――いや」
  その想いを言いかけて、雪也は思わず首を振った。
「何でもない。でも、俺は最初からそう思ってたから。涼一も来られたらいいなって。最初からそう言ってたでしょ?」
「覚えてない」
「え」
  思わず言い淀む雪也に、涼一はさらにむっとしてどこか自嘲気味に言った。
「何でもない、早く行けよ。それとも一緒に入る? 今夜のお詫びにいろいろご奉仕しますけど?」
「あのさ……別に、俺は涼一が悪いなんて思ってないんだけど」
「俺も思ってない」
「ふっ!」
  全く悪びれないその即答に雪也は思わず噴いてしまい、慌ててそれを隠そうとして見事失敗した。何せ片手を拘束されているからその表情は隠しようがない。
「何だよ…!」
  我がままな恋人はそれでより一層不貞腐れたようだ、「やっぱり俺は悪くない」と呟いてから、「早く行けよ!」とヤケのように声を荒げた。
「うん、行くけど」
  雪也はそんな涼一の言動がいちいち可笑しかったのだが、確かにいい加減浴室へ行きたい。だから涼一の手を自由な方の手でぽんと叩いた。
「行くから、手、離して」
「……う」
  別段わざとではなかったらしい。涼一はハッとして思い切りバツが悪そうに掴んでいた雪也の手を離した。けれどそれで雪也がくるりと踵を返すと、まるきり子どものその恋人は、遂に我慢がならないという風に今度は後ろから飛びかかるように抱き着いてきた。
「ちょっ…」
「なぁ。今日、行くのをやめるって選択肢はないの?」
  雪也を両腕でがっちり抱え込み、涼一はその項に唇を当てながらねだるように言った。
「折角の休みなんだからさ。そしたら、まだこうしていられる」
「駄目だよ。前から約束していたことだし、涼一だっていいって言っただろ」
「あの時はそう言わざるを得ない状況だっただろ! またあいつら総出で、俺が雪を束縛し過ぎだとか、雪の意思尊重していないとかさ…! ぐちゃぐちゃ言いやがってよ!」
  まったくむかつくぜ、殺してやりてーよ、と。
  いつものことではあるが酷い悪態をつく涼一に、雪也は自分でもほとんど癖のようになっているため息を漏らした。
「涼一はちゃんと俺の気持ち尊重してくれてるよ。だから行かせてくれるわけだろ、今日」
「なぁ雪……」
「駄目だよ駄目、そんな声出したって。俺、那智さんとだって約束したんだから。ちゃんと写真撮ってくるって」
「本人はそれ望んでんのかよ? お前と“あれ”が大袈裟にしたせいで熱出したって聞いたぞ」
「誰に?」
「那智さん本人だよ」
「その時、『でも、涼一さんも見に行ってくれるなら嬉しい』って言われなかった?」
「……あの人って、俺と話したこと、逐一雪に報告するんだ?」
  さざ波のようなやりとりが続き、ここまできてようやく諦めたような涼一が拘束を緩めた。そう、やはり嵐はもう過ぎているのだ。雪也はほっとしてもう一度涼一の手を軽く叩き、そのまま浴室へ向かった。涼一はそれを追ってはこなかったし、朝になるまでもうこの話題を持ち出すこともなかった。



  雪也が友人の創から、地元公民館ギャラリーで開催される≪ちぎり絵展≫に行かないかと誘われたのは、今から1週間ほど前のことだった。
  長年、人と接するのが怖く引きこもり生活をしていた創の従姉・那智が、その展示会に自身の作品を出展したのだ。那智が数か月前から小さなカルチャースクールに通い出したことは雪也も聞いていたが、彼女が頑なに「もう少ししたら話しますから」となかなかその内容を教えてくれなかったので、雪也はてっきり彼女の趣味である菓子作りか料理の講座にでも行っているのだと思っていた。
  しかし創曰く、「そんな皆で作業するようなものはハードルが高いだろ」と。
  ――確かにそのようだ、那智はそのちぎり絵講座でも、1番早い時間へ行って教室の隅を陣取り、数人のご婦人方がわいわい談笑しながら作業する中、1人黙々と和紙をちぎり、糊をつけて、ひたすらにせっせせっせと紙を貼り込んでいるという。…そんな様子を想像するとどこか痛々しい気もしないではなかったが、那智本人に言わせると「1人で没頭できるから最近では周りもそれ程気にならなくなりました」と、それなりにその時間を楽しんでいるようだった。
  那智にとってそれは大いなる成長だった。従弟である創もそのことが本当に嬉しかったらしく、表情でこそその喜びを表さないが、那智が講座主催の展覧会に出品すると決めた時はすぐに雪也へメールを送ってきて、「一緒に見に行かないか」と言ってきたのである。いつも何か話したいことなどあっても、雪也が店へ来た時「ついで」のようにしか話さない出無精な青年が、だ。だから雪也としても、そんな創と一緒に那智のその晴れ舞台を是非見たいと思った。
  ……ただ本来ならば、そのような微笑ましいイベントがあったとして、別段そこまで気合を入れずとも、「それなら見に行けば」で済むレベルの話ではある。
  第一、 地元の公民館など徒歩で10分もかからない。講座の先生が好意で主催した生徒たちのミニ発表会だ、恐らくほとんどの地元民にしてみれば、「家族や知り合いが出展しているから、買い物ついでにちょっと見て行こうか」くらいのノリに違いない。
  けれどもちろん、雪也にとっては「その程度のこと」ではない。
  「創から誘われた」という事実がまず問題である。
  何故なら、雪也には涼一という恋人がいて、この恋人は尋常でないヤキモチ妬き。雪也にとって創は自分を理解してくれる本当に大切な友だちなのだが、涼一にはその「大切」という部分が気に入らないし、ことによると「友だち」というフレーズすら良く思っていない。せいぜい許せて「ちょっとした知り合い」程度の関係だろう。
  そんなわけで、雪也はこのような時もすぐに涼一に事の次第を報告せねばならなかった。
  そして勿論、涼一にも一緒に行かないかと誘った。
  しかし。
  その後の展開はいつもの通り、予想を違わずガーガー言われて、「勝手にすればいいだろ!」と拗ねられて。じゃあと勝手にしようとしたら、「雪のバカ!」となじられて引き倒されて。――で、散々っぱら好きなようにされた後、「やっぱり俺も行くから」としがみつかれた。それが今夜の一連の流れである。
  雪也はこのパターンにいい加減慣れてはいる。慣れてはいるのだが、何かある度に涼一がその都度不機嫌になったり横暴になるのは、「もう少し何とかならないのかな」、「何とかしたいな」と思い始めている。何故って、涼一がその後大抵、「雪に無体を働いた」と後悔して落ち込むから。雪也が怒っていないからと言っても、涼一は雪也に呆れられたんじゃないかと、愛想を尽かされるんじゃないかと、どこか怯えた顔を見せるし、それによってまた情緒不安定になる。つまり、涼一の心身に悪いから、雪也は涼一がもう少し自分を信じてくれるようになるにはどうしたらいいのだろうか…と、考えずにはいられないのである。



  その後は大して眠れぬまま、雪也は涼一と朝食を共にしてから、創と待ち合わせしている公民館へ向かった。地元の公民館は3階建ての鉄筋仕様で、利便性の高い多目的ホールになっている。市役所の機能を果たしている出張窓口も充実しているし、子どもたちに絵本の読み聞かせをしているミニ図書館や、高齢者向けの体操教室、主婦層をターゲットにしたトレーニングルームまである。その他、那智が通うような講座が間借りしている会議室や、今回の展示場であるアートギャラリーなど。ギャラリーは2階の割と広いスペースをとって存在していた。
  建物内に入るとすぐに創の姿を見つけた。創は1階の入口横にある休憩所のベンチに腰かけ、本を読みながら雪也たちを待っていた。
  その姿が何となく珍しくて雪也は「おや」と思った。本を読んでいる姿が、ではない。いつも店内の、しかもカウンターにいる創しか見ていなかったので、「創の全体像」が新鮮に思えたのだ。
  だから雪也はこちらに気づいて本を閉じた創に近づきながら、思わずといった風に口を開いた。
「創って足長かったんだなぁ」
  その台詞は全く他意のないものだったし、ただ事実を言っただけだった。実際問題、創は細身だし、背も低くない。一般の男子大学生と比べても、足は長く見える方かもしれない。
  それでも雪也が発したその一言は、ほんの一瞬ではあるが、3人の間の空気をひどく微妙なものにした。
「いきなり何?」
  それを「一瞬」程度に留められたのは、唐突にそんなことを言われた創当人が、すぐさまその空気を払ったお陰である。
  創はいつものどこかからかうような薄い笑みを浮かべて続けた。
「今のって一応誉め言葉だよね。でも、それじゃあ今までは俺の足が短いと思っていたってこと?」
「あ、ごめっ…! いや、そんな意味じゃなくって!」
  創が気分を害してそう返したわけではないことは容易に分かったが、指摘されたことそれ自体に雪也はハッとなって慌てふためいた。
「そうじゃなくてさ…。いつもは大体、店のカウンターの所に座っているから、創の足ってそんな見る機会もないだろ。今改めて見てみたら長いなぁってしみじみ思ったっていうか」
「まぁ確かに、俺たちってほとんど店でしか会わないからね」
「ほとんどってどういう意味だよ」
「は?」
「え?」
  しかし、創自身はそれでもう終わりにしようとしていた会話を、涼一だけが引っ張りたがった。
  雪也の前にずいと立ち、あからさま創の視界から自分を割り込ませるようにして、涼一は親の仇でも見るような目で創をねめつけた。
「お前ら、あの店以外でも会ってたりするのか」
「涼一?」
「雪は黙ってろ」
  涼一の殺気立った声に雪也は思わず黙りこむ。
  創は呆れたように肩を竦めた。
「あのさ、いつものこれ、店でやるならいいけど、ここではやめない?」
「いつものこれって何だよ、俺はお前に訊いてんの。雪とあの店以外に会うことあるのかって」
「あるかもね」
「は!?」
「近所なんだから、そりゃあ、あるだろ。コンビニでたまたま会うとか、その辺の道端でたまたま会うとか」
「本当に偶々なんだろうな?」
「たまたまじゃなきゃ何だって言うわけ? 俺は君と違って別に桐野君のストーカーじゃないから、桐野君に会いたいと思えば電話でもメールでも使って連絡してから会うよ。だから今日も店じゃないここで、たまたまじゃなく計画的に顔を合わせているわけだけど」
「電話とメールってそんなしょっちゅうやるのかよ…!」
  ぎりぎりと歯軋りまでしそうな勢いの涼一に創はいよいよ嘆息した。
「ホント、剣君ってめんどくさい人だよな。あのさ、しょっちゅうは会ってないから。今日だって俺は、たかだかこんな展示会を意識して高熱出しちゃった那智姉さんの為に、ここの写真撮ったらすぐ帰るし。大体、もししょっちゅう会っていたら、桐野君が今さら俺の足が長かったんだ、なんてこと言うと思う? 言わないだろ?」
「あの、創ごめん、何かその」
「別に桐野君が謝る必要ないと思うけど」
「そうだよ、何で雪が謝るんだよ!? 大体、そうだ、雪がいけないんだ! 俺は必死に我慢して、雪が行きたいって言うからしょーがなくこんな所付き合ってやってんのに、いきなりこいつの足が長いとか言ってよ! 俺の方が長いだろ!? ほら、見てみろよ雪! どう見ても俺の方がこいつより足長いし、スタイルもいい!」
「ちょっ…あの」
「桐野君、俺から誘っておいて悪いけど、凄く恥ずかしいからちょっと離れていいかな」
「うん、その。うん、先に行っていいよ…!」
  いつもの暴走のはずなのに、場所が違うだけでそれは「大分違う」ものであるらしい。
  普段なら平気で流せるこれら一連のやりとりだったが、場所が場所だ。創と雪也はとんでもなく居た堪れないものを感じ、特に創の方などはらしくもなく焦った風になりながら自分の肩先を掴んで足の長さを真剣に測ろうとしている涼一から距離を取ろうとした。
「おい、待てよ! どっちが長いか比べてから先行け!」
「分かった、君が長い。負けた、俺は。完全に。そうだろ桐野君」
「うん、涼一の方が断然長いっ。涼一、ちょっとその、ちょっと一回外出ない?」
「は、何で? 俺はさっさと那智さんの作品見て帰りたいんだけど! 一応俺だってなあ、あの人が俺にも見てくれたら嬉しいって言うから、そんなら見なきゃ悪いなと思ったところもあったんだよ! ちぎり絵なんて地味〜なもん、本来ならまっったく興味ねーのによ!」
「声が大きいよ、涼一!」
「は!? 俺の声は元からこんなだし! またそうやって雪は俺を恥じる!」
  涼一の抗議を聞き流し、雪也はあたふたとしてホールの周囲に目をやった。
  休日なせいか人の入りも多く、3人の青年が何やら揉め事を起こしているのかと注意してこちらを見ている人間も何人かいる。
  何にしろ涼一が悪目立ちし過ぎなのだ。
  何故こんなことになったのだろう。
  折角不機嫌な恋人をなだめすかし、ともすれば雪也などは「身体を張った」説得作戦で、今日のこの日を迎えたというのに。雪也の些細な一言で涼一の「むっかりスイッチ」はこんなにもあっという間に入ってしまう。
  気をつけているつもりだったのに。今日とて、創と会った後も常に涼一を優先しようとか、創と2人だけで会話しないようにしようとか。
  それがものの10分、いや1分もしないうちに涼一は暴走しているのだから堪らない。
「涼一」
  しかし雪也は雪也なりに今日をとても楽しみにしていたのだ。本来なら那智とて自分の作品が飾られ、大勢の人たちに見てもらえるところを直に確認したい気持ちもあったはずだ。けれど考えが過ぎる彼女が熱を出してしまったと聞いた時は、それならば自分が代わりにその様子を見てきて、写真も撮って、彼女の作品を見てどう感じたか、会場がどんな様子だったかを話して聞かせよう、と。そうすれば、短い開催期間の中で、彼女自身も自分の足でここへ来ようと思う気持ちが沸くかもしれない、と。
  それに、それはきっと、ここにいる涼一も協力してくれた方が断然よい結果になるだろうことも。
  期待していたのに。
  いや、今だって期待、している。
  だから雪也は何としてもこのヤキモチな恋人を、瞬時に、即座に、元の状態に戻す必要があった。

「手、繋ぐ?」

  その強い気持ちが言わせた台詞だったが、興奮していた涼一は最初何を言われたのか分からなかったらしい。
「………は?」
  それで雪也は再度強気な姿勢で敢えて堂々と言った。
「だから。展示見ている間、俺と手ぇ繋ぐ? 俺は涼一から離れないから。そりゃここには創もいるけど、俺は涼一とも一緒に見たいと思って来たし。涼一なら、那智さんにきっと凄く気の利いた感想言ってあげられるだろうって思ったし、それを頼みたいと思ってたんだ。だって涼一っていろんな芸術方面に凄く詳しいだろ。絵画だけでなくて、彫刻とか陶器とかもさ」
「……え、な、まぁ…そうだけど。でも」
  雪也の申し出自体はもちろん、やたらとぺらぺら早口でまくしたてられたことにも当惑したのだろう、涼一は途端驚いたように目を丸くし、それからようやく自分の「失態」に思い至って気まずそうに視線をあちこちに飛ばし始めた。
  それからがっつり掴んでいた創の肩と腕から手を離し、怒られた子どものように俯いてぼそぼそ返す。
「でもさ、雪……。本当はやだろ?」
「何が?」
「そんな……こんなさ、人がいっぱいいる所で……俺と手ぇ繋ぐなんて」
「涼一がそれで安心するならいいよ」
「で…! でもここ、お前んちの近所なのに」
「そういうこと考えてあげられるなら、何であんな騒いだかな」
「うるせーんだよ! お前は黙ってろ、このバカ創!」
「涼一! 創に当たらない!」
「はいっ…」
  思わずといった風に涼一が背筋を正した。今度は創が目を丸くする番だ。そうして素早く鞄からデジカメを取りだし、「今の撮っていい?」などとふざけて言う。
「創、からかうなら先行ってよ」
「分かった、ごめん。何だか今日の桐野君は怖いな」
「お前のせいだ!」
「涼一のせいだろ!」
「なっ…わ、かったよ…!」
  むっとして口を尖らせた雪也に、涼一はいよいよ「降参」とでもいうように両手を挙げた。そうしてひゅっと首を竦め、下を向いたままぶちぶち「だってさ」とか「こいつがさ」とか言いながら創を蹴ろうとする。
  創はそれを軽くいなして距離を取ると、「先に行くよ」と断ってさっさと階上のギャラリーへ向かって歩いて行ってしまった。
  ざわざわとする1階ホールには雪也と涼一が残される。
「雪、怒った?」
  創の姿が完全に見えなくなると、涼一は雪也の機嫌を窺うようにそう訊いた。
「ちょっとだけ。……でも、俺も大人気なかったっていうか、ちょっとムキになったかも。ごめん」
  すると結局、雪也も涼一の前でいつまでも強気の態度は続けられない。すぐにそう謝ってもう一度周囲を見渡し、ふっと苦い笑いを浮かべた。
「何かさ。でも案外、人なんてそうそうずっと見てないもんだね」
「だろ? 雪は気にし過ぎって言うか」
「でも、さっきは確実に見られてたから」
「うっ…」
「ははっ!」
  涼一が途端しゅんとするので雪也は思わず笑ってしまった。
  それからそんな恋人の胸元にこつんと手の甲を当て、近づきながら囁く。こんなことを言ったらまた怒るかなとか、それでもやっぱり、「涼一って可愛いな」と思いながら。
  ちょっとずるいかなと思いながら。
「あのさ。それでやっぱり、さっきのはなし」
「えっ」
「家帰ってからなら、いいよ」
「そんな、雪…! ……うぅ〜ッ、くそ!」
  それでも自分が悪いと分かっているのか、涼一は一瞬本当に悔しそうな顔を閃かせたものの、すぐに思いとどまったようになって「分かったよ」と叩きつけるように返した。
  そうして自らも雪の胸元をとんと叩き、「絶対、帰ったら繋ぐんだからな!」と言い含め、今度はさっさと先頭を切って創の行った先へ自らも向かって歩き出した。
  誰がどう見ても「長いなぁ」と思えるような足で。

(好きだな……)

  雪也はそんな涼一の後ろ姿を見やりながら今さらのようにそう感じ、思わずといった笑みを浮かべてから、ゆっくりと自分も涼一の後を追った。
  涼一は那智の作品にどんな感想を言ってくれるのだろうとわくわくしながら。