缶詰工場が潰れたら


  寛和(カンナ)の迷惑そうな顔が見たかった。
「 悪い。こんな遅く」
「 ……分かってるなら来るなよ」
  開かれたドアの先、その顔は寝入りばなを叩き起こされ思い切り不機嫌になっている、いつもの仏頂面だった。白いTシャツに黒のジャージ姿は寛和の就寝時のスタイルだ。その肩越し、6畳一間の真ん中に敷かれた布団が目に入って、静司(セイジ)は一応申し訳なさそうな顔で頭を下げた。
「 本当ごめん。つい癖で」
「 しょうもない癖だな。まあ、この間みたいにドアの前に座り込まれても困るから入れてやるけど」
  唇を尖らせて嫌味たらしくそう言った寛和は、しかし自分のその言葉によって途端嬉しそうに笑った静司を見て半ば諦めたように苦笑していた。それで静司も、ああ自分はやっぱり、本当はこんな風に笑ってくれる寛和の顔が見たかったのだと思った。
「 また先輩?」
  布団の上に胡坐をかいて傍の卓袱台からウーロン茶の入ったペットボトルを手に取った寛和は、後からひょいと身体を曲げて部屋に入ってきた静司に言った。
「 んーん。今日は監督。ここ、指導棒でぶっ叩かれた」
  首筋から背中にかけた部分を片手で摩りながら静司がそう言うと、寛和はあからさまに眉を顰めた。静司は布団を敷く為に壁際に避けられた卓袱台の傍に腰をおろし、その上に肩肘を乗せてから改めてそんな寛和を見やった。黒々とした少し癖のある猫っ毛は先週会った時より少しだけ伸びたように見える。首筋にかかったその細い髪に触りたいなと思ったのは今夜が初めてではなかった。
「 何か飲む?」
  寛和が訊いた。自分は飲みかけのウーロン茶を両手で弄びながら膝の上に置いて遊ばせているが、静司は部屋に入ってきてから上着も脱いでいない。それが気になったのだろうか。いつもよりはどことなく優しいその態度に静司は少しだけ驚いて目を見開いた。
「 何?」
「 え? いや、お前が俺に茶出してくれるなんて今までなかったから」
  正直に思った事を言うと寛和は思い切り気分を害したようになって身体を揺らした。
「 別に…。ただまあ、気分かな」
「 じゃあ今日来てラッキーだったな」
「 甘えるなよ?」
「 分かってるよ」
  ぽつぽつと返されるだけの会話だったが、静司にとってはそれだけで何だか嬉しかった。高校を卒業してから寛和と会える時間は格段に減ったし、こんなぶっきらぼうな態度でも素を見せてくれているのだと思えるとそれだけでも幸せだったから。
 
『 お前むかつく。デカイから』

  静司は高校で初めて会った時から寛和の事が気になっていて、どうにかして友達になれないかと思っていた。別段何に惹かれたというのはない。たぶん、なかったと思う。ただ寛和が周囲と違う事と言ったら、高校生男子にしては身長も160センチに届かず小柄で細身であった事。本当はヒロカズと言う名前なのに中学からの友人には「カンナちゃん」と呼ばれて親しまれていた事。本人はそれを女のようで嫌だと散々に喚き散らしていた事。それくらいではなかっただろうか。それこそ小学校の時分からバスケットボール一筋で体育会系な学生生活を送ってきた静司にしてみれば、そんな風に華奢で帰宅部の寛和とは接点がなかったし、実際2人共通の趣味というものもほぼ皆無と言って良かった。また小顔で繊細な顔立ちをしている寛和と比べ、静司はきりりとした眉に意志の強さを感じさせる目と引き締まった口許を有していて、外見から発せられる雰囲気も見事に対照的だった。更に言えば物事に対する感じ方も考え方も違った。
  それでも静司は寛和の事が気になっていた。だからあれは確か5月の体育祭の時だったか、思わぬところでふと2人きりになった教室で静司は寛和に話しかけたのだ。その内容は忘れたが。
  その時に言われたのが先の台詞。お前むかつく、デカイから、と。
「 なあ」
「 ……えっ?」
「 ……何ぼうっとしてんだよ?」
「 あ、悪い」
  ふと昔の事を思い出していた静司に寛和が不服そうな声で言った。両手の中で転がしているペットボトルを所在なげにくるくると回しながら、寛和はやっと自分の方を向いた静司の事をじっと見やった。
「 お前、ちょっと痩せた?」
「 え…。あー…どうだろ」
「 痩せたよ。絶対。顔の形変わった」
「 そうかな」
  何となく顎先を触りながら静司はそういえばそうかもしれないと思った。最近は部の方で色々と先輩後輩のいざこざや監督の過剰な暴力問題などで食欲が落ちていたから。
「 大学の部活ってやっぱ高校と全然違うんだな」
  先日愚痴を言った時に返されたのと同じ台詞を寛和は言った。
「 俺はバスケの事はよく分かんないけどさ、静司は推薦であそこ入ったすげー選手なんだろ? だから監督は期待し過ぎてお前ばっか厳しくするし、先輩は妬んでお前苛めんだな」
「 まあ……苛め、とまでは思ってないけど」
「 けど疲れるんだろ? だから俺のとこ来てんだろ?」
「 うん」
「 うんって…。お前ってホントクールなのか何も考えてないのか分かんないな」
「 寛和の所来ると癒されるからさ。だから」
「 ……そういう台詞言うのも天然ボケだよな」
「 何が?」
「 別に」
  寛和はふいと視線を逸らすと、何故か急に照れたように頬を赤く染めた。この頃はこういう顔をよく見せてくれるなと静司は思い、そうしてその表情が見られた時はとても得した気持ちになった。
「 仕事どう? 慣れた?」
  だから自分の話はもうそれでやめにしてしまって静司はいつものように寛和の近況へと話を移した。本当は大学の部活での愚痴などどうでも良いのだ。それを名目に寛和に会えれば静司はそれで良かったから。
  そんな静司の思惑には気づかず寛和は律儀に答えた。
「 まーな。さすがにな。思わぬ残業とか入るとへばるけど」
「 残業かあ。社会人って感じだな」
「 今にも潰れそうな缶詰工場だけどな」
  自分を卑下するように寛和はそう言って笑った。その職場は何社も面接を受けてやっと採用通知を貰えた所だったから、本当は愛着もあり、一緒に働いている人たちも皆好きだと思っているのだが。

『 お前むかつく。金持ちだから』

  以前、寛和は幾ら素っ気無く接しても尚しつこく自分に近づいてこようとする静司にそうも言った。そして自分の傍から追い払おうとした。一流商社に勤める父親に専業主婦の母親、バレエが趣味だという妹を持つ静司は、学校でも有名な所謂「良い所のお坊ちゃま」だった。静司ののほほんとした穏やかな性格は、そののんびりとした幸せな家庭環境から生み出されたものと言えたが、それに加えて本人は地道な努力を惜しまない真面目なスポーツマンだった。だから当然の事ながら、そんな静司は周囲の人気者だった。
  けれど寛和は言ったのだ。お前むかつく、金持ちだから、と。
  寛和は高校卒業と同時にこの六畳一間のアパートで独り暮らしを始めていた。寛和に家族はいない。18才まで施設で過ごし、就職と共に完全な独り立ちをしたのだ。両親の事など何も覚えていないと寛和は以前静司に言った。
「 この間さ、初任給で友達にメシ奢ってやったんだ。すっげー喜ばれた」
  寛和は得意気に静司にそう言い、それから背後の押入れへ腕を伸ばして程よく色褪せたジーンズを取り出すと、これも古着屋で3万出して買ったのだと自慢気な顔をして見せた。静司にはそのジーパンの価値は今1つよく分からなかったが、それでも「凄いな」と感嘆の声を漏らした。
「 お前にも何か奢ってやろうと思ったけどさ、お前は普段からイイもん食ってるだろうしさ。まあいいかって声掛けなかったんだ」
「 ………」
  悪びれもせずにそう言う寛和。ジーンズを仕舞って再びペットボトルをいじり出し、今度はそれに口をつけた。
  こくんと上下に動く寛和の喉元を静司は黙って見つめた。
「 まあお前もさ、色々あると思うけど。俺も色々あるわけだから。だからガンバレよ。俺にはそれしか言えねーよ。それだけでいいだろ」
「 うん」
「 ……お前ってホント単純だな」
  冷たく言ってやったつもりなのに素直に感謝した風の静司に、寛和は憮然として言った。
「 こんな言葉だけで満足するなよ」
「 違うよ。俺、寛和がそう言ってくれるから頑張れるんだよ。寛和のそういう台詞聞きたいからこうやって寮抜け出して来るんだ」
「 ……毎度思うけど、お前が先輩にいびられるのってそれが原因なんじゃねー?」
  頬をひきつらせながら寛和は「しょーがねえなあ」と言ってまた笑った。静司もそれにつられて少しだけ笑って見せたが、実は頭の中は「今夜泊まっていっていいか」という台詞をいつ切り出そうかと、そればかり考えていた。


  けれど結局、静司は深夜の数時間を寛和の部屋で過ごした後、「帰る」と言って立ち上がった。


「 もう夜中突然来るなよ?」
「 ううん。たぶん来る」
「 お前な…。せめて予告して来いよ」
「 電話出てくれんの?」
「 気が向いたらな」
  ドアの前でそんな会話を繰り返した後、2人は別れた。静司は今日も言えなかったと思いながらパタンと無情にも閉められたドアを見た後、踵を返した。そして、最低週に一回、自分はこうやって門限のある学生寮を抜け出しては、4駅も歩いた先の寛和のアパートを訪れているけれど、一体寛和はこんな自分の事をどう思っているのだろうかと思った。
  高校の頃だって自分が望む程仲良くなれたわけでもなかったのに。
「 静司!」
  その時、背後から急に寛和の呼び止める声が聞こえた。
「 え…?」
  驚いて振り返ると、そこにはサンダルをつっかけた寛和の姿があった。静司が歩き出した後すぐに追ってきたのだろうか、寛和はしかしどことなく上気した顔で、静司から数メートル程離れた位置で立ち尽くしていた。
「 何?」
「 忘れもん!」
「 ……ッ!?」
  声とほぼ同時、不意に投げつけられた物に静司は面喰らった…が、何とか胸の位置でそれを受け止める事に成功した。
「 さすが! ナイスキャッチ!」
  寛和の笑顔が夜の外灯の下でいやに眩しかった。それに魅入られた後、ふと手元のそれに目が落ちる。それは寛和が部屋でしきりに触れていた、飲みかけのウーロン茶が入ったペットボトルだった。
「 どうせまたてくてく歩いて帰るんだろ? それやるよ! 俺の奢り」
「 ………」
「 何だよー! 新しいのとかって言うなよ? それ、俺が口つけたやつだし! すっげーレアだぜ!」
「 ………さんきゅ」
「 ああっ!」
  寛和は静司の鈍い反応に思い切り苦笑したようになったが、用を果たして気が済んだのか、「じゃあな!」と言って再び部屋に向かって駆け出して行った。
「 あっ…!」
  そんな寛和の背中に静司は思わず声を掛けた。殆ど脊髄反射と言って良いだろう。
「 え?」
  寛和はすぐに振り返った。カラン、とサンダルの弾ける音が夜の道に響く。
  静司は寛和を見つめながらゆっくりと口を開いた。
「 あのさ…。お前のとこの缶詰工場が潰れたら」
「 はあ?」
  静司の言葉に寛和は思い切り眉をひそめた。何を不吉な事を言い出すのだコイツは、と言わんばかりの顔だった。
  しかし静司は構わずに言った。せっかく寛和が来てくれたのだ、何か言わなくては、何か。そんな気持ちでいっぱいだった。
「 お前が路頭に迷っても…。心配するなよ。俺の愚痴、聞いてくれるなら、俺が寛和の面倒見るから」
「 静……」
「 俺がお前と一緒にいるから」

『 静司のそのさ、無意識に人懐こいところがむかつくんだよ』

  以前寛和はそうも言った。静司、お前はあそこがむかつく、ここが気に食わない。だから俺はお前なんかと仲良くしたくない。そう言われる度に落ち込んだり悲しくなったりしたけれど、それでも静司は寛和から離れる事ができなかった。誰にでも人懐こいわけじゃない、寛和だからいいのだと、それを伝える為にはどんなに冷たくされても黙って何処までもついていくしかなかったから。だからずっとしつこくしたし、だから高校卒業後、寛和から新しく住むアパートの住所を教えてもらえた時は本当に嬉しかった。独りは慣れている、これからも基本はずっと独りだと言い張っていた寛和だから、尚の事嬉しかったのだ。
  そしていつか言いたかった。俺はお前のことが好きなんだと。
  いつかは一緒に暮らしたいと。
「 何だよそれ……」
  しかし静司の決死の告白はそんな一言で返されてしまった。
「 あ……」
「 お前はホント、ロクな事言わないな」
「 寛和、俺…」
「 煩い」
  慌てて傍に歩み寄ろうとした静司を厳しい一声で止め、寛和は驚愕の瞳からみるみる困惑の色へ、そして最後には随分と腹を立てたような顔になって遠目でも分かる程の大きなため息をついて見せた。
  そして。
「 お前ホントバカ。俺よりバカのくせに大学行ってるとか言ってマジむかつく」
「 う、うん…」
  しゅんとして俯くと寛和の舌は更に回った。
「 大体、学生のくせにどうやって俺の事養うってんだよ? お前の父ちゃんからの仕送りで2人生きていくなんて絶対やだぞ。大学辞めて働くか? バスケ捨てる?」
「 俺………」
「 絶対やだからな。お前が俺の為にバスケ辞めたりとかしたら殴る」
「 寛和…?」
  ふと、寛和を取り巻く空気が微妙に変わった気がして、静司は顔を上げた。
  じっと立ち尽くしこちらを見ている寛和。あ、さっき部屋で見た時と同じだと静司は思った。
  照れたような、困ったような顔。赤面して視線を逸らしている、自分の大好きな――。
「 今度」
  寛和が言った。
「 今度の給料日、メシ奢ってやるよ…。お前なんかに養われなくても逆に俺が食わしてやるよ。お前、バスケやってる時以外はてんで駄目じゃん。俺が見てないとホント駄目だから」
「 ………」
「 聞いてんのかよ?」
「 あ、うん……」
「 ちっ…!」
  軽く舌打ちし、寛和はふいといじけたようにそっぽを向いた。自分の言葉が半分も入っていないような静司に苛立たしさを感じたのだろう。
「 ……静司」
  けれど今度こそ帰ると言わんばかりに背を向けた寛和は、2,3歩歩いた先でまた止まり、静司を呼んだ。
  そして言った。
「 電話なしでも来ていいぜ」
「 寛和」
「 さっさと帰れよ! また先輩にぶん殴られるぞ!」
  静司が呼びかけ、後を継ごうとした言葉を寛和はさっとかき消した。そして今度こそもう振り返る事なく、寛和は夜の闇に消えるようにして帰って行ってしまった。
「 ………」
  サンダルの音が微かに耳元に残り、それが消えた後静司は寛和の跡を惜しむようにして彼が与えてくれたペットボトルをぎゅっと握った。と同時に、部屋でこれに唇をつけていた寛和の姿が鮮明に脳裏を過ぎった。
  どきんと胸が鳴り、不意に身体が熱くなったような気がした。
「 俺…っ。何もかもすっ飛ばして凄い事言わなかったか…?」
  それから不意に先刻の自分の台詞が蘇り、ばっと口元を抑える。反射的に出たその台詞は、確かに寛和に伝えたかった想いのひとつだったけれど、どうにも肝心な気持ちが伝わったか自信がない。勿論寛和の勤める工場が潰れれば良いなんて思っていない。ただ、いざとなったらお前には俺がいると言いたかっただけで…。
「 愚痴なんて情けない口実で会いに行ってたくせにあんな事言ったって…説得力ないよな」
  人気のない深夜の道路でぶつぶつと誰に向けるでもない突っ込みを静司は吐き出した。
  勿論それに応える声はそこにはない。
  すっかり汗をかいているペットボトルを握ったまま、静司は暫くの間その場に留まり、今更赤くなる自分をどうする事もできずただ困惑してしまった。