温かい午後に



 ―2―



「福山ー」
  間延びした、けれど明らかに懐いている声色で美咲(みさき)が雄途を呼んだ。
  昨日のこともあって一瞬は躊躇したものの、雄途はいつも通り彼女に母から渡された弁当を渡した。クラスでそれをすると「他の奴らが煩いから」と、この頃は校舎の裏手にある園芸部の敷地内でこっそり待ち合わせしている。それを知る一部美咲の友人などは「付き合ってるんでしょ」などとからかうが、雄途はそういう茶化しに対して、これまでは何とも感じていなかった。
  何故って、そんな事実はないから。
  意識したのは、港から指摘された昨日が初めてだ。
「いっつも悪いから、今日はこれ持ってきた」
  そんな雄途の不機嫌には気づかないのか、美咲はハンカチを敷いた草地にしゃがみこむと、すでに一人で読書を始めようとする雄途に購買で買ったらしい惣菜パンを差し出した。
「別にいい」
「でもさ、福山っていっつもお昼食べないじゃん。あんまり良くないよ、そういうの。人のお弁当取っちゃってるあたしが言うのも何だけど」
「別に食べたくないし。ごちゃごちゃ言うと、もうやらないよ」
「え! それは困る!」
  すでに受け取った弁当を胸で抱えるようにして、美咲は雄途に背中を半分見せた。おどけたような仕草は小柄な美咲には厭味なく映り、可愛らしい……とは、大半の男子生徒が思うのだろうが、雄途はまるで無反応だった。
「こんなに美味しいのに、歪んだ親子関係って悲しいもんだね」
  雄途が再び読書を始めたのを見計らった後、美咲はいそいそと弁当箱を開け、その豪華な中味に目を輝かせた。
  いつからこういうことになったのかは雄途も覚えていないが、彼女に弁当を託すようになってから、いつも残しがちだった弁当箱の中身がすっかり空になり、毎度ぶちぶちと厭味を言っていた母はとても機嫌が良い。
  だから何も悪いことはしていないと思う。
「あたしも人のこと言えないから、あんま口出しする気はないけどさあ。子どもは親を選べないからね。それは親にも言えることかもしれないけど、向こうはつくりたくてつくったんだろうから、やっぱり文句言う権利はあたし達の方にあるよね?」
「黙って食べたら?」
「ええ〜。だって黙々と食べるのつまんないんだもん。福山ってさあ、いっつもクラスでもほとんどしゃべらないよね。福山、頭いいし、そういうクールっぽい感じ?っていうの? そういうのを好きって女子も割と多いけど、ホントはもっと明るく笑ったりした方が人気も今より出ると思うよ?」
「別に、興味ない」
「何で」
「人間関係深くとかめんどくさい」
  雄途の叩きつけるような言い方に、美咲は大袈裟なため息をついて見せた。
「はあーあ。一体福山雄途君にはどういう過去があるんでしょうねえ? そんなカタクナになっちゃうのとかって」
「お前、煩い」
「しつこい女、ヤダ?」
「女でも男でも、しつこい奴は嫌いだ」
  自然強い口調になったものの、雄途ははたと、港のことを思い出した。
  思えば、雄途は港に対してはいつでも相当に「しつこい」。そういう時、港は雄途に、今の雄途が美咲にしているようなあしらい方をしていたように思う。
  モヤモヤとして、雄途はいよいよ不快になった。
  昨日の港は機嫌も良くて優しくて。あの午後は本当に奇跡のように幸せだったのに、けれど結局、その幸せは長く続かなかった。まさに予想通りだ。
  夜になって自室で勉強していた雄途や、恐らくは隣室でグループ展の構想を練っていたであろう港は、階下で凄まじい両親の争う声を聞く羽目に陥った。いつもは「夫」に従順で媚びへつらうように依存しているはずのあの母親が、これまで聞いたこともないくらいの怒号を発し取り乱していたのだ。
  さすがに階下へ行って港ともども「どうしたの」と問いただしたが、今思えば、それも余計な干渉だった。ああなった時の2人がまともな返答など寄越すわけもなし、知らぬフリを決め込んで部屋に閉じこもっていれば良かったのだ。
  母のあの声や顔を思い出すだけで、雄途は食欲どころではない、吐き気すら覚えてしまう。
「福山、顔色悪いよ。大丈夫?」
  本さえも閉じ、むっつりと黙りこんでいた雄途に美咲が心配そうに声を掛けた。
  かくいう美咲自身も、雄途の家と同じで両親の仲は良くないらしく、離婚こそ成立していないものの母親はすでに実家へ帰っていないのだという。残された父親は、かろうじて仕事はしているが、それで得た収入をすぐに酒やパチンコに浪費するとのことで、美咲は「進学したいが、お金を出してもらえるか分からない」と、部活もせずアルバイトに精を出している。
  そんな美咲が初めて雄途に声を掛けてきたのは、「勉強分からないから教えて」というものだった。クラスメイトなら何ということもない最初の一声といえばそれまでだが、雄途は成績優秀という点で周囲から一目置かれる存在とは言え、その頑なな性格故に「何だか話しかけづらい」と敬遠されていたから、美咲の行動は周囲にも、また雄途自身にとっても驚きの出来事だった。
  ただ、そんな美咲がただの「煩くて図々しい」女子生徒ではないのが、雄途にも分かったから。
「保健室行く? 疲れているなら寝てくれば?」
「……大丈夫」
「ホント? じゃあやっぱりお腹が減っていて眩暈がするとか…」
  本気で申し訳なさそうな顔をする美咲に、雄途はようやく強張らせていた表情を緩めた。
「お前じゃないから。そんな、一食かそこら抜いたくらいで力が出ないとか言って倒れるとか、普通ないから」
「あ、あれは〜! だってホントに限界だったんだもん。福山が小食過ぎるんだよ!」
「俺だって、食べたいと思った時は食べる」
  昨日、港が作ってくれたパスタは本当に美味しかった。
  また作ってくれないかな。昨日の今日じゃ、それはないだろうけれど。
「あのさあ」
  そんなことを考えてまた暗くなりかけていると、美咲がさり気なく空を仰ぎながら言った。
「あたしさ、あんまり人の事情に首つっこむの好きじゃないんだ。だってあたしが訊かれるの嫌な人だから。でも、フツーに心配はするよ? だって友だちだもん。だから、何か話したくなったらいつでも愚痴っていいよ」
  そんなことを話す美咲の耳は仄かに赤かった。
  雄途は暫し目を見開いてそんなクラスメイトを見つめたが、この時、心から「美咲と一緒にいることが、俺は嫌じゃないんだ」と思った。
「………お前になんか愚痴らない」
  ただ、口からぽっと出たのはそんな言葉だったけれど。
「かっ…可愛くなあーいっ!」
  そうして、案の定そんな返しに美咲はむかっとして目を吊り上げたのだが、雄途はそれに思わず笑ってしまった。港以外の人間関係なんかいらない。それは変えようのない事実なのに、今この時は確かに、雄途は「どうでもいい」はずの彼女に救われた気持ちになっていた。





  きっと、だからだ。
  いつもなら予備校の自習室へ行くなり、自室にこもって勉強するなりするはずだ。余計なことをすれば港の不興を買う。雄途にとってそれ以上に恐ろしいことはなかった。
  それでも、昨日の午後、ほんの僅かな時ではあったけれど確実に存在したあの穏やかな時間をもう一度手に入れたくて、雄途は港が通う大学の門をくぐった。
(港の、大学……)
  本当はもっと前から来てみたかった。実際、門の所だけを眺めて帰ったことなら何度かある。雄途は港の「外向きの顔」が好きではないが、だからと言って、あの息苦しい家以外の場で港と接したくないかと言えば、決してそんなことはなかった。「怖い」けれど、ただ見るだけならば、少しでも港と一緒の場所にいられるのならば、と…港に会いたいという欲求はいつでも雄途の中にあった。
  広い大学構内ではあったが、目立つ所に各学部へのルートが示唆されていたし、比較的迷うこともなく、雄途はすいすいと港がいるであろう油彩画コースのある建物へ向かった。美術大学とは言え、外観自体は他の大学とそうは変わらない。キャンパスを歩いている学生たちも、いわゆる「芸術家然」としたような雰囲気はなく、幾人かの男女が談笑する姿や掲示板の前で進路の話をしている様子は、以前に母親がしきりと勧めた大学のオープンキャンパスで見た風景と全く同じだった。制服姿の雄途をちらりと見て行く者もいたが、大勢が「見学者だろう」という意識くらいしかない。窮屈な気持ちはしたが、それ以上に港を探したくて、雄途は歩む足のテンポを速めた。
「どこ…?」
  とは言え建物内に入ってから、ようやくというか、今さら雄途は途方に暮れた。
  高校のように明確なクラスがあるわけでもなし、港が大学では普段どこにいるのかが雄途には分からない。闇雲に探したとしても、こんなに広い中では入れ違いになる可能性も高いし、そもそも港が今大学にいるのかも定かではない。否、友人とグループ展をやると言っているのだ、きっと大学内のどこかにはいるのだろうけれど。
  雄途はいったん建物から出て、その入口付近で暫し立ち尽くした。
  そうして仕方なしに携帯を取り出し、それを見つめる。
  電話を掛けて、港がまともに出た試しなどない。
  ではメールはどうか。
  考えた末、雄途は半ばヤケクソな想いで、直球に「今、港の大学にいる」と打った。
「怒るかな…」
  その場合は、このまま反応なしか、「すぐ帰れ」という冷たい返事が届くか。
  ドキドキしたまま携帯を握りしめ、雄途はそのまま佇んでいたが、思いのほかその「返事」は早くに雄途の元へ届いてきた。
  しかも、電話だ。
「も、もしもし…っ」
  思わず上ずった声が出てしまったが、雄途はメールで「帰れ」と言われるよりはよほどマシだと思い、むしろ喜びに近い気持ちで電話を取った。

≪雄途、どこにいるって?≫

  港の声の周辺には、他にざわざわと大勢の話し声もしていた。やはり友人らと一緒なのだろうかと思い、雄途の胸は少しだけツキンと痛んだ。
「港の大学にいる」

≪それはメールで見た。だから、大学のどこにいるの≫

「分かんない…。建物の入口」
  やはり怒っているような声だ。最初は人の声に紛れてよく分からなかったが、今はっきりと感じ取ったその苛立ちに、雄途は自然暗い気持ちになった。確かに直接「帰れ」と言われた方がマシだとは思ったが、これはこれで、やはり当然のようにきつい。

≪分かんないじゃないだろ。ちょっと周り見ろ。建物の入口にいるなら、何号館とか書いてあるプレートがあるだろ≫

「帰った方がいいなら帰る」

≪……そんなこと言っていないだろ≫

「港、怒ってる。勝手に来たから怒ってるでしょ」

≪いいから早く何処に――…って、ああいい。分かったから≫

「……え?」
「えー! あれ? お前の弟!?」
「似てるー!? いや、どうだろ、似てない!?」
「似てる似てる! 目とかが! うわ、でも可愛いー」
「でもってどういうことだよ、何気に失礼じゃねえ?」
  洪水のように溢れ出る大勢の声に、雄途は耳がちぎれるのではないかと思い、瞬間的に後ずさりした。
  入口からすっと見える長い通路からやって来たのは確かに港だ。先刻まで雄途と話していた携帯を片手に、左右には友人らしき男女と一緒に真っ直ぐこちらへ歩いてきている。どうやら港が「弟」と会話していると知った仲間たちもが興味本位でついてきたようだ。制服姿の雄途をいち早く見つけ、それぞれが浮かれたような、興奮したような感想を漏らしている。
  1番に辿り着いたひょろりとした細身の青年が、明るい表情で雄途に声を掛けてきた。
「はじめましてー! 俺、鬼頭っていいます。お兄ちゃんにはいつもお世話になってます!」
「え…」
「弟いるなんて知らなかったなあ。ほらこの人、あんまり自分のこと話さないでしょ? それが今、『弟が来てる』なんて突然言うからびっくりしちゃって。皆で押しかけちゃいました」
「初めまして、弟クン〜。高校生? やだー、制服姿、超可愛い〜。可愛くて綺麗系〜!」
「意味が分からないし、言い方が気持ち悪いよ、あんたは」
  肩にまでかかった長い髪に触れながら好奇の目を向ける女子学生と、その軽薄そうな声かけを咎める、真面目そうな眼鏡の女子学生。対照的な2人だったが、いずれも雄途が外のキャンパスで感じなかった「芸術家然」とした雰囲気を漂わせている女性達だ。
  その2人をぬって、やっと港が雄途の前にやって来た。
「何突然来てんの? 何かあったの?」
「おまっ。弟にもそんな冷たい言い方すんのかよ! そうか、お前のこの話し方ってフツーなんだ!?」
  最初に鬼頭と名乗った青年が、港の「いつもの言い方」に多少引いたようなツッコミを入れた。それは雄途に気を遣って発せられた台詞に違いなかったが、雄途は港とまともに話せないこの状況が嫌でたまらなかった。
  自分の知らない人たちと仲良さそうにしている港は、やはりきつい。想像はしていたけれど、きつかった。
「でもわざわざ会いに来たんだから、仲は良いんじゃない? ねえ、ユウト君? だっけ? 港ってうちではどんな感じなの? この人、一見愛想良いくせに腹黒だから、私たちもどういう付き合い方していいのか分かんないんだよね」
「立ち話も何だから、アトリエで話せば」
「それか学食行く? ちょっと早いけど夕飯ってことで」
「ていうかミーティングはどうするの?」
「そこで話せばいいじゃん」
  3人がそれぞれの意見を勝手気ままに話し続ける。港は何を考えているのか、雄途を見つめたきり特に何を言うでもない。
  雄途もそんな港を見たまま暫くは声が出なかったが、段々と3人の声が耳に痛くなってきて、遂に我慢が出来なくなった。
「港…」
  だから、周りの目も構わず、雄途は港の手首をぐっと掴んだ。そのまま引っ張りたかったが、それは港が許さない気がして、何とか堪えた。
  しかしどうやら、それだけで十分だった。
「えっと…」
  鬼頭が戸惑ったように口を噤み、他の女子学生2人も一気にしんと黙りこんだ。何やらただならぬ空気を感じ取ったのだろう、自分たちが騒ぎ過ぎたことにも気づいたらしい。
「あのさ、ちょっと行ってくるから、ミーティング始めてて」
  するとここで港がようやく口を開いた。いつもの外向きの笑顔。けれど、どこか冷え冷えとしていて、自分の言うことへの反論は許さないと言う風な空気。港は自分以外の人間にもそういう態度を取ることがあるんだ、と。何となく思っている間に、いつの間にか手首を掴まれ返されて、雄途は港に外へと引っ張り出されていた。
  引きずられるまま連れてこられたのは、構内にある学食の一角だ。雄途はそこに押し込むように座らされた。
  大きなガラス張りのそこは、テーブルのすぐ横を向けば青々とした庭園が見える。冬も近づき、芝生自体の色は薄かったが、その周辺に植えられている花はその季節のものなのか、色鮮やかな風景を形作っている。
「はい、どうぞ」
  港は自販機で買ってきたのだろう、ミルクティーを雄途の前に置き、自らも真向かいの席に腰をおろした。港自身の元には何もない。少し話して、すぐに仲間の元へ戻るということなのだろう、すぐに分かった。
「――で、何しに来たの」
  だから用件もすぐに訊かれた。雄途はまともに港の顔を見られず、ただ無視も出来ずに、「別に」とだけ答えてミルクティーの缶に口をつけた。普段は丁度良い甘さが、妙に甘過ぎると感じた。
「特に用ないなら、もう行くけど」
「港、怒ってる?」
「ちゃんとこっち見ないと怒るかもね」
「……っ」
  素っ気なく言われたその台詞にびくついて、雄途は慌てて顔を上げた。港はとうにそんな雄途を見つめていたが、意外にもその瞳の色には然程怒りの色はなかった。
  優しいそれでもなかったけれど。
「昨日のことで調子に乗られたら困る」
  そして港はそう言った。煩い虫を払い落すように。
「勝手に近づかれると困る」
「港に会いたかったから」
「家にいれば会えるよ。どのみち俺の帰る所はあそこしかないんだから、雄途がわざわざここへ来る必要はないでしょ」
「嘘だよ」
「何が嘘」
  すかさず返されて雄途は再度びくりと肩を震わせたが、目を逸らすことは許されていなかったから、怯えながらも必死にその目を見つめ続けた。
「港には行く場所なんていっぱいある。俺を置いて行くことなんて簡単でしょ」
「……そう思うの」
「昨日…優しくしてくれたから…だから、嬉しかったから、外でも会いたくなった。港の、外の顔見たかった…から」
  ……それに、家にも帰りたくなかった。今日は母親も家にいる。
  折角最近は穏やかだったのに、ほんのちょっとのきっかけであの2人は衝突する。何があったのか詳しいところは不明だし知りたくもないが、折角の温かな午後があのヒステリックな声に掻き消されたのは間違いがない。
  家は嫌いだ。
  それでも、港の所へ行こうと思ったのは、その「不幸」だけが全てではない。
「それでどうだった。外の顔?ってやつ。何か違った」
  港の声に雄途ははっとして意識を戻した。目の前に港がいるのに、ふと違う世界に埋没しかけていた。
  焦ったせいで声がどもる。
「お、思ったより、違くは、なかった。何か…ちょっと、あの人たちにも、冷たい感じ、したし」
「そう」
「でも、そういうの見せているってことは、いつもより親しい人、なんだなって…そうも、思った」
「だから?」
「………」
  だから、嫉妬した。
  そんなのは簡単な答えだ。すぐに言おうかと思ったが、雄途は港を見つめたままフリーズした。多分、それを言ったら今度こそ港は立ち上がってここからいなくなってしまう、そう思ったから。
  やはり来てはいけなかったのか。港に会いたい、港と話したい。たったそれだけだったのだけれど、見たくもない港の仲間を見て、港を不機嫌にさせて。自分は、昨日のことで確かに港に期待していたし、クラスメイトの美咲との時間が思いのほか居心地良かった。そのお陰で、昨夜のむかつきも緩和された。
  ということは、つまり、やはり浮かれていたのか。
  だから、その気持ちのまま港に会いにきてしまったのか。
  そんなのは自分勝手か。
  でも。
「嬉しかったから……どうしても、港と一緒にいたいって思った。早く会いたかった」
「嬉しかった?」
「うん…」
「嬉しいことあったの」
「うん」
「昨日の夜、結構最悪だったけど」
「うん。でも、自分でもびっくりするくらい、それを引きずってない」
「……へえ」
  港の声のトーンが下がった。それを不思議に思いながら、雄途はここでようやく手に触れていたミルクティーを思い出し、それをもう一度口元へ運んだ。
  今度の甘さは丁度良い感じがした。港はいつでも、雄途の好きな物を運んでくれる。
「港も飲む?」
  まだ不穏な空気がすべて払拭されたわけではないのに、それでも雄途は思わずそう言って、自分のそれを港へ差し出した。
  港はそれを黙って受け取った後、暫くは何事か考えたように動きを止めていたが、やがて同じようにそれをすっと口へ運んだ。
 そして言った。
「まさか来るなんてね。ホントに来ちゃうなんてね」
「え」
  聞き返すと、まくしたてるような声がすぐにきた。
「雄途君。君のこと。家でもしつこかった君は、でも外ではきちんと一線を保っていたでしょ。こうして俺に会いに来ることはなかったでしょ、今までは」
「うん…?」
「昨日1回優しくしてあげただけで、凄いね。何それって思ったけど。でも、それだけじゃないんだ。来た理由」
「え…それは…昨日のことも、あるけど」
「他にも嬉しいことがあったから、来たんでしょ」
「うん…。それで、港に会いたくなって」
「それはもう聞いた」
  港の口調が速い。雄途は焦りながら必死になった。
「ご飯、一緒に食べたくて」
「は、ご飯? 無理でしょ、俺これから用あるし」
「さっきの人たちと話し合い? グループ展の?」
「そう。もう時間ないしね」
「そうなんだ…」
「一人で帰れる?」
「帰れるよ。子どもじゃないし」
  雄途は言いながらもう立ち上がっていた。怒られながら帰れと言われるよりは良かったのか、けれどやっぱりこういう帰され方も悲しい。でもそれを表情に出すのは駄目だから。
  努めて冷静に、雄途は港から離れるつもりだった。
「会いに来てごめんなさい」
  だからきちんと、謝りもした。
「雄途」
  けれど、不意に。
「港…?」
  港が雄途に手を差し出し、その所作だけで雄途に座るよう促した。雄途が戸惑いながらも言う通りにすると、港はその出した手をさらに伸ばして、雄途が自然出しかけた手をぐっと掴んで引き寄せた。
  それからその指先をなぞるように、港は自らの手を雄途の指に絡ませた。
「港」
  普段なら拒絶しない。けれど意表をつかれたこともあり、雄途はその手を引っ込めようとした……が、それは頑として離されなかった。
  しかも端の席とは言え、港はそのまま雄途の指先に押し付けるようなキスをしたのだ。
「みなっ…」
「一緒にいたい?」
「え」
「帰りたくない? ホントは」
「そりゃ…」
  当たり前だと言う風に、雄途は赤くなったまま素直に頷いた。言葉は出なかったが、それは当然そうだし、もともと港に嘘はつけない。
  それでもキスされた指先が燃えるように熱い。雄途は港を前に珍しく自分の方が引き気味になって、恐る恐る港を見つめた。
  調子に乗ったところをまた崖下に落とされるんだろうか…?
  そんな想いも、ないではない。
「優しい振りして結局突き落とすなら、最初から突き落として」
  だからすぐにそう言ってみたのだが、港はそれを一笑に付した。
「何それ」
「だって…分からないから。今、港が何考えているのか」
「………そう」
「帰って欲しいんでしょ。急に来て、怒ってるんでしょ、やっぱり」
「うん。でも」
「でも?」
  その反応に驚きながらもすぐ反応すると、港はそんな雄途にこそ面喰らったように目を見開いた後、本当に僅かながら口元を緩めて笑った。
「嬉しいのかな、俺も」
「……え」
「あんな最悪だったのに。昨日、途中までは良かったから、俺は尚さら。尚さら最悪な気分で頭くるくらい引きずってるよ。……なのに、今は嬉しい」
「港?」
「雄途君と、こうやって外で会うの。あの家じゃない場所でこうやって2人でいられること。……まぁ情けないくらいびびってもいるけど」
「びびってる…の?」
「うん。すごく怖い。泣きたくなるくらい」
「何で……」
「このままどこかへ攫いたくなるから」
  港は冗談のようにそう言った。ちっとも真面目な顔ではない。いつもの飄々とした、とぼけた言い方だ。
  それでも雄途には、それが間違いなく港の真実の台詞に聞こえた。
  心臓が痛い。呼吸も苦しいほどに荒くなった。
「攫って…」
  だから何とかそう言うだけで精いっぱいだった。しかも言った瞬間、目頭が熱くなった。頭も痛い。耳もキーンとして聞こえが悪い。
  ただ港の顔だけははっきりと見える。
  自分を愛してくれている港の顔が見えた。
「もう……このまま、どっか行っちゃおうよ」
  掠れる声でそう告げた。もう何度も言っている。けれど、こんなに満たされた気持ちの中でそれを伝えられたことはなかった。
  ただ、港はそれに何の言葉も返してくれなかった。指先には触れたまま。見つめる瞳もとても優しい。
  けれどそれはどこか切なくもあり寂しそうでもあって、この手が離れた後は、きっとまた港は元の港に戻ってしまうのだろう、この僅かな午後のひと時だけが温かいのだろうと…何となく雄途は悟り、せめてそれがもう少しこのまま続くようにと、今度は雄途が港の指に自分のそれをそっと絡めた。
  そうして、港が目を逸らすまで、自分の方が港を見つめ続けようと思った。
  折角こうしてここへやってきたのだからと。