だから、これから



「俺もう、教科書もノートもぜってえ持ち帰りしないんだ!」
  その日、学校カバンに弁当箱しか入れて来なかった圭太は、友人たちに堂々とそう言い放った。
  これからは教科書もノートも辞書も、ついでに筆記用具も全部学校に置いておく。体操着だって持ち帰らない。学校の水道で手洗いして教室の窓際にでも干しておけばいいだろう。
「何でそこまで徹底するわけ?」
  そんなごく当然の疑問を放った友人の一人に圭太は憮然として答えた。
「だって、カバンが重過ぎたせいで背が縮んだ」
「え?」
「だからぁ、荷物が多過ぎんだよっ。毎日あんな重いもん持ち運びしているから、俺の身長はこんななんだろ? だから、これからは荷物を極力軽くするんだ!」
「ははっ!」
  するとそう言った圭太に、傍にいた友人らではない別の場所から、軽い笑声と直後「可愛いー」という感想が発せられた。
「はぁ?」
  だから圭太がその台詞に眉をひそめてひょいと身体を伸ばすと、視線の先には真っ直ぐ圭太を見やって微笑む一人の男子生徒がいた。
  因みに、その生徒の周りには沢山の女子生徒が群がっている。まさに両手に花だ。
「何だ、あいつ」
「隣のクラスの転校生だろ。圭太、知らないの?」
「知らねえ」
  友人の驚いたような言葉に圭太はむっつりして弁当の中の白米を見つめた。
  自分は至って真剣に、この「背を伸ばす為!荷物を減らそう大作戦!」を思いついたというのに、会話に混ざってもいない身も知らぬ奴から哂われた。「可愛い」なんてそんな台詞は、男に向けて放つ誉め言葉では断じてない。つまりはバカにしているという事だ。
  考えるだにじりじりとした苛立ちが募り、圭太は再び顔を上げてちろりと遠方にいるその転校生とやらに目をやった。
  相手はまだ圭太を見ていて、目が合うと分かると嬉しそうに再度にっこり笑んできた。
  圭太の方はそれに更にむっとして視線を逸らす。
  一瞬見ただけでもよく分かった。男子生徒は明らかに圭太とは違い長身で、如何にも高校3年生にふさわしい、もしくはそれ以上の均整のとれた体躯をしていた。
「あいつ、あの外見でやたら人懐っこいらしいから、既に学校中の人気もんだってよ。モデルの仕事とかもしているらしいしさ。そりゃ女共も放っとかんわなぁ」
「つまりは俺らの敵って事だな」
  圭太が嫉妬の炎を燃やしてそう呟くと、隣にいた友人は「おいおい」と苦笑して大袈裟にかぶりを振った。
「俺は別に何とも思ってねーぞ。あそこまでいったらもう違う世界の住人だし。第一、俺には彼女いるしー?」
「くっ」
  無碍にそう言って突き放す友人に圭太は握っていた箸をがじりと咥えた。他の仲間もにやにやして友人に同意した様子を示している。
  仲間内で彼女がいないのは圭太だけだったが、これまでは部活が楽しかったし別段不自由は感じなかった。第一、ちょっといいなと思う子が出来ても、そういう子に限ってすぐに彼氏を作ってしまう。恋を自覚する間もなく恋が終わる事が続いて、何となくどうでもいいかとここまで来てしまった。
  けれど一生懸命取り組んでいた部活を引退し、憂鬱な進路の事を考える時期になって圭太は唐突に「彼女が欲しい」と思った。
  ――否、唐突にではない。きっかけは確かにあって、だからこの160センチジャストという身長にも思い悩むようになったのだけれど――。
  それはともかく、圭太のその苦悩をいともたやすく笑ったあの男だ。
「くそっ…厭味な顔しやがって」
  転校生はまだ圭太を見ていた。「何なんだ」と思い、また無性に腹が立って、圭太はガンと机の脚を蹴った。
  背が高い上に顔までイイって、神様は不公平だと思う。あいつなら「あれ」が出来るんだろうな。ふっとそんな事を想像して、それがまたあまりに似合うと感じてしまったものだから、圭太は余計に自分が情けなくなり、残りの弁当を自棄のようにかっこんだ。
  とにかくカバンに荷物を入れない作戦は続行しようと心に決めながら。

「宿題を家に持ち帰らないだぁ? なめてんのかお前。なら居残ってやっていけ」

  当然のことながら。
  家に教科書もノートも持ち帰らないというのは、家では一切勉強しないという事だ。圭太が「僕は大学へは行かないので、勉強は学校だけで頑張ります」と普通に答えたら、担任教諭は笑顔で圭太にげんこつを喰らわし、居残り勉強を命じた。
「あー、ついてねえ」
  昼は変なのに笑われたし。
  俺の真剣な決意を仲間はスル―だし、担任はげんこつだし。
「はあ」
  圭太はなかなか進まない数学のプリントを見つめてから、やがてがしがしと少し伸びてきた頭髪をかきむしり、全てを放棄するように窓の外へ目をやった。
  そろそろ部活動の下級生らも片づけを始める頃だろうか。このあたりの時間帯ならそろそろ橙色の綺麗な夕暮れが見えるはずだが、今日は朝から灰色の雲が多くて空全体が暗い。天気予報では一日曇りだったけれど、雨が降るかもしれないとぼんやり思った。
  だから否応もなく思い出した。圭太が身長を伸ばしたいと切に思った先日の出来事を。
「あれ……良かったなぁ」
  あれは下校途中の、突然の雨に降られた時の事だ。通りかかった駅前で偶然目にした2人の男女。恐らくは待ち合わせをしていた恋人同士なのだろうが、とても親しげな雰囲気で、男の方がさっと持参していた傘を開いた。するとその男性よりも頭一つ分小柄な女性はその中に嬉しそうに飛び入って、悪天候の下、実に晴れやかな笑顔を向けた。その横顔はとびきり綺麗なものだった。
  友人たちには如何にもからかわれそうで言えないが、つまりは、圭太は「それ」がやりたくて堪らなくなったのだ。たった一つの傘の中、幸せそうな女の人と、傍に寄り添う長身の男。傘を差しかけるその姿が彼女を守っているようで、単純に「いいな」と憧れた。
  だから。
  だから、高身長が必要なのだ。
  彼女より背が低くては、相合傘が絵にならない!
「圭太君、勉強してるの?」
  その時、不意に教室の入口付近から声を掛けてくる者がいて、圭太は驚き顔を上げた。
「あ!」
  そして圭太はさっと表情を強張らせた。
  にこりと綺麗に笑うその人物は、昼時圭太を「可愛い」と言った隣のクラスの転校生だった。
「一人で勉強してるの? まだ帰らないの?」
  警戒する圭太にはまるで構わず、その転校生はそう言いながらさっさと歩み寄ると、そのまま圭太の机上にあるプリントを見下ろした。それから「数学かぁ」と感心したように言ってから再び気の良い笑顔を圭太に見せる。
  なるほど、モデルをやっているというだけの事はあると納得した。間近で見ても転校生は悔しい程に格好良かった。
「もうすぐ下校時間だけど。こんな時間まで勉強しているなんて、圭太君ってどこかいい大学でも狙ってるの?」
「はっ? 別に……俺、これは居残りでやらされているだけ」
  別にそんな事を言う必要もなかったのだが、何となく毒気を抜かれて圭太は素直にそう答えた。
「俺が宿題持って帰んねーって言ったら、担任がキレて俺にだけ余分に沢山プリント渡してきたんだよ。いじめだろ、こんなの」
「あぁ」
  転校生は事態を理解したという風に声を上げてから、再び昼の事を思い出したのか可笑しそうに目を細めた。
「圭太君、カバンに弁当箱以外入れないんだもんね。荷物重くすると身長が縮むから」
  今にもまた笑い出しそうな転校生に、圭太はむうっと唇を尖らせた。
「お前、何? さっきから圭太君圭太君って馴れ馴れしいんだけど、俺、お前のこと知らないし。俺、これやんなきゃいけないし、もうどっか行ってくんない?」
「奏人だよ」
「は?」
「俺の名前。カナトって言うの。そう呼んで」
「それ苗字?」
「んーん。下の名前。俺も圭太君のことケイタって下の名前で呼んでいるから、圭太君も奏人って下の名前で呼んでよ」
「……何で? 俺ら別に友達じゃないし」
「うん。だからこれからそうなろう?」
「…………やだ」
  元来、圭太は人見知りしない性格である。この奏人のように誰彼懐くといった性質でもないが、だからと言ってやたらと人の好き嫌いを言う方でもない。「友達になろう」と言われて「嫌だ」なんて、いつもだったら絶対言わない。
  それでも圭太はこの時に限ってはもう咄嗟にそう返していた。多分、昼に笑われた事と併せて、この奏人があまりに自分の「理想形」だったからだ。みっともなく僻みめいた気持ちでいじけていたのかもしれない。
「昼に笑った事を怒ってるの? だったら謝る。ごめん」
  しかし相手は全く気分を害するでもなく、あっさりそう言って尚圭太の様子を窺ってきた。こうなると圭太としても意地を張りきれない。これで再度「お前となんか仲良くしたくない」と言ったら、それこそ最悪な奴になってしまう。
「あ、でも」
  けれどそんな事をつらつらと考えていた直後、圭太に向かって奏人が言った。
「もし俺が圭太君を『可愛い』って言った事を怒っているなら、そこは訂正できないけど」
「え?」
「だってそれは本当の事でしょ?」
  奏人は至って当然という風にそう言ってから、「今日この後、一緒に帰らない?」と続けた。
「い……嫌だッ!」
  だから圭太はそれこそ条件反射のようにそう発し、今度こそ頭にきたように目を剥いた。
「お、俺、何かお前むかつくし! やっぱ仲良くできねーわ、悪いけど! いや、多分悪くねーけど! 何かお前、俺のことバカにしてねー!?」
「ええ? 全然してないよ、何でそんな風に言うの?」
「その! 何かそのさらっと言うところも嫌だ! 俺とは合わない! お前もそう思うだろ!? 俺ら、何か違うよ!」
「何が? 俺は、圭太君と俺って合うと思うなぁ」
  圭太がムキになればなるほど、奏人は何が嬉しいのかますますニコニコして、珍しい生き物でも眺めるような顔で圭太を見つめた。その涼し気な顔がまた嫌だと圭太は思うのに、そう思えば思うほど、奏人は尚一層さらりひらりと圭太をかわして、しつこく「一緒に帰ろうよ」と繰り返した。
  むしろ何だか、怖くなってくるくらいだ。
「……俺、まだ、これ終わりそうもないし」
  だからひとしきり抵抗した後、圭太はすっかり諦めて正攻法で「一緒には帰れない」理由を述べてみた。そう、圭太には宿題(とプラスの課題)を学校でこなしていく義務がある。だから奏人とは一緒に帰れない。
「終わるの待つよ。分からないところは教えてあげるし」
「お前、これ分かるの?」
  よせばいいのに咄嗟にそう聞き返してしまった圭太は直後「まずい」と思ったのだが、もう遅かった。
「うん、分かるよ。これ今日うちのクラスで習ったところだし」
  それは圭太のクラスにしても同じ事だったのだが。
  それはともかく、奏人が嬉々としてプリント問題の解説を始めてしまったので、圭太はもうそれを黙って聞くしかなかった。……もっとも、それは少しだけありがたくもあった。このままうだうだ一人でやっても到底終わりそうにはなかったし。
  それでも圭太は奏人に対し素直に手伝ってくれた礼を言う気にはなれなかった。
  何故って、課題をこなす間中ほとんどずっと、奏人は圭太の顔をじいっと飽きもせず見つめ続けるものだから。
  圭太は勉強脳だけでなく、心までぐったりと疲れ果ててしまった。

  そしてそれ以降、何故か奏人は毎日のように圭太のいる教室を覗き、暇さえあれば圭太に話しかけてくるようになった。

「なあ、圭太はいつから西園とあんなに仲良くなったんだ?」
「ニシゾノ? 誰それ?」
「は? だから、西園奏人。隣のクラスの転校生!」
「ああ、あいつか…」
  昼休み、何となく食欲のわかない圭太に、友人が呆れたような顔をして後を続けた。
「お前、知ってる? 最近、西園がお前の事ばっか構うから、隣のクラスを筆頭にお前をウザがってる女子が急増してんだぜ」
「はっ? 何だそれっ」
「やっぱり知らなかったか」
  お前はどうも周りの事に無頓着過ぎるなと友人はため息交じりに言い、「俺の彼女の情報によると」と圭太の現況のまずさを事細かに説明してくれた。
  何でも圭太は人気者の奏人を独り占めする「嫌な奴」で。
  奏人は圭太と知り合うまでは誰にでも分け隔てない付き合い方をしていたのに、最近は圭太に割く時間が多過ぎて、周囲には極めて素っ気ないらしく、だから奏人のその態度は全て嫌な奴・圭太の差し金ではないかという酷い噂が広まっていた。
「す、すげえ迷惑な話じゃんか…! 俺は別に頼んで一緒にいてもらってるわけでもないし、あいつが勝手に来るだけなのに!」
  「カバンに荷物を入れない作戦」のせいで宿題を家に持ち帰れない圭太は、ここのところ毎日のように放課後は学校で居残り勉強する日々を送っていた。
  そこへ必ずやって来るのが奏人だ。奏人は圭太が教室だけでなく、気分転換にと、外のベンチや屋上等へと勉強場所を変えても、すぐにその行先を突きとめて当たり前のように世話を焼いてくる。
  そうして帰りは一緒に帰る。たかだか駅までの数十分程度だけれど。
  しかしそうした毎日が、まさか多くの女の子たちを怒らせる原因になっていたとは。
「モテるどころか袋叩きに遭うかもな、そのうち」
  まるっきり他人事のようにそう言って、友人たちは「まあ頑張れよ」と肩を叩いた。
  一体何を頑張れと言うのか。
  圭太はますます食欲のなくなった状態で弁当箱に残る白米を見つめた。帰りも少しでも荷物を軽くしたいから、一粒の米だって残したくはないのに。
  その日は不本意にも完食できないまま昼休みが終わってしまった。

  そうしていつもの放課後。

「圭太君、今日はここにいたんだ。意外過ぎてちょっと見つけるのに時間かかっちゃった」
  図書館の一角で一人黙々と宿題をこなしていた圭太に、奏人がやって来てそう言った。
  時間がかかったと言っても、圭太がこの席に座ってからまだ20分も経っていない。奏人はかくれんぼみたいだねなどと呑気に笑ったが、圭太としては到底一緒に笑う気分ではなかった。
「お前、今日は先帰っていいよ」
「え、何で。俺は圭太君と一緒に帰りたいから待ってるよ。それに分からないとこ、あるでしょ?」
  いつものように優しく言う奏人に、しかし圭太は頑として首を振った。
「ないよ。あったとしても今日は自分で考えるから別にいい。とにかくお前は先帰れ」
  まがりなりにもこれまで好意的に協力してくれた人間に対し取る態度でない事は、圭太にもよくよく分かっていた。それに女の子たちが奏人の事で圭太を恨んでいたって、それが奏人の責任かと言われれば、決してそうではない事も分かっていた。
  それでも圭太はもう奏人に付きまとわれるのは嫌だった。悪い奴ではないという事は何となくもう分かっていたが、女の子の件とはまた別に、もう嫌だった。
  最近、圭太は感じていたのだ。
  何をって、「奏人と俺はどうも普通の友達っぽくないな」という事を。
「圭太君、何か怒ってる?」
  例えばこういう時。
  奏人が機嫌を取るようにさり気なく圭太の髪に触れた。奏人は圭太によく触れる。一番よく触るのは髪。圭太は野球部で夏の大会が終わるまでずっと坊主頭だったが、引退後「女の子にモテたい」一心でうざったいのを我慢して必死に伸ばした。
  その黒髪を、奏人は実によく触る。
  あとはバットの振り過ぎでマメの出来ている指とか、ちょっと気にしているなで肩とか。
  奏人は折に触れ圭太のそういったところに手を伸ばすのだ。それが友人同士でやる冗談交じりのスキンシップなら何も感じはしないけれど。
  でもこれは何かが変だな、と。
  最近特に思うようになった。
「別に怒ってないよ。ただ先に帰って欲しいってだけ」
「やっぱり怒ってる。何? 俺何かした?」
「別に」
「じゃあ一緒にいてもいいでしょ? それにね、今日は雨が降りそうだから」
「え?」
  奏人が何気なく向いた窓の方を圭太も共に見ると、なるほど、いつだったか暗い空だと思った日と同じ、灰色の雲がもくもくと漂って校舎に暗い影を作っていた。
「圭太君、カバン軽くする為に傘持ってきてないでしょ。もし雨が降ったら大変じゃない。俺は傘を持ってきているから」
「傘2個持ってんの」
「んーん。1個だけど?」
「……じゃあ、どうやって一緒に帰んの」
  何だか嫌な予感がしたが……というよりは、もう分かりきっていたのだが、圭太はあがくようにぼそりとそう訊いた。
  不意にじりりと。
  あの日、駅前で見かけた楽しそうな2人の姿が脳裏に浮かんだ。
  圭太がとても憧れた――。
「どうやってって、傘は1本しかないわけだから。相合傘しよう?」
「……ッ!」
  何でもない事のように軽く言って笑う奏人に、圭太はここでいよいよカッとして立ち上がった。
「圭太君?」
「煩ェな! もう、そういう風に呼ばれるのも嫌だ! 気持ち悪いんだよ、お前!」
  圭太はそう叫ぶとがちゃがちゃ乱暴にノートと筆記具をかき集め、そのままそれを胸に抱えて走り出した。背後から奏人の焦って呼び止める声も聞こえたが構っていられなかった。
  圭太は逃げるように校舎を飛び出した。
「圭太君!」
  それでも奏人にはすぐに追いつかれてしまった。当然だ、奏人の方が背も高く、必然的に歩幅も広い。あっという間に距離を縮められてぐっと肩先を掴まれる。圭太はそれにぎくりとして振り返ったが、奏人は必死に追ってきた割にはいつものような穏やかな顔のまま、ただ困ったように「どうしたの」と訊いた。
「俺、何かしたの? 圭太君の気に障るようなこと」
「煩いな! 別にないよ、気にするなよ、俺の事なんか! 俺はただ、一人で帰りたいだけ!」
「どうして。俺のこと嫌じゃないなら一緒に帰ろう。ああ、ほら」
  そうこうしているうちに奏人の言う通り、雨がぽつぽつと降り落ちてきた。はっとして圭太が空を見上げると、それは次第に細く長い雨となり、じわじわと灰色のコンクリートを濡らしていった。
「風邪引くから」
  奏人がそう言って自らの傘を開き、圭太の頭上にかざした。
  圭太はそれにハッとして逆らうように身体を仰け反らした。
「圭太」
  それでもいきなりそう呼び捨てた奏人は、今度は少しきつい表情で圭太の手首を捕まえ「出ちゃダメだよ」と引き止めた。
  だから圭太もいよいよ堪らなくなった。
「俺、男と相合傘なんてしたくない! 俺は、彼女と!」
「え?」
「俺…っ。背が高くなって、自分より小さい彼女作ったら、その彼女に傘を差してやるのが夢なんだ! こんな、だから、こんなお前に傘持ってもらうのなんて嫌なんだよ! 絶対!」
「……ああ」
  すると奏人はすぐに得心したようになると、やがてくふりと品の良い笑みを零した。
  そうして、そんな自分の態度に余計カッカとくる圭太へ、奏人はさっと自分が握っていた傘の柄を向けた。
「それなら、圭太が俺に差しかけてくれればいいよ。それで一緒に帰ろう? 俺が圭太の彼女でいいから。ね?」
「は……はあ? な、何それっ?」
  必死な形相で息すら切らしていた圭太はその提案に勿論ぎょっとしたのだが、当の奏人はやっぱり涼しい顔をしていた。
「だから、圭太の男の面子としては傘を差してもらうんじゃなくて、差してあげる方がやりたいんでしょ? だから俺が圭太の彼女になって差してもらう役をやるってこと。俺は彼女でも彼氏でもどっちでもいいんだ」
「お前の方が背ぇ高いのに、疲れるじゃん! てかお前、俺の彼女でも彼氏でもないし!」
「うん。だから、これからそうなろう?」
  以前教室で初めて圭太に話しかけた時のように、奏人はこの時も至極あっさりそう言った。
  そうして無理やり傘を渡すとさっと屈んで顔を寄せ、奏人は圭太の唇にちゅっと音の出るキスをした。
  まるでそうするのが当たり前だという風に。
「あのね、圭太」
  奏人が言った。
「俺は元からこうするつもりだったんだよね。でも友達から入った方がいいのかなーって。けど、やっぱりフリは疲れるね」
「…う」

  そんな事をそんなニッコリ言われても知らん。

  そう思ったけれど声が出なかった。圭太は掴まされた傘をぽとりと落とし、そのままその場で硬直した。
「やっぱり可愛い」
  満足そうにそう呟く奏人にも何も言い返せないまま。