だから、これから2
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「今日、学校休む」 「は!? 何で?」 「腹が痛い…」 「もぉ〜、だったら早く言いなさいよ、お弁当作っちゃったでしょ! お腹痛くなるなら、前日からなりなさいよね!」 「無茶言うなよ、それでも親か!? もうちょっとこう…! 心配とか、しないわけ!?」 「だってあんた、見るからに元気そうだし」 「う」 「どうせズル休みでしょ」 「ううっ!」 「まぁ、あんたが休みたいなんて言うの、めったにないことだし? ナイーブな受験生にはいろいろあるのかもしれないしねえ。もうすぐ中間テストだし、家で勉強するなら休んでいいわよ」 「………」 圭太の母親は、圭太が年齢相応につく嘘や隠し事をすぐに見抜いてしまう。 母曰く「とても分かりやすいから」ということだったが、圭太本人にしてみればたまらない。クラスで好きな女の子ができるとすぐ察せられてからかわれるし、友だちが貸してくれるHな本やDVDもその日のうちに発見される。別段、過干渉な親というわけではないから、母親の言う通り、圭太という人間が元より嘘や隠し事に向かない性質なのかもしれない。 だから「腹が痛い」などと言っても、それが嘘だというのはすぐバレるだろうなというのは、圭太も分かっていた。 ただ、「何で嘘つくの」とか、「学校行きたくない理由を言いなさい」等しつこく迫られないことも分かっていた。そこはありがたい親だと思う。 「お母さん、今日10時からパートだから、お昼はお弁当食べてね。何か欲しい物あったらメールして」 「分かった」 せっかちな母親は、一足早く出勤した父親の朝食皿をもう洗い始めている。 圭太はそんな母の後ろ姿をちろりと眺めた後、パンと目玉焼きがのった皿を持って自室へ上がった。 「はあ…」 独りの部屋に来て、まずは露骨なため息をつく。 その後、何ともなしに持参したパンを口にほうばったが、昨夜から一睡もしていない身体は心なしかぐったりしていて、体調が悪いというのはあながち嘘ではないなと思った。…母は「見るからに元気そう」などと失礼なことを言っていたけれど。 「あいつ…くそ、何てことしてくれんだ! くそ、くそ!」 少し考えるとまた同じ怒りに支配される。圭太はヤケのように朝食をかっこみ、すぐに再びベッドの中へともぐりこんだ。 昨日、隣のクラスの転校生・西園奏人に、圭太は帰宅途中の道端でキスされてしまった。 それは悪ふざけとか軽い冗談とか、その手の「なんだあ」というような類のものではなく、明らかに「ガチ」のキスだった。晩熟の圭太でもそれがそうとは分かる、それはとんでもなくタチの悪いキスだったのだ。 以前からしつこくつきまとっていた奏人を、「こいつ、何か変だな」と思うには思っていた。けれど、奏人は学生の傍らモデルもやっていて、女子生徒にも絶大な人気を誇る、いわゆる色男だった。圭太が初めて奏人を見た時も奏人は周囲にたくさんの女子をはべらせていたし、それに対して満更でもないような笑みと言葉を発していた。実際、奏人は誰に対しても明るくて親切で、有名人であることを少しもひけらかさない、ただの「色男」ではなく、「イイ奴」でもあった。圭太自身は、最初が「自分の身長を笑った」という悪印象から始まったから、「友だちになろう」と言われた時もすぐに「嫌だ」と言ったり、何かと冷たくぶっきらぼうに接していたが、多分、あんなおかしな初対面がなければ、それなりに仲良く出来たかもしれないと思う。 いつも居残りをさせられる圭太に勉強を教えてくれた奏人は、実際悪い奴ではなかったし。 それでも、である。 「あいつ…やっぱりそういう意味で俺につきまとっていたのか…うわあ…」 ベッドの中でもぞもぞと呻きながら、圭太はもう何度目かも分からない昨日の出来事を反芻し、一人で勝手に赤面した。 “友だちから始めた方がいいと思ったから隠していたけど、俺は初めからこういうつもりだったから”―…と。 実にあっさり告白してきた奏人は、いきなりキスされ絶句、石化した圭太を見ても、変わらぬ態度でにこにこしていた。 「いや…! あれは、≪にこにこ≫じゃなくて、≪ニヤッ≫だったかも! 何か意地悪い感じの! 策士みたいな! てことは、あいつイイ奴とかじゃないかも! ああそうだ、イイ奴のわけねーよ、だって俺が焦ってんの見ても平気な顔して…何考えてんだあれ!? あれは、あれか!? 『俺みたいなイイ男に告白されて、幸運だと思えよ』的な? うわー、だったらそれってかなり腹黒じゃん! そうだ、あいつ実はそういう奴なんじゃねーの!? 確かに、そういう片鱗は見せてたし、前から!」 昨晩から同じことを何度も頭でループさせている圭太だが、そのうちの幾つかはすでに外に漏れていた。単純に声に出して何かを言っていないと、しんとした空間で奏人の顔がもろに思い浮かんでしまいきついから、というのもある。 しかしこの非生産的なもがきが問題の解決には何の役にも立っていないことを、もちろん圭太自身理解している。 「う……」 9時に近づいた頃、クラスメイトの友人から「今日休み?」というメールが入った。 圭太が「腹痛」とだけ返信すると、馴染みの友人はすぐまた「西園が圭太来てないのって言ってた」などと寄越してきたから、一気にザッと蒼褪めてしまった。 否、蒼褪めたのはその後だ。 “連絡先聞かれたから教えたけど、別にいいよな?” 「いいわけねーだろッ!!」 思わず飛び起きてそう叫んだが、階下から母親が「圭太―?」と呼ぶものだから、圭太はハッとして口を押さえた。 「なに!?」 「お母さんもう行くからー」 「い、行ってらっしゃい!」 「勉強してんのー?」 「してない! 寝てる!」 「もー。じゃあね〜」 別段怒っている風ではないが、呆れたような間延びした声。人の気も知らないで呑気なものだ、自分の息子が「腹黒男」に襲われそうで大ピンチだというのに、と、理不尽な怒りを母に向ける。 それでもパニックになっている圭太を、その「腹黒男」は待ってくれなかった。 「ぎゃ!」 突然鳴った電子音に圭太は再びおかしな声を上げた。電話だ。メールと違い、電話はめったに使わないので音量も大きく感じるし、そもそもやたらハイテンションな着信音にしている。以前、友人がふざけてその設定にしたのをそのままにしていたのだ。 「し、し、知ら…!」 今はそれを心底恨みたい心境だったが、しかし今はそれより何より、この「見知らぬ番号」からの着信が問題だった。 「こ、これは出ない方がいいな。間違いなく奴だよな。うん、そうしよう。出るのやめよう」 圭太は携帯をぎゅううと握りしめながら、一人ぶつぶつとそう言った。 電話はなかなか切れない。確か10コールくらいで留守電に切り替わるはずだ。 10コールが100コールくらいに感じるが…。 やがて携帯は切れ、留守番電話に切り替わった。メッセージを聞くか否か迷ったが、これは一応聞いておこうと意を決する。 電話の相手は案の定奏人だった。 奏人は昨日と何ら変わらない、あの爽やかな良い声で話している。 ≪圭太君の番号で合っていますか? 奏人です。具合悪くて休みって聞いたので、放課後お見舞いに行きますね≫ 「おいぃっ!」 思わず突っ込みを入れつつ携帯をぽろりとこぼした圭太だが、慌てて拾い、もう一度それを再生する。間違いない、「お見舞いに行っていいですか?」ではなく、「お見舞いに行きますね」と入っている。 「普通は人の都合聞いてから来るだろ、普通は! 何勝手に来るとか言ってんだよ! ていうか、俺んち何で知ってるんだよ〜!?」 たかだか一日学校を休んだくらいで奏人から逃げられないことは分かっている。そしてそれが何の意味もないことも。だからと言って、少なくとも今日一日は安息であるはずの家にまで来られたらたまらない。 奏人に「お前の気持ちは迷惑だから」と言えばいいのは分かっている。そこに「悪いけど」とつけて、「お前の気持ちは嬉しいけど、俺は好きじゃないから」とでも言って引導を渡せば完璧ではなかろうか? 「……で、でも、何か」 圭太はそれも昨夜散々考えたことながら、それが「解決にはならない」ことを、何となくだが感じていた。 多分、それで問題は終わらないと。 何故だかは分からないのだが、それをはっきりと確信しているのだ。 「あいつ…何で…」 自分なんかに目をつけたのだろうと圭太は心底不思議に思う。 あんなに女の子に人気があって、引く手あまただ。相手には何にも困らないのに、どうして男の俺なんだ。仮に元からソッチの趣味があったとしても、もう少しカッコイイ男とか、可愛い男を選べばいいじゃないか。 「はあ……」 圭太は何度目かのため息を零した後、ちらりと窓の外を見やった。 奏人が放課後来るという。 圭太がズル休みだということは分かっているだろう、つまり、お見舞いなんて嘘だ。 では、一体ここへ来て何を話すというのか。 「でも…そうだな。ケリつけるなら、早い方がいいよな」 すでに静かになっている携帯をもう一度握りしめて、圭太は意を決し呟いた。 奏人が来るまでまだ時間はある。それまでにいろいろな「お断りの台詞」を考えることにしよう。簡単だ、人としてきちんと話せば分かってもらえる…はず。 「よし!」 そこまで考えると、圭太は机に向かって紙とペンを取り出した。何事も下書きから始めないと気が済まない性質なのである。 このくらいの時間に来るかな?という時間に、奏人はぴったり現れた。 「こんちは、圭太君」 「……どうも」 「具合大丈夫? お見舞い、何持ってきていいか分からなかったから、とりあえずお腹に優しそうなもの持ってきたよ」 すいっと渡されたお洒落な包装紙にくるまれた四角い箱には、駅前有名店のロールケーキが入っていた。これが腹痛の人間に「やさしいもの」なのかはさておき、中にたっぷりの生クリームと果物が惜しみなく詰められているかの菓子は、圭太の大好物だった。 「あ、ありがと…。俺、これ好きなんだ」 「ホント? よかった」 思わず素直な礼を発した圭太に奏人は嬉しそうに笑った。さすがモデルとでも言おうか、少し笑むだけで周りの空気が華やいで見える。しかも圭太が大きくドアを開けて中へ入るよう促したせいか、奏人はその微笑をさらに輝かせた。平然としているように感じるが、奏人は奏人なりに、圭太から門前払いを喰らうことも想定していたのかもしれない。 「家の人は?」 リビングに通された奏人は、すっきりと片付けられた室内をざっと見渡しそう訊いた。 圭太は台所でお茶の用意をしながらそれに素っ気なく答えた。 「仕事」 「ご両親とも?」 「うん。お母さんはパートだから、もう少ししたら帰ってくると思うけど」 「そうなんだ。そう言えば聞いたことなかったけど、圭太君って兄弟はいるの?」 「え?」 「何か、家族の話って聞いたことなかったし。あ、待って、今当てるね。圭太君の性格からすると……上がいる?」 「あ…当たり。そういうのって分かるの?」 「結構分かるよ。うーん、お姉さんでもお兄さんでも納得って感じだけど…、勘で、お兄さん?」 奏人の指摘に圭太は率直に驚いた。 「すげー…そうだよ。スゴイな、そんなの分かるなんて。でも、この家にはもういないけど。兄ちゃん、去年結婚して家出たから」 「へえ、そうなんだ。年離れてるの?」 「7コ違い。……奏人は、兄弟いるの?」 「当てて、当てて」 すでにソファに座っていた奏人だが、乗り出すようにして楽しそうにそう言った。 圭太は奏人が言うように「そういうのは結構分かる」とは思わなかったが、雰囲気的には、自分のように兄がいるようには思えなかった。 「どっちかっていうと…女のきょうだいがいる感じ?」 「え、何で」 「だって女の扱いに慣れてるって言うか…」 「ええ〜、そんなことないよ。俺は男でも女でも分け隔てなく付き合ってるだけ」 「……ふうん」 付き合ってる、という言葉に無駄に反応しそうになったが、圭太はすぐに気を取り直して、「とりあえず、勘でお姉さんか、妹」と答えた。 「外れ」 「じゃあ、男の兄弟?」 「んーん。俺、一人っ子。だから兄弟がいる人は羨ましいな」 「ああ……そう言われれば、そういう感じもするか」 妙に納得して圭太は頷き、それから冷蔵庫から注いだだけのアイスティーを差し出した。 「お湯、沸かしてないから。これでいい?」 「何でも。ありがとう。お茶までもらえるなんて思わなかった」 「何で…お茶くらい出すよ。土産も貰ったし」 ぼそぼそ言いながら、圭太は何となく奏人の向かいのソファに腰を下ろした。本当は自分のいつもの指定席は奏人が座っている方のソファなのだけれど、まさか隣に座るわけにもいかない。 「でも、家に入れてくれるとも思っていなかったから」 そうこうしている間に、奏人はさらりと本題に入った。 「今日、俺のせいで休んだでしょう。俺に会いたくなかったから休んだんだよね」 「………分かってて、よくすぐうち来るね」 圭太のげっそりとした物言いに奏人は苦笑した。 「だってこういうことは早く話つけないと気持ち悪いでしょ。多分、圭太君もそう思ったから俺のこと家に入れてくれたよね? ね、こういうところ、俺たちって結構似ているんだよ」 いつもよりも早い口調で奏人はそう言った。圭太はもう少しゆっくり話して欲しいと思ったが、急いているのは自分も同じだったから、合わせるように自然自分も早口で続けた。 「じゃあ、じゃあ言うけどさっ。昨日のあれっ。あんなん、いきなりされたらびびるし…! 俺が避けるのも分かるだろ!?」 「驚かせたのは悪かったけど、避けられる理由はイマイチ分からない」 「なん、なんで!?」 「だって圭太君も、今はまだ心の準備が出来なくても、そのうち俺のこと好きになると思うよ?」 冗談を言っている風ではない。奏人は至極当然という風にそう言った。 圭太は半ばあんぐりと口を開け、暫し呆けてしまった。 「どっこからその自信がくんのか、よく分かんないんだけど…。ま、まあ、今までモテてモテてモテまくっていたから、そういう風に言うのかもだけど。お、俺は、男と付き合うとか…そういうの、ありえないと思ってる人種って言うか」 「俺も今まではそうだったけど、圭太君ならありかなって」 「いやだから、そんなさらっと言われても困んだけど! だって俺―!」 「あ、ごめん」 必死にまくしたてている時に、奏人は突然スマートフォンを取り出してその画面を見つめた。誰かから電話が掛かってきたらしい、それにしても人と話している時にさっとそれを取るなんて、何と常識のない男だろう。―…圭太がそう思ってむかっとしているのをよそに、それでも奏人はその相手からの着信を取ると、「ああ、今ごめんね。取り込み中」と答えた。 「ん? んー、でも、その仕事は、俺やらないって言ったでしょ?」 奏人の言葉に、圭太はハッとして押し黙った。仕事の話なら仕方がないか…と思う一方、まだそんな売れっ子でもないだろうに、仕事を選ぶなど何て奴だと、また「大きなお世話的」な気持ちをむくむくと育たせる。 「え、今? だから、今は行けない。忙しいの。え、学校は終わったけど。今、好きな子のうちにいるから」 「お、おいッ!」 圭太が思わず立ち上がって声を荒げるのも、しかし奏人は知らん顔だ。 「え? そう。うん、そう。だから駄目だって。今まさにフラれそうなとこ、だからこれから一生懸命口説かないと。うん。うん、じゃあね。お疲れ様です」 短い通話はそこで終わり、奏人はにこりと圭太を見て笑った。 全く不本意なことに、圭太はそんな奏人を真正面から見てカッと顔が熱くなった。 照れでは断じてない、けれど恥ずかしい―…。 しかしその思考を何とか振り切って、圭太は再びどかんと腰を下ろし、精一杯乱暴な口調で言った。もう奏人の顔は見られなかったので、そっぽを向きながらだが。 「一生懸命口説いたとしても、お前に望みはないから!」 本当はいろいろ気の利いた台詞を考えていたのに。本番になると、やっぱりそううまく事は運ばない。 しかも焦りまくる圭太に、奏人がまた正反対の冷静さだ。 そして真面目な顔で告白する。 「俺、本気で圭太のこと好き」 「すっ…とか、言われても、俺は困るの!」 「圭太って嘘つくの苦手でしょ」 「は?」 「顔見れば分かるよ。確かに、今すごく困っているよね。それは俺のせいだ」 「分かってるなら、もう勘弁しろよ!」 「うん、だから、圭太が本当に嫌がるならこれ以上しつこくはしない。でも、俺が勝手に好きでいるくらいはいいでしょ? 圭太は絶対そのうち俺を好きになるから、それまで傍にいることは許して?」 「だ、だから…何で、そんなこと言うの?」 「だって圭太」 すっくと立ち上がった奏人に、圭太はぎょっとしてソファの上でのけぞった。 けれど迷いもなく近づいてくる相手にどうとも出来ない。何だか「やばい」感じがする、逃げないとと思うのに、圭太はその場でフリーズしてしまった。 そうこうしているうちに奏人は圭太の真横に来て座り、惑いなく顔を近づけて囁いた。 「圭太自身もまだ分かっていないのかもしれないけど、圭太は、俺のこと本気で嫌がってないよ」 「い…っていうか、お前、怖い」 「どうして? 俺、圭太のことはやさしくする。他の人は知らないけど」 「わ、やさしく、するなら、離れろって」 奏人の息がかかっただけで圭太は緊張し、ますます身体を硬くした。こんな風に意識し過ぎる自分は嫌だと思うのに、まるで何かの魔法でも掛けられたかのように思うような動きが出来ないのだ。 奏人は圭太は本心から嫌がっていない、そのうち奏人を好きになると言うけれど、圭太自身、そんな予感はまるでない。 それなのにどうして奏人はそんなことを言い切るのか。 圭太が「分かりやすい」とはよく言われることだ。両親からも、周りの友だちからも、圭太は思っていることがすぐ顔や態度に出るから分かりやすい、と。それは時に圭太自身が分かっていない、でも確実に「そう」であることも当てられたりして、後で驚くことがある。 奏人への想いもそうだと言うのだろうか。 「でも俺…今は、お前と付き合う気とかないって思っているわけだから」 「でも、この先は分からないでしょう? ねえ、お試しでいいんだ。最初はごっこでもいいから。もう少し俺と一緒にいてくれない?」 「お、俺たち男同士……」 「大丈夫。そんなの気にならなくなるから。それに、ごっこって言ったでしょ。そのお試し期間で本当に嫌だって思ったら振ってくれていいから」 「……お試し期間ってどのくらい」 圭太が恐る恐るそう訊いた時、ふっと奏人が哂ったことに、圭太は夢中で気がつかなかった。 「とりあえず、卒業までってことでどう?」 「ちょっ…お前、本当顔近すぎ!」 「それでいい? イエスって言ってくれたら離れるよ」 おもむろにぎゅっと抱き着いてきた奏人に圭太はやっとまともな抗議をしたが、それでも奏人は一向に離れない。圭太は奏人の中でじたじたともがいたものの、全くその腕が解かれないのに完全に根負けしてしまった。 ただ、今、この胸の苦しさから抜けられるのならと。 よくよく考えればおかしいこと極まりない、不公平な交渉にOKを出してしまった。 「分かったよ! でも、本当に嫌だってなったら、ちゃんと諦めてくれよな!?」 「うん。その時はすぐに圭太の前から消えるよ」 奏人はにこりと笑ってすぐにそう返答した。 それから圭太が逆らう間もなく、頬にちゅっとキスをする。 「ここここら!」 「だってカッコ仮つきだけど、今日から圭太は俺の恋人でしょ?」 「何言ってんの!? こ、こんなのやんないし! お試しで!」 「ええ〜。ま、今日のところはそれでもいいか」 「今日のところはって!」 「ところでお母さん、もうすぐ帰ってくるんだよね? 俺、御挨拶したいから待っていてもいいかなあ?」 「困る! 凄く困る! 俺の母さんイケメン好きなんだ! お前みたいの見たら―」 「気に入ってもらえそう? なら尚のこと待っていないとね」 それに、と。 奏人はいよいよ悪戯小僧のような顔をして目を細めると、もう一度というように圭太の身体を掻き抱き、今度は唇にその素早いキスを落とした。 「……っ!」 圭太がそれに唖然としても、みるみる怒りで赤面しても涼しい顔だ。 「圭太も結構面食いだと思うよ、俺は」 そうして奏人は不敵な顔でそう言い放つと、さらに問答無用の口づけを迫るのだった。 圭太がなし崩し的に奏人の掌中に収まって行くのは、最早卒業を待つまでもないのかもしれない。 |
了 |