ファースト・キス |
いつもこっそり寮を抜け出してはカンナの元へ行っていた静司だが、いつまでもそんな「夜遊び」がバレずにいられるわけもない。これまで暗黙の了解で見逃し続けてくれていた同室仲間はともかく、同じ部活の一番厳しいと評判の先輩に裏門で捕まった時は、「張り手の2.3発…いや、当分の間対外試合出場停止」くらいは覚悟した。何せ静司が通う大学のバスケットボール部は数ある運動部の中でも特に体育会系色が濃く、世間一般で恐ろしいと噂のラグビー部や応援団を凌ぐ、「恐怖の独裁制組織」として都内でも有名だったから。 それが一体、何だって。 「わぁ静司クン、顔真っ赤ぁ! もうホントカワイイー」 「ホントホント! ねえねえ今度は外で一緒に遊ぼうよー。みんなで河原でバーベキューとかしない? こんな体形だもん、お肉も好きでしょ?」 「静司ィ! テメエ1人でモテまくってんじゃねえぞぉ!」 「そうだぁ! 罰としてお前、この大ジョッキ一気飲みしろ!」 何だってこんな目に遭っているのか。 静司は酒も煙草も大嫌いだ。食べる事は好きだけれど騒がしいのが嫌だから、大学に入ってからもこういった居酒屋に顔を出す事は滅多になかった。せいぜいがバスケ部に入部した時に強制的に参加させられた新入生歓迎会と、試合後に先輩たちから無理矢理誘われる飲み会くらい。同級生たちから気安く飲みに行こうと誘われても、何だかんだと理由をつけて断る事が殆どだった。 けれど今日は断るに断れなかった。何せこのS女子大弓道部との合コンに参加すれば、先日の門限破りを見逃してくれると先輩から約束してもらえた。飲み会に1度顔を出すだけでいいのだ。今回の事で万が一試合に出られなくなるなどという事が起きれば、それを知ったカンナは大激怒するだろうし、「もう二度とウチには来るな」と言われる可能性だってある。それだけは絶対に避けねばならなかったから。 「静司クンはさ、彼女とかいるの?」 「いません」 先刻からしきりと横にくっつき話し掛けてくる女子大生の事を、静司は名前すら覚えようとしなかった。気持ちの浮き立った先輩連中からは「あわよくばお前もここで彼女を見つけろよ」などと言ってくれたが、勿論そんな気はサラサラない。 何故って、静司にはカンナという大好きで大切な存在がいる。たとえそれが一方的な片想いだったとしても、その気持ちは高校生の時から揺らぐ事なく静司の中に強く根付いている。今さらそれをなかった事にして、周囲が認める「まっとうな恋愛」をしようなどとは思わなかった。 (きっとこういうのは、普通では嬉しいんだろうな) 恐らくわざとだろうと思う、露出の高い服を着た年上の女子大生は、事あるごとにさり気なく静司の腕に自らの豊満な胸を押し付けてきた。やたらと近づいてくるせいで、ともすれば彼女の胸元の谷間もばっちり見える。まさに「見せ着」なのだろうけれど、静司には不快以外の何物でもなかった。きつい香水の匂いも、これでもかという程塗りたくられたメイクも。 全然魅力的に思えない。何が良いのか分からない。 (俺はもしかすると最初から男が好きな性質なのかもしれない) 周囲には華やかな女子大生たちがにこにことして静司に愛想を振りまいている。皆親切に話し掛けてくるし、静司に興味を持ってくれているようにも感じられる。 けれどそのどれもが鬱陶しい。 もし、こうして話し掛けてくれているのがカンナだったら。そうだったならば、静司も嬉しくて感動で泣いてしまうかもしれない。周りが退くほどにはしゃぎまくって、カンナ自身を呆れさせるのも目に見えている。それでもきっと、自分はカンナだけを見て、カンナにしか興味を抱く事が出来ないだろう。……そこまで思い至って、静司は「やっぱり自分はどこかおかしいのか」と思い耽った。女の胸よりカンナのしんなりとした細い肌を見ている方が興奮する。カンナの細い首筋や口許や、風に軽く揺れる柔らかな髪の毛を眺めている方がよっぽど心臓がドキドキと激しく騒ぎ出す。静司がカンナを想って独りで己の欲求を吐き出した事など、高校時代を通して数えあげたら本当にキリがないくらいだ。…そんな反面、友人や先輩が貸してくれた所謂アダルトビデオには全く反応しない。 どうかしている。きっとどうかしているのだろうけれど。 (カンナに会いたい) それでも静司がいつも思う事は結局それで、今さら「どうしてカンナを好きになったのか」、「どうして、どこが良くてそこまで惚れ込むに至ったのか」と訊ねられても、それは最早分からない。全くもって謎な事だ。 気づいたら、その時にはもうどうしようもなく惹かれていたのだ。 「はぁ…」 数時間に渡る責め苦から解放されて静司が大学の寮に帰り着いたのは午前0時を回ったところだった。 努めて飲むまいと決めていたから足元がおぼつかなくなる事はなかったが、この後も2次会と称してカラオケへ行くと息巻いていた先輩連中を振り切るのは実に大変だった。 一緒にいた女子大生たちも「静司クンが来ないと嫌」と駄々をこねるし、それで余計先輩たちから睨まれるし―とはいえ、そのお陰で先に帰る事を許されたわけだが―、とにかく静司の身も心も、ベッドにダイブしたらそのまま3秒で眠りに入れる、そんな状態だった。 「あ…」 けれど、不意に尻ポケットに入れていた携帯が震えて静司はぎくりと身体を揺らした。 酔い潰れた先輩を迎えに来いというような用件なら知らぬフリをして電源を消そうかとも思ったが、電話の相手は誰あろう、まさに今夜はずっと会いたい会いたいと念じていたカンナだった。 先日、「ほんのちょっとだけど出たんだ」と嬉々として告げたカンナは、その初めてのボーナスで自分の携帯電話を買った。以前は必要ないと言って興味もないようだったが、いつだったか仕事上の思わぬハプニングで静司との待ち合わせ時間に来られなかった時、カンナは約束を破った自分を酷く責めていたし、こんな時に携帯電話があれば便利なのにと思ったらしい。そういうきっかけを与えたのが自分かと思うと静司は嬉しくて堪らなかったが、勿論カンナは「別にお前の為じゃないから」と素直ではない。 それでも携帯電話を買ってからのカンナは、こんな風に突然静司に電話をしてくる事が多くなった。 会えない日でもこうして話が出来る幸せ。 静司は急いで携帯を耳に押し当てると、やや上擦った声を上げた。 「もしもし!」 『あ、俺』 カンナは静司の声に無感動に答えた後、暫し考えた風になってからぶすりとして言った。 『こんな時間に悪いな。寝てたか?』 「ううんっ。全然っ」 そんな事気にしなくてもいいのに、いつも偉そうな割にこういうところではとても気を遣う。そういうカンナだから余計好きだと思うのだけれど、静司はとにかくカンナの声を聞き取ろうと、深夜の道端で立ち止まったまま両手で携帯を持ち、「どうかした?」と聞き返した。 『別に特に用があるわけじゃないんだけどさ…』 カンナはもごもごとはっきりしないような声色でそう言った後、「お前、今部屋?」と訊いた。 『何か車通る音とかするけど……もしかして外にいるのか? あ、走ってたとか?』 「あ、ううん、そういうわけじゃない。今日、先輩たちとの飲み会に付き合わされて。今帰ってきたところなんだ。ちょうど寮の門の前」 『あー…そうなんだ。飲み会? ……へえ』 「…?」 カンナは静司の回答にますます陰の篭もった声を出し、その後はむっつりとして黙りこくった。 静司としてはそれで何やら余計に胸騒ぎがして携帯を持つ手に力を入れると、「カンナ」とその名を呼びながら優しく話しかけた。 「本当にどうかした? あ、仕事で何か嫌な事があったとか?」 『別に…』 「でも、声元気ないし。あ、良かったら、俺、今からそっち行こうか?」 『今から? バカじゃないのか、そっからどれだけ掛かると思ってんだよ。俺だってもう寝てるっつーの』 「あ、そうか。でも……」 『別に用なんかねえよ! 何かあったわけでもないし! ただ……ちょっと、お前が何してるのかと思って、さ…』 「え」 『な、何でもないっ』 静司が間の抜けた問いかけをした直後、カンナの焦ったような声と同時に、その通話は一方的に切られてしまった。 「カ、カンナ!?」 その事実を認めたくなくて静司は無駄に切られた電話に向かって話しかけたのだが、当然返事があるわけはない。静司は一瞬の間に起こったその訳の分からないカンナとの遣り取りにすっかり動揺し、自分は何かとんでもないヘマをしたのだろうかと、急いでその数秒前を反芻した。 ―が、特に思い当たる事はなかった。 それでもカンナが何もなく電話をしてきたわけはない。静司はますます分からなくなって無性に心配になった。 「やっぱり行こうか…」 静司の足でカンナのアパートまでは軽く見積もっても1時間半にはなる。もう電車が終わっているし、特に交通の手段を持たない静司はそこまで走って行かねばならないからだが、カンナに会う為ならばそんな時間も苦ではない。 ただカンナも指摘していたように、今から向かったとて着く時間も軽く深夜の2時を回る事になるから、そんな時間帯ではさすがにカンナも寝ているだろう。学生の静司とは違い、カンナは社会人だ。明日も仕事がある。それなのに夜も遅くに突然訪れるなど、迷惑にも程がある(―と、言いつつ、静司は何回もそれをやっているが)。 「カンナ…」 でも心配だ。 じりじりとした気持ちのまま、静司は暫くの間はその場にじっと佇み続けた。カンナのどこか気落ちしたような声、そうして飲み会に行ったという静司に対し憮然としたような空気を漂わせていたこと。 「……あー、もうっ!」 そのどれもが気になって仕方がなく、静司は握った携帯電話を握り潰してしまいそうなほど、ぎゅっとそこに力を入れた。 「……お前って、人の迷惑考えた事あるのかよ」 「ごめん」 「俺、寝てるって思わなかったのか?」 「思ったよ」 それでも静司は迷った挙句、結局カンナのアパートまで押しかけてしまった。 全力で走り続けたせいで全身汗まみれだ。ぜえはあと息を切らせながら、しかし逆にその疲れが下手な迷いを呼ばずにドンドンとカンナの部屋のドアを叩かせた。ドア横にある窓から室内に明かりがついているのが見えたから、カンナがまだ起きている事は分かっていた。だからそれが余計ノックする手に勢いを与えた。 「何考えてんだよ、まったく…」 「カンナが元気なさそうだったから」 「何でもないって言っただろ!? あっ、もう近づくな! 汗臭い!」 乱暴に声を荒げた後、カンナはズンズンと部屋の中へ戻って行って、それからスラリと押入れを開けた。 そうしてドアの前、未だ息を切らせたまま立ち尽くしている静司に向かって、そこから取ったTシャツやバスタオルを投げつける。 静司がそれを反射的に受け取ると、カンナは「とにかくその汗流してこい」とぶっきらぼうに言ってそっぽを向いた。静司の胸元に納まったのは、静司がいつこのアパートに泊まりに来てもいいようにと常備されている静司の所謂「着替えグッズ」だ。怒っているようでいて優しいんだよなと、こんなカンナの行動1つで静司はじんと感動する思いだったが、とにかくは小綺麗にしてこない限り相手をしてもらえない。静司は急いで室内に上がりこみ、そのまま風呂場へ直行した。 シャワーを浴びている間、カンナが台所で何かしているのは何となく気配で分かっていたが、濡れた髪の毛を拭きながら慌てて出て来た時、テーブルの上に野菜のたっぷり入った堅焼きそばと冷たい緑茶が用意されているのを見た時、静司は「やっぱりカンナが好きだ」と思った。 「俺、焼きそば大好き」 「知ってるよ」 静司が嬉しそうに席に着いて大皿に盛られた焼きそばを見つめると、カンナはそこから少し離れた壁際に持たれかかりながら、素っ気無い返事をした。 「さっさと食えよ。そんで、感想聞かせろ。それうちの会社の新商品なんだよ」 「へー。そうなのか? いただきます!」 両手で箸を持ってぺこりとお辞儀をすると、静司はすぐさま目の前の焼きソバにがっついた。飲み会で殆ど食べられなかったからというのもあるが、それだけではない美味さをしっかりと感じる。カンナの仕事内容はよく知らないが、缶詰工場で働いているというから缶詰ばかり作っているのかと思っていたから、これは意外だった。「こういう物も作ってるんだ?」と何となく訊くと、カンナは「うん」と頷いてから、遠くを見るように視線を逸らした。 「俺の働いている所なんて本当に小さい食品会社だけどさ…。社長のコンセプト?っていうの? とにかくそういうの、“働くお母さんの為に簡単おかずを作る事”なんだってさ。だから缶詰とか、こういうインスタント食品とか製造してんだけど…それって結局、手抜き料理を勧めてるって事じゃねえの」 「そん…な、事もないんじゃないか? これ、ウマイし! 俺、カンナん所の缶詰凄ェ好きだよ? この間貰った鯖缶も最高だった!」 「そりゃ…俺だって、誇り持って作ってるよ! 別にインスタントが絶対悪いなんて思ってねーし!」 けど…と、口ごもったカンナは、しかし不意に静司の傍に近づくと、真剣な目をしてじっと大きな瞳を向けてきた。 「……っ」 静司はそれで口に咥え掛けていた焼きそばをばらりと落とし、箸を握った片手も完全にフリーズさせて機械的にカンナを見つめ返した。 こうして近づかれると意識してしまう。カンナの白いTシャツにハーフパンツといったラフな格好も静司には目に毒だ。今夜は散々それ以上に肌の露出が凄い女子大生を見てきたというのに。 カンナが隣にいるというだけで何だかもう目が離せない。 「俺、工場の仕事好きだしさ…。班長さんも他の同僚の先輩もイイ人ばっかだし、さっきも言ったけど、作ってるもんだってまっとうだって思ってる。……けど、この間ボーナス貰っただろ。凄い不況なのに、社長がポケットマネー繰り出してみんなに配ってくれたって。俺、それが凄い嬉しくて…」 「うん…?」 カンナが何を言いたいのか分からず静司は何となく頷いた。 するとカンナは不意に静司の腕に縋るようにして、更に必死な目を向けた。 「こんな時代なのに、ちゃんとボーナス出る会社だって、俺はちゃんとした所に勤めてるんだって。ホント嬉しかったんだよ。……だからこの間、高校ン時の仲間と飲みに言った時にその話したんだ」 「飲みに…?」 咄嗟にズキンと胸が痛くなって静司はカンナに触れられている事も忘れて眉をひそめた。 カンナは静司と違って酒もよく飲む方だし、煙草だって吸おうと思えば窘める。要は、仲間との付き合いで居酒屋に行くなんて慣れたものなのだ。社会人なのだし、静司よりよほどそういう機会も多いかもしれない。また、元々カンナの高校の時の仲間は就職組が多いから、いわゆる「大人飲み」もしょっちゅうしていそうだ。 でも、本当はカンナにそんなに出歩いて欲しくない。 高校の時のあの仲間たちとだって、程ほどの付き合いにして欲しい。 もっと自分と一緒にいて欲しい。 「カンナ…」 「俺、その時、ボーナスの額の事も言ったんだ。そいつらに」 けれど静司のそんな嫉妬をよそに、カンナは夢中で話し続けた。 「社長が必死に出してくれた3万円のこと…。あいつら、ダチだし。それに俺は嬉しかったから、だから言ったんだ。そしたら…そしたらさ、『たったの3万円!? その会社マジでやばくねえ?』って。そう、言われて」 「え?」 ぱちくりと瞬きをした静司に、カンナはすかさずキッとして睨みを利かせた。 「お前もそういう風に思うのかよ!? たったの3万円って! そりゃ…普通の企業勤めや、職人とかやって元々の給料も20万越えてるようなあいつらからしてみたら…きっと、はした金なんだろうな! けど、俺は―」 「カ、カンナ? 俺、別にそんな風に思ってないよ?」 「じゃあどういう風に思うんだよ!」 思い切り八つ当たりだ。静司を怒鳴りつけたカンナは、しかし自分が理不尽な怒りを投げつけている事を自覚もしているのだろう、直後しんと黙りこくった。 それから暫くしてぽつりと言う。 「…ダチの1人がさ。『そんなしけた工場でちまちま働いてないで、俺んとこ来ないか』って言ったんだ。そいつは知り合いの親父さんがやってる水道管工事の仕事してるらしいんだけど、休みは不定期でも、給料はいいんだって。他にもトビやってる奴とか、解体業の奴とかも、俺より全然貰ってた。まだ10代だからって、ボーナスはみんな実際そんな貰ってないみたいだけど」 「……カンナ、今の仕事辞めるのか?」 「…っ。辞め、ねェよ!」 質問してきた静司にカンナはぎくりとしたように顔を上げ、焦った風にそう言い返した。 それでもションボリとした雰囲気は消え去らない。静司はそんなカンナの迷ったような顔をじっと見つめやった。 「俺、今の仕事好きだよ」 カンナが言った。未だ静司の腕には触れたままだ。 「けど、本当にさ…。その給料でこれから先やってけるのかって、皆から責められて。これから先、結婚だってするだろ、子どもだって出来たら…色々金も掛かるのに、今のままでいいのかって」 「結婚?」 「うん」 「子ども?」 「そうだよ…」 静司の顔が引きつっている事にカンナは気づかない。はあとらしくもない溜息をついた後、カンナは更に続ける。 「俺……家族いないし、そういうの憧れだからさ。前から思ってた、俺が夫とか父親とかになったら、絶対家族に苦労掛けたくない、奥さんになる奴にだって、そいつが働かなくていいように自分が倍稼ぎたいって」 「………結婚」 「でも、今のままじゃそういうのも出来ないんだろうなって」 「結婚」 バカみたいに同じ単語を繰り返す静司だったが、カンナはカンナでやはりその時の事を静司に愚痴りたかったのだろう、留まるところを知らない。「何なんだろうなあ」とぼやいてから、更に静司の腕を揺さぶる。 「まったくさ。何なんだろうな。俺、仕事辞めないって決めてるんだぜ。今の仕事好きだから。けど、給料のこととか、ダチに言われた事とか、変に気にしてる。そういうの凄い嫌だって思うのに、ぶちぶち気にしてる。この間まではただ働いているのが嬉しくて、それで金貰えるのがめちゃめちゃ嬉しかったのに。なぁ、静司。こういうのって、何なんだろうな?」 「………さあ」 ボー然としながら静司は力なく生返事をした。申し訳ないけれど、カンナの悩み相談を真剣に受け止める事が出来ない。ただひたすらにショックだった。カンナが将来家庭を持ちたいと思っている事、そのまだ見ぬ家族の為に心を痛めている事。 そこに自分が入る余地は全くないという事。 「何だよ、『さあ』って。その適当な返事は」 静司の動揺が分からないのか、カンナは不服そうに唇を尖らせ、今度はぺしりと静司の腕を叩いた。静司がそれでハッとして視線を寄越すと、カンナはますます甘えるような目をした。今やカンナもすっかり慣れきっていたのだろう。 優しい静司に何でも言って、何でも打ち明けて己の鬱屈を晴らすこと。 「俺がこんな真剣に悩んでるってのに、ちょっとは一緒に考えてくれたっていいだろ? お前は学生だからまだこんな悩み関係ないし分からないのかもしれないけど。それに…っ。お前だったら、どうせ大学卒業後は一流企業とかに勤めるんだろうしな。それこそ俺みたいなちゃちな悩み、持つ必要ないんだよな」 「……俺だって凄い悩んでるよ」 「へえ? 何に悩んでるんだ? お前でも家族ちゃんと養えるかって悩みあるのか? そういえばさあ、あんまり聞いた事なかったけど、お前って彼女とかいるの? 結婚考えてる相手がいるとか…」 「いるわけないだろ」 さすがにむっとして静司の顔つきは強張った。 確かにきちんとした「告白」はした事がないけれど、カンナだって薄々勘付いているはずだ。静司がカンナを好きで、カンナしか見ていない事。その感情が同性同士の「友」としてのものなどではなくて、それ以上の恋愛感情の好きだという事を。 全く気づいていないなんて、そんなわけはない。 それなのに、どうしてそんな残酷な事を言うのか。 「俺、結婚なんかしないし」 くぐもった声ながら静司はそう言って箸を置いた。カンナに触れられていた腕をさらりと撫で、それからおもむろカンナの手首を掴む。 「な、何、だよ…?」 カンナがびくりとして身体を揺らしたのが分かった。初めてちらりとそちらへ視線をやると、カンナがあからさま怯えたような顔をしているのが見えた。そんなに自分は怖い顔をしているんだろうか、確かに笑っているわけではないけれど。 ただ、真面目な顔をしているだけだと思うのだけれど。 「カンナ」 カンナを怖がらせるのは勿論本意ではない。 「カンナ」 それでも静司は真っ直ぐにカンナと向き合い、掴んだ手首をそのままに、もう一方の空いている片手もそちらに添えて真摯な目を向けた。 「俺は誰とも結婚なんかする気ないし。好きな相手だって、ずっと1人だけだ」 「静―…」 「俺はその人の事だけずっと好きだから、他の奴なんて考えた事ないし。……俺、変なのかもしれないけど、昔からその人以外何も感じないんだ。周りが綺麗だとか色っぽいとか言って興奮する女でも、俺……正直、気持ち悪いとしか思えない。思えなかったから。俺、女で全然感じないんだ。今日だって無理矢理行かされた合コン、俺にしてみたら地獄だった」 「ご、合コンなんか行ったのかよ…」 「地獄だよ」 2回繰り返した後、静司は更にぎゅっとカンナの手を握り直して顔を近づけた。カンナがあからさまびくりと身体を震わせてぎゅっと目を瞑る。どうしてこんな反応をするのだろう、それを少しだけ不思議に思いながらも、それでも静司は自分を見ないカンナを凝視しながら続けた。 「……女じゃ感じない。俺が感じるのはいつだって俺の好きなその人1人だけで……、気持ち、伝わらないからずっと片想いだから……俺は、ずっとその人の事考えながら、1人で抜いてた」 「せ……」 「なあ、カンナ。分かる? 俺のその好きな人」 「わ、分かんないっ」 ばちりとカンナが目を開いた。最後の抵抗とばかりに反抗的な瞳を揺らめかせたけれど、静司にきつく射抜かれた事であっという間に撃沈している。 それでもカンナは「分からない」ともう一度続けて、自分の手を掴んだままの静司からどうにかして逃げ出そうともがいた。 「せ、静司、離せよ!」 「カンナ」 「何なんだよ、お前…っ。ちょ…顔、近いから! ふざけるのも―」 「ふざけてない」 「静司っ」 「カンナだけが好きだ」 「……っ」 勢いに乗って告白した。してしまった。 静司は頭の片隅でそれを自覚し、「ああどうしよう」と焦る気持ちと、「遂にやった。良かった」という満足感とで全身からゾクゾクと震えた。 だからその昂揚した気持ちのまま、途惑うカンナに唇を寄せた。 全く後悔はなかった。 「カンナ」 「…や…っ」 カンナは一瞬だけ抵抗するような声を出して首を竦めたけれど、再び目を瞑ってしまい、まるでそれを受け入れるように身体は留めたまま微動だにしなかった。 だから静司も唇を合わせやすく、そのままじっとカンナを見つめたまま口づけ出来た。 「ん…っ」 カンナが驚いたようなくぐもった音を出す。それだけで頬が熱くなるのを感じた。 初めて触れたカンナの唇はとても柔らかく心地良かった。思わずそのまま吸い付くと、案の定びくりと身体を揺らされて強引に離されてしまった。 「………カンナ」 「離せよっ」 乱暴に振られた腕に逆らう気はなく、静司ももうこの時は拘束していた手を素直に解放した。 カンナはそのあっさりと解かれた手に逆に身体のバランスを崩してやや後ろへ仰け反っていたが、すぐさま体勢を立て直して壁際へ逃げると、静司を睨みつけたままごしごしとキスされた唇を手の甲で拭った。そのカンナの目元は軽く潤んでいた。可愛いなと冷静に静司は思った。 「何…考えてんだ…っ」 「カンナが好きだから」 「ホモかよっ」 「そうかも」 「……っ」 酷い罵声にも静司が動じず即答すると、カンナは自分が行く手を遮られたかのようになって口を噤み、未だ真っ赤になったまま顔を背けた。それでも静司が観察する限り、自分の告白に然程仰天しているようには見えない。やっぱり分かっていたんだ、気づいていたんだと思う。当然だ。確かにカンナは恋愛事には疎いようだけれど、とことんまで鈍い人間と言うわけでもない。むしろ相手の感情の機微には敏感な方だし、だから静司が落ち込んだ時などには素早く察して、今夜のように料理を振る舞ってくれる事とてある。 カンナは知っていたのだ。静司のカンナへの強い気持ちを。 「俺を諦めさせようと思ってあんな話したの?」 「え…」 「結婚とか、子どもとか」 カンナの怪訝そうな顔を見つめながら静司は言った。 「カンナが仕事の事とか将来の事で悩むのは分かるよ。きっと俺も社会人になったら色々な壁にぶつかって、そういう事考える時も来ると思う。…けど、結婚の事で悩んだりはしない。俺はカンナしか見ていないし。一人前になってカンナを食わせていけるかなって事は、そりゃあ時々心配になる事もあるけど、でもきっとやっていける。…でもカンナはそれが嫌なんだ? 俺にまとわりつかれるのが迷惑だから、あんな話したの?」 「………あんな話?」 「だから。将来結婚したら…とか。そういう残酷な話」 「……残酷かよ」 「俺には残酷だよ」 カンナがぼそりとして言う言葉に、静司も眉をひそめて即答した。勿論、自分にとっては残酷極まりない話だ。カンナが自分以外の誰かと所帯を持って、あまつさえ子どもまで作ってしまったら。自分は一体どうなってしまうのだろう、想像しただけで恐ろしい。 それくらい、既に静司はカンナを深く愛しているのだ。 「俺は、」 その時、黙りこくる静司にようやっとカンナが意を決したように口を開いた。 「俺は、家族が欲しいんだ」 静司が答えないのを良い事にカンナは続けた。 「1人でいいって思ってた。別に寂しくなんかないって。誰かといたって煩わしいだけだ、俺はそんなものなくてもちゃんとやっていける。だから……俺、みんなと違って昔から彼女とか作るのも興味なかったし、むしろ女遠ざけてるところもあった。女なんてさ…俺の知らないお袋みたいに、勝手に子ども産んでどっか行っちゃうってイメージもあったし。でも、……」 夢中で話して喉を詰まらせたのか、一度つかえた後カンナは軽く咳き込み、直後静司を真っ直ぐに見上げた。 「お前と知り合ったから。お前が…お前が、俺の周りにいるようになったから、俺は寂しいって感情を知っちゃったんだ。お前のせいで。俺……1人で、いたくないって」 「俺がいるじゃないか」 「お前がいつまで俺の傍にいるかなんて分からない!」 だってお前は人気者で、高校の時からいつも周りにたくさんの人がいた。 真っ赤になったままカンナはともすれば今すぐにでも泣き出しそうな顔で告白した。 「お前は高校の時からいつも俺の事見てるって風に話し掛けてきてたけど、そんなのは嘘だ。俺の方がずっとお前の事見てる回数多かったし……俺の方が…、とにかく、俺の方が絶対お前を見てた。お前なんか、…っ」 「そ…そんなわけ、ないよ。俺の方がカンナを―」 「お前は絶対、俺を置いて遠くへ行くよ」 俺には分かるとカンナは力強く言って、それから居た堪れなくなったようにふいと横を向いた。 「カンナ…」 カンナの必死な言葉一つ一つに信じられないほど胸が騒ぐ。同時、酷い焦燥感を抱いて、静司はそっとカンナに近づいた。逃げる気配、拒絶する気配はない。それを辛抱強く確かめた後、静司は再びカンナの手に触れ、それからおもむろにその甲に自らの唇を当てた。先刻、カンナはその箇所でキスされた唇を拭っていた。それを戒めるように、静司はカンナの手の甲に何度も軽いキスをした。 「俺」 信じられないくらい大人しくそれをさせていたカンナが不意に口を開いた。 「女と付き合った事もなければ…キスした事だってなかったのに…。それを…」 「そんなの」 静司はカンナが何を言うのか気が気ではなかったのでその時ばかりは唇を離したが、その赤面した様子と言葉には思わず安堵し、ほっと肩から力を抜いた。 だから自分もすぐさま素直に告白できた。 「俺だって、カンナ。誰とも付き合った事ないし、キスしたのだって今のが初めてだよ」 「え…? う、嘘つくなよっ」 ぎょっとして目を見開くカンナに、静司はいよいよ破顔した。 「嘘じゃないよ。俺、初めて好きになった相手がカンナだし…高校の時からの片想いで、その間誰とも付き合ってないし。付き合いたいとも思わなかったし」 「嘘だ……お前……だって、あんなにモテてたのに」 「言ったじゃないか。俺、ホモなんだよ。と、言っても…カンナだけだけど」 「……さっきの、ごめん」 「え?」 「ホモって言ったこと。それ、差別用語なんだって」 「え? そうなの?」 何故そんな事を知っているのだろうかと思いながらも、律儀に謝罪をしたカンナに静司は思わず顔を綻ばせた。 それにやっぱり嬉しかった。カンナも自分と同じで、キスが初めてだったこと。 「……カンナが好きだよ」 だからもう一度、改めて言った。カンナからの返事はなかったけれど、静司はそれでも構わないと思った。 だってこうして顔を近づけても嫌がられていない。 「カンナが好きだ」 「静司……」 もう一度ゆっくりとした口づけをすると、カンナはそれに怯えたような仕草は見せたものの、やはり嫌がりはしなかった。だから何度も重ねては確かめ合うような触れるだけのキスを続けて、静司は徐々に熱くなる身体を持て余しながら、カンナの身体をその勢いのまま抱きしめた。 「せ、静…っ」 「大丈夫。これ以上はしないから。ただ」 言い掛けて、しかし静司は自らの下半身の昂ぶりがカンナの身体にもろに押しあたってしまった事で思い切り赤面した。 けれどその恥らいを誤魔化すように、必死に口を開く。 「知ってて欲しいんだ…。俺が、カンナを誰よりも一番好きだってこと」 「……1番?」 恐る恐る確かめてくるカンナに、静司はしっかりと頷いた。 「うん。だからずっと傍にいる。カンナを独りになんてしない、絶対に」 「………」 「絶対。誓うよ?」 カンナの顔を真っ直ぐ見つめてそう告げると、カンナはじんわりと潤んでいる瞳をちらつかせながら、くっと唇を噛んだ。 カンナは「バカ」とも「離れろ」とも、「そんなのは無理だろ」とも。そういった拒絶の言葉は一切言わなかった。 「カンナ。もう一度」 「……っ」 そうして調子に乗った静司が何度となく仕掛ける口づけにもカンナは従順に応え、固く目は瞑り続けていながらも、それを咎める事はなかった。 むしろ静司の腕を強く掴み、自ら離れようとしない仕草すら見せた。 「カンナ…カンナ、好き」 だから静司もただ嬉しくて、それこそ自分が泣き出したくなるくらいに頭がじんじんとして座っているのに眩暈すら感じて。 静司は今すぐカンナを抱きたい衝動に駆られながらもそれを必死に抑え、この時はただカンナの唇にだけ意識を集中させた。 カンナが許してくれている今はそこだけを愛そう。この先必ず手に入れる幸せの為に、下手を打って二度と許してもらえなくなる事だけは避けたかった。 告白した今は気持ちもとても軽い。これから少しずつカンナとの距離を縮めていきたいと思った。 |