ふつうの人



  痒い、かゆい、カユイ。ものすごく痒い。

  大学に入ってからの見風は、一体「この単語」を何度頭に思い浮かべたことだろう。
  痒いってこんなに辛いことだったんだ。
  花粉症の人たちが「花粉の季節が憎い」と常々その苦しみを口にしていたけれど、見風にはその苦難が今いち分かっていなかった。大変だね、可哀想だね、なんて口にはしてみても、所詮は他人事だったのだ。何事もヒトは自分でその痛みを味わって初めて、相手の苦悩にも心から共感できるに違いない。

  だからあいつ……神薙にも、神様は何らかの試練を与えるべきなのだ。

「うぅ…うう……」
  見風は自分の呻き声で目が覚めた。
  未だ室内は薄暗い。何時だろうとぼんやり思ったのも束の間、不意にぞわぞわと全身を駈け巡る「かゆみ」がやってきて、見風はガバリと起き上がった。
「神薙ッ!?」
  自分でもとんでもなく甲高いおかしな声が出たと思った。それは悲鳴に近い。見風はわなわなと震えながら、己の羽織っていたタオルケットを同じように自分のものとし、強く抱きしめて離さない熟睡中の学友――神薙離有の寝顔に目をむいた。
「お前〜! 起きろ、バカッ! いつからここに…って、うわあっ!」
  ちっとも目覚めない神薙をよそに、見風は一人で大騒ぎだ。身体中に浮き出た湿疹をぼりぼりぼり!と大仰に掻き毟る。暗闇の中でもしっかり分かった。皮膚にはあのおぞましい「ぶつぶつ」が出現、既に何度も掻きまくった腕や首筋には痛々しい傷痕が点在しているが、それを気にして手を止めることなど到底出来ない。

  見風はこの春先から、学友の神薙が傍にいるとそれだけで「じんましん」が出るという、実に不可解な現象に悩まされていた。

「神薙〜ッ! 早く起きろッ! そんで、出てけ!!」
「…んだよ」
  がりぼりと掻き毟りながら文句を飛ばす見風にようやく微かな反応が。
  神薙は見風のタオルケットをぬいぐるみのように横抱きしていた。実は見風が起きるまでは見風のことも横抱きしており、あまつさえその長い足を身体に巻きつけてもいたのだが……その見風がいなくなって懐がさびしくなったのか、今は甘えたような仕草でブルーのそれをぎゅううと抱きしめ直している。
  しかも発せられた台詞が、これまた我がままなお坊ちゃまそのものだ。
「起こすなよもー…。俺はさっき眠ったばっかなの! 眠いの!」
「は!? 知るかよ! いつ来たんだ!? というか、どうやって入った!?」
  ここは見風の部屋である。田舎の実家を離れて東京の大学へ通うことになった見風は、この3階建てのマンションで一人暮らし中だ。ただ、「マンション」と言うと聞こえは良いが実は大いに名前負けしていて、実際は家賃の安さと日当たりの良さだけが売りのボロアパートである。
  だから神薙を初めてここへ連れてきた時は、「さぞかしあいつの家と比べられバカにされるのだろうな」と覚悟していたら、彼は見風のその予想を遥かに飛び越えてくれた。

「見風、ここは人間の住む所じゃない。――同棲しよう」

  後半の台詞が前半とどう繋がるのかは完全に意味不明だったが、要は「こんなありえない場所」に住むくらいなら、「俺の家へ来い」と言いたかったらしい。確かに、大金持ちの神薙にしてみたら、1Kの窮屈な部屋、ユニットバスの狭い浴室や、コンロが1つしかない台所こそが「意味不明」だったのだろう。おまけに、見風は勉強机を置くスペースが勿体ないからと、引っ越しの時に持ってきていたローテーブルで食事をしたりレポートをこなしたりしていたのだが、それが神薙には、「全てのことをミカン箱で代用している貧乏人」のように見えたと言う。今日日の大学生など皆こんなものだと言っても全く取り合ってもらえない。そんなに人の部屋をバカにするならもう二度と来るな、そもそも来てくれと頼んでもいない、お前がどうしてもとしつこく頼むから痒みを堪えて連れてきてやったのに、もう二度と来るな!と。
  ――そう喧嘩(?)したのが、確か昨日の出来事だ。
  つまり、あれからまだ丸一日と経っていない。
  それなのにこの状況。
「うう、痒い気持ち悪い! 神薙! お前が起きないなら、俺が出てくぞ!」
「えぇ? どこへ…? こんな時間に危ないだろ、やめろ。というより、ここはお前の家なのに、お前が出て行くって変だろ」
  徐々に目が覚めてきたらしい神薙が意外やまともなことを言った。
  見風はフーフー荒い鼻息が止まらないまでも、それでとりあえずの怒りは収め、タオルケットを取り上げながら「じゃあ早く帰れ」と言い返した。
「嫌だ。眠い」
  けれど神薙は本当に気だるそうに答えた後、「返せよ」とまるで自分の物を盗られたかのような態度で眉をひそめ、見風からタオルケットを奪い返した。
  そうしてまたそれを頭から被り、身体を丸める。
「くっ…」
  文句を言おうと思ったが、見風は神薙のその様子と、尚襲うぴりとした痒みに完敗する想いで、がっくりと半身を折り曲げた。下半身は未だ正座している態勢なのに、頭はノックダウンよろしく布団にくっついている、実に異様な格好だ。掻きたい。でも、これ以上やったら血が出るかも。――そんな想いを交錯させつつ、見風は頭を布団に押し付けたまま、片手でもう一方の腕を強く押さえつけながら「うー」と呻いた。
「見風」
  すると神薙が可哀想なものに対する施しのように腕を伸ばしてきて、項垂れている見風の頭を撫で、髪をぐしゃりとまさぐった。
「わ、やめろ…!」
  見風はそれに過剰反応して飛び起き、壁際まで後退した。今のそれに痒みを感じたわけではなかったが、「神薙のせいでじんましんが出る」と信じきっている見風としては、彼に触られることはそれだけで十分恐怖の対象だった。
「見風」
  そんな様子を、神薙は未だ横になったままの格好で、しかし目だけはしっかりと開いた状態で見据え、責めるような声を出した。
「いい加減ひどいぞ。その避け方」
「ひ…ひどいのは、お互い様だ…」
  見風とて神薙を避けることに罪悪感がないわけではない。悪いと思っているのだ。しかし、痒いものは痒いのであって、神薙とてそのことはもうよく知っているはずなのに、敢えてこうして近づいてくるのだから、「お前もひどい」と思わずにはいられない。
  それでも神薙はそんな見風に眉をひそめて「違うね」と無碍もない。
「俺たちは何だ? 友だちだろ? ト・モ・ダ・チ。それをこんな風に避けるなんて、どう考えてもお前の方がひどいよ。普通なら、もうとっくに嫌われているね」
「じゃ、じゃあ…残念だけど、俺たちの友情もここまでということで…」
「見風!」
「何だよ!?」
  神薙がぎんと目を見開き飛び起きたので、見風もそれに倣って中腰で逃げの態勢を取った。しかし見風は自分の不利を感じていた。大学でも神薙からは散々追い掛け回され、つきまとわれて、こういったやり取りにはもう大分慣れてはいるのだが、如何せん、見風は元々こういう押しの強さにはめっきり弱い。のんびりした田舎町でマイペースに平和な暮らしを営んできたせいもあるのだろうが、とかく神薙のように自信満々な男に強引に迫られたり言い含められると、それだけで見風は自分の方が間違っているのではないか、悪いのではないかと自責の念に囚われてしまう。
  「友だちを理不尽に避けている」自分を突きつけられると、どうしたって何も言えなくなるし。
  自分たちの関係が本当に「トモダチ」なのかは、甚だ疑問に思うところもあるが。
「見風。とにかく落ち着けよ」
  あまりに見風が怯えた風なのを憐れに思ったのだろうか。それともまだ眠くて普段の快活さを出すまでのパワーはないのか。珍しく神薙が先に折れて、見風への接近を止めた。自分は布団の上にあぐらをかいて腕を組み、部屋の隅にいる見風に熱い視線のみを寄越す。
「そんな風に怯えるなよ、本気で傷つくから。大体なぁ、俺がお前の嫌がることを一度でもしたことあるか。――ない。どう考えても、きっぱりないと言いきれる」
「お前の基準だとないかもな…。だって神薙だもん」
「あん? 意味が分からないんですけど……とにかくなぁ、俺は見風と話し合いたくて来たんだ。だからこの家の主であるお前はもちろん、客人の俺もここを出て行くなんて選択肢はなし。寝不足だったから少し仮眠した後に声かけようと思っていたけど、見風のせいで目も覚めちゃったし、早速始めようぜ」
  あまりにも当たり前のように話されているが、身勝手極まりない。
  けれど見風はそれにいちいち突っ込むことはやめ、それどころか「分かったよ」と了承までして、中腰だった姿勢をすとんと戻して座し、その場で膝を抱えた。
「い、いいよ、望むところだよ、もう…。あのさ、けどまず、どうして俺ん家に勝手に入れたのか、そこから話し合おう」
「そんなの、話し合うほどのことはないよ。合鍵で入った」
「合……気のせいかな、合鍵なんて渡した覚えがないけど」
「あぁ、見風からは渡されてない。そこのサイドボードに入っていたから預かったよ。そうそう、大事なもん一か所にまとめて入れておかない方がいいぞ。通帳とか小銭入れとか全部あそこじゃん。そういうのって泥棒にしてみたらありがたいの極致だし」
「ちょっ……ちょっと待とうよ、うん。おかしいよ、それ」
「通帳の中身は見てないよ。ますます悲惨な気持ちになる気がしたから、怖くて見られなかった」
「だから、ちょっと黙れよ! あのな、これ、この話の流れって、どう考えてもおかしいよな? 何で人んちの引き出し勝手に開けてんだよ? そして、何で人んちの合鍵勝手に盗ってんだよ? 俺がいいって言ったんなら分かるよ? でも、俺はそんなこと許していないし、そもそも昨日散々この部屋のことバカにして俺を怒らせておいて、何でまた平気な顔でここへ来られるの? 俺もう、お前のことが分からない」
  いっそ悲壮な顔でそう訴える見風に、神薙は神薙で眉間の皺が取れない。心の底から見風の言い分が分からないという風だ。
「俺ほど分かりやすい人間もそうはいないと思うけど。そう、昨日の見風の態度じゃ、もう当分呼んでもらえそうにないとは思ったんで、鍵をゲットできたのはラッキーだった」
「いやだから。それが下手したら犯罪だってことに自覚はないのかって」
「友だち同士で犯罪も何もあるかよ」
  さすがに手を解き、見風は再び中腰になって神薙を弾劾するように指さした。
「いや! いや違う! 当たり前に言うなバカ! 友だち同士とか、そっちの方が関係ない! 悪いことは悪い!」
  人と人との会話になっていない気がする。
  それはこの深夜帯という、一般人なら当然休んでいて然るべき時間に起きているから正しい会話が出来ないのか、或いは単に神薙の頭がおかしいのか。
  答えは間違いなく、後者であろう。
「分かったよ。冗談だよ、冗談。悪かったって。返すから」
  しかし幸い、神薙自身もその頭のおかしさには自覚があるらしい。一体どこまでが本気でどこまでが冗談なのか図りかねたが、ともかくは素直に返却されたその銀色の鍵を見つめ、見風はほっと息を吐いた。
「悪気はなかったんだ」
  そして神薙は言った。
「やっとさ、見風にここ、連れてきてもらえて嬉しかったから。だから、ちょっとはしゃいでいて、それでつい、本当に油断してぽろっと本音が出ちゃった。でも、この部屋を心底からバカにするつもりで言ったんじゃなくて、俺的感覚だと“ここはボロイ”ってだけで、そこまで酷い住居じゃないってことはもう分かってる。とにかく、俺は言い方を間違えた。本当にごめん。今日来たのは、そのことを早く謝りたかったからっていうのもある」
「う…うーん…。まずは勝手に鍵を盗って住居侵入したことを謝るべきだと思うんだけど…。しかもそっちも、それ謝罪なのか何なのかよく分かんないし…」
  見風は神薙といるといつも目が回る想いがする。神薙の言動にびゅんびゅん振り回されて、あれよあれよと言う間に訳が分からなくなって、冷静な判断がつかなくなるのだ。
  しかも神薙は見風といる時は大抵真面目な顔をしている。いつも他の仲間とつるんでいる時はふざけたような笑いも見せるし、適当な軽口を叩いているのを見かけるけれど、見風は自分と対面している時の神薙はいつも何か一生懸命考えて、一生懸命話していると感じてしまう。
  ただの自分の勘違いかもしれないけれど。
「俺さ、最近なんだ。自分がずれていることに気づいたの」
  見風がそんなことを考えている間に神薙は話の先を続けた。
「今まで俺のこういう台詞……たとえば、ヒトの家のことを正直に『ボロイ』って言っちゃったり、自分のこと『カッコイイと思う』って言っちゃったり。俺、自分の感じたこととか想いを隠すのが苦手なんだ。子どもの頃から、親父もそういうことだけは煩かったから。普段はあの通り、ぼったくり坊主だし適当なんだけど、でも、『自分を偽る真似だけはするな』って、これが唯一の家訓。俺も性分として隠し事とか嫌いだし、本音でぶつかった方が人とも分かり合えるって信じてたし。実際、そういう性格でこれまで困ったことなかったし」
「ああ…うん」
  確かに、神薙は自分で自分のことを「俺ほどカッコイイ奴はいない」とか、「俺んちって金持ちなんだ」とか、通常の人間が「それ自慢だろ」「普通は言わないだろ」と感じて眉をひそめるようなことをバンバン口にする。しかし、それで神薙が周囲からつまはじきにされたり、いわゆる「イタイ奴」と嘲笑されて距離を取られる様子はない。それどころか、神薙の周りにはいつも人がいて、皆彼のそういう部分も全部納得して受け入れている。実際神薙の顔やスタイルが良いことや、家が裕福なことが真実だからというのもあるけれど、それにしても一歩間違えれば厭味にしか聞こえない神薙のこうした言動は、いつでも受け入れられていた。
  だからこそ、神薙も自分が「ちょっとおかしな奴」だと実感する機会がなかったのかもしれない。
「でもさ、見風と会って、見風と仲良くなりたいって思ったのに、お前が俺のこと避けるから、俺、結構考えるようになった」
「……何を?」
「んー。何ていうか。人とのまっとうな付き合い方っていうの?」
「へ、へえ……」
  見風が曖昧な返答をするのをまじまじと見やりながら神薙は続けた。
「だからさ、昨日のなんかは完全にまずかったわけだよな。幾ら本心が『この部屋はボロイ』だったとしても、そこは言っちゃ駄目だったんだ。見風の気持ちを考えるなら、そう言われたら見風はどういう気持ちになるかってことをちゃんと考えるべきだった。そんなの、ちょっと考えれば分かりそうなことだけど、でも昨日の俺は相当浮かれていたから」
「だからつい、いつもの自分が出ちゃったんだ?」
「そう。あとさ、『何で見風は俺みたいな完璧な奴と一緒にいたくないんだ?』って言うのもアウトだよな。それって俺の本心なんだけど、そういうこと言う人って、普通に考えたら図々しいんだろ?」
「ま、まあ…普通の人は、そう思うね」
  見風がやや引きつりながら頷くと、神薙は得心したように頷いた。
「やっぱり。そうなんだよな。俺、時々妹だけにはそういうこと言われて『離有ちゃんウザい』とか『キモイ』とか言われていたけど、あいつって凄ェ厭味なとこあるし、いつも笑って言うから、あんまり本気に取ってなかったんだ。でも多分、あの姉妹ン中じゃ、あいつが一番庶民の感覚に近いのかもしれないって最近ちょっと見直してる」
「ふうん…」
  もうどこから何を突っ込んで良いのやらと言うところだったが、見風は半ば達観したような気持でバカ丁寧にそれらの話を聞いてやり、神薙の大真面目な顔をよくよく観察した。
  そして、そうまで自己改造を図って自分と仲良くなりたいと言う神薙のことを、やっぱり嫌いにはなれないと思った。
  例え「ちょっと」おかしな奴だったとしても。
  そう、きっと憎めないのだろう。神薙には、本人が言う通り、裏がないから。
  でも痒いんだけれど。
「……痒いの?」
  見風が努めてさり気なく腕を掻いていると、神薙がそれを指摘した。見風は悪いなと思ったけれど「うん」とここは自分も正直に頷いて、「ごめん」と謝りもした。
「俺が普通の人になったら、見風のじんましんも治るかな?」
「え?」
  神薙の言葉に見風はびっくりして手を止めた。
  けれどやっぱり神薙の目は大真面目だった。
「思うんだ。俺が見風に強引なことやったり、見風を貧乏だってバカにしたり、そういうのをやめてさ。俺自身のことも、あんまり自画自賛とかやめてさ。努めて普通の人をやっていたら、見風は俺の前でその“ぶつぶつ”を出さなくなるのかもしれないって」
「別に……これはお前の言動で出ているわけじゃないと思うよ」
「でも俺が近づくと出るんだろ?」
「だからさ…何か俺もよくは分からないけど、神薙の匂いとかホルモンとか、そういう見えない化学物質にやられてるのかも」
「いやそれ意味が分からない」
「俺も分からないけど」
「いや。……いいや」
  けれど神薙はぶるぶると首を振った後、じりと近づいて見風と距離を縮めた。見風がそれにびくっと身体を跳ねさせると神薙はそこでぴたりと止まったが、「俺の存在がってことじゃないと思う。そのじんましんは」と言った。
「え?」
「お前は俺が近づいているって気づいていない時は、俺が傍にいてもその湿疹を出さない。それが今夜、証明された」
「……何?」
  見風が分からず首をかしげると、神薙はおもむろに見風の手を取り、そうしてだしぬけぐいと強引に引き寄せるとその身体をめいっぱい抱きしめた。
「か、神薙ッ!? かっ…!!」
  痒い!
  と、叫びそうになって、けれど見風は自分の声すら封殺しようとする神薙からぴしゃりと言われた。
「今夜こうやって抱きしめて寝たけど、見風はじんましん出してなかった!」
「……え?」
「間違いなく出してなかったよ。普通に寝てたよ。俺がいるって気づいてからだろ、痒くなり始めたのは」
「……そう、なの?」
「そうなの! けどそれって、やっぱりひどいよ。俺にとってこれほど残酷なことはない」
  神薙は苦しそうに言った後、「ああ」と思い直したように見風の首元でかぶりを振った。
「普通の人って、こういう厭味も言っちゃ駄目なのかな。こういう風に言ったら今度は見風が困るもんな。でも……言わずにはおれない。だって、俺がこんなに見風を好きなのに、見風は俺のこと好きになってくれないんだから」
「す、好きって…ちょっ…痛…」
「もう! 早く治れ! 俺も自分の性格直すから!」
「神――」
  言いかけた見風の唇を神薙は問答無用で塞いできた。あまりにも唐突だったから見風は目を開いたままそれを受け入れるしかなかった。

  ほら、やっぱり友だち同士なんて言うのはおかしいじゃないか。
  神薙が普通の人になるのだって無理だ。
  俺だって、もう普通の人のようにはいられない。

「見風……痒い?」
「……あんまりフェイントだったから、びっくりして痒いの忘れた」
  しかし神薙を責める気は全くしなくて、見風はそんな自分にこそ驚いた。
  だからそういう自分を知られるのは嫌だったし、キスしたばかりで照れくさいのもあって、見風はわざと不貞腐れた顔を見せたのだけれど―…、神薙はそんな見風にもう一度啄むようなキスをしてから、「あのさ」と耳元で囁いた。
「俺まだ、人の心の機微ってやつに疎いからよく分かんないけど。今の見風って俺のこと、そんなに嫌ってないよな?」
「……まぁ、そうかも」
「じゃあ同棲する!?」
  綺麗な花びらがパッと大きく開いたかのような笑顔。
  見風はこの時の神薙が本当に純粋な子どもみたいに見えた。もっとも、これからまっとうな人としての感覚を学び直すというのだから、あながちそれも間違った印象ではないかもしれない。
「はあ……はは」
  けれどそれが何だかおかしくてバカらしくて、見風は思わず空気の抜けたような笑いを浮かべた。
  そうして、神薙と同棲は出来ないし合鍵も渡す気はないけれど、偶になら部屋に呼んでもいいかもしれないと、自分のじくじく痛む腕を押さえながらこっそりと思った。