色褪せた道の先 |
「なぁ聞いたぜ。西澤さんがお前の絵のモデルになりたいって言ったって」 港がヤケクソのように大学のアトリエでぺたぺたと粘土細工を造っていると、同学科の男子学生が嬉々として話し掛けてきた。顔は知っているが、大して仲が良いとも言えない相手だ。普段から外面だけは無駄に良いので向こうは友人だと思っているのかもしれないが、こういう気分の優れない時に言い寄られるのは困る。 「何?」 だから素直に気だるい視線を投げつけると、相手はしかし動じる事もなく、「何でそんなにテンション低いンだよ!」とふざけたように笑いながら気安く背中をバンバンと叩いた。 「なあなあ、マジで羨ましいんだけど! そんで何て返事したんだよ?」 「だから何の話?」 「だあから! 西澤さんが! うちのミス西美大の彼女が、直々にお前のモデルになりたいって名乗り出てさぁ、断るバカはいないだろ? いつやるの? 因みに彼女、ヌードとかになっちゃう!?」 「……お前って」 本当に、こいつ誰だ。 兎角神経質でプライドの高い人間が集まるこの大学には珍しいタイプかもしれないけれど、この軽さが好ましいとも思えない。港は面倒臭そうに眉をひそめてから再びしおれた作品に向き合うと、荒っぽい手つきで粘土細工にざっくりとした切り込みを入れた。 「お前って最近ずっとそれなー?」 まともに応えない港に男子学生が呆れた風に言った。 「俺、入学当初1回だけお前の油彩画見たけど、その瞬間、俺の美大ライフは終わったと思ったんだよな。どんなに努力してアホみたいにデッサン重ねても、絶対到達出来ない場所ってあるなって。これが才能ってやつなんだって。ま、悟っちゃったわけよ」 「……何だそれ」 「お前は凄いって話」 今度はニコリと人好きのする笑みを向けて、男子学生はふいと視線を逸らした後、両手を頭の後ろに組んだ。 「だからさぁ、あんなすっげえ美人が率先して自分のこと描いて欲しいなんて名乗り出るんだろうし。あんなモデルいたら、どんなにしょぼい絵描きでもそれなりに見えるんじゃねえ? や、どうかな、あの美しさを表現するのには、やっぱそれ相当の腕持ってないと逆に余計しょぼく見えちゃうかな? まぁ何にしろ、お前ならきっとスゲーもんが描けるよ! どうせなら描いてるところ見せて欲しいんだけど!」 「全然、そんな話聞いた事もないけど」 「え? マジで!? けど西澤さんが――」 「そもそも俺、その人と知り合いですらないし」 港は人の名前を覚えない。覚える気がないのか、そういった部分のメモリー機能が破損しているのか。 よくは分からないけれど、要は薄情なのだろう。 それなのに、昔から近所の大人たちはそんな港を見当違いによく誉めた。「港君は優しいね」とか「人望が厚くて友達もたくさんいていいわね」とか。適当に笑って何でも頷いていたら「優しいひと」になり、適当に誰かとつるんでいたら「友達がたくさんいる」事になった。全く簡単だ。やる事がないから勉強していたらそこそこの成績が取れて、それがまたその誤解をより助長させるきっかけとなったけれど、無駄に敵を作るよりはマシか。 しかし一体自分の何を見て、周りは俺を「凄い」と言うのか―…港の鬱屈は深まるばかりだった。 「お前さ、何で最近描かないの?」 ハッとして我に返ると、先刻の男子学生がまだ横にいた。港が憮然として口ごもると、相手は何かを探るような目をしてから初めて不服そうに唇を尖らせた。 「まぁ、一流どころには一流どころにしか分からない悩みがあるんだろうけどさ。俺からしてみたら勿体ねえとしか言えないね。何でもいいから、またあのすっげえ作品見せてくれよ。折角目の前にオイシイ題材も飛び込んできた事だし」 「……それって親切で言ってくれてんのか?」 港が真顔で訊ねると、相手は「はぁ?」と不愉快そうに眉を寄せたものの、やがて少し考えた風になり、顎先に指を当てた。 「あぁ、どうなんだろうな。親切、ではないかもな。単に俺の希望を述べただけだから。俺はただ、お前の絵がもう一度見たいだけなんだ」 港が何も言わずにいると男子学生はここでふっとした笑みを浮かべ、それからさっと手を差し出してきた。 「俺、鬼頭って言うんだ。鬼頭司。多分、名乗ったのはこれで4回目。いい加減、覚えろよ?」 昔は弟の雄途が喜ぶから、というただそれだけの理由で「お絵描き」を始めた。 雄途は母親からいつも過剰なまでの拘束・命令を受けて、毎日びくびくと怯え、そして疲れていた。雄途の母親は港にとっては父の後妻で赤の他人だったから自分に被害が来る事はなかったけれど、兄の海などはそんなあからさまな待遇差別に大層不満を抱いていた。そしてそれを幼い雄途に当たったりしたものだから、家では無駄な諍いが絶えなかった。 厳しい両親と義理の兄からの責め苦を受け続ける雄途を、港は子ども心に「可哀想だな」と感じた。何もそこまで皆して雄途を責めなくてもいいだろうと、単純に思ったのだ。 「ほら雄途君。くじらだよ。あと、おっきなお船。どの色で塗って欲しい?」 「ピンク!」 「ピンク〜? ピンクのくじらかぁ、うん、でもまあ、可愛いね」 「うん!」 港が広告の裏などを利用してさらさらと描いた適当なものを、雄途はいつもにこにことして嬉しそうに眺めていた。港ちゃんは絵がうまいねえ、凄いねえと何度も何度も絶賛されて、もっともっとたくさん描いてとねだられるととても嬉しくなり、調子に乗っていつまでも描いた。雄途は母親から勉強を強制されぐずぐずしている時でも、傍に港の絵を置いて泣くのを我慢する事があったし、兄の海から意地の悪い事を言われてすっかりしょげてしまった時も、港がくれた絵を握り締めて黙って唇を噛み締めていた事もあった。 港にとってそういう雄途はとても可愛かったし、自分が守らなければならないとも思った。 「港ちゃんが好きなものを描いて」 リクエストが時を越え様々変化するうちに、雄途のおねだりがそういった類のものに変わり、港は動物や車・風景の絵から、雄途の姿を描くようになった。その頃から息子の才能に素早く気づいた父親が大量のスケッチブックを購入し、近場の絵画教室に通うよう促すと、港は本格的にデッサンを習ってますますのめりこみ、そうして―…、更に様々な雄途の姿を描くようになった。雄途もそれをとても喜んでくれた。だから港も幸せだった。 けれど一方で、2人の距離がそうして近くなればなるほどに、雄途の母親のヒステリーは加速度を増し、面白くない顔を見せる回数が極端に増えていった。 「偶には違うものも描いてみたら?」 思えば雄途の母は、既にあの頃から当事者の2人ですら気づいていなかった互いのただならぬ依存関係に危惧を覚えていたのだろう。神経質なほどに港が雄途に接近するのを嫌がり、また雄途が港を慕おうとするとそれを妨害した。雄途の情緒不安定はそれによって余計酷いものになったが、港は港で、自分たちが距離を縮める事で逆に家族のバランスが恐ろしい程に崩れていく事に罪悪感を覚えた。港もまだ子どもだったし、唯一自分を「家族だ」と頼ってくれた兄の海が、またこの偽りの家族を嫌悪していたから。だから、その双方からのあらゆる縛りや、雄途からの必死な助けを求める視線に、いつしか港も酷い疲れを感じるようになっていった。 いつからか、港は雄途を描くのを止めてしまった。 すると絵を描く事それ自体にまるで意義を見出せず、己の生活にも完全に色を失ってしまった。 何で描かないの? 「知らねえよ…」 鬼頭の悪意ない質問を反芻し、港はぽつりと独りごちた。家に帰りたくない。家に帰ると自分に縋る雄途がいて、自分を嫌悪するあの義母がいて。それら2人を実質的に縛っている父親の気配を色濃く感じる。 吐き気がする。 けれども雄途を置いていけない。見捨てられない。 「ただいま」 だから結局今日も家に帰ってしまう。港は陰鬱な気持ちを抱いたまま玄関を開け、殆ど毎日の条件反射のように帰って来た旨を小さく告げた。しんとした室内、それに応える声はなかった。足元を見るといつもはある義母の靴がなかったので、買い物にでも行っているのかと何となく思った。 「港…お帰り」 ややあって、階段の上から雄途が顔を覗かせた。何の部活にも所属していない雄途は大抵港よりも帰りが早い。何だかんだと今日も母親の言う通り受験勉強でもしていたのかと思うと、不意に理不尽な怒りが湧いた。 努めてそれを顔に出さないようにはしたけれど。 「今日早かったね」 「うん」 手を洗ってから2階へ上がると、雄途がまだ部屋の前に突っ立っていて港に声を掛けてきた。港が「ただいま」と口にしたから、今日は機嫌も良いと察したのだろう。確かに精神状態は悪くなかった。まともに覚える気のない同学科の人間の名前を覚えられた。もう数日したらまた忘れる可能性は高いけれど、それでも今日あの鬼頭と話した事は港の気持ちを少しだけ軽くしていた。よくは分からないけれど、あの男は悪い奴じゃない、それが分かったから嬉しかったのかもしれない。 絵を描けと言われたこと自体は腹立たしかったが。 「今日ね…母さん、高校の時の友達とご飯に行くから帰りが遅いんだって」 部屋に入って行く港の後を追うようにして雄途がドア付近からそう声を掛けてきた。 「高校の時の? 珍しい」 「そうだろ? あの人、友達なんかいたんだって感じだよね?」 港がまともに反応した事で雄途もますます嬉しくなったようだ、ぱっと顔を明るくしてどこかはしゃぎながらそう答える。なるほど母親も帰りが遅いし、雄途は雄途で御機嫌なのだ。 だから港も少しだけ気持ちが軽くなって、やっと笑う事が出来た。 「良かったじゃん。じゃあ今日は雄途君も受験勉強からは解放だ? あ、飯はどうする?」 「母さん用意してあるって。温めるだけでいいからって」 「ふうん、そっか」 「あっ…、でもどっか食べに行く? 港が行くなら、俺もそうする」 「え? あぁ……うん。別にどっちでもいいけど」 雄途のテンションが高い。本当に嬉しいんだなと思うと可笑しかったし、悲しかった。雄途のこういった束の間の幸せを素直に一緒に喜べない。だって束の間は束の間であって、決して永遠に続くものではないし。 勿論、雄途の心から安堵したような顔を見るのは港とて大歓迎だ、けれど。 「港?」 「ん…」 思わずじっと見つめていたせいだろうか、雄途がきょとんとして首をかしげて見せた。 港は何でもないと答えながら、それでもそんな雄途から目を離せなかった。 可愛いと思う。と同時に綺麗だなとも思う。雄途の整った顔は昔から好きだと思っていたが、澄んだ瞳にすっと通った鼻梁、形の良い唇を眺めていると、どうしても触りたいという欲求に駆られる。 雄途の全部を観察して、「描いていたい」と気持ちが昂ぶる。 結局港を突き動かして止まないものは、この目の前の雄途だけなのだ。 「港、どうしたの? そんな見てさ…」 いよいよ雄途が居心地悪そうにもじもじとし始めた。いつもはうざったいと雄途を避けるくせに、今日に限って視線を逸らさず傍にいる事を許しているのを不審がっているのかもしれない。 「ああ。ごめん」 それでようやく港も我に返り、惜しいと思いながらも苦笑してかぶりを振った。 「何でもないよ。そうやって笑う雄途君、可愛いなあと思ってさ。つい見ちゃった」 「え…」 「ははっ。そりゃご機嫌にもなるよな? お母さんいないし。俺も久しぶりにゆっくり出来る――」 言いかけた言葉は、しかし最後まで言わせてもらう事は出来なかった。 「っとぉ…! おま…っ」 「港っ」 まるで拙いラグビー選手のように酷いタックルを仕掛けてきて、雄途は目を瞑ったまま港の胸元に力強く身体全部を押し付けてきた。完全に油断していたせいで雄途の華奢な身体すら留められず、港は両手で抱え込むようにしながらよろめき、そのままベッドに着地した。 「あっ…ぶない、だろっ…! いきなり何だよ!?」 「だって…嬉しかったからっ」 「あのなぁ…」 「港。今日、ずっと一緒にいられる?」 ぐりぐりと顔を擦り付けて甘えながら雄途が言った。港はそんな雄途の身体を抱きしめたまま、自らもその黒々とした髪の毛に顔をうずめて軽いキスをした。 「…別にいいけど」 そうして言ってしまった。本当はそんな風に答えてはいけないのに。また中途半端に雄途を受け入れ期待だけさせて、その後無情に崖下へ突き落とすくらいなら、最初から甘えさせない方がいいのに。 それでも、つい、してしまう。せめて今この時くらいは、こうして雄途を抱きしめていたいと願ってしまう。 「港…っ」 港の返答に感極まったのか、雄途が目元を赤くしながら顔を上げ、唇を寄せてきた。避ける理由が見つからず、港も大人しく雄途のせがむ口づけに応えた。そしてその後は自分からも積極的に求め、何度も互いが求め合うキスを繰り返した。 「んっ…ん」 雄途が必死に唇を差し出す。口を開いて港の舌の侵入も容易に許す。そうなると港もついつい雄途を求めてしまい、どちらの唾液かも分からない程に淫猥な水音を立てながらしつこ過ぎるキスを長い事ずっと続けてしまった。 「港…港、好き…」 潤んだ瞳で雄途がうわ言のように言った。いつからか雄途は惜しげもなくその言葉を港にくれるようになった。港がそれを忌避して怒っても決して止めない。港が先に1人で捨ててしまおうとしたものを、雄途だけは意固地に必死に縋りついた。どんなに冷たくされても酷い暴力を受けても、決して離そうとはしなかった。 「港…」 キスをしながら雄途が港の股間に手を伸ばす。ぎくりとして、港はそれを咄嗟に止めた。 「や…っ」 それでも雄途がそれに泣きそうな声を出すと堪らなくなって、港はいよいよ起き上がり、逆に雄途をベッド上に押し倒した。 「港」 「終わってるな…俺は…」 気づくと息が荒くなっている。港は自分への呼びかけには答えず、ただ夢中になって雄途の服を剥ぎ取った。雄途がまるで逆らわないからそれはとても簡単で、あっという間に全てを取り去る事に成功する。雄途は雄途で、裸に剥かれた事を恥らいつつも、ただひたすら真っ直ぐ港を見つめ返している。 「……雄途」 だからようやく自分も呼んだ。その白い肌に身体中が熱くなる。確かめるように雄途の平らな腹から胸までをさらりと撫でると、雄途がそれだけで感じ入ったようにびくんと身体を震わせた。 「雄途」 「触って。もっと触って港」 雄途が強請る。港は全く従順になって言う通り雄途の身体を愛撫した。最近では努めてしなくなった雄途の精を吐き出させる「作業」も、黙々として遂行した。 「あ。あ、あっ…」 雄途は港のその口淫に酔ってしきり甘い声を出し続けていたが、更にもっともっとと果てを知らないように誘うその様は、快楽に溺れているというよりかは、何もかもを忘れたいから敢えて溺れているフリをしているだけのようにも見えた。 「港…っ。欲しいよっ」 足を開いて雄途が言った。自分だけが弄られるのは嫌だと、港にも己を晒して自分を貫いて欲しいと、雄途はいつも言っていた。港にはその最後の砦を崩す勇気がどうしてもなくて、それだけはと頑なに拒んできた。雄途の裸体はとても美しく尊い。自分と重なる事でその美しさが消えてしまいやしないかという不安もあった。雄途を汚したいのに、でも大切にしたい。いつもその狭間で港は揺れて迷っていた。 「港…好きっ」 どうしても自分の服は脱がない港に雄途が泣いて言った。涙交じりのその声に胸が痛くなった。いつでも人としての感情がなくなったと思ったものを雄途だけが取り戻してくれる。雄途の傍にいるとまっとうなんだと信じる事が出来た。 けれど一方で、狂ってしまったとも思う。 「ごめん…ごめんな、雄途…」 何度も頬を撫で、口づけを繰り返しながら港は謝った。雄途を抱きたいのに、最後の最後でそれが出来ない自分が情けない。 けれどこの白い身体に己を埋め込む事はどうしても出来ない。 「やだ…やだ、港…。離れたら、いやだ…」 雄途は遂に泣きじゃくって港の首筋に縋りついた。港はそれにぎゅっと強い抱擁で返し、「いなくならないから」と必死に言って、宥めるようにその白い背中を何度も撫で擦った。 「傍にはいるから。だから雄途…」 どうして描かないの? 頭の奥でその問いが再度木霊した。 港は泣いて泣いて自分から離れようとしない雄途の身体を必死に撫でながら甘いキスを繰り返し、直後さっと瞳を伏せ、口元を歪めた。自分でもどうして良いか分からない。何か性質の悪い呪いにでも掛けられたかのように理解し難い鎖に縛られたまま、港は自分に縋る雄途の唇だけを残酷に奪った。雄途を慰める為ではない。これ以上、雄途の嘆く声も自分を責める声も聞いていたくはなかったから。 |
了
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