記念日
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君(キミ)が水(スイ)と恋人同士なんだか、ただのセフレなんだか分からない関係を続けるようになって、ちょうど1年が経とうとしていた。 (多分、というか絶対。水はこういうの嫌がるだろうな) 有名文具店で水が好きそうだと思うデザインの万年筆を手に取りながら、君はぼんやりと今夜の事を想像した。 最近、水は君のいるアパートにフラリと立ち寄る回数を格段に減らしていたが、今夜は「20時頃にそっち行くから」と携帯に連絡が入っていた。 君自身、別に「今日で水と付き合い始めて1年だ!」などと意識していたわけではない。 ただ、偶々同じ学部の女子学生が、「週末、彼と三ヶ月記念をやるんだ」と友達と話しているのを聞いて、「そういえば自分達も今日が付き合い始めてちょうど1年じゃないか」と思い至ったのだ。 付き合う付き合わないの意識は、無論他にたくさんの相手を持つ水には持ち合わせていない感情であろう。だから今日来ると言っているのも単なる偶然に違いない。けれど君にとって初めて水に持ちかけられ身体の関係を持った1年前の今日は間違いなく「水と特別な関係になった」記念すべき日だった。 だから別に水が気づいていなくとも、君は「水に何かあげたい」と思った。 「でもやっぱりプレゼントとかって…引くだろうなあ」 折角2人だけで夜会うのは久しぶりなのに、もしかしたらプレゼントを渡した途端、水は気分を害して帰ってしまうかもしれない。それどころか、「俺はこういうの嫌だと言っているだろう」と怒鳴りつけて、今夜どころかもう二度とアパートにやって来てくれる事はなくなるかもしれない。 …そんな最悪なパターンを想定しつつ、それでも尚、君は綺麗にラッピングされたプレゼントを鞄に忍ばせ、夕飯の買い出しにも余念がなかった。水が会ってくれると言った日には、少なくとも自分はそれがとても嬉しいのだという気持ちを目一杯表現したかった。 水は予告した時間よりも1時間も遅くにやってきた。 「いらっしゃい」 おもむろに上着を脱ぎ捨て何も言わずに中へ入ってきた水に、君はまるで夫の帰りを待ちわびていた新妻のように甲斐甲斐しく傍に寄ってその捨てられた上着を拾った。水はしたたか酔っているのか、気だるそうな顔をしながら部屋の隅に座りこむと、壁際に寄りかかりつつ「ビール」と偉そうに言った。 「もう結構飲んでるんじゃない?」 「別に」 「ご飯、作ってあるけど」 「いらない。亜由美とかと食ってきたから」 「……そう」 たくさんいすぎて分からないが、多分水のセフレの一人だろう。何回か聞いた事のある名前を耳にし、君は自然顔を曇らせてしまった。―が、別に今に始まった事でもない。努めて暗くなる感情を振り払うと、君は従順に台所から冷やしておいたビールを取り出し、ご丁寧にグラスに注いでそれを渡した。 「別にいいのに」 水は依然として面倒くさそうな顔をしつつ、黙ってグラスを受け取り、それをぐいと一気に煽った。それからそれを目前のローテーブルではなく畳の上に転がすと、そのままずるりと身体を倒してぐったりと目を瞑った。 「水。眠いの?」 さすがにそのままにはしておけないと思い声を掛けると、水はくぐもった声ながら「ああ」と答えた。 「布団出す? 寝巻きとかもあるから着替えれば…」 「いい…。めんどい。寝る」 「でも……」 「じゃあ君が着替えさせて」 頼んでいるようで実際は命令口調で水はそう言い、だらんと片腕を上げた後、またばたりと下におろしてそのまま死んだように動きを止めた。 「水……」 最近とんと見ない泥酔ぶりだった。君は少しだけ途惑い、暫し呆然とそんな「恋人」の顔を見つめやった。 このところ水とはあまり2人きりで会っていなかった。君が水と会えるのは、水が会うと言ってきてくれた時だけだし、昼間大学の授業で顔をあわせても、大抵水は自分を取り巻く女子学生と一緒だったから、せいぜいノートや金の貸し借りで声を掛けられる以外は全く接点がない。君が話しかけたいと思っても、水は昼間は特に君を避けているところがあり、目があってもすぐに逸らしてさっさといなくなる事もザラだった。 正直、避けられていると思っていた。水が何を考えているのか、君には分からなかった。 「水、まだ寝ないで。今布団とか出すから。ね」 「………めんどい」 「分かってるけど。そのままだと風邪引くし。着替えも出すから」 言いながら君は押入れから水が泊まっていく時いつも着る大きめのトレーナーとジャージを取り出し、今着ているシャツを脱がそうとボタンに手を掛けた。水は目を瞑りながらも従順にそれに従い、上半身を裸に剥かれても「寒い」と呟くくらいで大した抵抗は示さなかった。 「腕上げて、水」 「……君」 「何? ほら、着させられない。ちょっと首も上げて。ちょっとの間だけだから」 「君。煩い」 「分かってる。でも早く着ないと風邪―」 「煩い」 「わ!」 必死になってトレーナーを首に通そうとしている君に、しかし水は突然声を怒ったようなものに変えると、そのまま腕を動かして君の身体を抱きしめた。 「ちょっ…」 そんな事をされるとはまるで想像していなかった君はそれで思い切り体勢を崩し、そのままなだれこむように水の身体の上に倒れこんでしまった。 けれど当の水の方は別段それを痛がるでもなく、むしろ更に強い力で君の身体を抱え込んだ。 「ちょっと…水?」 「煩いんだよ。お前は俺の親か」 「……違うけど」 「折角脱がしたんだし、そのまま襲っちゃえばいいんじゃねえ? 俺が最近来なかったんで、お前大分ご無沙汰だろ」 「何が……」 「何がじゃねえよ」 ぱちりと目を開けて、水は自分の懐にいる君をジロリと睨みつけた。 酔っていたのではなかったのか。確かに目元は未だ微かに赤かったが、それでもしっかとした意識のある眼を閃かせて、水はふっと酒臭い息を君に向けて吐き出した。 「久しぶり」 「え」 「こうやって会うの」 「そ、そうだね」 いきなり何を言うのだろうと君は途惑ったが、それ以上に水の逞しい身体に直接顔を擦り付けたこの状態が確かに「ご無沙汰」な事も相俟って、否応なく顔に熱が点るのを感じてしまった。 それにどぎまぎしている自分を気づかれたくなくて、君は視線をあちこちに動かした。 「飯。用意してたの」 「え…うん。だって20時頃来るなら食べてこないかなと思って」 「何? メニュー」 「野菜うどん」 「お前そればっかりじゃん」 いい加減飽きるんだよ、と水はバカにしたような声で呟き、それから身体をずらして仰向けになると、改めて自分の胸に縋りつくような形の君をぎゅっと抱きしめ直した。 「お前、最近何して生きてたの」 「え」 「俺がいない夜とか」 「別に…。テレビ見たりとか」 「バイトは?」 「してるよ。週4日、近くのコンビニで」 「時給いいの」 「深夜だからいい方だと思うけど」 「変な客とか来る?」 「時々」 「ふうん」 淡々と繰り返されるその会話が君には心地良く、少しだけ今の状況にも落ち着きを取り戻す事が出来た。それでようやくもぞもぞと動き、片手をぴたりと水の胸元にやってその心臓の音を耳だけでなく、己の手のひらからも感じ取ってみた。 水の鼓動はとても静かだった。 「大学では何やってたの」 水が訊いた。 「いつも授業で会ってるじゃん」 「知るかよ、お前の事なんか見てねーもん」 「……普通に授業受けてるだけだけど」 「剣とか藤堂とかとよくいるな。あと……桐野、だっけ?」 「あ、うん。よく話しかけてくれるから」 「あそこらへんって、ホント良い子ちゃんグループって感じな。ああいう奴らとどんな話するわけ?」 「別に、普通だよ」 何だか毒のある言い方が気になり、君も思わず憮然として乱暴に言い返した。 水は高校の時からの付き合いである剣や藤堂の事を本当は悪く思ってはいないくせに、「あいつらは自分とは違う世界の人間だから」とわざと揶揄したり嘲笑するような態度を取る。 それは君が彼らに親切にされるようになる度に酷くなっていくようだった。 水が彼ら友人の事を悪く言うのが君は嫌だった。水はわざと自分を悪者にしているような気がしたから。 「水こそ」 だから君は少しだけムキになって口を開いた。 「いつも亜由美さん達と何話してるの? いつも凄い…大きな声とかで笑ってるけど」 「別に」 「………」 「お前の悪口とか?」 「え?」 どきりとして顔を上げると、水は挑むような顔をして君を見下ろし、また同時に抱きしめる腕にぎゅっと力を込めて続けた。 「お前が相変わらず俺にしつこくて参るって話。いい加減俺がうざったく思ってるのも気づいていい頃なのに? 俺が距離取っても学校で視姦すんのやめねーし。こうして偶に気紛れで来てやるってーと、殊勝に飯の支度して大人しく待ってるだろ」 「………」 「そういうのがキモイって話」 「嘘だよ」 君が迷わず即答すると、水は一瞬たじろいだ表情を見せたがすぐに哂った。 「嘘じゃねえよ」 「水はそんな事言わないよ」 「俺がって何だよ。この俺本人がそう言ってんだろ。何だよ」 「とにかく、水はそういう事言わない。水…僕には優しいもん」 「………どけよ」 むっとして水はどんと君を突き飛ばすと上体を起こし、それからハアと大きく溜息をついた。がりがりと以前より断然黒くなっている髪の毛をかきむしり、何かを堪えているような顔で肩で息をする。先ほど聞いた水の心臓の鼓動はとても緩やかだったけれど、もしかすると今は速くなっているかもしれない…何となく君はそう思った。 「水」 だからゆっくりと呼んでみたのだが、水はそれで余計神経に触れられたようになってぶるぶると首を振った。 「煩い。お前見てるとイライラする」 「でも今日は泊まっていってくれるんだよね?」 「煩ェよ」 「………」 「お前……むかつくんだよ。最近。特に」 「……水。あのさ、僕渡したいものがあるんだけど」 「………」 水の情緒不安定は今に始まった事ではない。 君は水の不機嫌な理由を問い詰めるのはとっくに放棄し、あくまでも自分のやりたい事―自分の元へ来てくれた水を歓待する―を優先する事にした。 傍にある鞄を引っ張ってくると、君は何事かとこちらを見つめている水には構わず、手にした長方形のプレゼントの包みを目の前に出して水に微笑みかけた。 「これ」 「……何」 「プレゼント」 「何で?」 「いいから貰ってよ」 水は一瞬断りそうな雰囲気を漂わせたものの、ついとそれを差し出す君から四角い包みを受け取った。 そうしてすぐ乱暴にビリビリと綺麗な包装紙を破り取り、中から出て来た万年筆の納まったケースをじっと見つめやった。 「蓋開けてみて。気に入るといいけど」 「……お前は俺に勉強させたいのか」 カタリと無感動にそれを開け、中から出て来た万年筆を見つけた水は、半ば呆れたような顔をして一言そう言った。 「別にそういうわけじゃないけど…。こういうの、好きかなと思って」 「……まあまあ好きかも」 「ホント!? 良かった!」 「―で。何でプレゼントなわけ?」 「………えーと」 やはりそれは言わないといけないのだろうかと君は躊躇し、暫し口ごもった。 折角気に入ってくれたようなのに、もし「付き合い始めて1年目の記念日として」などと言ったら、事前に予測していたようにたちまち箱ごと投げ返してきて「ふざけるな」と怒鳴られるかもしれない。今日は特別機嫌が悪いようだし、その可能性は大いにあると思った。 「君。何なんだよ」 それでも水は君に沈黙を通す事を許してくれなかった。ちょいちょいと箱を振りながら、「早く答えろ」と言わんばかりの顔で答えを迫る。 だから君も観念して、顔を上げた。 「僕の記念日だから」 「……何」 「水と……付き合って、今日でちょうど1年だから」 「………」 案の定水は君の回答にさっと眉をひそめ、唇を歪めて見せた。 君は箱を投げつけられる覚悟を抱きながらごくりと喉を鳴らし、それでも居た堪れずに、今度は早口で言葉を継いだ。 「別に水が僕と付き合ってるって意識なくても、僕にはあるわけだから、僕にとっては記念日なんだ。水が偶々気紛れで僕とやろうって……単にそう言っただけの日だけどさ。1年前、そう言ってもらえた時、僕はさ…何ていうか、水は何て事急に言うんだろうって思ったけど、でもやっぱり嬉しくてさ。だから。その。まあ、そういうわけ」 「……何がそういうわけだよ」 ぱたりとその場に箱を落とし、水はぽつりと呟いた後、君から目を逸らした。 「……?」 ただ、いつまで経っても君が予測していたような怒鳴り声も、プレゼントを投げつける行為も、水はしようとはしなかった。 「じゃあさ」 そして水はやがて顔を上げると言った。 「今日は機嫌がいいから、君の事、めいっぱい抱いてやるよ。君がもう限界だって泣いて喚いても抱いててやる。ずっと朝までお前ん中に突っ込んでてやるからさ」 「そ、そこまでは……」 「何で? だって記念日なんだろ? だったら今日もやっとかなきゃだろ? やっぱりさ」 「でも……水、今日は機嫌悪いんじゃないの? 良いの?」 部屋に入ってきた時はとても気分が悪そうだったし、とても機嫌が良いようには思えなかったのだが。 君がそう言わんばかりの様子で不思議そうな顔をすると、水は嫌なものを見たかのように唇を尖らせ、また「煩い」と言ってからふいとそっぽを向いた。 「お前に俺の機嫌の良い悪いが分かって堪るかよ。鈍感無神経なお前なんかに」 「ぼ…僕、無神経な事……何かしたの」 「してんだよ。いつも」 荒っぽくそう答えた水は、けれどもすぐに長い腕をにゅっと伸ばすと、先刻したように君の身体を捕まえて、そのまま己の胸に掻き抱いた。 「す、水…?」 「お前のその割り切った態度がむかつくんだよ。そのくせ、こうやって俺を迎えるお前が許せないんだよ」 「え? 水、ちょっ…」 「俺が無視してる間……あいつらと一緒にいるお前が嫌なんだよ」 「……水?」 「お前は俺んだろ…!」 水は物凄い早口でそう言うと、戸惑う君の唇を深々と奪い、後は箍が外れたかのようにしつこいキスを繰り返してきた。 「んっ……んん」 「君……君……」 唇を離す合間合間に、水はうわ言のように君の名前を呼んだ。 「ふ…んぅ…ッ」 君はそれに何とか答えたくて唇を開きかけるのだが、酸素を体内に取り込んだだけでまたすぐ口づけを開始されてしまうので、結局何も言う事が出来なかった。 (水が好き……好きだよ……) だから仕方なく、君は心の中で何度もその言葉を唱えながら、ひっしと己の腕を水の背中に回し、従順に求められるまま唇を、そして身体を差し出した。 (水…僕は……水が、好きだ) 水の荒っぽい所作で身体を倒され、肌のあちこちを貪られ始めた時も君は必死に心の中で訴え続けた。 「あ…?」 その時、ふと傍に転がる万年筆の入ったケースが視界に入り―……、君は一瞬目を閉じた後、ゆっくりと微笑んで「水」と今度は声に出して呼んだ。 「好きだよ」 「……煩ェよ」 返ってきた言葉は冷たいそれだった。けれど君が万年筆を見た時、水もそちらへ目をやっていたようだ。台詞はぶっきらぼうなものだったのに、その後やってきた優し過ぎる愛撫に、君はやっぱり笑ってしまった。 水が大好きだと思った。だから今はただ、水がくれる熱に溺れ、己の愛を水へ伝え続けたいと思った。 |
この話はスイ視点で書くのも面白いかもしれないと書き終えてから思いました。