声の向こうに



「……あー、違います。それじゃ」
「!!」
  ガチャン、と無造作に置かれた受話器を目の前に、夏樹(なつき)はぎょっとしてその電話を置いた人物を凝視した。
「け、慶ちゃん…?」
「ん? どしたの、なっちゃん」
「今の…誰?」
「間違い電話だよ」
  来年の春で中学も卒業しようという夏樹のことを「なっちゃん」などと甘ったるい声で呼んだのは、近所に住む二つ年上の従兄、「慶ちゃん」こと春野慶介(はるの けいすけ)だった。
  恐る恐るという風に自分にそう訊いてきた夏樹に、その慶介は涼しい顔でけろりと応え、ただ笑った。切れ長の目は少し笑むと「恐ろしく美しくなる」と学院の女生徒らは言うが、幼馴染の夏樹にしてみればそれは「何かロクでもない事を考えている」時の顔としか言いようがなかった。
「……嘘だ」
  だから、先刻までは慶介が作ってくれた夕飯をただほうばっていた夏樹も、そう言った従兄に思い切り疑わし気な目を向けた。もっとも、慶介に言わせると夏樹のその「ガン睨み」も「大きな目がちょっと小さくしょぼくれるだけ」の可愛いものらしいのだが。
「何怒ってんの、なっちゃん。それよりご飯。早く食べないと冷めちゃうよ?」
「慶ちゃん、今の! 本当に誰なんだよっ?」
「だから間違い電話だって」
  夏樹の詰問には慣れているのだろう、慶介は再び軽く笑い飛ばしてから、居間の卓袱台に戻って夏樹の目の前にすとんと正座した。慶介は幼い頃から様々な武道を嗜んできたせいか、同じ学生たちと比べてみても格段に「きちんと」している人物だった。そのせいで夏樹なども幼い頃は箸の正しい持ち方を泣くまでうるさく教え込まれた事がある。
「あ、なっちゃん。また肉残してるじゃないか、ちゃんと全部食べなさい」
  そんな慶介は夕食時は相変わらず夏樹の監督を怠らない。
「せっかくなっちゃんに美味しいところをたくさんあげているのに」
「だってこれ、大きすぎる。もっと小さくしてよ」
「ええ? 何、なっちゃん、それでも大きいの? もう仕方ないな、それじゃ俺のと交換してあげる」
「そ…! それじゃさっきより多くなるじゃないか!」
  慶介が自分の皿に盛っていた肉じゃがの肉をどばっと皿に入れてきて、夏樹は素っ頓狂な声をあげた。慶介の料理が嫌いというわけではないが―むしろそれはとても美味しい部類に入る―幾らなんでも食べすぎだと辟易してしまう事も多々あるのだ。
  確かに夏樹は平均的な中学生よりも小食で、そのせいか背も低く痩せ型なのであるが。
「俺、そんなに食えないよ! 慶ちゃん、いつもおかず多過ぎ!」
「だってなっちゃんにいっぱい食べさせたいんだもん。大体そんなんじゃ、なっちゃんいつまで経っても大きくなれないよ?」
「よっ、余計なお世話だよ」
「あ、でもあまり大きくなっても可愛くなくなるから、それも考えものだよなあ、うーん…」
「そんなこと考えこまなくていいよ!」
  大袈裟に首をかしげてそんな事を言い出す慶介に、夏樹は顔が熱くなりつつもそれをごまかすように声を荒げた。
  結局、電話の相手の事はすっかりはぐらさかされてしまった。
  ここ数週間、ずっとこれの繰り返しだ。



  従兄の慶介が夏樹の住む築15年の木造アパートに毎朝夕と食事を作りに来るようになったのは、今年の4月に入ってからだ。夏樹が中学3年になってからだから、今でちょうど半年というところだろうか。
「夏樹くん。仕事クビになった。ちょっと旅に出てきていいか」
「………え?」
  そう言って、夏樹の父・公信(キミノブ)は突然いなくなってしまった。毎月の生活費だけを夏樹の叔父―慶介の父親―に託して。
  幼い頃に母親を亡くし、夏樹はずっと父と二人暮らしだった。それでも夏樹は生活上においてこれといった不自由を感じた事はなかったし、父は仕事仕事であまり構ってはくれなかったが、基本的にはいつでも優しく、また大抵のことは夏樹の自由にさせてくれていた。二人暮らしには贅沢だろうという程の邸宅で通いの家政婦もいて、現在の中学も高校、大学とエスカレート式に上がれる私立校だ。来年もそのまま、慶介がいる高等部へ上がる予定だった。
  それが突然、である。
  父は知らぬ間に住み慣れた家も家財道具もほとんど全て売り払ってしまったらしく、夏樹には「叔父さんの家で面倒をみてもらいなさい」と言い残し、本当に突然、そのまま「何処か」へ行ってしまったのだ。父は叔父宅の前で呆然と見送りをする夏樹のことを振り返りもしなかった。夏樹が事の重大性を認知したのは慶介が青い顔をして駆けつけてきた夕刻の頃で、その時はさすがに夏樹もわあわあとみっともなく自分を心配してくれたその従兄の胸に縋って思い切り泣きじゃくってしまった。
  しまった、のだけれど。
  次の日から夏樹はいつもと変わらずに学校へ行き、普段の生活を始めた。
  住む所だけは随分と変わってしまったのだが。



「なっちゃん。あの馬鹿がね、なっちゃんにそろそろ帰ってきて欲しいって言ってるんだけど」
「またその話?」
  夕飯を終え、慶介が台所で洗い物をしている一方、夏樹は夕方取り込んだ洗濯物をたたんでいた。一人分なので大した量ではないが、傍でつけっぱなしになっているテレビを見ながらだったので動作は遅かった。しかも慶介がしきりに声をかけてくるものだから、自然と働く手は止まりがちになった。
  夏樹はテレビに目を向けたまま言った。この会話にももう慣れっこになっているのだ。
「俺、慶ちゃんの家には絶対帰らないよ。冗談じゃないよ、あんな危険な所」
「うーん、やっぱり駄目? 俺ももう無理だって言ったんだけどね。でもなっちゃん仮にもまだ中学生だから。いつまでもここで一人ってのも心配だって言うわけだよ。あの馬鹿、日々青白い顔になって落ち込んでる」
「……駄目だよ、そんな風に同情買おうとしても」
  すると夏樹のその曇りがちの声に対し、慶介は心底心外だと言う風に肩を揺らして冷笑した。
「同情? ハッ、なっちゃん。俺があの馬鹿を庇うわけないだろ? 俺はただ事実を言っただけ」
「………」
「甥っ子に欲情する父親なんか持って、俺もいい加減不幸だよ?」
「もうっ。この話やめっ!」
  慶介のさらりと言った台詞に夏樹は一人赤面して、手にしていた洗濯物を押入れの戸に向かって投げつけた。恨めしそうに慶介に視線を向けたが、幸か不幸か背の高い従兄はこちらを向いてはいなかった。
  そうなのだ。
  父親に置いていかれた中学三年の春。仕方なく慶介の家、つまり叔父の所へ身を寄せた夏樹なのだが、そこで実におぞましい体験をしてしまったのだ。
  慶介の台詞通り、浴室で実の叔父に襲われたのである。
  正確に言えば「襲われかけた」のであるが。
「あの時、慶ちゃんが来て叔父さん張っ倒してくれなかったら、俺完全に犯されてたんだぞ!? ここで一人暮らししているより、慶ちゃん家にいる方が危険だよ。…大丈夫だよ、下、大家のおばさんだって住んでるんだから。寮みたいなもんだもん」
「まあ俺は別にどっちでもいいけど」
  洗い物を終えた慶介は水道の蛇口を捻ると濡れた手を拭き、振り返りながらそう言った。薄っすらと笑むその顔は、やはりどことなく楽しそうで、何かを企んでいるように見えた。
  夏樹はこういう時の慶介がとても苦手だった。
「……ねえ慶ちゃん。また泊まるの、今日?」
「ふふふ」
  慶介はわざとらしく口元で笑ったきり答えなかったが、夏樹はその姿を見てああ泊まるのかと半ば諦めにも似た気持ちで押し黙った。もうほとんどここに住んでいるのではないかというくらいの勢いで、ここ最近の慶介は夏樹のこの住処に居ついていた。居つくだけなら、慶介は家事一切の面倒も見てくれるし、公立高校受験のための勉強も手助けしてくれるので本当に「良いお兄さん」なのであるが。

  その時、再び電話が鳴った。

「あ……」
「俺が出るからいいよ、なっちゃん」
  電話の音と同時に半分腰を浮かした夏樹を制し、慶介はさっと受話器を取った。いつもの天使のように晴れやかな…しかしそれでいてどことなく薄ら寒い柔らかい口調。
「……――違います」
  ああ、また。
  そして慶介は再びがちゃんと電話を切った。口調は丁寧なのに、何となく怒っているような。
「慶ちゃん……」
「ん…? ああ、間違い電話だよ」
  そしてまたけろりとそう言う慶介。夏樹は思わずカッとなって立ち上がると今度こそと大きな声を出した。
「嘘だろっ!?」
「嘘って…何が?」
「何がじゃないよ! 絶対間違い電話じゃないだろっ! 誰なんだよ、誰から掛かってきてんだよっ!」
「なっちゃん」
「うるさい! なっちゃんじゃない! もうその呼び名もやめろって、わざとらしい! にこにこしてるくせにやる事はめちゃくちゃだよ、慶ちゃん!」
「……お茶飲む?」
  ぜえぜえと息を切らせながらまくしたてる夏樹には構わず、慶介は平然としたままそんな事を言った。卓袱台の前でまたきちんと正座し、傍にあったポットを引き寄せる。
  それで夏樹はまたじりじりとした気持ちになりながら、慶介の真横に座りこんで心根の読めない従兄の横顔をじっと見やった。
「ごまかすなよっ。慶ちゃん、慶ちゃんは知らないだろうけどね、俺の方の中等部ではすごい噂になってるんだからっ。俺ん家に電話しても、『いつもヘンなお父さんのせいで電話繋がらない』って!」
「『ヘンなお父さん』? は〜ん?」
  妙な声を出してから慶介は感心したように笑い、目を細めた。手際良くお茶の準備をする手は動いたままだ。
  夏樹はそれを目にしながら続けた。
「俺が兄弟いないの知っているから、クラスの連中はお父さんがそうしてるんだと思ってるんだよ。でも…でも俺さ、いくら俺を置いて蒸発しちゃった勝手な親だからって、俺、お父さんが悪く言われるの嫌なんだよ」
「だったら俺がやってるって言えば?」
  簡単じゃないかというような口調の慶介に、夏樹はますます口を尖らせて不平を述べた。
「皆が崇拝している高等部の生徒会長様がこんな事してるって分かったらもっと大騒ぎだよ! って言うか、俺の言う事なんてきっと誰も信じてくれないよっ。うちのクラスにだって慶ちゃんのファンだって言う女子多いんだから」
「その割に誰一人俺の声だって気づかないんだぁ」
「声変えてるじゃん! って…あ! やっぱりクラスの奴から電話来てるんじゃないか〜!」
「ははは。まあまあ、なっちゃん。とにかく聞きなさい」
  慶介はそう言って軽く片手を挙げた後、珍しく真面目な顔になって夏樹に向き直った。それで夏樹もぎくりとして開いていた口を閉じた。慶介が自分にお説教をする時の目に近いものを感じたから。
  警戒気味の夏樹に慶介は言った。
「バレちゃったんじゃあ、仕方ないね。そ、間違い電話なんかじゃない」
「な…っ。何が、バレちゃったんじゃ、だ! とっくの昔にバレてるっての!」
「いいから聞く」
  びしりと鼻の頭に慶介の長い指先が当てられ、夏樹はぐっとなって再び押し黙った。すると慶介は途端ににこりと笑い、夏樹の髪の毛をぐしゃぐしゃと撫で付けた。
「わっ」
「これがね。なっちゃんみたいに黒じゃなくて茶色なの。しかもだらだらと長い」
「は……?」
  髪の毛に手を置かれたまま唐突にそう言われ、夏樹はぽかんと口を開けた。
  慶介は言った。
「髪の毛だけじゃないぞ。なっちゃんに電話してくる連中はみんな鞄は学校指定のじゃないし、ズボンはだらしなくずり下げてるし。あんな不良共と可愛いなっちゃんを近づけられるわけないでしょ」
「……慶ちゃん、一体何の話してんの」
「だからなっちゃんに電話してきている連中の話だよ」
  慶介は言いながら、まるで手品のように―実際はズボンの尻ポケットからでも出したのであろうが―小さなメモ帳を取り出してそれをぺらりとめくった。
  そして何かを朗読するかのように。
「俺の可愛いなっちゃんに執拗に電話を掛けてくる不届き者ベスト3。一人はクラスメイトの相木裕也。部活にも入らず、街のライブハウスでギターなんかを弾いている物凄い不良だ。髪なんか茶色を通り越して赤に近い。その次は同じくクラスメイトの川崎亮太。中学生のくせにバイクおたくで、これも将来はきっと暴走族になって学校の廊下をバイクで走り回るに違いない危険人物」
「ちょ…慶ちゃん…?」
  俺のとか、可愛いとか、聞き捨てならない台詞が聞き取れたような気がしたが、夏樹が確認する暇もなく慶介は続けた。
「あと、隣のクラスの篠崎誠一郎。去年同じクラスだったんだな。こいつは生徒会長をやっていて品行方正、周囲にも一目置かれている一見優等生だが。こういうのが実は一番怪しいんだ。裏で何をやっているか分かったものじゃない」
「…慶ちゃんみたいに?」
「そうだよ?」
  まるで動じる風もなく慶介はあっさり答えると、ぱたりとメモ帳を閉じた。
  それから憮然として言う。
「電話だけならともかく、なっちゃんをどっか悪い所に連れて行く誘いだったら大変だから、せめて家でだけでもガードしているんじゃないか。どうせ学校ではべたべたされてるんだろうしさ」
「べっ…だって、あいつらはみんな友達だもん。何がべたべただよ!」
「友達ィ? はあ、そうならいいけどね」
「何が言いたいんだよ、慶ちゃん! とにかくね、もう俺に断りなく電話切るなんて絶対しないでよ!? ホント信じらんねー! いやもううちの電話取らないでよ! 大体髪の色だとか何だとか…慶ちゃんは一体何年生まれの人間なんだ? 俺、こんな事され続けたら友達いなくなっちゃうよ!」
「いなくなればいいのに…」
「何か言った!?」
「はーあ、分かったよ。ジョークだよ、ジョーク。軽い冗談」
「じょ…っ」
  軽い冗談にしては数週間にも及ぶ長期間、友人たちからの電話を切られ続けていたという事になるのだが。
「まったく…まさか慶ちゃんがこんな事するなんて…」
  夏樹はハアと大きくため息をついてから、何かを探るように上目遣いの視線を従兄に送った。 
  当初、クラスで相木らが「昨日お前ん家に何度掛けても電話切られた」というような話をしてきても、夏樹は俄かにその事実を信じる事ができなかった。まさか慶介が自分に無断でそんな事をするとはとても思えなかったから。
  しかし日を追う毎にその「いたずら電話」「間違い電話」の数は増えていき…友人らの苦情の数も増えるにつれ、夏樹はいよいよ慶介のその不穏な行動に疑いを抱くより他なくなってしまった。
  慶介は夏樹と同じ学院の高等部に所属しているが、そこでは所謂優秀な生徒会長で、遠目から見ても尊敬できる自慢の従兄だった。また思い切り外面を装っている時の慶介は、学院で夏樹に会っても決してその表情を崩さない。大体は無視か、「夏樹、元気か?」などと白々しい挨拶をしてくる程度だ。だからクラスメイトたちにしてもそうだが、夏樹自身、そんな尊敬する生徒会長様の慶介がまさかこんな事をするとは露ほども思えなかったのである。そしてそれは普段の慶介を思えば本当に仕方のない必然だった。
  もっとも。
「なっちゃ〜ん。はい、お茶」
「………」
  夏樹は腑抜けた声を出して自分を呼ぶ慶介をまじまじと見やった。
  学校では非の打ち所がないカッコいい従兄であるのに、この部屋ではいつもこうだ。夏樹のことを「なっちゃん」と呼び、隙さえあれば常にべたべた甘えてくる。寝る時も「さびしい」とか何とか言って一緒の布団に入ってくるし。これは夏樹がクラスの誰にも決して言えない事だった。
「なっちゃん、怒っちゃった? 機嫌直してな? だって今夜もここに泊まるのに会話がなかったら気まずいじゃない」
「泊まらなきゃいいじゃん」
「あはは。なっちゃん、きついなあ」
  それこそ冗談ばっかり。
  慶介はそんな事をけらけらと笑いながら言い、近所の奥様連中のように片手をひらひらと振って「嫌だね」というような仕草をした。夏樹はそんな慶介を冷たい目で見やりながら、これが自分に対し気を遣ってやっている態度だとしたら「本当に嫌だな」と思った。実際、慶介が夏樹にこういう態度を取り始めたのは、父の公信がいなくなってからだった。
「ねぇ慶ちゃん…」
  しかし夏樹が声を出そうとしたその瞬間。
「わ…っ!」
  再び、けたたましく電話音が部屋中に鳴り響いた。
「あ、電話」
  突然の電話に意表をつかれしばし動転していた夏樹は、慶介のすっとぼけた声ではっとなって立ち上がった。
「俺が出――…」
「いい!」
  そして夏樹は未だ呑気にそんな事を言いかける慶介を振り切り、だっと駆け寄って受話器を取った。相木か川崎か篠崎か。いずれにしてもさっさと電話を取って、「夏樹の親父はヘンな奴」という誤解を解かねばと思った。
「はいっ、春野です!」
「でかい声だなあ」
  背後で慶介が呆れたような声を出すのが聞こえたが、夏樹は構わず受話器に向かって「もしもし!?」と再び威勢の良い声をあげた。
『…………』
  しかし電話の向こうの相手は、予想に反してすぐに声を発してこなかった。
「……? あれ? もしもし?」
『…………』
  確かに誰かの息遣いを感じる。受話器の傍に人の気配は感じるのに、しかし電話の主はなかなか声を出そうとしなかった。夏樹は眉をひそめた。よりにもよって自分が取った時に限って、本当の間違い電話か、はたまたいたずら電話が来てしまったのだろうかと思ったのだ。
「あの、もしも――」
『……夏樹くん』
  しかしもう一度訊こうと思ったその時、その声は一拍置いてからゆっくりとした口調でそう言った。
「……え」
  瞬間胸がどくんと跳ね上がったが、驚きで掠れた声しか出てこなかった。
  けれどその声、その呼び方は間違いなく。
『夏樹くん、元気そうだな』
「おと……」
  間違いなく父・公信の声だった。
  夏樹が声を失ったままでいると、逆に向こうはぽつぽつと語り始めた。
『……驚いたな。この頃は慶介君が絶対に君を出してくれなかったから。こうして声が聞けるなんて思ってもみなかった。期待もしていなかった。ただ、とりあえず今日も元気だという報告だけ、しておこうと思ったんだ』
  夏樹の返答を期待していないのか、抑揚のついた声は尚も続いた。
『悪いがまだしばらく戻るつもりはないんだ。今、初めて楽しいんだよ。こうやって生活している事が嬉しくて仕方ないんだ。夏樹くんには悪いと思っているけど、我慢はしたくないんだ。だから』
「我慢……?」
『そうだよ』
  今、父は笑ったのだろうか。
  ぼんやりと頭の片隅でそう思っている夏樹に、しかしもうそれ以上、父の声を聞く事はできなかった。
「夏樹」
「あ……」
  いつの間にか背後に来ていた慶介によって、その受話器は奪われていたから。
「慶ちゃ…」
「お互い馬鹿な親を持つと苦労するな」
  茫然と自分を見上げる夏樹に慶介はやや苦笑してから受話器を置き、それからもう一度、今度はひどく優しい所作で頭を撫でてきた。さらりと触れられたその感触のお陰で、夏樹は不意に襲ってきた胸の痛みを何とか緩和する事ができた。
「今の……」
「ん」
「……お父さん」
「ああそう」
  何でもないことのように慶介は応えた。いつもの調子の良い、明るい態度は消えていたが。
「今までのも。お父さん、だったんだ…?」
「時々はね」
  慶介はさらりさらりと夏樹の頭を撫でながら静かに答えた。やはりだ。今はもう、いつものふざけたものではなかった。
  とても落ち着く……声。
  だから夏樹も冷静に言葉を出す事ができた。
「なんか…お父さん、楽しくやっているみたいだ」
「みたいだね」
「今まで…我慢してたんだ?」
  意図せずすぐに出てしまったその言葉に、夏樹自身が驚いた。先ほど父親がごく自然に紡いだ言葉。放っておけばそのまま流してしまえそうだったのに、いざ自分で口にしてしまうと、その言葉はひどく重く、そして痛いものに感じてしまった。
「お父さん、ずっと我慢してたのかな…」
  それでも夏樹はもう一度言ってしまった。
「そんな事はないだろ」
  しかし慶介ははっと息を吐いてからきっぱりとしてそう言った。夏樹を撫でるその手のひらにも力が込められたような気がした。
「……でもそう言ってたもん」
「言っていたとしても、そんな事は絶対ない」
「俺はお父さんの事こんなに心配していたのに、ばかみたいだ。お父さんは俺の事なんか全然心配してなくて、どっかで楽しく旅してんだよ。俺の事、邪魔だって思ってて…逃げたかったんだ。ホント…何なんだろ」
「そんな事はない。心配だから電話してきてるんだから」
「じゃあ何で慶ちゃんはっ!」
  夏樹は思わず怒鳴るようにそう声を荒げ、ぎっとした目を慶介に向け、顔を歪めた。このままではただ慶介に当たってしまうと分かっているのに、この時はどうしても止められなかった。
「何で慶ちゃんは俺に電話を取らせなかったんだよ!」
「何で?」
「そうだよっ。俺がお父さんを心配しているの知ってただろ!? それなのに…!」
「………」
  荒く息を継ぎ、はっと息を吐き出す夏樹を慶介は黙って見下ろしていた。夏樹は何となくそんな慶介の視線が怖くて顔を上げられなかった。それでも自分に触れてくる手のひらの温度は感じていたいと思っていた。
  ひどく心細い気持ちがしていたから。
「それはね、なっちゃん」
  すると不意に慶介はまた「あの」すっとぼけた声に戻り。
「え……わっ!」
「何で電話を取らせなかったって? それはね」
  慶介は何やらひどく得意気な、そしてどことなくいたずらっぽい微笑を浮かべると、不意に夏樹を抱きしめた。両腕を力いっぱい夏樹の背中に回し、自分の胸に顔をうずめる夏樹の頭に鼻面をこすりつける。
「け…慶ちゃん…?」
「当たり前だろう? あの人は好き勝手な事してるんだもん。この上、俺の可愛いなっちゃんの声なんか聞かせてあげられないよ」
「え?」
「楽しんでさ? それでなっちゃんに心配してもらえてさ? そんなのズルイじゃない。だから電話。取らせたくなかったの」
「………」
「分かった? なっちゃん?」
「………」
  夏樹はしばらく慶介に抱きしめられたまま、そうして自分もその広い胸に顔を押し付けたまま、慶介のそう言う優しい声を黙って聞いていた。慶介の芝居がかったその言い方や、キツイくらいに抱きしめてくる腕の力。それらを一つ一つ考えながら、夏樹は先刻までずきずきと悲鳴をあげていた胸の痛みが徐々に引いていくのを感じていた。
  そしてようやく。
「………嘘だぁ」
  それだけを夏樹は言った。
「ん…? 何、なっちゃん」

  きっと慶介は父のあの声を自分に聞かせたくなかったのだ。

「なっちゃん?」
「……慶ちゃんの嘘つき」
  子供のように浮かれ、まるでただそれを自慢するかのように生存報告だけしてきた父。
  糸の切れた凧みたいに何処かへ行ってしまった父。
  我慢してたんだ、と言い切ったあの父の声を。
  慶介は聞かせたくなかったのだ、きっと。
「慶ちゃんって」
「ん?」
  つぶやくような声を出した夏樹に慶介が怪訝な顔をして聞き返してきた。夏樹はそれには応えず、ただこっそりと小さく笑った。
「……知らなかった」
「何を?」
「………」

  慶ちゃんがこんなに俺のこと想っていてくれたってこと。

  それに気づいてしまい、夏樹は何だか猛烈に嬉しくて恥ずかしくて、どうしようもない気持ちになった。
  そしてそれと同時に。
「なっちゃん?」
「慶ちゃん…。今日、泊まっていくんだよね?」
「うん。一緒のお布団で寝ようね?」
「……うん」
「えっ! それ、初めてのリアクション!」
「へへ……」
  驚いたように身体を揺らしそう叫んだ慶介に、夏樹は照れたようにふざけて笑いながらも、もう一度甘えるように自らの顔を押し付けた。
「……夏樹?」
  慶介が様子のおかしい夏樹に気づいて心配するような声を出したが、夏樹は応えなかった。今はただとくとくと鳴る慶介の心臓の音だけを聞いていたかった。他の音は聞きたくなかった。
  それだけを聞いていれば、今はただそうしていれば、夏樹は何故だかどうしようもなくこみ上げてくる涙を堪えられるような気がしていた。