声の向こうに―2人の日常― |
同じ敷地内にあるとはいえ、高等部の校舎に足を踏み入れるのは怖い。 「……やっぱりやめようかな」 夏樹は手にした弁当箱の包みを胸に掻き抱くような格好で歩きながら、自分よりも数段背の高い先輩たちを尻目に廊下の端を歩いていた。 中等部の制服は高等部のそれとはタイの色が違うから、夏樹が下級生だという事は周囲には一目でバレてしまう。 「見てみて。可愛い」 夏樹を見てこそりとそんな事を囁きあう女子生徒。 「何だ、あのちびっこいの。目、くりくりしてる」 からかうような眼差しで好奇の目を向ける男子生徒。 (やだな…) 過剰反応ではないけれど、自分への視線や声を1度でも察知してしまうとどうしても萎縮してしまう。夏樹は背中を丸めながらどんどん廊下の端へ寄っていき、しまいにはまるで重罪人のような趣で足早に目的の場所へと急いだ。 高等部の生徒会室は東校舎の3階。 中等部の夏樹がいるクラスとは一番遠い正反対の位置にある。それがこの時の夏樹には富士山かヒマラヤを登るような遥か遠い地にあるように感じられた。 (慶ちゃんめ…。会ったら絶対文句言ってやる) 自分にこんな思いをさせている張本人の顔を頭に思い浮かべながら、夏樹は苦虫を噛み潰したような渋い顔をした。 それからもう一度弁当箱をぎゅっと抱え直す。 クラスメイトたちは昼になって皆それぞれのスタイルで昼食を楽しもうとしていたが、夏樹はそこに加われなかった。いつもなら友人の相木や亮太らと楽しく食堂でラーメンを食べたりパンをかじったりするのだけれど、今日はどうしても慶介が弁当を持っていけというから。朝早くから仕込みをしてわざわざ作ったというから。 だから素直に受け取ったのだ。感謝の意を述べて、「慶ちゃん、ありがとう!」などと、妙にはしゃいだ顔までして。 (だって…慶ちゃん、料理巧いし。嬉しかったんだ) それなのにこの仕打ち。 夏樹の頬はカッと熱くなった。 「あ…ここだ」 そうこうしているうちに生徒会室に辿り着き、夏樹はそのドアを何ともなしに見つめた。 初めて来るその場所「生徒会室」は、やはり教室を訪ねていくのとはまた別の緊張感があった。元々夏樹の学校は中・高共に生徒の自主自律を重んじるという事から、その学生を取りまとめる生徒会には多くの権限が与えられており、この生徒会室もその1つだった。役員だけが入る事を許されているそこは、噂には社長室のような豪華設備が整っているとか、中の金庫には数千万の予算が納められているとか、全くあり得ないだろうというような話が実しやかに語られていた。文化祭などの行事で1日に数百万単位の金が動いた事から流れた話だったが、実際にそれらの予算を提示された事もそんな大金を見た事もない夏樹には何とも判断のしようがなかった。 それでもそうやって一般生徒が一線を引き遠巻きに眺めてしまうようなオーラが、その生徒会室にはあったのだ。そこに集まる役員たちも成績優秀、文武芸術あらゆる面において活躍している優等生の集まりであったし。 そしてそんな彼らの頂点に立つ生徒会長が夏樹の従兄弟・慶介なわけで…。 「あれ?」 そんな事を考えながら夏樹がドアの前に突っ立っていると、突然ドアが開いて中から背の高い男子学生が顔を出した。 驚く夏樹に相手はもっと驚いた顔をして目を見開いた 「びっくりした…。えーっと、中等部のコだよね? 何か用?」 問われた夏樹も上級生のオーラに思わずドギマギしてしまったのだが、何とか頷いて返答した。 「すみません、あの…。け…春野先輩いますか」 「慶介? いるけど…うーん、今ちょっと取り込んでるから」 男子学生はそう言いながら更にドアを少しだけ開き、夏樹に中の様子を見せた。 「……あ」 夏樹がひょいと首を伸ばして部屋の中を伺うと、そこには数人の生徒会役員に囲まれた慶介の姿があった。 部屋の中央にある大きなデスクに1人だけ座っている。慶介は自分を取り囲む役員たちを相手に何やら難しい顔で話をしていた。来月の保護者会がどうとか、オペラ鑑賞会のイベントの件がどうとか、それぞれの役割を担った者たちが1人1人慶介にそのスケジュールに関する報告を行っている。慶介はそのチェックと確認作業をしているようだったが、そのせいか部屋の入口にいる夏樹の存在にはまるで気づいていないようだった。 「………」 夏樹はそんな慶介の姿をぼうっとして見つめた。生徒会室の場所も遠いと思ったが、この時は目の前の慶介自体、自分には手の届かない遠い場所にいる人のような気がした。 「文化祭終わった後もごたごたした行事が多くてね。最近は昼休みもずっとこうなの」 ドアノブを押さえたままの男子学生が申し訳なさそうにそう言い、「何か用があるなら俺から言っておくけど?」とつけ加えてくれた。 「いえ」 しかし夏樹はかぶりを振り、一歩後退した。 真面目な、そして厳しい表情で周りの人間に指示を出している慶介の事が何だかコワイと夏樹は思った。 いつもいつも、あのアパートでは「なっちゃーん」などと甘い声で笑っているだけのくせに。 「忙しいならいいんです」 だから夏樹はそう言った。 「帰ります。大した事じゃないので」 「いいの? 本当に?」 「はい…」 心配そうな顔をする男子学生にちょっとだけ微笑みかけて、夏樹はぺこりと頭を下げた。 そしてくるりと回れ右をしてその場を去ろうと――……したのだが。 「夏樹」 しかし慶介が、呼び止めた。 「え」 驚き振り返った夏樹に慶介はちらとも視線を寄越してこなかった。 けれど確かに呼んだ。慶介は夏樹がいる事には気づいていたのだ。 「夏樹」 慶介は書類に目を落としたまま再度呼んだ。 「中入って待ってろ」 「……でも」 「あれ、夏樹…君って。あ、もしかして慶介の従兄弟?」 ドアの所に立っていた学生が「君があの夏樹君かあ!」と何やら意味深な発言をして微笑んだ。すると仕事に集中していた他の学生たちも皆一斉に夏樹を見やった。 「あのっ…?」 夏樹はそれだけで緊張してカチンコチンに身体を凍らせてしまった。ただでさえここに来るまでも上級生たちの視線に晒され痛い思いをしたというのに、こんな人たちに見つめられては緊張するなという方が無理だ。 「かわいい〜」 すると中の1人がそう言って笑い、それにつられるように後の生徒たちもふわりと和やかな雰囲気になって顔を緩めた。 「え、と…」 途惑うそんな夏樹を救済するべく慶介が「それじゃここまで」と昼の仕事の終了を告げたのは、それから数秒後の事だった。 「なっちゃん」 役員たちが部屋から去って夏樹と2人だけになると、慶介の態度は一変した。 未だどこに落ち着くでもなくドアの前に立ち尽くしていた夏樹は、机の上で頬杖をついた格好でこちらに視線を向けるそんな慶介の顔を途惑いながら見やった。 「お待たせ。来てくれて嬉しいなあ、いらっしゃい」 「……慶ちゃん」 表情だけではない、声も違う。以前声色を変え友人たちから夏樹への電話を全てシャットアウトしていた慶介だが、なるほどこの声なら正体がバレないわけだと夏樹は思った。 「慶ちゃん」 そんな従兄弟の名前を、夏樹も慶介同様2回呼んだ。相手を確認しないとさっきまでのギャップに耐えられそうにないと思ったのだ。 そうやって名前を呼び、相手がそれでにこりとしたところで、夏樹はそろそろとその慶介がいる机の前にまで歩み寄った。 「……邪魔だった?」 「ええ?」 「忙しそうだったじゃん…。あの人たち、無理に追い出したの?」 夏樹が恐る恐るそう言うと、慶介は目を見開いて驚きの表情をしてからやんわりと笑んだ。 「そんなわけないよ。なっちゃんのこと邪魔なわけないし。大体、ここに来るのは分かってたし」 「え?」 慶介の勝手知ったるような顔をぽかんと眺めた夏樹は、しかしその瞬間はっとして途端に声を上げた。 「そっ! そうだよ慶ちゃん! 何だよこれは〜!」 「なあにが?」 飄々とする慶介に、夏樹はきっとなって更に声を荒げた。 「何がじゃないっ。そうだ、それで来たんだった! こ、こん、こんな弁当食えるかっ。危く皆の前で開いて笑いものになるとこだったよっ!」 「何だ、咄嗟に閉めちゃったの? ちっ、皆の前で開ければ良かったのに…」 「『ちっ』じゃない! 頼むからもう俺で遊ぶのやめてくれよ!」 「なーに言ってるの、なっちゃん」 慶介はけらけらと笑いながら、夏樹が投げ出すようにした弁当箱のフタを片手でカタリと開けた。 『 な つ き ラ ブ 』 おかずはから揚げ、ポテト、キンピラにミニサラダ。 三色ご飯は見ているだけでも楽しい色とりどりの赤、黄、緑だ。 しかしその三色のもの…挽肉、炒り卵、それにインゲンは、うまい具合に白飯キャンパスにその文字を象っていた。 その「恥ずかしい文字」を。 「何がラブだ何がっ! こんなもん皆の前で開けられるわけないだろーっ?」 「何で」 「何でじゃないっ。こんなの、今じゃどんな新婚バカップルだってやってないっ」 「そうかなあ」 くすくすと笑いながら、慶介は再び弁当箱のフタをしめると真っ赤になっている夏樹をすっと見上げた。 「じゃ、ここで食べてけば?」 そしてあっさりと言い、横にあるソファを指差した。 「今、誰もいないし。そこ空いてるし」 「へ…」 ぽかんとしている夏樹に慶介は更に追い討ちをかけるように言った。 「俺も丁度これからだし。昼飯」 「……慶ちゃん」 「なっちゃんとご飯食べられるなんて嬉しいな〜」 「まさか、慶ちゃん…」 にこにことした一見無害な顔を眺めながら、夏樹はたらりと額に汗をかいた。 まさか自分は完全に踊らされてしまったのだろうか。 「………」 そう思った瞬間、夏樹はストンと力が抜けて、そのままがくりと肩を落とした。 「もう…何なんだよ慶ちゃんはぁ…。皆の前ではあんなにカッコいいのに…。……あ」 思わずそう本音を漏らしてしまった夏樹は、直後焦って口元を両手で塞いだのだが、幸い慶介はその発言に対してしつこく絡んでくるような事はしなかった。 その代わり相変わらず頬杖をついた姿のまま、慶介は何やら目を細めると多少静かな声色で言った。 「夏樹だって、俺以外の誰かの前ではあんなに礼儀正しい後輩じゃないか」 「はあ…?」 「ここに来るまで、ナンパされたりしなかった?」 「さ…されるわけないだろっ」 「……まったくねぇ」 「え?」 夏樹のむっとした態度に、慶介は瞬間呆れたようなどことなく困ったような顔になり、そして笑った。 「ま〜た、なっちゃんはおにぶさんだから参るなぁ、もう」 「え、ええ? もう何なんだよ、困るのは…!」 「ん?」 「………」 困るのはこっちだと言おうとして、しかし夏樹は口を閉じた。 ムキになって怒鳴れば怒鳴る程、何だか自分を見つめる慶介の顔はどんどん優しくなるような気がした。だから夏樹は面白いものを見るような顔でこちらを眺める慶介に、途端どうして良いか分からなくなってしまった。 何だか悔しい。 「……ちぇっ」 だから思わず舌打ちして下を向いたのだが、これに慶介はぴしゃりとお小言を述べてきた。 「こら、夏樹。何だ今のその態度は? そういうふてくされた顔は――」 「な、何…っ」 「とっても可愛いよ?」 「えっ…」 「ははっ!」 そうして慶介はようやっと椅子を蹴って立ち上がると、ずっと立ちっぱなしの夏樹にもう一度ソファに座るよう勧めた。 「さて、じゃあ、ここまで来てくれた偉いなっちゃんには、慶介兄さんが美味しいお茶を淹れてあげようかな」 「………」 「ん? 何? なっちゃん」 「ジュースがいい」 ぼそりとそう言い返した夏樹に、慶介は途端破顔してすぐに頷いた。 「あー、そっかそっか。分かった、ジュースでも何でもあげるよ。だからゆっくりしていってね」 「……うん」 社長室とは到底言い難い狭い生徒会室の中、それでも夏樹は自分の為に飲み物を用意してくれる慶介の背中を見詰めながら、「ああやっぱり慶介には敵わない」と心の中で呟いた。 「……ちぇっ」 けれど勿論、そんな事は悔しくてこの当人には言えないから。 夏樹は自然と緩んでしまう自分の頬をどうにもできず、それをまた慶介に知られるのが照れくさかったから、敢えてふいっとそっぽを向いた。 |
了
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