声の向こうに―日曜デート― |
ぴかぴかに晴れた日曜日。春風が心地良い青空の下で、夏樹は家から電車で30分程かかる国立公園のベンチに座っていた。周囲には手入れされた植木にツツジの花が満開だ。細い砂利道に沿って視線を遠くの公園入口にまで向けると、噴水や風車、それに夏樹が座っているような木造りのベンチが幾つもあって、同じように穏やかな休日を楽しんでいる人々の姿が楽しめる。 それらをぼうっと眺めていると、不意に夏樹の耳に通りがかった2人の女の子たちが嬉しそうに笑い合う声が聞こえた。 「もう凄いカッコいいっ。もろタイプなんだけど〜!」 「やばいよね、何だろやっぱりデートかな?」 「そりゃそうでしょ、あんなの買ってるんだもん。あー、彼女どんな顔だろ? 絶対美人だよね!」 「でなきゃ許せないって感じだよね!」 恐らく夏樹よりも年上の女子高生だろう。色鮮やかな明るい服に身を包んだお洒落な風貌の彼女らは、まるで素晴らしいものを見たように目を輝かせ声を弾ませている。ちらちらと振り返りながらそう言う彼女たちの視線を夏樹も何気なく追うと、心の中で半ば予想していた光景がぱっと目の前に映し出された。 「なっちゃん」 にこにこしながらそう言って夏樹に近づいてきたのは、夏樹の従兄弟である慶介だった。両手に果物やらチョコレートやらがたっぷり包まれたクレープを持って軽快な足取りでやって来る。先刻まで女の子たちが噂していたのはまさにこの慶介の事だろう、その彼が不意にベンチに座っている少年…夏樹に声を掛けたものだから、彼女たちはあからさまに驚いたような顔をしていた。ただその場に立ち尽くすわけにもいかないと思ったらしく、のろのろとだが遠ざかりながらこちらの様子を窺っている。 夏樹は無性に恥ずかしい気持ちがした。 「なっちゃん、お待たせ。はい、チョコバナナ」 しかし慶介の方はそんな周囲の視線には無頓着だ。元々周りに注目を浴びる事には慣れ切っているのだろう、近くにいる彼女たちの熱い視線なども軽く無視して、すぐ傍にいる夏樹にだけ、その涼やかな顔は向けられている。 「どうしたの? チョコバナナで良いって言ってたじゃない。気が変わった? 俺のいちごの方をやろうか?」 「い、いいよっ」 依然として甘ったるい声を発する慶介に夏樹は慌てて声を荒げると、これまた乱暴な仕草でクレープの1つを奪い取った。慶介はそんな夏樹に不思議そうな顔をしつつも、ようやく自分も隣の席に腰を下ろす。 「その味に飽きたら言いな。途中でこっちと交替してあげるから」 「い、いいってば」 「何で? 両方の味楽しんだ方が得だろ? なっちゃんは昔っからそうだもんなぁ。2人で何か食べてても、必ず俺が食べてる方が段々羨ましくなってさ、しまいには自分のより俺の方のが欲しいって駄々こねて」 「そ、そんなの、昔の話だろっ」 早く向こうへ行けっ。 少し離れた位置から自分たちを未だ観察している女の子たちを気にしながら、夏樹は真っ赤になって俯いた。さんざカッコイイと持て囃していた青年がこんな小さな中学生を相手にふやけた顔をしているのを、彼女たちは一体どういう風に思っているのだろう。兄弟に見えるだろうか、それとも先輩と後輩? あながちそのどちらも外れた予想ではないけれど、これ以上慶介がマズイ事を言い出さないうちに、とにかく彼女たちには早く何処かへ行って欲しかった。 「なっちゃん、下向いちゃってどうしたの。食べないの」 さすがに不審に思ったのだろう、慶介が不思議そうな顔でそう訊いてきた。夏樹は口元で「何でもない」ともごもご返してから、慌てて慶介に買ってもらったクレープをぱくりと食べた。甘いチョコレートの味が口いっぱいに広がって、それには思わず顔が緩む。この時間はいつもこの公園に常駐しているという移動クレープ屋は夏樹たちの学校でも有名な名店だ。だから一足早くそれを食べに行った友人たちから「本当に美味しいよ」という報告を受ける度、夏樹も1度はその店に行ってみたいと思っていた。 そしてその事を慶介に話したら、今度の日曜に連れて行ってくれるというから、夏樹は今日の日を以前よりとても楽しみにしていたのだった。 果たして、その期待は期待以上の味をもって夏樹を歓迎してくれたわけであるが。 「美味しい? なっちゃん」 慶介が窺うように訊いてきた。そのどことなく心配するような表情に夏樹は思い切り狼狽した。折角休みの日にわざわざ付き合ってもらっているのに、これ以上余計な事を気にしても始まらない。 「凄く美味しいよ。こんな凄いの、初めて食べた」 「そう」 慶介がほっとしたように笑った。夏樹はその整い過ぎた綺麗な顔に思わずぽーっと見惚れてしまった。はっとして横を向くと、2人組はまだ少し離れた位置からこちらの事を気にした風にお喋りをしていた。 夏樹はそれに努めて視線を逸らし、再び手元のクレープに目を落とした。ぱくぱくと立て続けに口に入れると、どんどんその甘く心地良い感触が身体いっぱい広がっていく。 「………夏樹」 「え?」 ふとその時、慶介に改まった呼び方をされて、夏樹は驚いて顔を上げた。するといつからだろう、とうに夏樹を凝視していたような慶介がすっと目を細めると顔を寄せてきた。 「け、慶ちゃん…?」 「クリームついてる」 「え。どこ」 「ここ」 「……っ!」 言われてぺろりと舐められた先は唇のすぐ端。 「なっ…けけけ慶…!」 「甘い、ね」 「慶ちゃんっ!!」 「なあに」 顔中を真っ赤にして思わず立ち上がった夏樹に、慶介は済ました顔をしている。自分のクレープに口をつけ、「お行儀が悪いね、座りなさい」なんて事も言いながら。 「な、何するんだよ、いきなりっ」 言いながら恐る恐る背後を振り返ると、案の定彼女たちはその展開にぎゃーぎゃーと喜んでいるのか叫んでいるのか分からない奇声を発していた。夏樹はそれでますます居た堪れなくなり、ふるふると肩をいからせながら慶介に向かった。 「み、見られた! 見られたよっ!」 「何が」 「何がって! だから! 今慶ちゃんが俺にしたことっ!」 「誰に」 「あ、あ、あそこにいる人たちに!」 「そうか」 慶介が微かに鼻で笑ったような気がした。その嘲るような態度に夏樹がどきりとすると、裏表激しい従兄弟はすうっと目を細めていつもの企み顔をすると夏樹を見上げた。 「別に構わないだろ。他人がどう思おうが俺と夏樹には関係ない事じゃないか。大体、あんな人たち俺は知らないよ。夏樹は?」 「な、何が…」 「知り合い? あの子たち」 「し、知らない…」 「まあ知っている奴でも別に構わないけど」 「良くないよっ」 「ああ、良くないと言えば他人のくせに俺の可愛いなっちゃんの顔をいつまでも観察してるってのが気に食わないな。一言文句言ってきてやろうか?」 「ばっ…!」 そう言って腰を浮かしかけた慶介に夏樹は立ちふさがって上ずった声を上げた。 「や、やめてよ慶ちゃん!」 「何で」 「は、恥ずかしい事するなよっ。大体、あの人たちは俺じゃなくて慶ちゃんを見てるの! ずっと! う、噂してたもん、慶ちゃんのこと! カッコいいって」 「ふうん…」 「……だ、だから俺…!」 少し恥ずかしくなっていたのだ。 従兄弟の慶介は男の夏樹が見てもとてもカッコ良くて、それだけではない、頭だって良いから尊敬もしている。いつもはおちゃらけているが、夏樹は慶介の事は確かに「凄い」と思っているのだ。 そんな慶介が麗らかな春の日曜日に、美人の彼女とデートではなくて、こんな中学生の自分とクレープを食べているなんて……。 だから気になって仕方がなかったのだ。 「またなっちゃんがくだらないこと考えてる」 「え……」 慶介が遠くを見やるような目をしながらぽつりと言った。けれどそれを聞きとがめた夏樹に、すぐにその視線を戻して慶介は言った。 「俺は、夏樹が1番好きだよ」 「慶ちゃ……」 「もーう」 ぐんと思い切りベンチに寄りかかると、慶介は間延びしたような言い方をしてくすりと笑った。 「折角のデートなのに、何なのなっちゃんは。そんな他の人ばっかり見ないでよ。嫉妬しちゃうよ」 「な…何それ…」 「何それじゃないの。あー、でも。今日は1つ発見した」 「え?」 「なっちゃんは人が見ていなければ、俺がさっきみたいな事をしても、別に嫌じゃないみたい」 「なっ…」 「そうだろう?」 飄々としてそう言う慶介はどことなくとても嬉しそうだった。1人で「そうかそうか」などと頷きながら、またクレープに口をつけ始める。 「………」 夏樹はただ真っ赤になったまま、そんな慶介の前でただ立ち尽くしてしまった。 くにゃりと曲がって折れそうなクレープが手にこんなにも重い。それを意識しながら夏樹はただ慶介と面と向かっていた。 「どうしたのなっちゃん。早く座りな」 「………」 言われてすぐにすとんと座った夏樹に、慶介は自分がそう言ったくせに意外そうな顔をした。 「お。なっちゃんが逆らわずに大人しく言う事きくなんてどうしたんだろ」 「………」 「あ、分かった〜。改めて、『そうか、僕は慶介兄さんの事が好きなんだ』って事に気づいてびっくりしちゃったんだ? ははは、そうでしょう?」 「………」 「夏樹?」 「………」 慶介の言葉を否定できない。 1人でどんどん赤くなって熱くなっている自分のことが、夏樹は恥ずかしくて堪らなかった。 「夏樹、どうし…」 「慶ちゃんなんか!」 だから夏樹は思い切り叩きつけるような声で慶介の名を呼んだ。顔は上げられなかったけれど。 「慶ちゃんなんか嫌いだよっ」 「夏…」 「慶ちゃんなんか…俺のこといっつもバカにして!」 「………」 まくしたてるともう止められなかった。 「慶ちゃ…そうやって、1人だけ分かったように言って!」 「夏樹、夏樹」 「ひど…ひどいよっ」 そうして勝手にどんどん追い詰められた気持ちがして、夏樹は気づくともうじわりと意図しない涙を目に浮かべてしまっていた。 「ごめん。ごめんな夏樹」 「うー……っ」 こんな陽気な日曜日なのに。 ぽとぽとどんどんと落ちる涙に困って唇を噛み締めながら俯くと、そんな夏樹に慶介はすぐに謝った。さっと頭ごと夏樹のことを自分の胸に引き寄せ抱きしめると、よしよしと頭を撫でて静かな声で繰り返す。 「本当に悪かった。ちょっと悪ふざけが過ぎたな。もうからかったりしないよ」 「う…っ…」 「泣くなよ。な?」 「………」 しんと大人しくなった夏樹に、慶介はこの上なく優しい顔になると抱き寄せる腕に力を込めて囁いた。 「夏樹があんまり可愛いから、つい意地悪したくなっちゃったんだ。本当にごめんな」 「………」 「夏樹のこと好きだから」 「う…嘘だよ」 むっとして思わずそう返すと、そんな夏樹に慶介は真面目な声ですぐ答えた。 「嘘じゃない」 「……嘘っ」 「嘘じゃない」 夏樹の頭を何度も撫ぜながら慶介は繰り返し「嘘じゃない」と続けた。夏樹はそれでまた涙が出てきてしまい、周りの事などもうまるで気にする余裕もなく、ひたすらひくひくと嗚咽をもらしてしまった。 父親がいなくなってからというもの、夏樹の頼りはいつだって従兄弟の慶介だけだった。だから慶介が自分を好きだと言ってくれるのはとても嬉しいけれど、それをネタにからかわれると一気に不安な気持ちがしたし、また自分の気持ちがあからさまに晒されたようで怖いとも思った。 いつもはここまで酷くはない。今日は負の感情が悪い形で出てしまったようだ。大抵は慶介に怒ってみせて終わりにできるのに。 「慶ちゃんが…だって、いつも、モテるのにさ……」 「ん……」 「いっつも、俺にそういう事、言ってさ…」 「うん」 「俺…だから、だから、慶ちゃんが…っ」 「うん。ごめんな夏樹。もう夏樹が嫌がる事わざとしない」 優しい優しい慶介。いつでも甘やかしてくれる、誰よりも身近な存在。 「折角一緒に遊びに来たのに本当にごめんな。帰ったらさ…お詫びに美味しいご飯作ってやるからな」 そしていつだってそんな事を言ってご機嫌を伺ってくるのだ。 「何食べたい?」 「………」 「夏樹?」 「……ハンバーグ」 一間隔後にそう答えると慶介はぱっと明るくなり、がしがしとそう言った夏樹の髪の毛をまさぐった。 「ん。よし、楽しみにしてろ。凄くうまいの作ってやる」 「うん……」 「……もう大丈夫か?」 「うん……」 ぐすりと鼻を啜った後、慶介の胸から離れて夏樹が顔を上げると、そこには心底安堵したような微笑みがあった。それからすっかり手に張り付いてしまったようなクレープ゚を見て苦笑する。 「こんなになっちゃったな。買い直す?」 「いいよ…。これ食べる」 「そう」 「美味しいもん、これ」 「そうだな」 「……慶ちゃんのも欲しい」 「ああ。好きなだけやるよ」 慶介がまたほっとしたようになって笑った。夏樹はそんな慶介の顔を見上げながら、真っ赤になった目元をこしこしとこすった後、ちょっとだけ自分も笑って見せた。 「夏樹」 「ん…」 すると慶介は途端真面目な顔になって、夏樹の唇にちょこんと触れるだけのキスをした。 「あっ」 夏樹が驚いて小さく声を上げると、慶介は苦笑しながらまた「ごめん」と言った。 「………慶ちゃん」 けれど夏樹はこれにはもう何も言えなかった。その突然のキスは決して嫌なものではなかったし、むしろ慶介の方がどことなく困った風になっているのが不思議だったから。 夏樹はそんな慶介の横顔を暫しじっと見上げ続けた。慶介もこちらを見てくれないかなと思いながら。 |
了
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