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  事態が急変したのは、楽しく朗らかだった夕食後だ。
  片づけを終えていつもの勉強タイムに突入した夏樹は、ちょっかいを出したくて折に触れ声を掛ける慶介を途端邪険にし始めた。
「もう煩いなあ、慶ちゃん。俺、勉強してるんだから黙っててよ」
「えー、でもさ。まだご飯食べ終わったばっかりだし。デザートとお茶も用意したし、一緒にまったりしようよ」
「そこ置いておいて。後で食べるから」
「何でそんな勉強ばっかするかなあ」
  黙々とノートにペンを走らせる夏樹に不服な思いを抱きながら、慶介はそれでも熱心な夏樹の顔も目の保養だと自然表情が緩んでしまった。
「えっと……これに使う公式は……ん??」
  けれど近頃の夏樹の勤勉さは確かに以前より格段凄まじいものがあった。
  夏樹は勉強が出来ないというわけではないし、元々が真面目なのだからそんなにしゃかりきになってやらずとも学年で上の中くらいの成績を取るのも容易だ。中学が終わったら慶介が通っている高等部にそのまま上がるのだろうし、受験勉強というわけでもないだろうに。
「………」
  けれどそこまで考えて、慶介ははたとして浮かべていた笑みを消した。
  そして動く夏樹の手にさり気なく触れて訊いてみた。
「……ねえ、なっちゃん」
「んー…ちょっと、書けな…」
「高校は内部進学するって言ったよね」
「……ん」
「それはもう随分前によく話し合って決めた事だもんね? また心変わりしたとか言わないよね?」
「………」
「……こら」
  何でそこで黙りこむかなと微か苛立ったが、慶介は夏樹が自分にとことんまで嘘や隠し事を出来ないとは知っていたので、敢えてふっと押し黙った。
  父親が蒸発して暫くしてから、夏樹は「高校へは行かない」、「どこかに就職する」と言い出した。父である公信は仕事を失くした後、家を売り払った上で家出。息子である夏樹を慶介の家へやる時は幾らかの養育費も置いていったようだが、それでもその慶介宅への突然の「居候」を夏樹が子ども心に申し訳なく思った事は間違いなかった。金の事など気にしなくて良いと言う慶介の父の言葉にも、夏樹は容易に頷こうとはしなかった。
  けれどそう言った一悶着も、以前慶介がよくよく言い含めて「とりあえず高校は卒業する」という方向で決まったはずだ。
「なっちゃん。一体何考えてるの」
「……別に」
「夏樹。ちゃんとこっち向け」
「……っ」
  わざと厳しく言ってみせると、夏樹は途端びくりとして顔を上げた。
  夏樹は普段こそ慶介にわざと逆らったりむくれたりする事があるけれど、基本的には従順で「出来る従兄」を信奉している。だからこそ、いつもは「なっちゃんラブ」などと称して自分にべろべろに甘い慶介がいきなり「夏樹」などと呼んで怖い顔をすると、あっという間に白旗を揚げてしまうのだ。
  慶介自身もその事はよく分かっているので、うまく使い分けしているつもりだった。
「隠している事を言いなさい」
「う……」
「う、じゃない。どのみち最後まで黙っていられるわけないだろう? 何? 進路変えたくなったの? うちの高校じゃ不満?」
「そんなわけない」
「じゃあ何」
  夏樹と慶介は3歳差だから、夏樹が高校へ上がると同時に慶介は大学進学。だから慶介としても別段夏樹の進学先にそれほど煩い事を言うつもりはなかった。何処へ行こうが自分達が同じ学校に通う事はできないから。
  ただ、夏樹が附属校へ行くと思えばこそ、慶介はそこから一番近い…というか、同じキャンパス内にある附属の大学にそのまま上がってもいいと考えていたから、夏樹がいないのなら、その決断もまた大きく変える必要がある。進路の事は決して夏樹一人の問題ではないのだった。
  もっとも、それも慶介一人の勝手な考えに過ぎないのだが。
「奨学生制度のある所を受けたい」
「…はぁ?」
「入試の時の成績上位者には学費を免除してくれるの…。全額免除は1位の人1人だけだからそれは難しいかもしれないけど……上位者でも一部免除はしてもらえる。そういう制度がある学校を見つけたんだ」
  ぼそりと口を割った夏樹に慶介は思わずぽかんとして暫し反応を遅らせた。ややあってから「そんな制度、うちの学校にもあるだろう」とは言ったものの、それに対する夏樹の返答は聞かずとも明らかで、実際予想通りのその答えはすぐに夏樹の口から発せられた。
「慶ちゃんの高校で特待生になるのは無理だよ…。今だって全然、俺、10番以内にも入れてないんだよ? だから……だからさ、ちょっとランク下げて、俺でも狙えそうな所で奨学生になれるならさ…。そしたら学費とか、気を遣わなくていいから」
「まだそんなこと考えてたんだ?」
  呆れたように言うと、夏樹はきっとした顔を向けた。
「慶ちゃんや叔父さんが考えなくていいって言っても、俺はずっと考えるよ」
「………」
「当たり前だよ…っ。そんなの…!」
  むぐっと何かを堪えた風にそんな事を言う夏樹は無条件に可愛い。だから一もニもなく力一杯抱きしめてやりたいと慶介は思う。……思うのだが、とりあえずは平静とした態度のまま、目の前の従弟を凝視するだけにとどめた。
  夏樹にしてみれば慶介のその表情はかなり居た堪れないものらしかったが。
「お父さん、もう帰ってこない気がする…。俺、今はまだ無理だけど、高校上がったら勉強とアルバイトと頑張って、叔父さんに借りてる分のお金ちゃんと返すし。ちゃんと良い所就職できるように学校も頑張るんだ。慶ちゃんみたいになるのは無理だけど、でも、優等生って言われるようになって、それで…もしもお父さんが帰ってきたら、一人でもちゃんとしてたって言いたいし」
「……ふうん」
  無感動に反応する慶介に夏樹はぐりゅと泣きそうに瞳を潤ませたが、それでも決意は固いのか、ふいとそっぽを向いて精一杯の虚勢を張って見せた。
「慶ちゃんは俺が子どもだって言いたいんだろっ。でも、俺、今これくらいしか考えつかないし…っ。いいだろ!? 別に、俺が何処の高校狙おうがさっ! だって、慶ちゃんも叔父さんも、好きな所を受ければいいって言ったじゃん!」
「言ったけどさ…。でも結局お金のこと気にしてランク下げるようじゃ、それってなっちゃんが本当に行きたい高校とは違うんじゃないの」
「違わないよ! 俺はそれで嬉しいし、心置きなく学校生活送れるもん!」
「そう。それで。今まで仲良くしていた友達と離れてもいいの?」
「べ、別にいいよ…。だって、もう会えなくなるわけじゃないし…」
「そう。なら俺も別にいいけどさ」
  元々、今の中等部には可愛い夏樹に邪な視線を向けていそうな危険分子がたくさんいる。夏樹がそういう連中と離れると言うのなら、それはそれで良いかとも思う。……その連中がそのまま夏樹を一人で違う高校へやるとも思えないが。
「で? そのランク下げた高校ってどこよ?」
  淡々と質問する慶介に夏樹はあからさま狼狽しているようだった。
「ど、どこだっていいじゃん」
「はあ? 何で俺に内緒にすんの。そんなの通用すると思ってんの」
「う……」
「夏樹」
「ど、どうしてそんな偉そうに言うんだよっ! 慶ちゃんには関係ないじゃん!」
  今までで一番大きな声を出した夏樹は、けれどそれに何がしか返そうとする慶介よりも先に真っ赤な顔で立ち上がると、じりじりと狭い部屋の中、壁際の一番隅にまで寄って行って背中を向けた。別段慶介は夏樹を怒鳴りつけたり一方的に責めたりはしていないのだが、どうした事か、夏樹自身がその己の選択に躊躇いと罪悪感のようなものを持っているらしかった。
「……なっちゃん」
  だから慶介もとびきり優しく接してやる事に決めた。
  元より、この可愛い従弟を自分の手中に収める為には、己の本性を消し聖人君子のように完璧で穏やかで、相手が心底安心できる「器」でなければならない事を慶介はよく理解していた。
  敢えて距離を取ったまま、慶介は再度優しく呼びとめた。
「教えてよ。お願い。何処受けたいの? 県外? ここから遠い所なの?」
「……都内」
「ああそう。なら良かった。それならずっと会えなくなるって事はないね」
「でも……寮、だから」
「え?」
「寮だから」
「………」
  夏樹の呟きに慶介はぴたりと動きを止めた。思わず表情がなくなってしまう。
  背中を向けている夏樹にそんな慶介の変化は知りようもない為、一度告白して堰を切ったように夏樹は続ける。
「そこ…全寮制で校則も厳しいから、長期休暇の時しか実家に帰れないんだって。あっ、でもバイトは届出を出せばやらせてもらえるし、図書室が広いんだ。食事は学食があるけど、休日自炊したい人とか、昼もお弁当を作りたい人は厨房も貸してもらえるって言うし」
「……それで突然料理を始めた?」
「うん。自炊した方が貯金出来ると思ったし」
「………」
  最近あまりに素直だから本当に油断していた。
  慶介は腑抜けた己を思い切り罵倒したかったが、ただ、こんな事を勝手に決めた夏樹に対しては、不思議と怒りも沸かなかった。
  確かに先を考えて自分に料理を教わっていたというのなら腹も立つけれど、こうして毎日自分がここへ来る事をあの目一杯の笑顔で迎えていた夏樹は、「それだけ」の理由で自分を見ていたとは到底感じられなかったから。だから、自分とて夏樹の進学に対する想いの変化に気づく事が出来なかったのだ。
「俺……ここでの生活、楽しかった」
  背中を向けたまま夏樹が言った。
「最初さ…慶ちゃんの家で叔父さんがいきなりお風呂場で俺に抱きついてきたでしょ? あ、あれ、何ていうか凄く怖かったし嫌だったし…むかついたけど」
(そりゃそうだろう)
  心の中でその時の忌まわしいシーンを思い出して慶介も不快な顔になったが、今はその事にだけ囚われている場合でもなかった。
  夏樹もそうなのか、ぶるぶると首を振ると先を続けた。
「そのお陰でここに来られてさ。慶ちゃん、いっつも俺のこと気にしてくれて…。ご飯作ってくれたし。勉強も見てくれて、面倒見てくれて…慶ちゃんだって忙しいのに。お、俺、嬉しかった。だから、ホントはここにいたいけど」
  でもさ、と夏樹はようやっとくるりと慶介の方に向き直ると必死の様相で言った。
「慶ちゃんにずっと甘えたままなの、良くないと思うんだ。だ、だって…俺、最近変だもん」
「……何が」
「慶ちゃんと一緒にいると…変だもん」
  カッと赤面しつつ目元を潤ませる夏樹に慶介はふと眩暈に似た感覚を覚えた。
  ああ確かに懐いてる。この子は俺にすっかり懐いてる。
  ―……そう思いつつ。
  それを確かに嬉しいとは感じつつ、それでもそれを「いけない事だから」と自分から巣立とうとする夏樹には、やっぱり慶介は最後にきて気分が悪くなってしまった。

  ソウイウ方向で甘やかせていたわけじゃないのに。

「なっちゃんは俺が嫌いなの?」
「き、嫌いじゃないよっ。そんなわけないだろ!? だけど、そんな慶ちゃんにずっと甘えているのは良くないと思うって言ってるじゃない!」 
「何で駄目なの」
「な、何でって…だって……」
  分かんないけど、と小さく呟いた夏樹は、それでも何か適当な答えはないかと考えあぐねているようだった。
  慶介はそんな夏樹を冷めた目で見つめてから、ようやく片腕を差し出して「夏樹」と呼んだ。
「え…?」
「おいで」
  ペットを呼ぶように気安く腕を振ると、案の定夏樹はむっとした顔を見せた。けれど慶介の真意が掴めず気になったのか、そろそろと四つん這いになりながら近づくと、夏樹は差し出されたその手にちょこんと触れた。
「何…?」
「ねえ、このまま抱きしめてもいい?」
「えっ…だ、駄目!」
  夏樹は慶介の淡々としたその物言いに驚いたようになりながら飛び退った……が、それでも慶介が腕を引っ込めないので、困ったように視線をあちこちへやり出した。
「何で、そんなこと言うのっ」
「だってなっちゃんが可愛いからさ」
「じょ…、い、今、真面目な話してるのに!」
  ますます顔を赤くして怒る夏樹に慶介はここでようやく笑って見せた。
「大真面目だよ俺も。酷い夏樹は俺を置いて、滅多に会えない監獄みたいな所へ行こうとしてる。だったら今のうちに抱きしめてその感触を覚えておかないと」
「……お、俺、行ってもいいの?」
  意外だという顔を夏樹は見せた。慶介はきっと引きとめると思ったのだろう。
  そして心のどこかで夏樹はそれを望んでいたのかもしれない。
  それが垣間見えて慶介は心の内だけで小さく哂った。
「止めても行くんでしょ? 大体俺に夏樹を止める権利なんかないしね」
「………」
「ねえ、触らせてよなっちゃん」
「なに…」
「別に怖い事なんかしないよ。いつもみたいにさ。ぎゅっとやるだけ。それならいいでしょ?」 
  実際慶介はふざけたように夏樹にじゃれつき抱きつく事などしょっちゅうだった。夏樹もそれにはいい加減慣れていて、眠っている寝床に入り込まれる事も、後ろから抱きすくめられる事にも、以前ほど文句は言わなくなっていた。
  むしろ最近では甘んじてそれを受け入れている節すらあった。
「………いつものやつ、なら」
  案の定夏樹はようやく慶介の要請に応えると言う風に、再びそろりと近づいてきた。そうして自分からは動かない慶介の目の前にまで近づくと、オロオロとしつつも、しまいには自分からコツンとその胸に頭をもたげてきた。
「ふ…」
  だから慶介は夏樹がそうしてきてから、目一杯の力でその小さな身体を包みこむように抱きしめた。
「夏樹」
  耳元で甘く囁くと、夏樹はそれだけで感じたようにびくんと背中を震わせた。慶介はそれが面白くて更に唇を近づけ、その耳にかかる柔らかな髪の毛に軽いキスを落とした。
  夏樹は別段それを嫌がる素振りは見せなかった。
  それどころかぎゅっと自らも慶介の背中に手を回した。
「なっちゃん。これ、このいつものやつ。もう出来なくなっちゃうんだよ? 寮のある学校なんかに行ったら」
「……うん」
「なっちゃん、ヘーキなの? 耐えられる?」
「……うん」
「本当かなあ」
「平気だよっ」
  むっとして顔を上げた先、けれどその夏樹の顔はやはり紅潮していてやや涙ぐんでいた。こんなに寂しがり屋なのに、いつも平気だ大丈夫だと言い張る意地っぱりな子ども。他の人間では駄目で、慶介にしかこんな顔を見せないくせに、自分からその慶介に依存しては駄目だと離れようとする子ども。
  何て愚かで愛しいのだろう。
「じゃあさ」
「え……っ」
  慶介は夏樹をじっと見つめたまま顔を近づけ、そのままその唇にキスをした。
  夏樹はその突然の行為に驚いて目を見開いたまま、石のように固まってしまう。
  だから慶介は2度、3度とそれを繰り返してやった。
「んっ…慶ちゃ…」
  3度目の時に夏樹は初めて逆らうように身体を動かしたが、慶介ががっちりと掴んだままでいるとすぐに大人しくなった。
  そして4度目にキスをした時には、もう逆らおうとする気配は全くなくなっていた。
「可愛いね、夏樹」
「……慶ちゃん」
「夏樹、俺が好きだろう?」
  確信を持ってそう言うと、夏樹は一瞬震えながらもすぐさま首を横に振った。けれど慶介がそれに声を立てて哂うと、夏樹はいつもなら怒るのに、途端ぐしゃりと表情を歪めてぽろぽろと泣き出した。
「酷い…酷いよ、慶ちゃん…っ」
「……ああ、ごめんごめん」
  慶介はそんな夏樹の顔を見下ろしながら、その好きは、でも多分俺がこんなにも想っている気持ちの半分も足りないんだよと思った。
  まあ、それでも。
(とりあえず、高校の事はやめさせないとな)
  その為の計画に想いを馳せながら、慶介はもう一度泣き腫らした夏樹の目蓋に押し付けるような舐めるようなキスを仕掛けた。
  夏樹はぎゅっと目を閉じたままそれを受け入れ、はあと荒い息を吐いて「慶ちゃん」と呼んだ。
  ああ、これに手を出さない自分は最高の理性人だと思いながら、慶介はその愛しい存在の額を優しく撫でて、「大好きだよ」と甘い言葉だけを投げ掛けた。

  俺なしでいられるなんて絶対に思えないようにしてやる。

  この子を自分という存在に本当に溺れさせるのは、まだもう少し時間がかかりそうだけれどと、慶介は唇の端だけで薄っすらと笑みを作った。











まだ網に掛かりかけなので、完璧に入り込んでくるまで慶ちゃんは焦らすのです。