泣きべそ



「なあ、いつも同じ相手じゃつまらないだろ? たまには俺なんかどう?」

  気軽に肩を触られ、背後からそう声を掛けてきた見知らぬ男子学生に、僕は思わず「はあ?」と間の抜けた返事をしてしまった。
  その時は丁度昼休みで辺りもざわついていたから僕たちに注意を払っている人間も特にはいなかったけど、廊下のやや真ん中で立ち尽くしてしまった事は明らかに邪魔だったようで、通行人の1人から露骨に迷惑そうな顔をされてわざとドスンとぶつかられた。
「おっと、こっちこっち」
  自分は素早く人の群れを避けて無傷だったその学生は、よろけた僕の腕を掴むと強引に窓際へと引き寄せた。通りがかりの奴に意地悪く体当たりされたのも痛かったけど、この人の僕を掴む手の力も相当だ。痣が出来てしまうんじゃないかと思うそれに僕が眉をひそめると、相手は「悪い悪い」とにやけた笑いを浮かべてから、ぱっと手を離した。
「で、さっきの話なんだけどさ。どうよ、今夜あたり?」
「何の話ですか…?」
  多分同じ年なんだろうとは思ったけど、一応敬語で接してみた。元来人見知りの激しい僕は、こうしていきなり面識のない相手に接触を受けると途端身体が強張って声も小さくなってしまう。スイに初めて声を掛けられた時もそうだった。優しくしてもらえればすぐに懐く「寂しがりやの猫」だけど、最初から誰かれ構わず擦り寄っていく真似が出来る程気軽な性格でもないんだ。
「まーた、また。とぼけちゃって〜」
  けれど目の前の相手はそういう「気軽」な人種なのかもしれない。赤茶けた髪の毛を肩先にまでざっくばらんに伸ばし、耳に何個ものピアスをつけて笑うこの人は、見るからに僕とは生きる世界が違うと思った。よくは分からないけど、この一見奇抜なファッションだって、巷では流行しているものに違いない。いつもTシャツ、ジーパンのやぼったい僕とは、持っている物からしても何かが違う。何だって声を掛けてきたのか、ほとほと分からない。
「だってさ、キミでしょ? 倉敷キミって。あ、シャレみたいになっちゃった。ははは」
「はあ…」
  1人で笑う背の高いこの人に、僕は何だか居心地が悪かった。早く帰りたい。大学で勉強するのは嫌いじゃないけれど、この人ごみは嫌だ。この頃は大抵独りで行動しているから、余計にこの喧騒は僕が孤独なんだって事を実感してしまう。
「スイのセフレなんだろ?」
  心の中だけでじりじりしていると、相手がそう言った。僕が驚いて顔を上げると、向こうは「やっぱりな」というような顔をして得意気に唇の端を上げると、わざとヒソヒソ話をするように僕の耳元で囁いた。
「知らないの、構内じゃスッゲー噂だぜ? 大人しい顔して、アンタが実は“スゴイ”ってこと」
「凄いって…」
  何となく復唱すると、目の前のこの人はますます楽しそうな顔をして、「もうキミちゃん、知らばっくれても駄目だってえ!」と、馴れ馴れしく僕の胸を肘でこずいてきた。
  結構それが強くて、僕は思わずケホリとむせて前のめりになった。
「キミちゃん、ヤリマンのスイに調教されて、今じゃアッチで男を喜ばせる事に関しては右に出る者いないってさ、みんな言ってるよ? けど、基本スイ一筋だから、スイが相手してくれない時はかなり欲求不満なんだって? ひでえ男だよなあ、あいつ! 自分は好き勝手、男も女もヤリたい時に食いたい放題のくせにさぁ、キミちゃんが他の男をつまみ食いするのは禁止してるわけだろ? あっ、それともキミちゃんが勝手にあいつに操を立ててるだけ?」
「何の話…」
  ああ、身体から血の気が引いてる。それは分かったけど、相手がすかさず物凄い勢いで僕の首に腕を回して雁字搦めにしてきたから、僕は気分が悪い事を気にする余裕もなかった。
「もうキミちゃん! とぼけても、だぁめ! 大体、スイだって言ってんだから、キミちゃんが自分にのめり込んでて凄いってのはさ!」
「僕…」
「俺さぁ」
  途端さっきの囁き声のようなものになって、僕は自然身体をゾクリと震わせた。この人の吐息が耳の中に掛かって気持ちが悪かったのと、その声がどこか悪意に満ちていると瞬間的に感じてしまったからかもしれない。
「実は前からキミちゃんのこと、ちょっとイイなって思ってたんだよね。周りはさ、ああ、特に遊びって割り切れなくてスイにイカれちゃってる女共は、かなりキミちゃんの事敵視してブッサイクだのオタクだの、勝手な事言ってるけどさ…ククッ。全く、八つ当たりもいいとこだよ。テメエらがキミちゃんより悦くないから、スイだって浮気すんだろって。なぁ? 嫉妬に駆られた女は怖いよ」
「あの…離し…」
「その点、キミちゃんはスイとの付き合いもきちんと一線引いてやってるって聞いてるよ」
  男子学生の言葉に僕は逆らいかけていた動きをぴたりと止めた。思わず顔を上げて相手を見つめ返すと、向こうも挑み返すように楽しげな瞳をちらつかせて僕に笑いかけた。
「スイの事ちゃんと好きだけど、でも纏わりつかない、一定の距離を取る。スイが浮気しても煩く言わない、けど、ヤラせろって言われた時はちゃんといつでも足開く。凄いよねぇ、俺それ聞いた時マジで感動したぁ」
「スイが…?」
「そうだよ? スイとトモダチだもん、俺。知らない?」
  俺、刃崎(はざき)って言うの、と。思い出したように名乗ったその人は、けれどやっぱり僕には知らない人だった。
  元々スイの広過ぎる人間関係なんて全て把握するのは不可能だ。スイはいつでも誰かと共にいるけど、大抵は昨日とは別の人で、特定の人間と群れる事を好まない。例外はあの高校時代からの「腐れ縁」だという、剣涼一や藤堂くらいのものだろう。
  そんな彼らとでさえ、スイは「あいつらといると息が詰まる。善人過ぎて気持ち悪いから」と悪口を言って滅多な事では近づかないのだ。
「ねえキミちゃん」
  僕が呆けていると、ぐっと僕を引き寄せていた腕に力を込めて刃崎と名乗った人は続けた。
「俺も別に、そういう一途なキミちゃんに浮気させる気なんてないのよ。たださ、勿体無いよ? いつ来るか分からないスイだけを待ってたって退屈だろ? ―だから、最初の話に戻るわけ。“たまには俺なんかどう”?」
「……結構です」
  気持ちの悪さが途端復活してきて、僕はげっそりしながらも彼からの腕を振り払い、何とか距離を取る事に成功した。そのまま刃崎の事は見ないで廊下を歩き始めたら、もう放っておいてくれればいいのに、彼は横にぴたりとついて歩いてきた。
「まあ、最初はそう言うと思ったけどさ。何で? 俺みたいの好みじゃない?」
「……何の話か分からないから」
「分からないって事ないでしょ。スイとシてる事、俺ともしようよって話。それだけ」
  刃崎はとてもしつこかった。
  努めて足早に廊下を通り過ぎているのに、ちっとも距離を取れない。むしろ前に立ちはだかれそうな勢いが怖かった。元々派手な感じの人は苦手だし、こうして強気に出られる相手にもどう交わしていいかなんて分からない。思えばスイもそういった類の人間だけれど、知り合った当初はそんな感じは微塵も見せなかった。ただ気さくで明るくて親切で。田舎から出て来た僕にとても親切にしてくれた、本当に良い友人で。
「キミちゃん、もしかしてスイに知られたらどうしようとか心配してる? 俺、こう見えても口は堅いしさ、その点は心配しなくてもいいから」
「もう…放っておい…」
  最後まで口をきけず、ただ僕はもう逃げる事に専念した。周りの景色もよく見えない。ただ耳障りな刃崎の声と、足元に映る通路だけ。こんな風に俯きながら早歩きなんてしていたら、いつか誰かにぶつかってしまうかも。
  でも真っ直ぐ前を見る事が出来ない。
「なあ、シカトすんなよ、キミちゃん」
  並走しながら刃崎が言った。気のせいか、先刻よりも声が荒々しい。逃げようとしている僕に段々とイラついてきたみたいだった。
「調子乗ってる? 声掛けられて実は嬉しいんだろ? なあ?」
  しつこい。本当に何なんだろう、遊びたいなら他のちゃんとした女の子に声を掛ければいいのに。バカにしたような顔で僕を見ていたくせに、どうして僕にこだわる。
  本当に放っておいてくれればいい。スイのトモダチだというなら尚更だ。
「あのさ、そもそもスイが言ったんだぜ? “興味あるならヤッてみれば?”って」
「……え」
  校舎を出て、掲示板のある広場も通り抜けた所で、刃崎が怒ったようにそう言った。あとはこの先の事務室のある建物をくぐり抜けて、職員用のトイレしかない狭い通路を通って近道すれば表門とは別の出口へ行ける。あと少しでキャンパスを出られるのに。
  刃崎の言葉に僕は思わず立ち止まった。
「スイが…?」
「そうだよ」
  僕が動きを止めた事で、刃崎は荒くしていた息を整え、途端先ほど見せていたような笑みを浮かべた。
「キミちゃんはあいつの恋人のつもりでもさ、あいつはそうは思ってないわけじゃん。俺がキミちゃん興味あるなあって、アプローチ掛けてもいい?って訊いたら、勝手にすればって言ったのはあいつだし。ね、俺だって外道じゃない、カレシの許可はちゃんと得てるわけよ。―…ああ、そうそう、むしろ『俺がヤッてこいって言ったら簡単だから、そう言っていいよ』とも言ってたな? それはさすがに俺のプライドが許さなかったから黙ってたんだけどさぁ。でも、キミちゃん、やっぱりスイの事気にして俺と遊んでくれる気みせないし」
「……嘘だよ」
  僕の声は震えてたのかもしれない。刃崎は途端ニヤリと笑って、僕の腕を今度こそきつく掴んだ。
「嘘じゃないよ? キミちゃんだって分かってるでしょ。あいつこそ、とんでもない外道だって」
「そんな事―…ちょっ…痛ッ!」
「いいから来いって!」
  刃崎は勝手知ったるような所作で、突然物凄い力で僕の腕を引っ張ると、痛みに呻くこちらの事などお構いなしに、通路横の職員用トイレに僕を連れ込んだ。
「ちょっ…!」
  最初にドスンと背中を押されて中に入れられたせいで、思い切り身体がよろめいた。でも、そんな事には構っていられない。ぐらぐらする視界を定めようとすかさず振り向いた時、けれどバタンと乱暴にドアを閉めた刃崎が酷く残忍な顔をしてすかさず僕に迫ってきた。
  咄嗟にマズイと思った。
「帰る…!」
「いいよ。帰れるならね?」
「ちょっ…!」
  刃崎を交わしながら出口へ行こうとしたのに駄目だ。完全に前を封じられて逆に再び身体を拘束されて、僕はあっという間に刃崎にトイレの個室へ連れ込まれた。容赦のない突きで僕の身体はまた情けなくもよろけてしまい、刃崎の後ろ手に狭い扉を閉められると、もう逃げ場は何処にもなくなってしまった。
「何で…こんな…っ」
  みっともなくも声が震えてる。刃崎の獰猛な顔が怖い、先刻まで気安そうに笑っていた笑みが悪魔のようにどす黒く見えた。実際、彼は僕の人格なんてお構いなしに僕をただの“スイの都合の良い玩具”と見なしていて、暇潰しの相手として僕を甚振ろうとしている。
  どうにかして逃げなくちゃ。声を出そうか。でも、そんな事みっともなくて出来ない。
「ねえキミちゃん」
  僕の警戒に満ちた目を見つめながら、刃崎が急にふっと息を吐いて落ち着いた声を出した。どうせもう逃げられないと余裕が出て来たのかもしれない。軽く肩を竦めた刃崎は努めて彼から距離を取ろうとする僕の手首をぎゅっと掴むと、もう一度、聞きたくないその台詞を発した。
「スイが言ったんだよ。キミちゃんと遊んでもいいって」
「………」
「カレシの許可つき…どころか、命令?」
「命令…?」
  きちんと声が出たか分からないけれど、そう反復すると、刃崎はくっと喉の奥で笑ってから僕に近づいて頷いた。
「そうだよ。スイの命令。大好きなカレシの命令だよ。俺はあいつの大切なトモダチだから、キミちゃんだって俺を悦ばせなくちゃ。ご奉仕するのが今のキミちゃんの努めなんだよ?」
「うっ…」
  廊下で囁かれた時のように生暖かい息が耳元に掛かって、僕はぎゅっと目を瞑った。ゾッとする。気持ち悪くて吐き気がする。でも刃崎が言った言葉も切り捨てる事が出来ない。
  スイが望んだ? こんな最低な状況を?
「俺だって無理やりとかは好きじゃないんだからさー、お互いに楽しく行こうよ? 俺は優しいよ? いい加減で人間失格なスイより、さ」
「やめ…ひっ…」
  僕の服の中に刃崎の手が入りこむ。更にぐいと接近してきた彼の身体がわざと僕の両足の間に割り込むように密着してきて、否応もなく知ってしまった。刃崎はもう興奮していて自分のモノを硬くしていて、性急な感じに僕の身体を這い回ってきた。
「嫌だ、離…っ」
「黙ってろって」
  首筋に刃崎の唇が寄った。粘着質に舐められていよいよ僕は気持ち悪さで立っていられない。何で。今日も変わりない1日のはずだった。女の子たちと一緒にいたスイにはいつものように完全に無視されてしまったけれど、同じ講堂で授業を受けて、時々スイの横顔を盗み見る、それだけで良かった。運が良ければスイはメールをくれて、「後で部屋に行く」って言ってくれる。今日はそのメールはなかったけど、でも、明日はあるかもしれない、そんな風に思える自分は嫌いじゃなかった。
  別にセフレだっていい。スイにとって僕が大勢のうちの1人でも、好きとは言ってくれなくても、僕にとってのスイは特別だから。
「んっ…嫌、嫌だ…」
「キミちゃん、乳首で感じるんだぁ…。はは、ちっさくて可愛い。ねえ、ちゃんと見ていい?」
「あ…ぃっ…!」
  僕の半身をまさぐっていた刃崎が執拗に僕の胸に触ってくる。指できゅっと抓ったりひねり潰してきたり。声なんか出したくないのに首筋にも何度となく仕掛けられるしつこいキスにも寒気がして、僕はどうしても声を押し殺す事が出来なかった。刃崎が急かすように僕の太股に股間を擦り付けてくるのも嫌で苦しくて仕方がない。
  最低だ。何もかも。

「おい」

  その時だった、刃崎が突然びくんと大袈裟に身体を揺らして僕への攻めを止めた。
「……?」
  僕は何が起きたのか分からなかった。ただ、願望が生んだ幻聴か、扉の向こうでスイの声が聞こえたような気もした。いるわけない、スイがこんな所にいるわけはないのに。
「おい」
  けれど2回目。
  もう一度掛けられたその声に、今度は刃崎だけじゃなくて僕もはっきりとその声の主を認識して思わず目を見開いた。
  スイだ。スイの声。
「あっ…!」
「んだよ!」
  驚く僕の声を掻き消すように返事をしたのは刃崎だった。まだ僕の身体を抱きしめたまま動きはしないけれど、意識は完全に外へ向かっている。思い切り不機嫌な声。刃崎もスイが来た事に驚いているようだった。
「何してんの、お前」
  反してスイの声はとても静かだった。いつもクールで無機的なところがあるけれど、今はそれに輪を掛けてどんな顔をしているのか想像もつかない。それくらい平坦で抑揚の取れた、感情の見えない声色だった。
「何って…。お前こそ、何でいんだよ!?」
「別に…」
「用がねェなら、向こう行けよ! 今、こっちは取り込み中!」
  自棄になったように声を荒げ、刃崎はもうこれ以上は無理なのに再度強く僕の身体を引き寄せた。身体をまさぐる指も服の中から去ってくれない。僕はそれがもう嫌で嫌で、ただもうスイの顔が見たくて、恥も何もかなぐり捨てて気づいた時には叫んでいた。
「スイ、助けて! 助け―!」
「この…っ」
  咄嗟に口を塞がれて僕はその先の言葉を続けられなかった。刃崎は焦ったように僕の口を片手で覆ったが、その後はわざとふざけたような軽い声を上げながら扉の向こうへ声を投げた。
「何言ってんだよ、お前だって今すげェ感じてただろ? 今さら自分の浮気バレたからって俺だけ悪者にするのはなしよ?」
「んぐ! んんーっ」
「なぁ、スイ。そういうわけだから。もうこのオカマちゃんは捨てちゃって、他の可愛いコいきなよ? とんでもねぇーぜ、お前が相手してくんないから寂しかったって言ってさ、俺の事誘惑してくんの。ははっ」
「んんっ…」
  違うのに。
  そんなわけないのに、勝手な事を言ってスイを騙そうとする刃崎が信じられなかった。それでも非力な僕はただじりじり暴れるだけで声を出す事も出来ないし、この男から身体を離す事も出来ない。スイがいるのに。扉の向こうにいるのに。
  まさかスイ、刃崎の言う事、信じてないよね? ―あぁ、でも。こんな風にバカみたいにトイレに連れ込まれて好き放題されてしまった事は事実なんだ。スイは絶対僕を許さない。スイにとって僕は幾らでも代わりのきく玩具。ほんの少し周りより楽だから便利だからって部屋に泊まりに来てくれたって、“大勢の中の1人”って事実はこれまでもずっと変わらなかった。スイはたった一人を選ばない。でも、自分を選ばない奴は大勢の中の1人にすらしない。してくれない。
  スイに捨てられる。

「刃崎」

  でも、僕がそうして絶望的な気持ちになり、不覚にも涙を流してしまった時だ。
  スイは刃崎の名前を呼んで、その後ごつんって1回だけドアを叩いた。

「今すぐ開けろ。――殺すぞ」
「ひっ…」
  スイの脅しで小さな悲鳴を上げたのは刃崎だ。僕はスイのとことんまで暗く淀んだその声に驚いて目を見開いたまま固まっていたけれど、刃崎はもしかすると僕よりもスイとの付き合いが長いのかもしれないし、或いはスイの「そんなところ」を僕よりも見てきた人なのかもしれない。
「じょ、冗談だろ、今開けるっ!」
  僕をあっという間に放した刃崎は、たどたどしい手で何度も失敗しながら簡単なドアの鍵を酷い時間を掛けて開けた。スイのあんなたった一言で妙な魔法にでも掛かったみたいだ、刃崎はとにかく震えていて青褪めていて、何かとんでもない過ちを犯してしまったという風に何度も咳き込みながら、外へ出てすぐさま「悪いスイ―」と謝りかけて。
「ぐあっ…」
  僕が乱れた服を急いで整えて外に出た時には、刃崎はもう汚い床の上に寝っ転がって気絶していた。
「な、何…」
  ボー然として僕がその姿を見下ろしていると、その傍をカラカラと派手な音を立てて鉄の棒のような物が転がってきた。僕がぎょっとしてそれが来た方向を眺めると、スイが据わった目で僕の事を鋭く見やってきているのが視界に映った。
「ス…スイ……」
「俺、昔、研究した事あんの。どこを殴ったら人間が一瞬でぷっつんきて意識飛ばすか」
「こ、この人、死……」
「殺すわけないだろ、こんなクズ」
  お前は俺を犯罪者にする気かとスイは言ってから、とても嫌そうに棒きれを握っていたであろう手を何度も神経質に撫で付けた。
  それから改めて僕を見つめる。
「何されたの、このクズに」
「ぼ、僕……」
  何だかスイがとても怖くて、僕は途端がくがくと膝を震わせた。スイは元から誰にでも冷たいところがあるけど、暴力的ではないと思っていたから、僕はこの状況をどうしても受け入れられなかった。スイがいなければ僕は刃崎に好い様にされていたに違いない。もう二度とスイの前にいられないような目に遭ってたんだ。だから感謝するべきなのに、「ありがとう」ってたった一言が口から出てこない。
  スイの眼が怖い。
「キミ」
  ゆっくりと近づいてくるスイに僕は咄嗟に後ずさりした。けれどスイは構わず僕との距離を縮めて刃崎がやったように僕の手首を掴むと、そのまま強引にトイレの外へと僕を連れ出した。
「ス、スイ…っ」
「何で最近あいつらといないの」
「え…」
  歩き出しながらスイは訊ねた。僕の顔は見ない、手は掴まれているけれど、スイが先導する形を取っているからスイの後頭部しか僕は見えない。
「藤堂とか、涼一とか。最近あいつらといないで、いつも独りだろ。何で」
「あ…」
「だからあんなクズにも近づかれる。もうちょっと警戒しろよ、俺のオンナってだけで有名人なんだから、お前」
「………」
  オンナって単語が何だか痛い。噂になっているのは、半分はスイのせいじゃないか。刃崎が言っていた事全部を本気と取るほどバカじゃないけど、スイが僕の事を女の子たちに面白可笑しく話している事は実際以前にもあったのだ。逆に僕自身はスイとの事なんて誰にも、それこそ藤堂たちにだって言っていないのに(剣は知っているみたいだけど)。
「キミ。何無視してんだよ。答えろよ」
「……スイが嫌がるから」
「は?」
  スイの足がぴたりと止まる。初めて僕にまともに向かってきたので、僕は掴まれた手首を痛いなと思いながらもぼそぼそと告げた。
「前、スイが藤堂たちと一緒にいる僕を嫌だって言ったから…。だから、なるべく皆とは一緒にいないようにしようって決めたんだ」
「何だよ、それ…」
「別に僕が勝手にやってる事だよ。話し掛けられたらちゃんと話してるし…。ただ、深く付き合うのは止めようって僕が思ったんだ。勝手に」
「………」
「スイの嫌がる事、やりたくなかったから」
「……さっきの事ほど最低な出来事なんてない」
「あれは、あの人が無理矢理…!」
「ふざけんな、キミ!」
「……っ」
  突然怒鳴られて僕はびくりとして反論の意を飲み込んだ。どう考えても酷いのはスイだ。そしてあの刃崎って奴だ。僕がスイにこんな風に睨まれて怒られる言われなんてない。絶対に。
  なのに。
「スイ……泣いてるの…?」
  どうして僕がスイを泣かしてるみたいになってるんだ。おかしい、こんなの。
「……泣いてるわけないだろ」
  急に視線を逸らしたスイは、それでも目元を赤くしながら僕に対しての苛立ちが止まらないのか、激しく舌を打った。
  そうして他所を向いたままで僕にまた命令した。
「勝手に触らせんな」
「スイ…」
「お前の身体、俺以外の奴に触らせんな。……絶対に許さない。俺を裏切ったら、お前でも絶対に許さない。お前も、お前に触ったクズも。殺してやる」
「本気…?」
「……っ」
  僕は努めて冷静に聞き返したつもりだったけれど、スイはそれで途端ギクリとして口を閉ざした。言ってはいけない事を言ってしまったみたいに、らしくもなく少し狼狽している。珍しかった。スイが取り乱してる。いや、珍しいなんてものじゃない、こんなスイは初めて見た。
  僕のことでスイが心を乱してる。僕はそれを初めて見たんだ。
「……誰にも触らせない」
  だから僕は大きく息を吸い込んだ後、はっと吐き出してからきっぱりと言った。
「誰かが“スイが言ったんだ”って言ってきても、もう騙されたりうろたえたりしないよ…今ちゃんと、スイの口から聞けたから」
「……俺が…? そんな事言うわけないだろ…」
「言われたんだ、さっき。スイがいいって言ったから、遊ぼうって。嘘だってすぐ分かった。でも…ショックで泣きそうだった。あ、実際さっき、ちょっと泣いちゃったけど…」
  ハハハと誤魔化すように空いている方の手で頭をかくといきなりスイが僕を抱きしめてきた。突然の事に僕は一瞬息が詰まったけれど、スイは僕を放そうとはしなくて、ただもうぎゅうぎゅうととてもきつく。
  僕の事をしっかりと抱きしめて言ってくれた。
「言っただろ。俺がどんなんだろうが、お前は俺を好きだって」
「うん…?」
「だったら俺だけ見てればいいんだよ。俺だけ信じてろ。それから……なるべく独りにはなるな。今度涼一たちに言っとく」
「スイが一緒に居てくれればいいのに」
「調子にのんな」
  いつもだったらその台詞は、スイも笑って言ってくるもののはずだった。
「調子にのんな、バカキミ」
「……うん」
  でもスイは笑っていなかった。ただ僕の事を抱きしめて、そうしてここは天下の往来だって言うのに、幾ら人気がないからって、全く周りに頓着する風でもなく僕の唇に執拗なキスをした。それは離れてはまた覆い被さってくる何度も繰り返されるキスで、僕はそれだけで幸せな気持ちがして、今度は違う意味で泣きそうになってしまった。どっと安心して、身体の力が抜けていた。
  でも見ると、やっぱりスイもどこか泣きそうな顔をしていた。
「スイ…。あの。調子に乗ったついでに、1つ言ってもいい?」
「何だよ」
  唇が離れた隙をついて僕はスイにお願いをした。
  今日は独りで帰るのが不安だから一緒に帰って欲しいって。ついでに一緒にご飯を食べて、ついでに泊まっていってくれたらもっと嬉しいって。
「……バカじゃねえ」
  スイは僕のその我侭なお願いに暫し黙りこんだ後、素っ気無くそう言って僕の髪の毛をぐしゃぐしゃにかき混ぜた。でも「駄目」ではないみたいで、もう一度だけ僕に口づけをすると、後は「ほら」とまるで誘導するみたいに僕のアパートへ向かって先を歩き出した。
「ありがと、スイ」
  だから僕はその背中にそっとお礼を言って、慌ててその後を追った。僕にバカと言ったスイはもう泣き出しそうではなかったからホッとした。スイを悲しませたくない。ずっとスイの傍にいたい。
  そう思いながら、僕はスイに今日もとびきり美味しい野菜うどんを作ってやろうと決めて微笑んだ。







お前は、そんなに好きなくせに何で浮気をやめないんだって言う…。
スイの考えはさっぱり分かりません(ヲイ)。
そのうちキミちゃんにキレられてぎゃふん!となればいい。