泣き虫ロボット2     



  今日こそ東沢先輩と話せるかな。

  雅は半ば緊張した想いでそんなことを考えながら、放課後の部室へ向かっていた。中学の頃から憧れていた機械工学部で、大好きなロボット造りに勤しめる部活動の時間。本来ならウキウキした気持ちでそこへ行って然るべきだ。
  けれど雅は緊張していたし、少しだけ気が重くもあった。

  砺波先輩が先にいたら、いやだな…。

  本当はそんなことを思ってはいけない。そもそも雅は、1つ上の先輩・立科砺波を好いているし、今の高校を選んだのも、憧れの砺波がいたからこそだ。
  そしてそんな雅にとって大変信じがたいことには、その憧れの先輩である砺波もまた、「以前から雅のことが好きだった」と言う。
  つまりは両想いだったわけで。
  そんなこんなで、2人は現在、晴れて恋人同士なわけで。
「はぁ…」
  けれど雅は憂鬱だった。
「失礼します…」
  ほんの少し前なら張り切ってこの化学室の扉を開いていた。それが今はこんなにもしょぼくれた声しか出せない。いまだ新入部員もゼロ。こんな暗い雰囲気では、新しい仲間を呼び込むことも難しい。
  それでも今の雅にはどうしようも出来ない。
「どうした雅」
「あっ」
  びくりと身体を震わせて、雅は扉の前で思わず直立不動の体勢を取った。
  声をかけてきたのは砺波だ。やはり先に来ていた。最近の砺波はクラスのHRなど早々にサボって、逸早くこの部室兼活動場所の化学室を陣取って作業している。直に始まる夏のロボット選手権地区大会の準備の為に、新型ロボットRUのプログラムを組んでいる為だが、それにしても以前はここまで熱心に活動していなかった。
「何してるんだ? 早く来い」
  その砺波は、入口前で突っ立ったままの雅に、パソコン画面を見つめたままの態勢でそう言った。雅は慌てて「はいっ」と返事し、扉を閉めると、おそるおそる教室の中央まで歩み寄って、後方の実験テーブルでノートパソコンを開いている砺波を見つめた。
「あの、東沢先輩は?」
「今日は学校にもはじめから来てない。今は家で作業する方が、手間も少なくて楽なんだろ」
「そう、ですよね」
  雅は露骨にがっかりして肩を落とした。
  最近、東沢は部活に全く顔を出さない。別にロボット造りが嫌になったわけではなく、砺波が言うように、パーツによっては自宅で制作した方が効率良いものがある為、引きこもっているだけだ。東沢は本業である学校の授業も犠牲にしてロボット造りに熱中する、雅と同じ真性の「ロボットオタク」なのだ。高校最後の大会を前に、彼が人一倍熱心に今回の新型に挑んでいることは雅もよく知っているし、だから部長であるとはいえ、彼が今日もここにいないことを責める気持ちはさらさらない。
  ただ、雅は東沢に相談したかった。
  恋人の砺波には言えない、最近の悩みを。
「雅?」
  しかし砺波も鈍感ではない。ただでさえドンヨリと落ち込んだ風の雅である、砺波は忙しなく動かしていた手をぴたりと止めて、顔を上げた。
「どうした?」
「えっ…な、何が、ですか?」
「いや、何がじゃなく。お前、さっきから変だろ?」
「へ、変じゃないです!」
  素っ頓狂な声を出す雅に、砺波の指先がぴくりと動いた。
「…どもっているところからしておかしい。お前は何か隠し事があると、必ずそうやって挙動不審になる」
「そんなこと…っ」
  まだ付き合い始めてひと月足らずだと言うのに、砺波にはいろいろなことがバレているらしい。雅はそれで余計慌てふためき、ぶるぶると首を振りながら「何でもないです」を繰り返した。
「俺には言えないのか」
  すると砺波は途端不機嫌になって顔をしかめた。もともと俺様な帰来のある砺波は、恋人の雅が自分の意のままにならないと、あからさまむっとした態度を見せることがあった。幼馴染の東沢に言わせれば、「それでも雅君にだけは、随分我がままを抑えて頑張っている」そうだが、雅は大好きな砺波の機嫌が降下するだけで不安になるし、「嫌われるかも」と怖くなってしまう。もともと高校に上がるまでは友だちもロクに作ったことがなく、人づきあいが苦手だった。しかも、ほとんど一目惚れした砺波には、誤解とは言え、一時期「物凄く嫌われた」と、心底落ち込んだトラウマがある。…その為、本来なら付き合ってひと月という、まだまだ「ラブラブ」な蜜月期でも、雅は今イチその「恋人同士」であること自体を信じきれていないのだった。
  「砺波に嫌われていなかった」、「これからも機械工学部にいられる」と分かったあの時は、本当に嬉しくて浮かれていたのだけれど。
「雅」
「あっ…」
  ついつい意識を他へやっていると、また砺波にきつく呼ばれた。慌てて顔を上げると、砺波がちょいちょいと指を動かし、「こっちへ来い」とやっているのが見えた。
  雅がそれに誘われフラフラと近づくと、砺波は「ん」と言って今度は自分の膝の上を指さし、「ここに座れ」と暗に示した。
「先輩…」
「2人きりの時は?」
「と、砺波、さん…」
「砺波、だろ」
「だって、そんなの…わ!」
  もごもご口元で抗議しかけたところを、無理やり引っぱられて強引に砺波の膝の上に座らされた。後ろから抱きすくめられるように両腕を回されて、雅は思わず「先輩っ」と努めて囁く声で訴えた。
「駄目です、学校では…!」
「誰も来ない」
「だっ……ひゃっ!」
  いきなり耳の中に舌を入れられて雅は首を竦めながらおかしな声を上げた。くすぐったいし恥ずかしい。しかも砺波はいつもとても手が速くて、キスを仕掛けながらさっさと雅の制服のシャツの中に自らの手を差し入れてくる。
  その上、もう片方の手は器用にベルトを外しに掛かるから堪らない。
「先ぱッ…ここじゃ嫌っ…」
  しかし思わずそう口走ったところで、雅はハッとし、口を噤んだ。
  確かに学校の、誰が来るとも分からない時間にこんなことをするのは嫌だ。
  ただ、本気で嫌がって砺波に嫌われるのはもっと嫌だ。恐ろしい。
「……っ」
  砺波の侵入してきた指先が乳首をぷつりと摘まんできて、雅はきゅっと唇を噛んだ。恥ずかしいし、身体がおかしくなる、それなのに砺波は雅の胸の粒をすぐにこうして弄ってくる。それがいつもとても長いから、恥ずかしい気持ちもその分だけ続いてゆく。
「雅は本当に可愛い」
  砺波がさらりとそう誉めた。先ほどの機嫌の悪さは消え去っている。雅が逆らうのを止めたのが分かったからだろうし、元々こうして雅に絡めるからこそ所属している部活である。そして今は東沢も不在。砺波にしてみれば、こんな好機を逃すつもりはさらさらないというところだろう。
(あ、鍵…!)
  顔だけ後ろを向かされて口づけをされた時、雅は不意に扉の内鍵を掛けていないことを思い出した。
「先輩っ」
  いまだ多くの生徒が残っているだろう校内である。たまにしか顔を出さないとはいえ、顧問の教諭が現れることとて考えられる。こんなところを見られたらどうなるか……たちまちぞっとして、雅はさらに迫る砺波の唇を必死に掌で抑えつけた。
「か、鍵! ドアの鍵、掛けてないです!」
「は? ……気になるか?」
「当たり前です!」
「俺は気にならないけど」
  意地悪く笑った砺波は、そう言うと露骨に音の出る口づけをして、雅の鼻先を摘まんだ。
「んっ」
「お前はそういうの気にし過ぎ」
「先輩は気にしなさ過ぎですっ」
「ん…まぁ…。確かに、前はもっと気にしたかもしれない…」
  んーと考えるように天を仰いだ砺波は、しかし再びぎゅっと抱きしめてくると、その行為を堪能するように雅の首筋に唇をつけ、すんと匂いを嗅ぐ所作を見せた。
  それから手際良く雅のシャツのボタンを外し、ズボンのジッパーも下げて、その中をまさぐり始める。
「せん…っ…」
「大丈夫だから。気持ちいいだろ?」
「ひっ……んっ!」
  下着から性器を取り出された雅は、背後から砺波の掌に激しくそれを扱かれ始めた。その手を払おうとしてもまるで叶わない、砺波の手淫に雅は声を殺すので精一杯だ。
「はっ…ん…っ…!」
「堪えなくていい。雅の可愛い声が聴きたい」
「やっ…」
  耳元でそう言われたが、雅は反射的に首を振った。するとそれは駄目だと言う風に砺波が握った性器の先端をさらに指先でぐりぐりと弄ってきた。
「ひあぁっ!」
  そのせいでつい望まぬ嬌声を上げてしまう。
「あ、あっ」
  しかも一度それをしてしまうとふつりと我慢の糸が切れて、雅は砺波の追い上げに声が止まらなくなった。
「はッ…やっ、あっ…あんっ」
  廊下にこの声が漏れていたら。
  こんな格好を誰かに見られたら。
  頭のどこかではまだそう思う気持ちがあるのに、雅はいつもこうだった。こうなるといつももう、己を律することができなくなる。ぼんやりした視界の端には、中途半端に開かれた制服の白いシャツや、欲を剥き出しにした自身の性器、砺波の長い指先が見えるのに。それを嫌だと思う、けれど気持ちが良いとも思ってしまう。熱かった。砺波に触れられているところもそれ以外も、今はただ全てが熱かった。
  爆発しそう――荒く息を継ぎ、すでに先走りの白い液を浮かべた自分のモノを見つめながら、雅は薄っすらそう思った。
「立科は化学室か? ああ、そうか、機械工学部か」
  その時、不意に廊下の方で誰かが誰かにそう話す声が雅の耳に飛び込んできた。
「やっ…」
  瞬間的に身体と心臓がびくりと跳ね上がった……が、すぐには反応できない。
「しっ…」
  しかし、雅を抱きしめる砺波の方は冷静だった。耳元でそっと「静かにな」と囁くと、素早く雅を実験テーブルの下へと滑りこませ、自分は「呼びました?」とわざと声を上げながら化学室の扉へ歩いて行く。
「ああ、立科。悪いな、部活中か? 今日も東沢の奴、学校サボっただろう、それで――」
  砺波に用があったのは東沢の担任教諭のようだった。東沢は欠席が多過ぎて、推薦を取る場合はもう規定ラインぎりぎりであるから、「もう少し学校の授業に出るよう」、砺波から説得してくれというような主旨、加えて、「優秀なのにもったいない」というような愚痴とも不平ともつかぬ台詞が、テーブル下にいる雅の方にまで流れ聞こえてきた。
  ただ雅にしてみれば、今はそんな内容もまともには入ってこない。ただぶるぶるしながら必死に口元を両手で押さえ、丸くなってその場で身を縮める、それだけだった。本来なら乱れた服を整えるなり何なりするべきなのだろうが、そうする余裕すらなかった。
「分かりました、伝えておきます」
  それに対して、砺波のこの落ち着きぶりはどうだろう。
  そもそもこんなピンチを作った張本人だ。少しは慌てるなり焦るなりしても良さそうなものなのに、全く平然としている。元より砺波には「別に誰に見つかってもいい」という様子もあった。雅にはそれが信じられない。それは砺波の性格なのかもしれないが、もしかしたら、「違う」かもしれない。
  要は、雅の悩みの原因もそのあたりと深く関わっているのだが。
「雅。もう大丈夫だぞ、鍵も掛けた」
  教師との会話を終えて戻ってきた砺波が、テーブル下を覗きこみながらそう言ってきた。その表情にもやはり焦りは見当たらなかった。いたずらがバレずに済んでしてやったりというような気配だけ微かに感じられたが…。
  雅はそれで余計悲しい気持ちになり、同時にむっとした気持ちも覚えた。
「良いところだったのに邪魔が入ったな。仕切り直すか?」
「……っ」
  ぶんぶんと首を横に振ったが、雅は俯き続けた。テーブル下から這い出す気力もなかった。
  これにはさすがに砺波も「ん?」と首をかしげ、それから苦笑した。
「何だよ、びっくりしたか? 悪かったよ、お前はこういう、誰かにバレたらってのが心配なんだもんな? けどもう鍵は掛けたから――」
「そ、それだけじゃなくてっ」
「ん…? とにかく、出てこないか?」
「や、やです、ここでいいです」
  明るい日の下で砺波と向き合いたくない。そう思って、雅は膝を抱えたまま、そしていまだに砺波を見ようともしないうずくまった体勢で声を出した。
  すると、何だか最近ずっと言いたくても言い出せなかったことを切り出せそうな気がした。
「せ、先輩…」
「砺波、だろ。まぁいいか。何だ?」
「僕、先輩を……好きです」
「え」
  急にまた告白されるとは思っていなかったのだろう、砺波はあからさま驚いた様子を示しながらがくんと身体を揺らし、そのまま何故か床に正座して「そ、そうか?」と口ごもって赤面した。多分、それは砺波が今日初めて動揺した瞬間だったのだが、あいにく俯いている雅がその姿を見ることはなかった。
  雅はただ必死で続けた。
「でも…でも最近僕、思っていることがあって。本当は東沢先輩に相談したかったんですけど、先輩全然学校来ないし…それで砺波先輩とだけいつもここで2人だけだし。これってつまり神様が、言いたいことあるなら直接先輩に言えって言っているのかもしれないって気がしてきて、だから今思い切って言うことにします」
「ちょ……待てお前。そもそも何で宗司郎の奴なんかに…最初から俺に――」
「先輩ッ」
「なんだよ!?」
  いきなり大声をあげた雅につられるように、砺波も素っ頓狂な声で返した。雅に怒鳴られたのは、恐らく付き合うきっかけになったあの夜以来、砺波も意表をつかれたのだろう。
  もっとも雅自身はそんなことはとうに記憶の彼方に飛んでいたのだが。
「先輩、僕のことは遊びなんですかっ」
「は!?」
「僕のことなんて、本当はそんなに好きじゃないでしょう!? 僕は、この間からずっとそう思っていて――」
「待て雅! 何だそれは!?」
「わああ!」
  いきなり雷のような怒声が返ってきたせいで、雅は両手を頭にのせながら悲鳴のような声を上げた。
  しかし悲鳴を上げたいのは砺波も同じだったようだ。一瞬は反射的に立ち上がりながら怒鳴りつけたものの、すかさず屈みこんでくると、今度は雅の片腕を掴んで無理に顔を上げさせようとした。
「わあ、じゃねえ! いいから雅、こっち向け!」
「嫌だ、怖いよ!」
「怖いのはこっちだ馬鹿! お前がいきなりとんでもなっ…ガッ、ゴホッ!」
  いきなり叫び続けてむせたようだ。砺波は全くらしくもなく勢いよく咳き込むと、苦しそうにゼエゼエと息を荒げ、それでも雅の手を掴んだままでいた。
  片腕を拘束された雅はその痛いくらいの力にただただ恐怖中だ。
  ぶるぶると震えていると、やがてくぐもった静かな声が響いてきた。
「何で…そんなこと、言うんだよ? 俺が、遊びでお前と付き合ってる…?」
「……だって」
「俺は、お前に何回も好きだと告げているよな。お前のことが可愛いって」
「よく言います……」
「そうだろ? それで何でお前は……お前、俺のことを信じられないのか?」
「はい」
「あっさり認めるなッ! しかも即答かよ!?」
「だって!」
  雅はここでようやくがばりと顔を上げ、すでにうるうると潤んでいる瞳を砺波に向けた。砺波がそれで露骨に狼狽することなどお構いなしだ、雅はじっと砺波を見つめ、これまでの鬱屈を吐き出した。
「先輩は…っ。いっつも、言う…! 僕のことが、可愛いって!」
「い……言っちゃ、悪いのかよ!? だからそれは、お前のことが好きだからだろ!?」
「僕の顔が好きだって! 僕とするのが好きだって! 先輩の身体と相性がいいんですよね、前先輩嬉しそうにそう言ってたし!」
「だっ…そっ…それの何がいけないんだっ!」
「だって先輩、付き合ってから、僕とすぐエッチしようとするじゃないですか…」
「………は?」
  数秒後に聞き返してきた砺波に、雅は堰を切ったように話し始めた。
「だから! 先輩、学校でもどこでも、僕と会うとすぐ触って来るし、キスするし。家に呼ばれた時は絶対、120%の確率でセックスしますよね。僕は先輩のことが好きだから、最初はそれが嬉しかったです。先輩も僕のこと好きなんだって思えたから。でも、でも! 最近は、僕が大会の話やロボットの話しようとしても、それを遮ってまでしてくる…先輩は、僕の話、全然聞いてくれない…。思えば、先輩って僕がどんな人間か本当に分かってますか? 僕だって先輩のこと、本当は分かっていないのかもしれない。だって僕と先輩、付き合い始めてからエッチ以外のことしていないと思いますもん! そう思ったら…段々、先輩は、僕の身体と顔だけが目当てなんじゃないかって、凄く不安になってきて!」
「み……」
「僕、こんなだから、普通の恋人関係がどんなものかよく分かりません! だから東沢先輩に相談してから、砺波先輩にも訊きたかったけどっ。こんなに毎日やるものですか!? お互いの会話なくして、言語を介したコミュニケーションなくして、果たして恋人関係というものは成立するものなのですか!?」
  気づけば雅も砺波の手を掴んでそう問いただしていた。自分の手を掴んでいる砺波の手を、もう一方の手で雅が掴み返すという、何ともおかしな姿である。
  しかもそこは、仄暗い化学室の長テーブルの下。
  さらに言えば、雅は涙と鼻水を垂れ流しながら、全体的に半裸である。ところどころ剥かれた制服を中途半端に着た状態で、気づけば上履きも脱げているし。
  はっきり言って異様のひとことだ。
  そしてその異様な状態を、2人はどのくらいの間、享受していたのだろうか。
「雅」
  最初に声を出したのは、すうと大きく息を吐き出してから、意を決したような顔を見せた砺波だ。
  砺波は暫し唖然として口を開いたままフリーズ状態だったのだが、いつの間にか意識を取り戻し、今や、最近には珍しく大真面目な顔をしていた。
  そうしてカチカチになっている雅の手の指を1本1本解すようにして自分の手から離すと、今度は自分が雅を放し、空いた両手で、ゆっくりと雅の乱れたシャツのボタンを留め始めた。
「先輩…?」
「悪かった」
  きっぱりと謝り、制服を整え終えた後、砺波は深々と頭を下げた。雅がそれに驚いてひゅっと喉を鳴らすと、砺波はすかさず顔を上げてきて、いつの間にか涙で濡れていた雅の頬をぐいぐいと指の腹で撫でた。
「雅をそんな風に悩ませていたなんて気づかなかった。俺は浮かれていたんだ。何にも考えられなくなるくらいに頭が沸いていた。認める。俺は何も考えちゃいなかった」
「何も?」
「ああ。例えば、さっきも誰がいつ入ってきて、俺たちのことを身咎めようが、そんなことどうでも良かった。気にならないんだ、お前以外のことは。何も」
  砺波の言葉に雅が目を見張ると、その拍子にまた涙が零れ落ちた。砺波はそれを「ごめんな」と苦しそうに見つめて、また自らの指先で拭うと、遠慮がちに、しかし丁寧な所作で雅の頭を撫でた。
「お前が俺の気持ちに応えてくれるってことに有頂天で、全然周りが見えてなかった。けど、それでお前の気持ちまで見えなくなっていたなんて、とんでもないクズだ。本当に、心から反省する。雅の許可が出るまで雅にもう手は出さないし…これから雅の信頼を取り戻す為に何だってする。だから…許してくれないか?」
「先輩……僕のこと、好き…?」
「大好きだ」
  すかさず言われ、雅は顔から首筋から肌を赤く染めた。
「本当に…」
「そもそも俺は雅以外を好きになったことなんてないし……十年越しの恋なんだ」
「じゅ…十年」
「そうだ。何せ小学生の頃からだからな。まぁ正確に言えば十年は経ってないけど、そこは“約”ってことで」
「……ふふ」
  砺波に不安をぶちまけた恥ずかしさで身体全体がそわそわする。けれどそれ以上に雅は「安心」を感じて、気づいた時にはもう笑っていた。砺波がわざと笑わせてくれたようにも思えた。そうして、仮に「顔だけ」「身体だけ」でも、そもそもこんな砺波に好かれているのなら、何でも良いじゃないか、そんな気持ちにもなってきた。
  だから雅は違う意味でしゅんとして、「先輩」と消え入りそうな小声で謝った。
「変なこと言って、先輩を困らせて……ごめんなさい」
「雅は何も悪くないだろ?」
「でも…」
「雅。許してくれるか?」
「ぼ、僕っ。僕は最初から、先輩のこと好きだから!」
「……俺も」
  砺波は雅の言葉に心底ほっとしたように返し、それからそっと顔を近づけて遠慮がちに訊いた。
「またサカっているよな、こんなの…けど、どうしても、今、雅にキスしたい」
「はい…」
「いいか?」
「僕もしたいです…」
  雅が素直にそう告げると、砺波は急に目元を潤ませ、「悪い」と言いながら唇を重ねてきた。何故謝るのかと思ったが、何度となく繰り返される口づけの後で砺波がもう一度「悪い」と謝った後に言った台詞でその謎は解けた。
「雅がそんなに気にするとは思わなかったから、今度からはなるべく控……本当になるべくは控えようと思っ……けど、やっぱ無理だ。雅、可愛い。可愛い。可愛い」
「せんぱ……」
「可愛い〜!」
「ぎゃ!」
  普段のクールさはそこに微塵もなかった。
  砺波は絞り出すように「可愛い」を連呼した後、己のキャラクター性が音を立てて崩れるのも全く厭わず、ぎゅうぎゅうと雅を抱き締め、その後もぐりぐりと頭を擦りつけたり頬づりしてきたりと、それは過ぎる愛情表現をし続けた。
  最も、あくまでもそこまでに留め、そのまま押し倒さなかったのは、さすがに「反省した」と言った直後だったからだろう。
(今だったら、僕もちょっとしたいかも…)
  心の中で雅がこっそりとそう思ったことなど知らず、砺波はその後も暫く雅に「可愛い」と繰り返し、すりすりして離さなかった。

  その後、この「ちょっとした」諍いを聞かされた2人の理解者・東沢は、それを「ただの惚気か」と斬り捨てた後、本来の温厚な人柄はどこへやら、「それで、2人に言い置いていた仕事の進捗状況は?」と辺りが凍りつくのじゃないかと思うほどの冷気を纏って言い放った。
  雅たちがその後、連日連夜居残りをして東沢のその宿題を片付けたのは言うまでもない。