音と闇に抱かれて |
港(みなと)が帰ってきたら絶対また殴られる。 「雄ちゃん。あとでおやつ持っていくからね」 階下から母親の高過ぎるくらい高い声が雄途(ゆうと)の耳にキンと痛く鳴り響いた。だからそんな自分を縛る全てのものから逃れる為、雄途は港の部屋に入り込んだ。 兄の港は高校2年の雄途より3つ年上の丁度二十歳だ。都内の国立美大で油彩画を専攻している兄は、しかし最近では滅多な事では絵を描かない。高校時代は美術の専門学校にまで行き、それこそ疲労と寝不足で吐くまでデッサンをしまくっていた人だというのに、何を思ったかある時ぴたりとそれをやめてしまった。大学は行ったり行かなかったりで、よしんば通学しても訳の分からない彫刻遊びをしているだけという事だから、息子の才能に期待していたらしい父親はそれで一時期酷く落胆したものだ。 そんな港の部屋は、それでも未だ油絵の具特有の匂いがしている。 「雄ちゃん? 雄途? あら…いやだ、またこっちにいたの?」 雄途が着替えもせず制服姿のままでその兄の部屋にうずくまっていると、ケーキと紅茶の乗った盆を手にやって来た母は呆れたようにため息をついた。 「勝手に入ったりしたらまた港ちゃんに怒られるわよ…。お母さんだって怒られる。この間壊した鍵だって早く直してくれってせっつかれてるんだから」 「………」 「聞いてるの、雄ちゃん?」 港のベッドに頭だけもたげかけ何も答えない息子に母は困ったようになり、再度ため息をついた。 「……とにかく。あの子今日は早く帰るって言っていたから、その前に部屋に戻りなさい。それにもうすぐ期末テストでしょう。今度こそ1番に戻ってくれなかったら、お母さん本当に怒るわよ」 このままじゃ第一志望の大学に入れないじゃない。 いつもの決まりきった台詞を吐いた後、母は盆を雄途の部屋のデスクに置いた後どんどんと怒ったような足音を立てて階下へ戻って行った。 「………」 雄途はそんな母の気配が完全に消えるまで、港のベッドに顔をうずめたまま微動だにしなかった。 何もかもウルサイ。 独り心の中でそう毒づいた後、雄途はのろのろとした動作で既に握っていたリモコンを脇にあったMDコンポに向けて押した。 暗く静かな闇から辺りを穏やかに包むやさしい音楽が流れ始める。 「はぁ……」 やっと呼吸する事を思い出したように、それで雄途は息を吐いた。 雄途は港の部屋が好きだった。その匂い、闇が。 そしてこの部屋にある音楽が好きだった。 「…どこに」 けれど人心地ついた雄途がいつものように敷き布団の下にあるマットをまさぐっても、いつもこの部屋で寛いでいる時に見られる「目的の物」は見当たらなかった。身体を屈めてベッド下まで覗き込んだが、その周辺だけでなく部屋一帯が実に綺麗に整頓されていた。何度言っても雄途が部屋を荒らすので、港も「それ」の隠し場所を変えたのかもしれない。 「……っ」 雄途はあからさまに肩を落とした後、諦めたようにごろりとベッド横のカーペットに転がり、そのまま深く目を閉じた。 最近では港の部屋にいないと眠れなくなっていた。 雄途と港は年の近い兄弟だが、互いの母親はちがう。 雄途たちの父は大手食品会社の営業部長でいつでも忙しく、基本的に家庭を顧みない人であったが、完全なる仕事人間かというとそれはそうでもなかった。 いつでもあからさまに数人の女性の影がちらほらしていて、その都度雄途の母はヒステリックになって薬を飲んだりしていた。元々は彼女自身、港と港の兄―雄途のもう1人の義兄―海(かい)の母から父を奪った立場でもあるのだが、自分が浮気をされるかもしれないという想像は働かなかったらしい。雄途の母は女癖の悪い父にいつでも怒り、けれど依存し媚びてもいた。そしてその為に雄途を誰が見ても優秀な<非の打ち所のない息子>にしようと躍起になった。 雄途は母のそんな歪んだ愛、そして父のそれなりの愛に包まれて育った。生活上は何の不自由もなく暮らす事ができた。高校生にしては多少筋肉が削がれ痩せ気味の感があったが、背丈は平均的だ。父親に良く似た精悍とした顔つきも成長する度に磨かれていき、また母のきめ細かい教育指導の賜物か、学校の成績も良好だった。友人は少なかったが、そういった点は少なくとも雄途の母親の中では何ら問題のない事だった。 雄途は母から見ればまだまだだったが、明らかに人並以上に出来た息子だった。 『雄途君はイイコだね』 けれど雄途はその「出来た部分」を兄の港に誉められると途端に黒い気持ちになった。 『さすが雄途君。何でも出来るんだな。兄貴としても自慢だよ』 そのあからさまに厭味な賛辞は雄途の胸をいつでも激しく抉っていた。 一番上の長兄・海は、雄途の母が自分と港に向ける「あの女の子ども」という露骨な嫌悪を憎み、軽蔑し、高校卒業と同時に家を出て二度と帰ってくる事はなかった。現在は父の会社と同系列の企業で働いているらしいが、何しろ彼は結婚した時でさえ家にまともな連絡など入れなかった。実弟の港にだけは何度か「あんな家は出て俺の所に来ればいい」と言ってきたようだが、港は笑って「新婚さんの家なんか勘弁」と軽くあしらっていたらしい。 雄途は港が長兄の海の所へ行かないと知った時、一人自室で密かに泣いた。 嬉しかったから。 『俺は雄途君と一緒にいるよ。雄途君は俺が好きなんだもんな?』 まるで全ての心を見透かしたように、ある時港はそう言って雄途をからかった。雄途は何とも言えずただ押し黙って俯くだけだったが、それでも港は嘲るような笑みを向けたまま「雄途君はホント可愛いね」と言った。 誉め言葉も優しく甘い言葉も。 港のそれは全て毒だと分かっているのに、雄途はそれだけでもう身動きが取れなくなった。 雄途にとって次兄の港は何にも代え難い存在だった。 「雄途」 「………」 「雄途。起きろ」 「………」 どれくらいうたた寝してしいたのだろうか。 ごつんごつんと頭を足のつま先で蹴られ、雄途は閉じていた意識をゆっくりと起こし目を開いた。 横向きになっていた身体をごろりと仰向けにして声のした方を見やると、電気のついていない暗い部屋の中ですっと背の高い見慣れた姿が目に入った。暗闇の中でも青白いランプのような煌々とした瞳がこちらを真っ直ぐ射抜いてくる。兄の港だ。線の整った顔立ちは一見生粋の兄弟のように似ていたが、身体つきは港の方が断然しっかりしている。短くさっぱりとした黒髪も中性的な雄途とは違い男性的だ。 「………」 「起きたか。寝惚けてんのか。返事しろ、雄途」 ひどく不機嫌だ。 雄途は片腕を顔のところにもっていってその視線から逃れるように目隠しをしたが、再度頭を蹴られて眉をひそめた。どうあっても起こしたいらしい。雄途は仕方なく上体を起こした。 もうすっかり日も落ちている。辺りの闇がいよいよ深くなっていた。 「何してた」 港の声がしゃっきりしない雄途の耳にぴんと入ってきた。澄んだ綺麗な声だなと思う。 「雄途」 もう一度呼ばれ、雄途は仕方なく唇を動かした。 「寝てた…」 「……自分の部屋で寝ろ」 「………」 「どうなんだ? 分かったのか、雄途?」 「……嫌だ」 「………」 ぽつりと呟くと、途端部屋の隅々がピーンと張り詰めたようになり、港の周りが一気に凍っていくような感じがした。 そしてその瞬間には、もう横腹を蹴り飛ばされていた。 「いっ…!」 「勝手に入るなと言っただろ」 「い、嫌だ…ッ」 「嫌だじゃねえよ。ったく、このバカ…!」 「嫌だ…!」 蹴られた箇所を庇うようにして腕を抱きかかえうずくまった雄途は、それでも港に逆らうようにそう言った。懲りない義弟に呆れたのか、それとも話をするのも面倒になったのか。港はちっと軽く舌打ちした後、無理やり雄途の腕を引っ張り立ち上がらせた。 「……っ…」 「さっさと出てけ」 「港…」 「港、じゃない。お義母さんが呼んでたぞ。メシ食って来い」 「み…」 「あ?」 「港は…?」 「………」 「港も…」 ズキズキと痛む身体を意識しながら、それでも雄途は港に掴まれ触れられたというその感触が嬉しかった。だから縋るように「港も一緒に行ってくれ」という事を目で訴えると、港は深く息を吐いた後、「分かった」と答えた。 「港…」 ほっとした。港は最後の最後では自分を見捨てないと雄途は思った。 その日は珍しく父親の帰りも早く、有り得ない事に家族4人での夕食だった。 既に外で軽く食べてきたという港は10分も食卓にはいなかったが、雄途に分かったと言った手前その約束は果たすつもりなのか、食卓のあるダイニングと隣接するリビングのソファで面白くもないテレビをつけ、それに目をやっていた。雄途はそんな港のいる方を何度かちらちら振り返ったが、母親が気にしたように「ちゃんと食べなさい」としつこいので、仕方なく目の前の父に向かい合って食べたくもないハンバーグに箸をつけた。 「雄途。もうすぐ期末テストなんだろう」 「……うん」 最近になって白髪の増えた父親だが、その太い声には依然として迫力がある。たまに帰ってきた時だけ父親ぶる父親が雄途は大嫌いだったが、怒らせても厄介なので訊かれた事には大人しく頷いた。 一方で母の方は帰宅の早い父にご満悦だ。嬉しそうに横から口を挟む。 「雄途ね、中間テストは4番に落ちちゃったけど。あの時は体調が悪かったから、今度は絶対に1番を取るって凄く張り切っているのよ」 「そうか」 「先生もこのまま頑張れば現役合格も夢じゃないって言ってくれてるし…。貴方もたまに雄途の勉強見てあげて」 「バカ、そんなものは予備校に任せておけばいいだろう。高い金を払ってるんだ」 「ええ、でも」 「それより港」 母親の声を掻き消すようにして父は今度はリビングの港に声をかけた。「ん」と港の曖昧な返答にも構わず、父は既に箸を置いて次兄に向かって声を張り上げた。会社でもいつもこんな風に部下に対し偉そうなのだろうかと雄途は何となく思った。 「港。お前、大学には行っているのか」 「行ってますよ、もちろん」 港はいつの頃からか、家族に対してはいやに畏まった敬語を使うようになっていた。雄途と2人きりの時は素が出るのか乱暴な口調を発する事もあるが、基本的にはいつでも物静かだ。家でも本を読んでいるか音楽を聴いているかで、外で何をしているのかはよく分からないが、ともかくはあまり喋らない。 それでも「優秀な出来た息子」という評判は、それこそ高校時代ならば港の方が雄途よりも近所ではよく囁かれていた。だから父の期待も、反抗的な長兄や根暗な末っ子よりも、元は朗らかな次兄に注がれていたのだ。 「絵は描いてるのか」 そんな父から発せられた久しぶりの質問に、港は何故か肩を震わせ少しだけ笑った。 「まあ。それなりには」 「何だそれは。お前、きちんと学ぶ気があるのか。将来の事は考えているのか」 「将来。まあ、それなりに」 「なら、どういう風に――」 「んー…」 港は首だけを背後のダイニングにやってから、ふっと口の端だけを上げて笑った。その笑みはいつでも誰をもバカにするような色を含んでいたが、この時はそれが特に酷かった。 そして。 「内緒です」 港はそう言うとそのままリビングを出て行ってしまった。 それは既にすっかり慣れた問答だった。 「何だあの態度は…!」 それでも父はそんな底の知れない息子の態度にイライラしたように酒を煽り、母は困惑したようにそんな主人をなだめていた。 雄途はただ黙って港が出て行ってしまった扉を見つめた。 将来。 大学を卒業したら港はさすがにこの家を出て行ってしまうだろう。 そうしたら自分は一体どうなるのだろうかと思った。 二階に上がってすぐの港の部屋を見る。 雄途が部屋に入ろうとしてドアノブに手を掛けると、案の上それはがんとして開こうとしなかった。 「雄途。入るなって言ってんだろ」 部屋の向こうから不機嫌な声が聞こえてきた。雄途はそれでますます逸った気持ちになり、意地になってがちゃがちゃとドアノブを回した。数日前は港の留守中に鍵を壊して無理やり中に押し入ったのだが、案の定その後港にさんざ腹を殴られ酷い青痣を作ってしまった。 あの時の一件から港の部屋の鍵はまだ直っていないはずだが、恐らくは本棚でも動かしてドアが開かないようにしているのだろう。 「……っ」 雄途はむかむかとした気持ちのままに、しつこくドアノブを回し続けた。 それでも部屋からはもう何の音も聞こえなかった。怒りが最高潮に達し、雄途はガンとドアを足蹴りした後、どかどかと音を立てて自分の部屋に入り、そのままベッドに突っ伏した。 「雄途!」 するとその後すぐに港がドアを開けて部屋から出てきた。そうして仰向けに寝そべる相手にツカツカと歩み寄ると自らもベッドの上に片膝をつき、ぐいと雄途の胸倉を乱暴に掴んで無理に上体を起こさせた。 「お前、いい加減にしろよ?」 「……何が」 「何がじゃねえよ。俺をイラつかせるなって事を言ってんだよ。俺が入るなと言ったら入るな。俺が構ってやれない時は静かにしてろ。そんな事も分からないのか?」 「いつも…」 「ん?」 「いつも港は…構ってくれないじゃないか…っ」 「………」 「俺、が…港の部屋に行かない、と…」 こうして触ってもくれないじゃないか。 「………港の部屋の音楽、聴きたい」 「CDなら貸してやるよ」 「嫌だ…港の部屋で聴きたい」 「………」 「何で…さっきだって、待っててくれなかった…」 雄途のその不平に途端港は眉を吊り上げた。 「……ふざけんなよ。随分待っててやったぜ。お陰でつまんないこと言われちまっただろ」 「港」 「あ?」 「大学卒業した後…出てく…?」 「………」 「出て、行くの?」 「………」 「みな……」 「とにかく、俺の部屋には入るな。部屋の物にも触るな、いじくるな」 「………」 「いいな雄途。分かったな?」 「………」 「ったく、イラつくぜ…」 港は感情の起伏が激しく、少しの事で頭にきたり、また逆にひどく冷めた態度で何も言わなくなったりする事があった。外ではそうでもないらしいが、家ではそれが特にひどい。自分に依存する雄途を可愛い弟として見ている時もあれば、鬱陶しい義弟として忌み嫌う時もある。そんな時、雄途は堪らなく寂しく暗い気持ちになるが、それでも港からは離れられなかった。 雄途には港が全てだった。 「……嫌だ」 だからとっくに自室に戻ってしまった港を追うようにして、雄途は今更そんな抵抗の言葉を吐き、掴まれた胸倉をそっと撫でた。 雄途は子どもの頃から海や港とは他人なのだと母に言われ育ってきた。 母の上2人の兄に対するあからさまな差別、自分に対する過剰な愛情。それによって長兄・海から特に忌み嫌われた事は、雄途に理不尽な怒りと鬱屈を与えた。 けれどそんな2人の間に立って常に中立の立場でいてくれたのが港だった。 『兄貴。雄途君も可哀想な奴なんだから』 子どもの頃から大人っぽくて、いつも一人で遠くを見ているような兄だった。引っ込み思案な自分とは違い、何でもよく出来て友達もたくさんいた。ガールフレンドも、いつも誰が本命なのか分からない程たくさんいた。 そんな兄が雄途は誇らしくもあり妬ましくもあり、また愛しくもあった。 『港…眠れない』 無理な勉強を強いられ、それがうまくいかないと母からよく叩かれていた雄途は常に情緒不安定で、夜中に目覚める事などしょっちゅうだった。けれどそんな時はよく港の部屋に忍びこんだ。 『雄途君、またか? まったくしょうがないな』 そんな時港は本を読んでいても絵を描いていても何をしている時でも雄途を優先し、自分のベッドで一緒に寝てくれた。優しく髪の毛を撫でてくれた。そのやさしい空気に癒され安心する事で、雄途はようやく睡りを貪る事ができた。港は雄途にとっての精神安定剤だった。 それが。 いつからだろう。 『お前、いい加減めんどくさい』 ある日を境に港の態度は急激に素っ気無く冷たいものになり、それと比例して家を空ける事も多くなった。 『雄途。今度から俺の許可なく部屋に入るな』 雄途が何故と理由を訊いても港はその理由を一切答えようとしなかった。 寂しくてたまらない雄途は何度も港の言いつけを破って部屋に入り込んだ。そうして港が夜中に描いたのだろう多くの絵画や、港が残していった音楽を掛け、そこでほんのささやかなまどろみを得た。 雄途はいつでも不安だった。 港がどうして自分と距離を置こうとしているのか分からなかった。何か港の気に障る事をしたのだろうか、それとも元々「あんな母親の息子」というだけで十分鬱陶しかったのだろうか。どうして、どうして。 そんな雄途の乱れきった感情は、いつしか港を傍に置く為の「特技」まで身につけるようになってしまった。 「まったく…」 ハアと荒く息を継ぎながら雄途がゆっくりと声のした方に目をやると、そこにはいつからいたのか港の不機嫌な顔があった。 「港…」 頬が熱く、逆に足の先が冷たい。何となく寒気も感じていて、雄途は折角傍に港がいるのにうまく話す事ができなかった。 「あのな…」 対する港の方はベッドで横になっている雄途の傍に椅子を持ち出し座っていたが、義弟の気だるそうな態度にやや呆れたような目を向け嘆息した。 「雄途君。いい加減、俺を呼ぶ為に熱出すのやめてくれるかなあ?」 「………」 良かった、いつもの優しい声色に戻っている。 ふざけたようなこの物言いを決して好きとは言えないけれど、それでもあのギスギスとした雰囲気よりはマシだと思ったから、雄途は半ばほっとして布団からそっと手を出した。あまり記憶はないがいつの間にか寝巻きに着替えていたらしい。勉強を放棄して早々に寝入ってしまった自分を母は怒っていただろうか。 「心配するな、今日は親父殿がいるからな。雄途熱出たって言ったら、すぐ引き下がったよ」 雄途の意を読み取ったようになりながら港が先取りして言った。 そして差し出された雄途の掌を優しく包み込むようにして握ると優しく笑った。 「何か要るか。持ってきてやろうか」 「いい…」 それより、港の部屋に行きたい。 暗にそう訴える目をしたが、港はそれには知らぬフリを決め込もうとした。今夜はどうしても雄途を部屋に入れたくないらしい。両親がいるからか、それともやはり自分の事が嫌いだからか。色々な思いが雄途の脳裏に浮かんだが、それでも港に向かって縋る手は放さずに雄途は言った。 「港…。じゃあ、ここにいる?」 「ん…いる」 「絶対?」 「絶対」 子どもを諭すように港はそう言い、それからぎゅっぎゅっと何度か握っていた手を握り直し、やがて額も撫でてくれた。 「赤ちゃん雄途」 その直後バカにされる。けれども構わないと思った。 「港…好き」 「ん……」 「触ってよ」 「………」 だから優しくなっている港に調子に乗って言ってみたのだが、港はそう言った雄途をただ見つめるだけで何も返してくれなかった。 「港」 雄途は焦れる気持ちを抑えながら自分の額や前髪を撫でてくれる港の手を掴むと、布団の中へそれを誘った。 「雄途」 やっと港が声を出したが、雄途はそれを無視した。港の手を無理やり自分の股間へ持っていき、それから熱か感情の昂ぶりかで潤んでいる瞳を向けた。 「港、何で最近やってくれない…?」 「………」 「飽きたから?」 「うん」 「………」 即答されてズキンと胸が痛んだけれど、そんな回答はとっくに覚悟していた事だからと、雄途は思い直したようになりながら身体を浮かした。 「バカ、起きるな」 「やだ…」 「いるって言っただろ」 「港っ」 「……ったく」 上体を起こしてぎゅうっと強く抱きついてくる雄途に困ったようになりながら、それでも港は解放された腕をその背に回し、ぽんぽんとなだめるような愛撫を寄越した。 「雄途君はどうしようもないな…。俺に抜いてもらうの、そんなに好きか」 「うん」 雄途が躊躇わずに頷くと、港は皮肉な笑みを零してすっと目を細めた。 「俺はそんな面白くもないんだけどね」 「じゃ…抱いていいよ」 「………」 「港とセックスしたい」 「………」 「港に抱かれたい。挿れて」 「またそれか…」 ぶっきらぼうに返すと港は途端雄途を突き放し、冷めた目で素っ気無く言った。 「そういうこと言うから雄途君と遊ぶの嫌になったんだよ。何回言っても分からない?」 「………」 「分からないか、雄途?」 「だから…」 「ん」 「だから、キスもしてくれないの? 最近…」 「……」 「港…」 「分かったよ」 「……っ」 責めるように言った瞬間、港の唇が迫ってきて雄途は息を呑んだ。 「…ふ…ッ」 そうだ、昔はよくこうして戯れのような口付けから、深くて息のできない深いキスまで、何度も何度もやっていたのだ。 「んっ…ん」 港は雄途のものを口に含み、「愛してる」と言った事だってある。 それなのに。 「………」 「これでいい? 雄途君」 「………」 それなのに、港は決して自らの身体は雄途に触れさせない。いつもキスだけで、その肌を求めるとこれでもかというほど拒絶した。いつも雄途だけに射精させ、吐き出させ、己のものは雄途にさせない。 自分では感じないのだろうかと雄途はそれで何度も落ち込んだ。 「雄途」 「あ…」 ぼうっとしていると港に呼ばれた。雄途が困惑したように顔を上げ視線を重ねると、もう当にそんな義弟を見ていた兄は自身も途惑ったように少しだけ笑った。 そしてまた前髪に指を絡ませながら言う。 「もう寝ろよ。熱出てんだから」 「港のせいだ…」 「ああ、そうだ。だからお前が寝るまではここにいるから」 「………」 「だから。もう寝な」 「……港の部屋」 「………」 「港の音楽…」 怒られると分かっているのに、雄途は再度懇願するように言った。港の部屋しか自分の居場所はない。そしてあの部屋で聴く名前も知らない外国の歌手が奏でる音が、不安定な自分の心を慰めてくれた。 あの音と闇に救われている。 そして何より港の存在、匂いに。 「港…」 「……お前は」 その時、ようやく観念したというような声が聞こえた。港はハアと深くため息をついた後、雄途の身体を横抱きに抱えると、そのままさっさと自分の部屋へと歩き出した。 「港…?」 「雄途王子の我がままにはホント困る」 港は言いながら雄途を自室のベッドまで運ぶとあっという間に布団を被せ、「もう起きるな」と言った。そして笑った。けれど暗闇の中で港はやはり怒っているような冷めているような、よく分からない瞳の色を湛えていた。 「なあ。雄途」 そして雄途が望む音楽を掛けてやりながら港はぽつりと言った。 「俺はな…。自分でもむかつく程、お前が好きなんだよ」 雄途が黙ってそんな港を見つめていると、その後すぐにその続きは紡がれた。 「それがお前を不幸にするって…分かってるのにな」 「何で…?」 「ん…」 「嬉しい、のに。何で…?」 「俺なんかロクな奴じゃないからだよ」 「違……」 「なあ雄途。お前、もう俺から離れろよ」 雄途に言わせずに港はきっぱりとそう言った。そうしてまた雄途が起き上がるのを懸念してか、すぐに自分もその傍に座ると、焦る雄途の額を改めて撫でた。 そしてすかさず優しいキス。 気持ちが乱れている時は暴力を振るう港。ひどい言葉で雄途を傷つける港。 けれどそんな自分を悔いて雄途を愛する港。 「………いやだ」 唇を解放された後、雄途はそんな港の手に触れ小さく言った。声を発した唇は震えていたけれど、うまく言えたと思った。 どんなに誰かがバカだと言っても、自分は港を愛する事をやめられない。理屈ではない、生まれた時からそれは定められた事だった。雄途は港が好きで、港も雄途を愛してくれる。 それがどんなに真っ当な恋愛ではなかったとしても、それでも。 「港と、ずっと一緒にいるよ…」 雄途にはそれしか言えなかった。港の視線から逃れたくなかった。 「港が迷惑でもずっと…」 「面倒なんだよ…」 「嫌だ…」 「………」 港の拒絶を逆に雄途も拒絶した。そして自分から港の掌に唇を寄せた。 港は逆らわなかった。ただ暗い目をしてふっと顔を逸らし、ここではないどこか遠くへと静かに視線をやっていた。 「……めちゃくちゃ苦しいんだよ」 そして港はそう言った。 その時ぐしゃりと音がして、ふと雄途がその方向へ視線を落とすと、あれほど探してもなかった港の描いたラフ画数枚が散らばっているのが見えた。「あ」と思う。瞬間的に自分の姿が描かれているはずのそれらが一気に脳裏を過ぎったから。 「港…」 雄途はもう一度港の名を呼んだ。 暗く虚ろな、けれど美しいその横顔。 この音と闇に抱かれながら、ただずっとこうしていたいと思った。 |
了 |
兎角芸術家って変な人が多くないですか(悪い意味でなく)。
そんな屈折お兄さんに依存してしまった陰鬱弟のお話でした。
大昔に書いた長編の焼き直しです…短くするの大変でした。