さざ波のように |
―2― 夏休みに入る前、僕がとことんスイから無視されていた事で、大学では一時沈静化していた僕への悪意ある視線や言葉が少しだけ再燃していた。 「あ、見てみて、あいつだよ。スイに捨てられたガチホモ。キンモー!」 「おっ前、声デカ! 本人に聞こえるじゃん!」 「いいの、いいの。何かね、スゴイ性格悪いんだって。だからこれくらいじゃびくともしないらしいし。大体さぁー、スイ一筋ってフリして、実は他にもいっぱいセフレがいたとか、ありえなくない?」 「マジで。あの顔で……へえ」 無視されていたからこそ、もう注目される事もないだろうと思っていたのに、「あのスイに捨てられたホモ」というのは、それ自体が面白い話のタネであるらしい。 それにしても世間の一般常識に、「人が傷つくことを言ってはいけない」ってなかったっけ……そう思うんだけど、僕みたいな人間にはそういった常識も適用範囲外で、何を言っても平気だとみなされるんだろうな。実際あの人たちだって、自分の家族や恋人や友だちや、とにかく自分にとって大切な人たちにはあんな意地悪な顔であんな酷い事は言わないんだろうし。 そんな事をつらつらと考えていたら、前方から凛と通った声が響いた。 「お前、ああいうこと言われて、腹立たないの?」 呆れたような顔で近づいてきたのは剣涼一……同学部の有名人だった。 「あいつら、お前に聞こえるように言っているぞ」 「うん」 分かっているけどと、僕は意味もなく肩を揺らして頷いた。 「もう慣れちゃったんだ。ちょっとは腹も立つけど、半分は麻痺しているし」 「麻痺?」 「言われ過ぎればそれなりの耐性だって身に着くもんだよ」 「……倉敷」 剣は僕のその台詞に余計気分を害したようになって整った顔をむっと歪めた。ただ、そんな表情も彼なら凄く絵になるから不思議だ。 だから僕は剣のその顔を呑気に眺めていたんだけれど、それもまた彼の怒りを買ったらしい。激しい感じではないけど、「何をぼんやりしているんだ」と叱咤され、剣はまるで学校の教師みたいなお説教モードで僕を睨み据えた。 「あんまり言いたくないけどな」 その割には「言う気満々」で彼はまくしたてた。 「そういうのは最悪だ。お前はそれでいいのかもしれないけど、俺は凄く嫌なんだ。傍で見ている俺の方がむかついて気分悪くしているっておかしいだろ? 全然関係ないはずの俺がこんなに嫌な想いをしているんだぞ? 今俺、相当むかついているし。そういう俺のこの苛立った気持ちをさ、お前は一体どう責任取ってくれるわけ」 「えぇ? そ……ごめん。でも、そんな…」 剣の言葉に僕は驚いて口ごもった。まさか彼が僕の事でそんな風に不快になるなんて思わなかったから。 自分への中傷は自分だけのもの。そう思って放置していたけど、それで嫌な気持ちになる第三者がいるなんて。 「当たり前だろ」 僕の気持ちを正確に読み取ったのだろう、剣はむっとし頷いてから、僕の目の前の席に自らも腰を下ろした。途端、周りの空気がざっと変わる。いつだってそうだ。この剣って男は周囲の雰囲気を一変させるような何か独特の空気――オーラを持っている。彼が僕の傍に来た時だけは、さっきまで辺りに充満していた悪意あるムードが一瞬のうちに消え去ってしまう。みんなこの剣には嫌われたくないのだ。だから僕の傍に剣がいる時には僕に悪口を言う人たちも急いで口を噤むか、決まり悪そうにさっさとその場を去って行く。 「俺はさ、そもそもホモって言葉が嫌いなんだよな」 剣が言った。 「何か人を小バカにしたような響きがあるだろ。いや、その単語を発している奴に差別意識があるからそう感じるだけで、言葉自体に罪はないのかもしれないけど」 「うん…?」 「だからぁ、お前のことホモだとかキモイとか言う奴らがいるだろ? ホントさ、むっかつくんだよな! どうにかなんねーかな?」 「いや…。でも、剣がそんなに気にする事じゃないよ」 「気にするんだよ!」 ダンと拳で机を叩いて、剣はじろりと講堂の周りを見回した。昼休みに入ったせいか、その場にいる人数は然程多くもないけど、「カッコイイ剣涼一」を遠巻きにでも眺めて目の保養にしたいという女の子たちがいないわけじゃない。 その彼女たちは剣のただならぬ雰囲気に多少面喰った様子を示していたが、剣当人は別段彼女たちを睨んでいるわけではないらしい。どこを見つめているのか、何故か講堂の入口付近へ暫し目を向けていた彼は、やがてはあと小さく息を吐いてから、再び僕の方に向き直った。 「お前さ、スイとは別れる気、ないの?」 「え?」 剣の問いに僕は反射的に眉をひそめた。 それでも剣はお構いなしだ。 「周りじゃ、お前はスイにフラれたとか捨てられたとか随分な噂になっているみたいだけど、実際は別れていないだろ? それってスイが意図的に流しているガセなんじゃないの」 「な…何でそう思うの? だって――」 事実、ここ最近のスイは僕を完璧に無視している。一週間くらい前に夏休みの予定を訊かれたけど、僕が里帰りするつもりだと答えたら、スイは「他にやる事ないのか」とバカにしただけだった。どこか空いている日に会うかと誘ってくれる事もなければ、スイ自身の休みの予定も一切教えてはくれない。 まぁそれも、当たり前と言えば当たり前だけど。 だって僕は、もともとスイの恋人でも何でもない。 つまりは僕が「最近素っ気ないスイ」と休暇中くらいは離れて過ごそうなんてわざわざ考える必要もなかったのだ。そうなる前にスイ自らが僕を完全に遠ざけたから。 だから周囲の言葉には関係なく、僕自身スイとは「もうダメかもしれない」と弱気になっていた。 それなのに、どうして何も知らないはずの剣がこんな確信した目でそんな事を言うのだろう。 「何驚いた顔してんの」 僕の態度に剣は「俺こそが驚いた」という顔をしてまじまじとした視線を寄越した。 「だってあいつ、お前のこと表面的には無視しているけど、実際は全然無視してないじゃん。無視のフリだけ?」 「フリ? いや……フリじゃないよ、実際口利いてもらってないよ。連絡もくれないし…」 「だから、それは表面的。お前の事はちゃんと見ているだろ」 「そん……な、ことは、ないと、思うけど」 「そんな、ことは、あると思うけど」 僕の口調を揶揄するように返して、剣はニッと不敵な笑みを見せた。僕はそんな彼に内心で唖然としたけれど、努めて顔には出さないようにして殆ど反射的に席を立った。 ふと思い出したから。スイは僕がこの剣と長く話をするのが好きじゃない。スイが僕を「ちゃんと見ている」だなんて剣の言葉をまんま信じたわけじゃないけど、もしも今、偶々スイにこの場面を見られていたとしたら、それは僕にとって甚だ不本意な事だった。 「大丈夫だよ、あいつが言ったんだぜ」 けれど剣は立ち上がった僕にすかさず言った。自分は悠々として座ったまま。 「藤堂にも言っていたぜ。お前のこと、『ちょっとでいいから見ていてやってくれ』って。『自分のせいであいつは変なのに絡まれるから』って。お前、大丈夫?」 「スイが……でも僕は、別に」 「だからー、俺とこうしていても大丈夫なんだって。仮にこういう場面見てあいつがヤキモチか? そういうもんを妬いたとしても、そんなの自業自得じゃないの? テメエで頼んでおいて勝手に嫉妬されても知るかよ。ははっ」 「剣は……何でそんな……」 僕たちの事を何もかも分かったように話す彼が不思議だ。普通、こういう話ってノーマルな人間には全く理解不能な世界だと思うんだけど。 スイが「嫉妬する」なんてあるわけないけど、でも彼のこの淀みない自信は一体どこからくるのだろうかと、そこはちょっとだけ気になった。 「何であんな勝手なのがいいんだ?」 それでも剣は僕の疑問には興味がないのか、マイペースにそう言ってスイの話題を振ってきた。 「前にも教えただろ、あいつロクな奴じゃないって。それでも倉敷がいいって言うなら構ってやればとは思っていたけどさ。俺には関係ない話だし。けどスイの口ぶりじゃ、いよいよ本気で迷惑被ったみたいだし? 前に何かあったんだろ? もう離れたら?」 「……別に、元からくっついてもいないよ」 「じゃあいいじゃん。これを機に本格的に離れて、次行けば」 「そんなの余計な――」 「俺が新しい彼氏紹介してやるよ」 「は?」 「前からちょっと考えていた事ではあったんだけどな。実際、試しでこの間スイに鎌掛けてもみたし。これって結構いい考えだと思うんだよな!」 バカみたいに口を開けたまま沈黙する僕に対し、何故か剣の方は急にイキイキとし始めた。 「あ、でも言っておくけど俺はダメだから。俺にはスッゲー可愛くて美人の恋人がいるからさ! 相思相愛だし、俺らは! お前らとは違って! はぁ〜、でも、それなのにさぁ」 「は?」 「本当はさぁ、倉敷にも誰にでも、俺はその可愛過ぎる恋人を周囲にお披露目しまくって自慢しまくったりしたいわけだよ。……けど、バラすのはダメって言うんだよなぁ」 「はぁ…?」 「だからな、俺はダメだから! で、だ。康久とかどうだ?」 「康……逢坂のこと?」 それはよく剣や藤堂と一緒にいる仲間の名前だった。僕も藤堂らを介して二、三の会話くらいは交わした事があるけど、然程親しくはない。本当にちょっと目が合ったら軽く挨拶する程度だ。それも向こうにしてみれば「藤堂の知り合い」だから一応話しているってくらいのものだろう。僕自身そうだ。 それでも剣は何が嬉しいのかいやに明るい表情をして、自分のその突飛な提案に酷くご満悦だった。 「あいつ、結構そのケがあるからな。性格も、まぁかなりアホだけど、藤堂よりはアホじゃないし。スイよりは性悪でもない……って、何か比較対象のレベルがちょっと低いような気もするけど……まっ! そこは気にするな!」 「いや、気にするも何も……」 一体何を言っているんだろうという感じだ。 「気にしないんなら、尚の事良かった。なら、そういう事で」 「え? 何が?」 「もうすぐ夏休みっていうのも丁度良かったな。離れるには絶好の機会だし、スイとはこの休み中にすっぱり縁切って康久にしろ! な? そうすりゃ俺にも一石二鳥!」 「ちょっ……って、え? 何それ?」 一石二鳥? 「いや、何でもない」 けれど剣はその点についての詳しい説明はしてくれなかった。 そうして一人で勝手に盛り上がって、僕の休みの予定を教えろと迫り、その時間が空いているところは逢坂にもバイトを休ませるから、二人でどこかへ出かけろとまで言い出した。 全くおかしな話だ。 大体、剣ってこういう人だったろうか。剣涼一というと、もっとこう、クールで理知的な印象があったんだけど。 剣にしつこくされたせいで、僕は次の講義に遅刻した。 おまけにそんな「冗談」をかまされた翌日、逢坂当人が僕の所へやって来て、「涼一が変な事を言ったみたいだけど、忘れてくれ」と困ったような顔をして、何故だか頭まで下げてきた。 だから僕もすっかり焦ってしまった。まさか剣は本気だったのかって、呆れて物も言えなかった。 勿論、僕は恐縮しながら「全然信じていなかったから」と応えて、一緒に頭を下げた。お互いに頭を下げ合ったりして、きっと傍から見たら何だ?って言うようなおかしな光景だったに違いないけど、逢坂はそれでほっとしたみたいで、その後「剣涼一に迷惑を被った会」を立ち上げようと、僕を藤堂たちとの飲み会に誘ってくれた。 恋人は無理だけど、いいダチにはなろうぜ、なんて言って。 休みに入る前の、それこそが僕にとっては思わぬ嬉しい出来事だった。彼らと深く付き合う気はないけど、スイに距離を取られていたせいか、そういう好意が身に染みたのだ。 まさか剣はそこまで考えて、僕が自然と彼らの仲間になるよう仕向けてくれたのかな?――なんて、それは後で思ったことだ。 ***** 驚いたことに、祖父母の墓参りにまでついてきてくれたスイは、率先して掃除の手伝いもしてくれた。 「お前のお袋、全然ここに来てないな」 「うん」 腕で額の汗を拭い取りながらスイは呆れたようにそう言った。随分と荒れ果てて惨めな様相のそこは、誰が見ても長く放置されている事が分かったから。 お陰で、寺で借りた鎌で雑草を刈って墓石を磨き、駅の近くで買った花をたむけた頃には、日も大分傾いていて、夕暮れのオレンジ色が少しだけ目に染みた。 「部屋でも何でも同じだな。長く掃除しないと後がきつい」 「うん。ごめん、付き合わせて」 「別に」 僕の謝罪が気に入らなかったようだ、スイはふいと背を向けて、遠くの景色へ目を移した。失敗した。きちんとお礼を言えば良かったんだ。スイも別に僕を責めたくてあんな風に言ったんじゃないのに。 それでも後から慌てて取り繕われたと思われてもと躊躇し、僕は結局無言のまま、スイと同じように視線を遠くへやった。 祖父母が眠るこの墓地は小高い丘陵にあって、やや遠目にではあるけれど太平洋の海を臨む事が出来た。 ぼんやりと赤みがかかった水平線をなぞるようにして、白いカモメが何羽か飛来しているのが見えた。更にその近くでは地元の漁船だろう、小さな船がぽつんぽつんと点在していた。 懐かしい。 すっかり忘れた気になっていたけど、ここが自分の故郷なんだと今更ながらに実感する。 郷愁なんてものとは無縁のはずだった。実際この墓地にだって年に数回、「墓守」としての義務で来るだけなのに。 それでもゆらゆらした風に肌を触られあの海を眺めていると、胸が痛いような、でも嬉しいような妙な気分だった。と同時に、この距離からでは聞こえるはずもないあの海のさざ波が聞こえてくるような錯覚に囚われて、僕は焦った。 「面白くもない場所でしょ」 面倒な記憶が蘇りそうで、急いたようになりながら僕はスイに話しかけた。 「もうちょっと都会に出れば観光名所もそれなりにあるけど、ここは海水浴には微妙に遠いし、ハイキング出来るような山もないんだ。帰ってくる度に、こんな墓地ばっかり増えてる。都会で買うより安いんだろうね」 スイは何も言わないし、僕を振り返りもしなかった。やっぱり退屈なんだろうか。申し訳ない気持ちがして、気づけばここへ来る前にも言った事を僕はもう一度繰り返していた。 「駅の喫茶店で待っていてくれても良かったのに」 「何で」 ようやくスイが振り返った。やっぱり不機嫌な顔だった。とはいえ、不機嫌じゃない時の方が少ないけど。スイは綺麗な顔をしているんだから、もっと笑えばいいと思うのに、僕はいつも失敗してしまう。 「ここまで来て、掃除まで手伝ってやった相手にそれはないだろ」 スイの実にもっともな台詞に僕は再度恐縮した。 「線香あげようぜ」 けれどスイはそれ以上僕を責める気もないのか、すぐに気を取り直したようになると、自ら率先して墓前に戻り、花と一緒に買っていた線香の束に素早く火をつけて、そのうちの半分を僕に渡した。 僕は流されるままにそれを受け取って、スイがやるように墓前で手を合わせた。全く、どっちの祖父母の墓か分かったものじゃない。 やがてどちらからともなく合掌が済んで。 「何か、墓っていいよな」 ゆらゆらと上がって行く線香の白い煙を見つめながらスイが言った。 「お前は何もない、なんて言うけど。そんな事ないだろ」 「え……」 「俺は結構楽しんだけど」 「楽しい?」 「ああ。墓参りなんてした事なかったし」 「そう……なの?」 墓参りが楽しいってどうなんだろう。それは不遜な発言だと眉をひそめられる類のものなのか、それとも故人に義理堅い行為だと良い方に解釈されるのか、ちょっと判断がつかなかった。 口ごもったままスイを見上げると、そのどことなく皮肉な笑みを浮かべた唇が、僕に見られるのを待っていたかのようなタイミングで綺麗に動いた。 「人間なんて、死んだら終いだよな。俺は墓に死んだ奴の魂が宿っているなんて思っちゃいないし」 「え」 「けど墓参りって、死んだ奴のことは関係なかったんだな。自分じゃん。自分がこういう所に来て、安らかになる為に来るんだろ。ここに漂っている空気はリアルに流れているものと違うから」 「違うって……どういう風に?」 「そんなのうまく言えねーよ。そう感じるってだけ。それに」 死んだ奴は関係ない、そうは言ったけれど、それでも墓を作ってもらえるような人間は幸せだなとスイは言った。 「お前のじいさんばあさん。俺は全く知らないけど、幸せだよ」 「そうかな…そうだといいけど」 スイの言葉は素直に嬉しいとしても、それが事実かは確信がなかった。実母の悪口を言うのは躊躇われるが、あの人は決して「良い娘」ではないと思う。 そして僕も「良い孫」ではなかったはずだ。 「色々苦労していたみたいだし」 「苦労しないで一生を終えられる人間なんているの?」 バカにしたようにスイは笑い、それから「ああ、でも」と、急に面白くないような顔をした。 「いるかも。一生苦労知らずな感じの、ハッピーな男」 「誰?」 「お前もよく知っている奴」 「ええ…? あ、藤堂?」 ふと、いつもニコニコしているラガーシャツの彼を思い出して答えると、スイは急に噴き出して、心底おかしそうに目を細めた。凄い、珍しい、スイの笑顔だ。クイズは外れだったみたいだけど、これはかなり得をした。 「まったく……何が藤堂だよ。違うだろ。まぁあいつも大概おめでたい頭してっけど。真っ先に言わなきゃいけない奴は違うだろ。……涼一だろ」 「ああ……剣か」 言われて納得、確かに凄い男がいた。天才には天才の悩みがあるかもしれないけれど、確かに剣なら万人が羨む境遇の持ち主かもしれない。 「完璧だもんね」 だから同意してそう言ったのだが、スイは僕のその感想によってまた折角の笑顔を引っ込めてしまった。どうしてだろう、僕はつくづく気が利かないらしい。 「スイ?」 でも何がいけなかったのかは実際分かっていなかったから、僕は戸惑ったようにスイを呼んだ。また海の方へ視線をやってしまったスイはすぐには応えてくれず、おもむろにぐしゃりと髪の毛を掻き回してからため息をついた。 そして言った。 「あいつはいつでも正しいよ」 「え?」 僕がきょとんとして聞き返すと、スイははっと大きく息を吐いて続けた。 「俺はロクでもない奴だから、キミは康久と付き合わせるって。実際そう言われた後にお前らが仲良くし始めたから、あれ本気だったのかって笑った」 「え? 康……って、逢坂?」 考えてもいなかった友人の名が突然出たから僕はびっくりしたが、スイの方はどこか翳りのある怒った顔をしていた。 「康久と付き合うの?」 そうこうしているうちにスイがまた変な事を言い出した。何だかとんでもない誤解をされているようだと気付いたのはこの時で、僕は途端、休み前に僕と逢坂との仲を取り持つからと訳の分からない暴走をしかけた剣の顔を思い浮かべた。 「別にいいけど。お前が誰と付き合おうが」 しかもスイはそんな事を言って僕から目を逸らし、視線を足下に落とした。 「俺だって勝手しているし。お前のことはそれなりに好きだけど、だからってお前にあれやるな、これするなって言う気はない。そういうのは……最低だからさ」 「スイ」 「ロクでもなくても、俺だって一応最低限のルールくらいは持っているんだぜ?」 「ちょっとスイ」 「けど、俺を完全に切るのは勘弁な。それはちょっと寂しいからさ」 ふざけたようにスイは言って、くっと喉の奥で笑った。 僕は暫し言葉がなかった。 いつだったか、スイは、自分は勝手な奴だけど、でも捨てないでくれよななんて冗談交じりに笑った事があった。僕はその時スイを酷い奴だなと思ったけど、でも何だかんだでそう言われて嬉しかった。これからもスイの傍にいる事を許されたような気がして。 それなのに、何で。 「……前、スイ以外の奴には触らせるなって言わなかった?」 あがくようにそう言うと、スイはすぐさま一笑した。 「あれは相手があのクズだったからな。……康久は、バカだけどいい奴だから、いいよ」 「いいの」 「うん」 「剣や藤堂たちと一緒に話しているの、嫌だって、前に言った」 「もういいよ。そういうのも」 「……僕が他の人と付き合うのも、いいの?」 「いいよ」 スイはあっさりそう言った。 僕はそんなスイをまじまじと見つめてから、殆ど反射的に腕を伸ばしてスイの手に触れた。スイはぴくりと肩を揺らしたけれど、いきなり手を掴んだ僕を振り払いはせず、同じように僕の事を見つめ返した。 まるで挑むみたいな目で。 「今日までずっと無視されていたから、フラれたのかと思ったよ」 僕がそう言うと、スイは少しだけ瞳を揺らした。 でも何も言わないから僕がまた言った。 「どうして一緒に来てくれたの」 「……息抜きしたかったから」 「僕と一緒で息抜きなんか出来るの」 「バカじゃねえ。キミだからいいんだろ」 スイは本気で怒ったように声を荒げ、それから途端決まり悪そうにふいとそっぽを向いた。 手は繋いだまま。 「でも、俺は最低の奴だから」 スイが言った。 「俺はどうせ、最期には独りだから。ガキの頃だって独りだった」 「え?」 「暗いゴミ溜めん中に閉じ込められて死にそうになった時、俺は、人なんて最初から最後までずっと独りなんだって知った。それこそ、こんな墓石の中に入る前からさ。だから誰も信じない」 「な…何? それ?」 「別に。昔の話」 しまったというような顔を一瞬だけ見せたスイは、けれど握っていた僕の手を更に強く握りしめた後、「だから俺は何も期待しない」と呻くように呟いた。 スイは自分の話なんてめったにしない。僕は自分の「キミ」という名前の由来を訊かれた時、スイの「水」って綺麗な名前の由来も教えてもらいたかったけど、面倒臭そうにあしらわれてそれっきりだった。でも、人づてにだけどスイに両親がちゃんといる事は知っている。それに、お金のかかる私立の名門高校から今の大学にエスカレーター式で入ったスイだ、僕と違って家庭に何か問題があるとは思えなかった。 それでも、どこか根の深いスイの人間不信の根源は何処から来ているのかと疑問に思った事はあった。 こんな風に僕の手を強く握りしめているくせに、誰も愛さないし、愛してもらいたくもないと言い続けるスイ。 「僕はいるよ」 それでも、余計な事を訊いてまたするりとこの手が離されるのが嫌で、僕はとにかくそれだけを返した。 スイは僕のその台詞をまるで本気にしなかったようだけど。 「スイが邪魔だって思ってもさ。僕がいたいって思うから」 「……いないよ。キミもいつかは俺の前から消える」 瞳に怒りを湛えながら、同時に迷子の子どもみたいな不安な顔を閃かせる。 僕はそれでまた今まで以上にスイを愛おしく思った。スイから目が離せなくて、痛いくらいに胸が痛くて、「ああ、これが胸がいっぱいって事か」と実感した。 大体、変だよ、スイ。 捨てられるって、今日まで怯えていたのは僕の方だったはずなのに。 「スイといるよ。他の誰も選ばない」 もう一度強く言って、それからスイに顔を寄せて無理やり彼の唇に口付けた。スイはそれに一瞬だけ逃げるような所作を見せたけれど、でも覚悟するみたいに結局はそのキスを貰ってくれた。 貰ってくれてから、今度は激しく痛いくらいの口づけを返してくれた。 「ん…」 瞬間、何故だか耳がキンとして、直後ザッと小さな水飛沫が散ったような音が身体中に響き渡った。 さざ波だ。 さっきも聞こえかけて消えた、あの海の。 「……キミ」 その音とスイのキスに酔って意識を別の方へやりかけていた僕にスイがそっと呼んだ。 「キミ」 「うん」 僕の名前を呼んでくれるスイが好きだ。大嫌いなはずのこの名前すら好きになれるほどに。 「キミ」 「うん」 そしてスイはまた呼んだ。僕を抱きしめ、それからまた深いキスをくれた。 スイって不思議な人だ。 僕のことを要らないって言って、どうでもいいって笑って、でも気づけばこうやって傍にいて、こんなキスをくれるんだ。 僕にとってはそんなスイの傍こそが一番の安らぎの場所だ。 「スイ。絶対一緒にいる。……だって、好きなんだ」 いつもはこっぴどく怒られるその台詞は、この時のスイには拒絶されなかった。 「好きだよ、スイ」 だから僕は調子に乗って何度も繰り返した。スイのことをもっと知って、もっと好きになりたい。 そうする事を許してもらいたいと願いながら、僕は僕を抱きしめてくれるスイに呪文のように繰り返した。 いつかスイの全部を分かりたいだなんて、貪欲な事を考えながら。 |
完 |
温泉旅館でランデブー(何)みたいなのを想像していた方がいましたら、 こんな話ですみません。きっとこの後老舗高級旅館でラブラブしたよ。 ツンな攻めはさざ波みたいだよねって、ただそれだけが言いたかったのです。 |